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どうして私はうつになったのか

作者: KIYO

「どうして私はうつになったのか」


プロローグ・現在の私


私は約1年前に2度目の離婚をしました。理由は概ね私のうつ病です。

再婚10年目でした。最初の結婚は15年前、5年で離婚しました。その原因も私のうつ病です。

最初の結婚で娘、次の結婚で息子ができ、現在3人で暮らしています。

娘が15歳、息子は9歳です。

途切れ途切れですが通算約10年以上精神科に通っています。

今回の離婚から1年、自分自身かなりの痛手で症状がひどく、

ひきこもり状態で家事も殆ど出来ず、一日中寝たきりです。生活保護を受給中です。

当然子供の学校行事等、地域活動もできません。

娘は高校受験ですが親らしいこと何ひとつできません。薬は飲んでいますがなかなかよくなりません。

親とは絶縁状態で兄弟もいません。

子供の父親達とも疎遠で援助もありません。

このままでは思春期になった娘がどうなってしまうか心配です。

息子もすぐ大きくなるだろうし追い詰められている気持ちです。

子供が小さく何も判らないうちは良かったのですがもう誤魔化せません。

気持ちが不安定になればなるほど過食してしまい、この1年でおそらく10キロ以上太りました。

体の調子もよくありません。

鏡を見るのもいやで人に会うのも苦痛です。

そのせいで外出も出来なくなり悪循環です。家でひきこもって食べてばかりいて醜くなった母親を

15歳になった娘が軽蔑しているような気がしてなりません。

それでなくても今のこの状態で娘の行動にとやかく言える立場でないような気がして

娘に何も言えなくなりそうです。

はっきり言って娘が非行に走らないか心配ですが何も言えないのです。

立ち直って仕事をして、ちゃんと生活できればいいのは百も承知ですが、

現実に今の症状を照らし合わせると、とても出来る精神状態も体力も自信もありません。

今まで何度も働こうとしましたがうまくいかないのです。

突き詰めて考えているとどうして結婚してしまったのか、どうして子供を産んでしまったのか、

果たしてどうして生きているのか・・わからなくなります。

人並みの結婚をし、子供を授かり、夫婦仲良く、両親とも交流し、

孫と遊ばせ・・頑張ってやってみました。

失敗してももう一度、と頑張って再婚もして・・でも駄目でした。

そうして今ほとほと疲れ果ててしまったのです。

でも人生はまだ続いています。子供がいるのです。

その子達をどうやって育てていけばいいのか。うつの原因は両親とのトラウマがあります。

私にとって両親はストレスの対象でしかありません。

安心できる拠り所はないのです。

男を見る目がないのでしょうか、私のこの性格でしょうか、誰と結婚しても結果は同じです。

子供達にとっては残酷な言葉でしょうが、失敗の代償が2人手元に残っているのみの気がします。

子供を愛してないのではありません。裏切られるのが怖いのです。

もうこれ以上、ましてや自分が産んだ子にまで裏切られたら・・。

でも今、こんな自堕落なおおよそ母親とはいえない生活をしている以上、

何を言われてもされても文句は言えません。

電気をつけるのもいやなんです。カーテンもここ何ヶ月も開けてません。

おふろもたまにしか入りません。家の中はほこりまみれ。食事もコンビニ、出前、弁当。

運動会も学芸会も三者面談もいけません。

そんな中で子供達は暮らしているんです。

なんとか薬を飲んでだましだまし少しづつでも改善できればとは思っていますが間に合うでしょうか。

手遅れでしょうか。

考えないようにしてテレビをひたすら見たり漫画に没頭したりしてみますが

そうするとどうしてか口さみしく、過食をしてしまいます。

過食症までいかないので嘔吐はできません。ただ気持ち悪くなって太ってしまうだけです。

とにかくこれ以上ない程最悪に落ち込んでいる状態です。

こんな私が再び普通の人間生活に立ち戻ることができるのでしょうか。

どうしてこんな結果になってしまったのでしょうか。

途方に暮れる毎日です。


[第1章] 普通の子・みんなと同じがいい


子供の頃のこと。小学校3年生までの事は殆ど覚えてません。

以前、知人や前の結婚相手等と昔話をしていた時も、皆よく子供の頃の事を

覚えているものだな。と思った事があります。

学校の先生の名前。友達の名前。何年何組だったか。などなど・・。

私はそんな事柄はおろか、当時の学校の風景、住んでいた家、道、何一つ記憶がないも等しいです。

親との思い出も同様です。私は一人娘で世間一般にはとても可愛がられて育ったはずなのでしょうが

