99 甘い幻想を守るために
アーサーに従う形で部屋の外に飛び出たアウロラは走っていた。誰もいない廃ビルから外へ、外へ出ても足が動く限り、先程まで死のうとしていた少女は生きるために走り続けていた。
何のために、と疑問の声が頭の中を巡る。先程まで死のうとしていたのに、今は生き延びるために走っている矛盾。その事に制御されているはずの思考が割れそうになる。
そしてその逃避行が長く続かない事を、彼女は知っていた。
GPS。体内に埋め込まれたそれのせいで、彼女はどこに逃げようと場所が割れているのだ。
その予想通り、やがて彼女の前に刺客が現れる。
『造り出された天才児』と食人犬のガンドック。殺人的な力を持った彼らが無力な少女の前に立ち塞がる。
そしてヘルトの前に現れた時と同様に、少年が持つスピーカーから女性の声が流れる。
『ようやく見つけましたよ、アウロラ』
「……? GPSでずっとおっていたんじゃあ……」
『空中艇が破壊された影響でGPSが機能していなかったんですよ。そうじゃなかったらここまで探すのに時間はかかっていません』
そうだったのか、とアウロラは思った。
それが無ければもっと早くに殺されていたのに、とも。
『それで、研究所の外の世界はどうでした?』
それはまるで、学校の入学式を終えて帰宅してきた子供に親が感想を訊くような軽い調子だった。
「……素晴らしかったですよ」
その問いに、アウロラは呟くように答え、さらに続ける。
「だから知らなければよかったとおもいました。そうしたらもっと、らくにしねたのに」
『そうですか……』
生み出されたクローンの少女と、生みの親の会話はそれだけだった。次の瞬間には彼女を殺すために揃えられた生物兵器達が血走った目でアウロラを見ていたからだ。
『……あなたは感情を持ち過ぎたので、すでに「新人類化計画」に不必要な存在となってしまいました。別のアウロラを用意するのであなたにはここで消えて頂きたい』
「そうですか」
その言葉は思っていたよりもスラリと出た。
先程の少年の言葉によってもたらされた揺らぎは残っていたが、同時に死への願望が蘇ってきた。
おそらくこれが最後の関門。ここで先程のように逃げ出してしまえば二度と死を受け入れられなくなる予感があった。
足を動かすな。
思考を回すな。
心を閉ざせ。
そんな言葉を自分に言い聞かせ、アウロラは覚悟を決める。
『……目を瞑っていて下さい。なるべく痛みの無いように終わらせますよ』
「それはありがたいです」
言われた通りゆっくりと瞼を閉じた。目の前に闇が広がる。ガンドックの荒い息が耳を突く。
これで死ぬ。改めてそう思った時に、目の端から暖かいものが流れる感触を感じた。それは彼女が外の世界に触れて手に入れた、かけがえのない感情の証。それが頬を伝い、重力に従って地面へと落ちていく。
たがその涙を。
かっさらうように風が巻き起こった。
「……間に合ってよかった。この魔法、転移のクセに大分誤差があるんだよ」
そして聞き慣れた声が耳に入ってきた。
アウロラが恐る恐る目を開くとそこには、
「あ……ああ……っ」
アウロラの目の前には、そこにいないはずの少年の背中があった。
それは自ら離れた、この世界で一番暖かい場所にいる少年だった。右手を振るい、アウロラに迫っていたガンドックを消し飛ばしてその少年は立っていた。
『ヘルト・ハイラント……ッ! 何度も私の邪魔をしてッッッ!!」
「きみの計画は通行止めだと言っただろう、エミリア・ニーデルマイヤー。あんたの好きにはさせない」
「ヘル、ト……なんで、ですか……?」
目の前で起きている事が信じられないといった風なアウロラに、ヘルトはあくまで平坦な口調で、
「ほら、手袋を買った後で魔法を使っただろう? あれ、もし万が一はぐれた時に助けを求めてくれれば転移できる転移魔法だったんだよ」
「そういういみじゃなくてっ!」
おどけたように見当違いの事を言うヘルトに声を荒げ、アウロラは叫ぶように言う。
「どうして……どうしてわたしなんかをたすけに来たんですか!?」
