143 魔王の右腕
アーサーが叫び声を上げた直後、一番大きく動揺したのはクロノだった。少し離れているアーサーにも聞こえるくらい大きな舌打ちをする。アーサーもそれに劣らず焦った声で叫ぶように言う。
「くそっ、あいつまだ生きてたのか! レミニア、今すぐ転移はできるか!?」
「待て、まだエレインに魂を移し終えていない。それまでこの場所を離れる訳にはいかない」
「中断は!?」
「やってみるか? 二人揃って魂が破損して二度と目を覚まさなくなるだろうけどな!!」
「だったら急げないのか!?」
「物理的に魂を移しているんだ。こればっかりは短縮する方法が無い。どう頑張っても三分は必要だ」
「三分……」
エレインは意識が無いのか、この状況でも目を閉じてじっとしていた。それからアーサーはクロノ、レミニア、通路の奥を順番に見て歯噛みする。
どう考えても作業は間に合わない。誰かが飛竜を足止めをして時間を稼がなければならない。そして今、この場でそれができるのは一人しかいなかった。
「……くそ、もう一度倒すしかないか。まったく躾のなってないトカゲ野郎だ」
そう決めるとそこから先の行動は迅速だった。
恐らく衝突までは一分も無い。それでも残された時間でやるべき事を頭に並べていく。
「クロノ、今更だけど教えてくれ。飛竜は爬虫類じゃないのか? 変温動物のあいつがどうしてこの極寒の地で動けてるんだ?」
「その情報は今必要か!?」
「いいから早く答えて!」
意味が分からず叫ぶように言うクロノの言葉に返すようにアーサーも声を大きくして言う。クロノは仕方なく忌々し気に舌打ちをしながら声を荒げて言う。
「魔力で体内に熱を生み出して体温を調節しているんだ! この辺りの野生動物は大体その術を持っている」
「つまり飛竜は魔術を使ってるって認識で良いんだな?」
「……お前、何をするつもりだ?」
「まあ見てろ」
それだけ言い残してアーサーは自ら飛竜に向かって行くように足を通路の方に向ける。そんな事をしても衝突の時間を早めるだけなのに、背後から聞こえるレミニアの声も無視して足を動かし続ける。
そして右腕に意識を向けながら、思うのは昨日からずっとあった違和感の正体についてだった。
(……レミニアに腕を治して貰ってから魔力感知が鋭くなってるのは感じてた。それは久しぶりにぐっすり寝て寝不足が解消されたからだと思ってた。でも、本当は右腕が原因だったんだ)
ぎちり、と無意識に右拳に力が込もっていく。
もう違和感は無い。クロノに正体を教えて貰ってから自分でしっかりと制御ができている。
(意識すれば自然魔力も前より強く感じられる。つまり、忍術をもっと上手く使えるって事だ)
鋭敏に魔力を感じ取れる右腕があれば、魔術の使用時に自然魔力の割合を増やす事ができるはずだ。それはアーサーの魔術の威力を上げられる事を意味している。
そして魔力を好きに操れるという事は、相手の体内魔力まで操れるという事だ。それが意味する所、つまり一歩でも使い方を間違えれば簡単に人を殺せる凶器をぶら下げている事を自覚しながら、それでもアーサーはそれを使う事を躊躇わなかった。
「『何の意味も無い平凡な鎧』」
魔力を先払いする事で、四二秒間だけ身体能力を強化できる『無』の魔術。今までよりも支払う魔力が多くなっており、体に流れる力が大きくなっているのが感じ取れた。
勿論劇的な変化がある訳では無い。今まで一パーセント程度しか強化できなかったものが、二パーセントか三パーセントくらい大きく強化できるようになったというだけ。
素手で飛竜と戦うにはあまりにも心許ない強化倍率。けれど遠くには飛竜の輪郭が見えてくる。それが物凄い速さで向かって来ている事を表すように、輪郭がどんどん大きくなってくる。
それを確認しながら、アーサーも次第に足の回転を速めて走り出す。
(イメージとしてはブレーキが壊れた車に真正面から向かってく感じだな。我ながらイカれてる)
自分がしようとしている事を改めて認識し、自分の事なのに思わず呆れた笑みがこぼれる。
右手を握ったり開いたりして感触を確かめながら、左手でユーティリウム製の短剣を握り締める。
そしてタイミングを間違えないように慎重に、けれど躊躇はせず大胆に地面を蹴って跳躍する。
思惑通りに行ったのはほとんど偶々だった。落下が始まったアーサーの体は丁度飛行する飛竜の背中の上に落ち、すかさず振り落とされないように左手の短剣を背中に突き刺す。飛竜が暴れて振り落とされない内に右手を硬い鱗に押し付け、先程と同じ要領で魔力の核を探る。
(捉えた! 魔力……掌握!!)
すかさず右手に意識を集中させて飛竜の中にある体温調節の魔術を握り潰すようなイメージで破壊する。それと同時に体内の魔力をかき混ぜるように乱して体の自由を奪う。
体の自由を失った飛竜は大きな顎から地面に墜落する。体を氷の大地に擦りつけながら徐々に速度を落とし、クロノ達の元に辿り着く前に制止する。体温をみるみる奪われているからか、最初は動こうと悶えていた飛竜は、次第に動き出す素振りを見せなくなっていった。
「ふぅ……これで大丈夫か」
アーサーは短剣を引き抜いて飛竜の背中から降りながらも、再び体温調節の魔術を使われないようにするために右手だけは離さなかった。使ってみて分かったのだが、右腕で魔力を操作できるのは対象に触れている時だけだからだ。
「見事だ」
すると背を向けたままの姿勢だったが、クロノがそんな風に声を漏らした。アーサーはその言葉の意味を考えるためにしばし長考し、
「……ちょっと待って。ひょっとしなくても今褒められた?」
「だと思います」
ここまで色々と酷い目に合わされて来たが、こうして褒められるのは悪い気がしなかった。右手を離さずに喜ぶアーサーの近くでレミニアが笑みを浮かべながら同意してくれるが、当のクロノはふんっと鼻息を立てながら、
「お前に言ったんじゃない。私の作業の速さに言ったんだ」
照れ隠しなのかよく分からない言葉を口にすると、ずっと離さなかった手を氷の塔とエレインから離す。その瞬間に魂の依り代だった氷の塔にどんどんヒビが入っていき、最後には跡形もなく砕け散った。そしてその傍らで、眠っていたように瞳を閉じていたエレインがゆっくりと瞼を上げる。
「気分はどうだ?」
「……悪くない気分です。少し寒いですけどね」
キョロキョロと辺りを見回し、その視線がアーサーの視線と交わるとそこでピタッと止めた。そして彼女は柔らかい笑みを浮かべながら、
「……こうして貴方に会うのは初めてになりますね、アーサー君」
「エレイン……?」
少し変わっていた口調に確信を持てないまま疑問口調で名前を呼ぶ。しかしそれにクロノは首を横に振り、
「いや、今は違う。彼女は……」
「自己紹介くらいは自分でしますよ、クロノ」
どうやら外れていたらしい。
目の前の少女がエレインではないとすると、残された答えは一つしかなかった。
「アナスタシア・セイクリッドです。私の事は気軽にアナと呼んで下さい」