思い出して心が温かくなるようなエピソードは浮かんできません。どうしてでしょうか。

両親は確かに愛してくれていたはずだと思うのですが私には残念ながら全く伝わらなかったのです。

それは私が悪いのか必然だったのかはわかりません。

たぶん私がおかしいのでしょう。

でも確かに私の心は孤独だったのです。

私の父親は画家でした。自宅でずっと絵を描いています。

決して裕福とは言えない狭い家で父はいつも家にいました。

数少ない幼い思い出には家で制作している父の静物画のモチーフを触らないように

気を遣っていたこと。「きよちゃんちは変わってる。」とよく言われていたこと。

両親はそれを善しとしていました。「お前は普通の子とはちがうんだ。」

「普通の子」なんかよりももっとお前は愛されている、パパとママはお前の事を

世間の親なんかより何倍も考えている。ということなのでしょうか。

口癖のように父が私に言い聞かせました。

物心ついたころからか、家の中の世界と学校など両親のいうところの

「世間」という外の世界の違いが気になりだしました。

父と母はいつも一緒でした。ふたりで大人の難しい話をたくさんしていましたし

激しい喧嘩もよくしていました。すべてにおいて私は蚊帳の外でした。

小学校4年になってからそれまでいた東京から両親の故郷でもある四国へ

転校しました。

そこからの記憶は私のなかに暗く暗く残っています。

引越しをしてからも家の中の雰囲気は同じでした。

しかし「世間」の環境はますます家の中とかけ離れていったのです。

まだ幼い私にとって学校は全てです。私が転校した学校はすごく田舎の

地域中が親戚縁者のようなところでした。

そこに途中から飛び込んだ「東京者」の私は全くの「よそ者」でした。

現代のような陰湿ないじめは幸か不幸かさすがにありませんでしたが

私は毎朝「今日は仲間はずれになりませんように」とお祈りしてから登校していました。

私の嫌いな言葉に(暗黙の了解)というのがあります。

当時の学校の中は私にとってそれの連続でした。

わからないのです。なぜか、いつのまにか浮いてしまうのです。独りなのです。

直接的ないじめはありませんでしたがもう既に友達同士のグループ

のようなものが出来上がっていて、なかなか溶け込めないよそ者の私でした。

田舎の生徒数も少ないその学校は小学校から中学校まで持ち上がりの同じメンバーでした。

そんな過疎の田舎には一人もいなかった東京からきた「絵描きの子」

学校の先生まで私をめずらしがりました。

ある意味私は目立っていました。

当時の私を覚えていてくれる人はいても友達だったと思ってる人はいないのではないでしょうか。

私はいつも周囲の目を気にしていました。

「普通がいい」「みんなと同じになりたい」

そんな学校から疲れ果てて帰る家もまた私にはほっとできる場所ではありませんでした。

誰にでもあることですが、成長するにつれ自我が芽生えた私は色々なものに興味を持ちます。

好きなアイドルだったり、洋服、流行歌、テレビ番組すべて両親のチェックが入ります。

それらは全て両親の言うところのいわゆる「世間」だからです。

例の「お前は普通の子とはちがうんだ。」です。「世間」に染まるな。ということです。

子供のわたしにとって無理な話です。だって私はその「世間」で生活してるんです。

パパとママのように家の中で括弧とした信念を確立させて生きてるわけじゃないんです。

よく覚えているエピソードがふたつあります。

子供の私は傘が欲しかったのです。皆が持ってるようなキャラクターの傘でした。

父にとっては私にそれを買い与えるのは「世間」に染まってしまうと判断したようで

それはもう一生懸命、何件もお店をまわってキャラクターの傘が欲しい私と

父が善しとする傘の妥協案の傘を探してくれました。

後に父はよく言ったものです。「お前の気に入る傘を探して何件も走りまわってやった。」

もうひとつは中学の時だったか、好きなアイドルのレコード(当時CDはありません)が

買いたいと言うと両親囲んで家族会議です。

「本当にそれが必要なのか。」「それを買っても世間に染まらないか。」ということだった

と思います。

何の気なしに欲しくなる年頃じゃないでしょうか。

見るテレビもラジカセが欲しいと言った時もこの調子です。

一緒にテレビを見て「この歌手かっこいい。」とか「この歌流行ってるんだよ。」とか

我が家の中ではあり得ない会話でした。

思ってる事を意を決して言うとたちまち家族会議です。

挙句の果ては「お前がそんなだからきよがこんな子になるんだ。」と

両親が喧嘩を始めます。「こんな子」って何でしょう?

