140 雪中行軍
『サジタリウス帝国』は『ゾディアック』でも唯一の豪雪地帯だ。隣国の『スコーピオン帝国』と『カプリコーン帝国』には全くその様子は無いのになぜ『サジタリウス帝国』だけそんな事になっているのか。それは表沙汰にはなっていないが、ある魔法の失敗が原因だった。
魔法には物理法則すら歪められる力がある。しかし失敗した時の代償も大きい。そしてとある魔術師が魔法の存在を知らず、必要なキーワードも使用せずに物理法則を捻じ曲げようと魔術を使用した結果、『サジタリウス帝国』は壊滅的な被害を受けた。
その魔術師が行おうとしたのは死者の蘇生。魔術師は『サジタリウス帝国』の憲兵団にすぐ殺害されたが、その影響が消える事はなかった。
そして今日、『サジタリウス帝国』は銀世界になっている。
アーサーは実質は三回目、意識があるままでは初めての転移を体験した訳だが、感慨に浸っている余裕はなかった。
見渡す限り真っ白な雪景色。見る限り地肌は確認できず、地平線の彼方まで真っに染まっている。さらに追い打ちをかけるように横殴りの雪は今も降り続けている。それに伴い、転移した瞬間別世界かと思うような冷気が襲いかかってくる。
「い、痛い……っ。寒いんじゃなくて痛い。これってマズいかなあ……?」
「馬鹿言ってないでさっさとコートを着ろ!」
「わぷっ!?」
クロノがエレインの持って来ていたコートを一枚取り、アーサーの顔面に投げつける。変な声を上げながらもクロノに軽く礼を言い、そそくさと上着の袖に手を通す。だがそれだけだと横殴りの雪が顔に当たって痛いので、付属しているフードを深く被る。
「凄く温かいとは言えないけど大分マシになった。……にしてもここが『ゾディアック』でかなりの魔術技術を誇ってるとか笑えてくるな」
「こんな所だからだろう。魔法の失敗で他国のようにまともに暮らせなくなったから、魔術を進歩させるしか生き残る術がなかったんだ」
「なるほど、そういう考え方もできるのか……。レミニアとエレインは寒くないか?」
「わたしは大丈夫です」
「私も寒さは大丈夫です。ただ、車椅子で来たのは完全に失敗でしたね。まさかここまで雪が深いとは思っていませんでした」
「……」
アーサーは苦笑いを浮かべて言うエレインに無言で近づき、車椅子の前で背中を向けてしゃがむ。
「アーサーさん?」
「ほら、背中に乗れよ。こんな所で遭難するなんて流石に嫌だろ?」
「あ……ありがとうございます」
エレインは感謝の言葉を述べながら遠慮がちにアーサーの首に手を回し、車椅子から離れて背中に抱きつく。アーサーの背中に人一人分の重さと暖かさが広がっていく。ついで言うとコートの厚さで感じにくいが、女性特有の柔らかい何かが背中に当たっている。
「なるほど……。紳士に見せかけていち早く暖を取りに行った訳かセクハラ野郎」
「お前の中で俺は一体どういう扱いなんだよ……」
「はっ! もしかしてさっき寒いと言っていれば兄さんに抱きつけたのでは!? 兄さん寒いです!!」
「……お前のその素直さは美徳だと思うよ。まあ、今は空いてないからまた別の機会にな」
そんな欲望に忠実な妹さんにおんぶはまたの機会にと約束する辺り、兄さんの方も大概だとは思うが馬鹿兄妹にはこれが普通らしい。するとせっかく落ち着いた話を蒸し返すようにクロノが口を挟む。
「止めておけレミニア。お前ではエレインに勝てない」
「何が勝てないんですか?」
「そりゃお前、これだよこれ」
クロノはニヤニヤ笑いながら、胸の前で半円を描くように手を動かす。直接的に言えば胸が足りないと言っているのだ。それを真に受けたレミニアが酷く落ち込んだ様子でアーサーの方に顔を向けながら、
「に、兄さんはお胸が大きい方が好きなんですか……?」