「なんか、なんて言い方を自分でするな。それに、ぼくはそう思ってないからこうして来たんだ」
叱責するように言ってからヘルトは溜め息をついて、
「ぼくはクソッたれな悪党だよ。きみに話した通り元の世界じゃ正しさを成せなかったし、この世界に来ても基本的に功利主義だ。多くを救うためなら平気で少数を切り捨てる。でも、ぼくはこの世界で自分に一つだけルールを付け加えたんだ」
「ルール……?」
「ぼくはぼくに助けを求めた人は絶対に見捨てない。たとえ無意識な言葉でも助けを求められた、絶対に救うと誓った。だったらどんな手段を講じようと、助ける相手にさえ忌み嫌われようと、ぼくは救ける事を止めない」
それはいつから付け加えたルールだったのか、ヘルトにも正確に思い出せない。それはきっと、心の折れたヘルトの最後の抵抗で加えたルールだろうから。
「嫌ってくれて良いよ。ぼくとしても好意を向けられるより悪意を向けられてる方が慣れてて心地いいから」
「……そんな」
アウロラが何かを言おうとしたが、言葉を続ける事はできなかった。
その前に状況に動きがあったからだ。
『造り出された天才児』の奥、そこから半身があからさまに機械でできた子供達が現れた。
「『半身機械化』の兵隊か……。研究所での会話を聞かれてたな。ぼくの右手のウィークポイントを的確に突いて来てる」
ヘルトの主観では人間の体の一部が機械でできていると単一だと判断できない。
例えばペースメイカーや人工臓器など表面には見えない機械が埋め込まれていたら単一として分解できただろうが、目に見えて普通の人体とは違う部分が露出していると違和感が拭えない。
たいして違いが無いように思うかもしれないが、全てはヘルトの主観だ。自分の右手を見ながら自分と右手を分けて捉えないだろう。しかし義手を使っていたなら自分と右手を分けて捉えてしまうはずだ。そんな些細な思考の違いがヘルトの力を封じてしまっているのだ。
「……にげてください。あんなのをあいてにしたら、いくらヘルトだって……っ」
「却下だ」
ヘルトは右手の分解が効かない相手に、それでも無手で正面に立ちながら、
「前にホテルでした話」
「?」
「別に、イジメられてたのはどうでも良かったんだ。あの時、本当に辛かったのは本来ならぼくを守ってくれるはずの存在も向こう側だったって事。頼るべき救済手段が一つも無かったって事なんだ」
両親はおらず、友人も一人もおらず、教師はそもそもイジメの主犯だった。
ただの一人も味方がおらず、死ぬ事ばかり考えていて、けれど負けず嫌いな性分のせいで自殺すらできなかった少年には無様に抵抗する以外の選択肢はなかった。何か優れたモノを身に着けるために、図書室にある本を手当たり次第に読み漁り、知識を詰め込んでばかりだったあの頃に後悔はない。
けれど、それでも無意味な仮定は頭に浮かんでいた。
もしもたった一人でも味方がいたなら、と。
頼れる救済手段があったなら、と。
「ぼくはきみが頼れる救済手段になりたい」
だからこれは代償行為だというのは理解している。ただの自己満足に周りを巻き込んでいる自覚はある。
「だから、ぼくにきみを助ける事を許してくれないか? 全てが偽善と自己満足に満ちた悪事にも劣るクソッたれな正義だけど、それでもきみの抱える最低な現状くらいは打破してやれる。なんたってぼくは、この世界じゃ最強らしいしね」
相変わらずおどけたように言うヘルトの表情には、少し悲哀の色が見て取れた。けれどその言葉に嘘が無いという事は強い眼差しが告げていた。
しかし、それを理解していてもアウロラはどこか複雑そうな表情を浮かべて、
「……でも、そんなのはげんそうなんですよ。わたしにはすくいなんてないんです。わたしが死ななくていいなんて、そんなあまいげんそうはこのせかいに無いんですっ!」
「だったらそれごと守ろう」
ヘルトは右手とは反対の、左手の手首の関節を鳴らしながら強い決意を込めて宣言する。
「その幻想が甘いって言うなら、ぼくがその幻想を守ってやる」
ありがとうございます。
次回はアーサーとラプラスの衝突の話です。