私が父に泣きながら必死で自己主張していても母は決して味方しては

くれませんでした。

同じ境遇を分かり合える兄弟もいません。

次第に私は本当に自分がすきなこと、やりたいこと、何も言わなくなりました。

毎晩布団の中で想像するのです。

普通のパパとママで兄弟がいて友達もたくさんいて・・・好きなことが言えてと。

両親には何も話さない子に思えたでしょう。何か悪い事をして叱られた時などは

「何を考えてるか言いなさい。」「悪いと思うのなら何が悪かったか話なさい。」と

話すまで寝かせてもらえませんでした。

そして嘘を覚えます。両親が納得するような答えを。

当時はいつもああ言えばこう言われるからこれは言わないでおこう・・・。

なんてことばかり考えていました。

私は心の中の自分とだけ、おしゃべりする子供でした。

四国の田舎は当然のことながら方言があります。

学校では方言で話さなければますます浮いてしまいます。小学校4年から中学3年まで居れば

いやがうえにも身につくものです。

しかし家の中では両親は標準語で話します。私がひとり方言で喋る雰囲気ではありませんでした。

とにかく当時の私にとって田舎に引っ越してからの日々は過酷なものでした。

それ故に引っ越す前までの記憶が薄れてしまった気がします。

これらすべて私のただの思い過ごし、被害妄想なのでしょうか。

四国は両親の故郷だといいましたが私達が当時移り住んだのは母の実家の近くでした。

母は7人兄弟で皆近郊に住んでいました。私は一人っ子でしたが従兄弟はたくさんいました。

しかし、その親戚の中でも私は異端でした。

田舎で画家をしている父は変わり者で通っていて

ちょっと変わった両親に育てられてる子。かわいそうに思ったのでしょうか、母方の祖父は

従兄弟達の中で一番たくさんお年玉をくれました。

両親がある日いつになく激しい喧嘩をしたことがあってたまりかねて

叔父が私の様子を心配して来てくれた事があります。「かわいそうに。」と。

田舎の行事の常でお盆、正月に本家(母の長兄の家)に親戚一同よく集まりました。

そこでの母は私の目にはなんだかいつも父と家にいる母とは違って見えました。

親、兄弟の中でリラックスする「普通」の人に見えました。

「母にはリラックスできる拠り所があるんだ」と思いました。「私には無いのに!」

母は両親に「お前は普通の子とちがうんだ。」なんて言われて育ってはいないでしょう。

父もそうです。

よく人が「みんなと同じはイヤだ。」なんて言うでしょう。個性的になりたい?

子供の頃から私はひたすら「みんなと同じ」がよかった。

でも私は何処にも属せなかった。誰にもなじめなかった。

自分の親にさえなじめなかった。

心底安心した事は記憶にありません。

私の不幸は自業自得なのでしょうか。私は両親を信じる事ができませんでした。

両親を信じて同じ思想を持つことが出来ればよかったのでしょうか。

思春期によくある反抗心?

それこそそんな「世間」によくあるようなコトと片付けてしまうには

あの頃の私がかわいそうです。


[第2章] 秘密・でも忘れられないコト


私はずっと頑張ってました。本当に頑張っていたのです。

家と外を使い分けて。

私のすきなこと、思い描いていること、きっと両親は知りません。

私の目指す未来と両親のそれはあまりにかけ離れているのです。

それはいまだに変わりありません。

もうひとつ幼い頃のエピソードがありました。

父が画家だということで友人がなにげなく絵を教えてほしいと

絵画教室のようなことをしました。

ホントになにげなく「きよちゃんのお父さんに教えてもらう」

普通の感覚だったのでしょう。

その友人は父の威圧感に泣きだしてしまいました。

「もうイヤ!」「誰か助けて」

「家へ帰りたい。」が私の心の中の口癖でした。

あくまで心の中の。

家へ帰りたいの「家」ってドコ?・・・わかりません。

帰りたい「家」ありません。

そんな中、私は中学を卒業しました。

高校は両親の母校でもあった所へ進学しました。

もちろん両親の勧めです。

でも私はそこで爆発したのです。

それまでいた中学と違って高校は初めてみんな同じでした。

ちょっとだけ市街地にあったその高校はいろんな中学から新しく

入学する子ばかりです。私の中学から進学した子はわずか2〜3人でした。

みんな同じ条件です。うれしかった。

新しい友達。新しい環境。

私の心はますます家から離れていきました。

ココでは(暗黙の了解)なんかありません。

だって私もその中のひとり!仲間です!