「ちょっと待てマイシスター。お前はクロノに誘導されてる。俺は大きさとか特にこだわりはないから!」
「つまり守備範囲が広い、と。流石の大らかさだな」
「皮肉は良いからすっこんでろ! アンタはこれ以上場を掻き乱すな!!」
「だがエレインの胸の感触を感じているのは事実だろう?」
「このタイミングで否定しにくい話をしてくるとかお前ホント性格悪いな!!」
いい加減うんざりしてくるクロノの弄りに飽きずに声を荒げるアーサーの背中で、寒さか恥ずかしさか分からないが顔を赤くしたエレインが迷いながら言う。
「え、えーと……私はどういう反応をするのが正解なんでしょう? ありがとうございます?」
「……冷静そうに見えてエレインも結構錯乱してるんだな」
もうまともなのは自分しかいないのかもしれないとまともでもない馬鹿が思う。つまりまともな人間なんてこの場にはいないという事なのだろう。
そして馬鹿話をしている間にも足に雪が積もっている。この短時間でそこまで積もるというのが怖い。結局一番強いのは魔法でも科学兵器でもなく自然の力ではないかと素直にそう思う。
「さて、いつまでもふざけてはいられないな。こんな所で漫才見ながら凍死なんて冗談じゃない。という訳で本題に入るぞ」
真面目くさった顔でクロノがそんな事を言い出す。元はといえば彼女のせいで話が逸れていた訳だが、誰もその部分を指摘できなかった。指摘してしまえばまた話が逸れるのが分かっていたからだ。
「私達の目的はある人物の救出だ。上級魔族と戦うのに戦力が多いに越したことはないからな」
「そんなに強い人なのか?」
「まあな。五〇〇年前は仲間だったヤツだ」
クロノの言葉に思わずといった調子でアーサーはガクッと脱力してしまう。
「また五〇〇年前かよ……。この世界って意外と長生きが多いのか?」
「いや、正確に言えば今回は生きていない。私達が救いに行くのはその人物の魂だよ」
「魂?」
「詳しい事は着いたら話す。ここで説明するより直接見た方が早いだろうしな」
と、勿体つけながらクロノは真っ白な雪原に新たな足跡を刻む。
それが移動開始の合図となった。アーサーとレミニアは車椅子だけ集落に送り戻すと、クロノを先頭に後に続く形で足を踏み出す。普通の地面を歩くのと違っていちいち足が雪の中に沈むものだから、一歩ごとに足を引き抜く作業が加わる事になる。一工程増えるだけで普段何気なく踏み出している一歩に時間も労力も無駄にかかるものだから、進んでいるようで振り返るとそんなに進んでいない事に心が折れそうになる。
(知識として知ってはいたけど流石に凄いな……。こんな場所に住んでる人達には尊敬の念が湧いてくるよ……っ)
などと考えていると、突然クロノが思い出したように声を上げた。
「あ、ちなみにその場所に行くのに門番の獣を倒さなきゃならないから覚悟しておけよ? ヤツの体長は二〇メートル近くはあるからな」
疲労も尊敬の念も吹き飛びそうな衝撃が鼓膜に響いた。
すぐにでも体を一八〇度回転させて全力で逃げ出したかったが、あらゆる状況がそれを許してくれなかった。
妹であるレミニアの存在、背中にいるエレインの存在、そして足が埋もれるほどの積雪と現在いる正確な位置が分からないという不甲斐なさ。ここから離れてしまえば遭難は避けられない確かな予感があった。
「……」
取れる選択肢なんて元より一つしかなかった。せめて相手が寝ている偶然や上級魔族の戦闘力に期待するしかない。
前を歩くクロノの背中を見ながら、アーサーはこうなったのは偶然だと信じたい気持ちでいっぱいだった。もしそこまで計算していたのだとしたら……そう考えるだけで、ただでさえ寒いのに更に背筋が凍りそうだったから。