家は相変わらずでしたが学校(外)ではもう孤独じゃありませんでした。

このままの日々がずっと続けばもう淋しくない。

私の人生の中で一番楽しかった日々です。ほんのわずかの間でしたが。

しかし反比例してその頃の私は両親の目指す「私」とは

どんどんかけ離れていったのです。

相変わらずちょっとの失敗も許さない親。

私は嘘ばかりついていました。

帰りが遅いのや日曜の外出は部活。本当は友達や彼氏と遊んでいました。

制服の改造(当時はスカートは長くするのが流行ってました)も

「いってきます」と家を出てから。

あの頃は携帯電話なんかなかったし、それはそれは大変でした。

でも所詮は子供。そうそう隠し通せません。

内緒でバイトを始めては、ばれて辞めさせられ、彼氏なんかの存在は

おくびにも出せません。電話がかかってくるのもびくびくものでした。

他の子は結構自由にやっています。

反発して家出も何回かしました。泊らせてくれた友達の家のお母さんは

優しかった。

もう少し、「これくらいは」って許してくれていればあんなにエスカレートせずに

何でも話せたのに。

「今、こんな制服の着方が流行ってるんだよ。」

「彼氏、こんな人なんだ。」

「バイトしたい。」

その都度、家族会議になるのがわかってた私はそれらの何一つ言いませんでした。

親の財布からお金を抜いて学校帰りに友達と寄り道してました。

本当にあの頃もっと気軽に何でも話せれば!そして「これくらいは」と

「あんまりハメはずしちゃだめよ。」くらいで笑って許してくれていれば!

普段の服装も幼いころのまま両親のチェックのもと、吟味されて決められていました。

父は徹底主義です。自分にも厳しくいましたが私にも同じでした。

協議の末、妥協案の服を着ていても心底は気に入ってないので

「下品だ」「そこいらの子と同じような格好をして」

本当の私。そう、本当の私を父は好きでいてくれるでしょうか。

認めてくれるでしょうか。

ある日友達と万引きをしました。

品物を見つかったとき、しこたま殴られて羽交い絞めにされ

父ははさみでじょきじょきと私の髪の毛をザンバラに切りました。

とにかくやる事なすこと発覚した時は大変でした。

でももう私はすでに我慢できなくなっていたのです。

矛盾していたように思いますが、そこまで私を信用していなくて

干渉していたにもかかわらず時たま両親は揃って制作活動のためにと

海外に私を置いて出かけました。

実情は当時何にも聞かされませんでしたが相当仕事面でも大変だったのでしょう。

ある意味「私」どころではなっかたのです。

これ幸いと私は仲間を親不在の自宅に呼んで遊んだものです。

確かにあの頃の私の行動全てを「親のせい」と正当化するつもりは

ありません。でもあまりの精神的締め付けに爆発せざるをえなかったのも

確かです。

もう我慢して独りで泣くしかなかった幼い頃とは違ったのです。

いつしか私は家を出て親と縁を切りたいと真剣に考えはじめました。

今から考えればあの頃私ももう少し怖がらずに何でも話をすればよかったのでしょうか。

もっともっと頑張って自己主張すれば「私」を認めてもらえた?

あの頃の私の友達や彼氏を知ろうとしてくれた?

でも本当に怖かった。幼い頃から本心を話すことに慣れていない私は

とてもじゃないけどざっくばらんに自分のことを話することなんてできなかった。

嘘をつくのに慣れすぎてしまっていました。

テレビドラマや他の友達の家庭で見るなかよし親子は色んな話をして

彼氏なんかも家に連れていったりする・・・。

今の子供なんか本当に自由です。携帯はあるし、おかあさんと好きなアイドルの

コンサートに行く・・。薄化粧して茶髪、スカートも短くして

でも限度を超えさえしなければ悪い子じゃない。普通の子。

私にはそう思えます。

もし今現代に私が高校生であの両親と暮らしていたならどうだったのでしょう。

よく親はどんな悪い事、たとえ人殺しをしたとしても

自分の子供は可愛いといいます。

私の両親は本当の私を好きなのでしょうか?

とにかく私は無邪気な明るい娘ではありませんでした。

高校一年の私はとうとう究極の問題を起こします。

親から離れたい一心で当時好きだった彼氏にすがったのです。

赤ちゃんができました。

私も彼も真剣でした。友達も応援してくれました。

もちろん子供の考えではありましたが私の「世界」ではみんなとっても真剣でした。

でも案の定、親は驚愕しました。それはそれは凄まじいものでした。

彼も友達も完全に悪人として評価されました。

もちろん学校も、「世間」も。

必死の思いで彼のもとに家出しましたがすぐに連れ戻されました。

彼と彼のお父さんが家にきてくれました。

両親は椅子に座り、彼らが土下座をしていた場面を今でも覚えています。

しかし、それは何の意味合いももたらしませんでした。

選択肢は考える余地もなかったのです。

父は自分が一番正しいのでした。

ついに私は監禁されたのです。もちろん子供は中絶されました。

病院で叫んだのも覚えています。その直後私は完全に外界から遮断されたのです。

部屋に外から鍵をつけられました。

彼とも友達ともそれっきり。

高校も勝手に親が退学の手続きをとったようでした。

あの日々は思い出すと今でも気が変になりそうです。

一日中閉じ込められ、トイレとお風呂だけ出してもらえます。

食事は母が運んでくれます。

両親が外出する時も鍵は閉められたまま。

窓枠もクギで外れないように打ち付けられています。

両親が外出する音を聞きつけてなんとか鍵を壊せないかと必死に

試みましたが徒労でした。

後はお風呂のときがチャンスでした。密かに彼に手紙を書いて

親の寝静まった夜中に日時を指定し、合図をしてもらい、外から窓枠をはずしてもらって

脱出を試みる計画の内容です。

お風呂は入り終わると再び部屋へ連れて行かれ鍵を閉められるので

時間稼ぎにはならないです。夜中ならなんとか逃げ出せると踏んだのでした。

もうそれはまるでサスペンスドラマです。

お風呂の時にあらかじめ書いた手紙を忍ばせ、入ってるふりをしてる間に

お風呂の窓から脱出し、ポストへ手紙を投函しに裸足で走りました。

その後なにげなく戻りお風呂からでたふりをするのです。

携帯やパソコンのメールが当時あったら!

でもそれももちろん取り上げられてたでしょう。

監禁された部屋に筆記用具があったのが幸いでした。

果たして手紙を読んだ彼は私の計画を実行してくれました。

しかし失敗に終わってしまったのです。

彼が合図として懐中電灯の明かりを照らすはずの私の部屋を間違えてしまったのです。

不幸にもそれは両親の部屋に照らされてしまいました。

ほどなく彼は父につかまり、あたかも野良犬を追い払うがごとく

傘をふりまわして彼を殴打されたそうです。

後から聞いた話でその時彼の頬には父が振りかざした傘の先が刺さり

穴があいたそうです。

私の計画行動を知った父は激怒しました。

監禁してもなお飽き足らなかった事をなじります。

それからすぐ私は隣県の父の実家に預けられました。

そこからも逃走しましたがやはり無理でした。

こうして私が妊娠して退学したということは親戚中の知るところとなったのです。

ただその事実だけ。私の心は誰も知りません。

そんな間に両親は再び東京に引っ越す計画を立てていました。

私は親戚、従兄弟達、友達、そして彼、なにもかもからぷっつり遮断されたまま

東京に連れていかれました。

その後両親は親戚の冠婚葬祭には一切私を連れて行きません。

仲良くしていた従兄弟の結婚式も。祖父のお葬式も。

私を心無いうわさから守るためでしょうか。

こうして私は小学校4年から高校1年までの青春時代を過ごした

故郷の全てを失いました。

私自身の言葉では誰にも弁明することもできず、さよならも言えず。

私には四国の祖父母、従兄弟、友達、誰からも連絡はありません。

同窓会というものにも一度も行った事もないし通知が来た事もありません。

私は再び孤独の闇に落ちました。

今にして思えばその頃両親の仕事上も色々と行き詰まっていたのでしょう。

そこへ私が問題を起こした。

私の立場にたって私の心情を考えてやる余裕は無かった。

ただただ自分たちの思い通りに私を動かした、としか思えないのです。

私はこのことをきっと死ぬまで許すことができないでしょう。

あの時もし彼と結婚して子供を産んでいたら?

親の言うとおり絶対不幸になっていたでしょうか?

今より孤独だったでしょうか?

今でも時々考えます。あのまま彼と結婚して四国で暮らしている自分。

友達もいる。もちろん親戚も、従兄弟達も。

どんな悪いうわさを立てられても自分のしでかした責任はちゃんと

自分でとる。

そうしていればたとえ何を言われたっておじいちゃんのお葬式も出られた。

仲良かった従兄弟の結婚式にも。おめでとうって言えた。

彼とのたくさんの共通の友人達。

もちろん彼とのことは20年以上昔の思い出です。

今どうしているかは全くわかりません。

でも後に私は2回結婚しましたがいずれもそんな理想とは程遠いものでした。

「理想」というほど大それたものではないのかもしれません。

だって普通の人は大抵みんなそうでしょう?

「普通」とは違うと言い張る私の両親でさえ親戚の冠婚葬祭には行くし

四国に帰れば学生時代の友人もいます。

私は自分の両親にそれらを全て奪われました。

私を守る。という大義名分のもとに。

私はただただ、そんな「普通」を追い求めているだけなんです。


[第3章] 負けるもんか・仲間をさがして


東京に連れ戻されてからも私は頑張りました。

まだ17歳だったし生きていかなきゃならなかったから。

親の知人の紹介で事務の仕事をはじめました。アルバイトです。

でも家に居るのもいやだったし、正社員並みに出勤していました。

会社では高校も出ていない17歳の私はやはり異端でした。

周囲の人には「私はフリーのアルバイター」などと言っていました。

まだ現在のようにフリーターなんて言葉はない時代です。

同年代の友人はもちろん一人もいません。

当時、親に黙って四国の友人や彼と文通をして淋しさをまぎらわしていました。

親と住む自宅には届けられないので郵便物は全て会社の近くの

郵便局止めにしてもらっていました。

彼とは電話もよくしました。テレホンカードが出回ったばかりで

当時は1万円分とかのカードもあったのでそれを買って

会社の帰りとかに電話ボックスで座り込んで話してました。

長距離電話は高いのです。

その頃には働き始めたこともあったし、「悪い友人」とも

隔絶した安心感からか親の干渉も少しはやわらぎ、

自分で服を買ったりもできるようになっていました。

画家の父より毎月の決まった収入のある私は貯金もできたし

家の外にさえいれば少しは自由をもらえました。

でも映画に行くのも買物するのも喫茶店でお茶するのもひとりでした。

18歳になって同年代の人が社会に出るようになってからやっと

少しは友達ができるようになったように思います。

文通や電話だけの四国の友人や彼とはいつの間にか連絡が途絶えてしまいました。

無理もありません。彼らも私も若いのです。

それから色んなアルバイトや就職もしました。

その先々で友達や彼氏もできましたが大抵はその場限りでした。

気にしすぎだったのかもしれませんが、学生時代からの友人も思い出もない私は

やはり周囲の新しくできた友達にとってもどこか「異端」でした。

「友達」のできたうれしさに、ついつい執着してしまい、いつの間にか

敬遠されてしまうのです。

でも、もちろん例によって友達も彼氏も両親には紹介したことはありません。

あいかわらず両親には当たり障りない態度で過ごしていました。

お互い四国での話は禁句です。

これは昔からですが何も話さない私の行動を知ろうと、母はよく私の手帳や手紙

などを盗み見します。

そしてある日私が不倫していることをつきとめました。

とにかく私は上京してから結婚するまで色んな人とつきあっていたのです。

ある意味もうどうでもよかったのです。「彼」でないのなら・・。

これ以上の干渉を避けたかった私はついに家を出ました。

幸い貯金も貯まっていたし、家をでる口実になるルームメイトができたからです。

彼女は唯一四国からの高校時代の友人で幾度となる隔絶からもめげることなく

友達でい続けてくれた人でした。

20歳のときでした。17歳から3年間仲間という存在もなく、孤独に過ごした私には

彼女はたったひとりの親友でした。

でも共同生活はそんな長くは続きませんでした。

彼女はちゃんと高校を卒業して故郷に親、兄弟、親戚、友人もいるんです。

やっぱり私とはどこか違うんです。

このように私は人と接してるといつも疎外感を味わってしまうのでした。

私は何処にも属さない。誰との繋がりもない。

こう思ってしまうのはもうどうしても辞められません。

20歳でまがりなりにも家を出てからルームメイトの彼女と離れても私は

一人暮らしをはじめ、24歳で最初の結婚をするまで殆どといっていいほど

というか記憶では一度も両親に会いませんでした。

両親も決して訪ねては来ませんでした。

もうこれ以上縛り付けられないと思ったのでしょうか。

自分達に就いてこられない子は見たくないのでしょう。

未成年の頃は自分達に責任がいくから仕方なく面倒みて、面倒みるいじょうは

自分達の思い通りにさせる。

手を離れてそれでも慕ってこない子はほおっておく。

のちに、母が言いました。「きよは昔から何にも話してくれなかったから。」

それを聞いた私は脱力するしかありませんでした。

「よくゆうよ。言わせなかったんじゃないの!」

昔、同じような片鱗を垣間見ました。

両親のところには画家という仕事柄か父の性格からかよく人が集まっていました。

そこで父はよく自分の持論を嬉々として謳うのです。

私と母は父の別の面も知っているのでそうでもないのですが、

たまに会う他人にはそんな父が実に楽しく素晴らしい人物に見えるのです。

でも稀に父とは考え方が違ったりする人物がいたりすると

父はいきなりぷっつり縁を切ります。

父は3人兄弟の長男なのですが次男のおじさんとの関係もそのひとつです。

このように私も20歳から4年間ぷっつり縁を切られていました。

どうしても父と同じ思想を持つことが出来なかったからです。

でも私はそんなことお構いなしです。

とにかく「仲間」作りに頑張っていました。

「負けるもんか」その頃よく心の中で言っていた言葉です。

ちゃんと就職して仲間を作って幸せな結婚をしたい。

そして父の考えだけが全て正しいわけじゃないって証明してやりたい。

子供の頃から父と母の密接な関係のなかひとり蚊帳の外だった私にとって

やっぱり結婚して本当の自分の仲間を作るのは夢でした。

10代で泣く泣くあきらめさせられたとしてもなお、やっぱり欲しかった。

自分にもちゃんとパートナーがいれば父と母の前でももう淋しくない。

そんなふうに思っていました。

「彼」を忘れられるくらい好きな人もできました。

でも、その人にはこっぴどく失恋しました。

その時私の最初のトラウマが出ました。

今で言う「ひきこもり」になってしまったのです。

トラウマとはいうまでもない、あの監禁生活です。

何もせず、どこへも行かず、誰とも会わず。ある意味どうでもよくなる状態です。

失恋のショックで私の精神状態はあの頃に舞い戻ってしまったようでした。

仕事も辞めて一日中家にいました。

しかし当然状況は違います。食事を運んでくれる母はいません。

一人暮らしなので家賃はかかります。

近くのスーパーにお惣菜だけ買いに行くのみ。

たちまちお金が無くなりました。キャッシングです。

でもその時はトラウマだともひきこもりだとも認識せずに

これ以上借金を増やさないためになんとか立ち上がりました。

若かったし、まだまだ諦めてなかったのです。人生に。

「負けるもんか」

頑張って再就職しました。

私はどちらかというと同性に嫌われる性質のようです。

外見も性格も。人一倍友達、仲間が欲しいのにどうしても敬遠され、

やっぱりいつのまにか独り。

本当に今までの人生で友達と呼べる人はいないに等しいのです。

唯一、昔からの私を知っていてくれ、親友だと思っていて事実、彼女の方もそう言ってくれ、

お互い結婚して子供ができてからもずっと心の友としてつきあってくれていた友人。

例のルームメイトだった彼女は後に30代の後半、ある日ぷっつりと連絡が途絶えて

しまいました。理由は今も全くわかりません。

私が彼女の気に触ることをしたり言ったりしてしまったのでしょうか?

何度電話しても出てくれず、メールしても手紙書いても返事はくれませんでした。

私の「うつ」の引き金のひとつでもある出来事でした。

職場で知り合った友人や子供がらみのママ友などとは当たり障りのないつきあいは出来ます。

でも孤独なのです。たぶん心底、人を信頼できないからでしょう。

自分の親でさえ信頼してない私がどうして他人を信頼できるでしょう。

それでも当時の若い私はあきらめていませんでした。

いつか絶対私をわかってくれる仲間ができる。と。

高校中退の私は何にも資格がありません。

かろうじて自力で自動車免許はとりました。

他は心底やりたい仕事もなかったので何の勉強もしませんでした。

普通の女子高生が学校生活を送りながら友達と触れ合い、勉強し

大学へ進んだりしながら自分の将来について考えるべき時に

私は意味もなくアルバイトを転々としながらひたすら淋しい、友達をつくりたい。

なんてことを考えていただけでした。

何かに満たされなければその先に進めず、その思いにがんじがらめになってしまうのです。

私がもっと強い人間であればもっと地に足をつけた考えで将来にむけて

勉強もできたかもしれません。

しかしすでにこの頃の私の両親は助けてはくれませんでした。

精神的にももちろん経済的にも。

私が勉強するには自力でもっともっと頑張って学費を稼ぎ

孤独もトラウマも振り払って生きなければ無利でした。

私はそこまで強くありませんでした。

現実的な話ですが一人で生きられる程の経済力を身につけるにはどうしても

ある程度はその前にお金がいるのです。

もし私があの時問題を起こさず、高校を無事卒業できていたとしたら

何かやりたい仕事がみつかったのでしょうか。

大学に行きたいと言ったら両親は行かせてくれたでしょうか。

そんなわけで何もできない私は結婚という選択をしてしまったのでした。

今から考えればそもそもそれが間違いの始まりでした。


[第4章] 頑張る私・うつの自覚


最初の結婚は24歳。

相手は当時働いてた職場の10歳年上の人でした。

相変わらずいろんな人と付き合っては別れ、を繰り返していた私は

疲れはじめていたし、最初の「ひきこもり」の時にできた借金が

まだ残っていました。

プロポーズされて借金も代わりに返してくれると言われた時は

正直ほっとしたものです。

時代はバブル期。相手の人も結構はぶりがよかったのです。

かなり年上ということもあり、頼りがいのある安心できる人に

思えました。

都内の一等地に家があり、姑はいるものの私のために2世帯住宅に

リフォームしてくれるということでした。

私は嬉々としてその時はじめて「男の人」を両親に紹介しに行きました。

両親は大賛成。ほっとしてふたりで泣いたそうです。その時から再び

両親との交流を再会しました。

以前から思っていたように、もう私にも「仲間」ができたから

両親と対峙しても淋しくない。対等に付き合える。

4年ぶりに帰ってきて、しかも立派な結婚相手まで見つけてきた私に

両親はほっとし、嬉しかったのでしょう。相手の人とも姑とも仲良くしてくれました。

しかし人生はそう甘くはありません。

「結婚」のはじめの段階から私にとって?マークのつくことの連続でした。

私達は2人だけの結婚式をすることと新婚旅行を兼ねてオーストラリアに

行く事にしました。というか、相手の人がそう決めました。

理由は彼の趣味がサーファーだったからです。

「オーストラリアはサーフィンに行くんだから。」空港の出発ロビーで彼は

私にそう言いました。

言葉通り彼の目的の大半はそれでした。宿泊先も波の良いポイントで知られる

ゴールドコースト。

海まで行くためのレンタカーの手配。

彼のやってくれたことはそれだけでした。

ウェディングドレスが着たければ一生懸命その地域周辺で結婚式を挙げられる教会や衣装を

調べ手配しなければなれませんでした。ひとりで。

もちろん費用は全て彼がもってくれます。結婚式もして写真も撮りました。

でも???何か幸せじゃないのです。

彼の興味はサーフィンだけでした。

行きも帰りも飛行機はシーズンオフで空いていました。

体の大きかった彼はエコノミーの座席は確かに窮屈です。

席が空いているのを幸いに私の隣の席でなく後ろの空いてる席を2シート分とって

寝ていました。

新婚旅行なのに・・・?私は一人で飛行機の窓から外を眺めるだけでした。

「なんで隣に座っててくれないの?」

私は明るくざっくばらんに彼に言う事ができませんでした。

正式な結婚式はしませんでした。職場の同僚達だけで私の送別会を兼ねた食事会のみです。

私には例によって式に呼べるほど親しい友人はいなかったし

彼のほうはそうゆう事には興味がなかったようです。

代わりに両親が私達を四国へ連れて行きました。

アレ以来はじめての帰郷です。

例の娘がやっと更正して立派な結婚したということをお披露目するため

両親は親戚、知人宅へ私達を連れまわしました。

親戚たちはさぞ困惑したでしょう。それまで姿を見せなかった私が初対面の

結婚相手を連れていきなり訪ねてくるのです。

スケジュールは分刻みです。大量にいる親類縁者つぎつぎと挨拶のみしてまわります。

まわる先はすべて両親が決めます。中には私のよく知らない両親の知り合いとか・・・。

当然ながら私の個人行動は無しです。私個人の知り合いはないも同然。

両親のための四国行きのようなものでした。

事情をよく知らない彼はもっと困惑していたでしょう。

結婚てなに?

お互いの親戚や友達を呼んで結婚式をして(もちろん当人同士主導で)

そうして共通の友人や知り合いが増えて社会の一員になるものじゃないの?

でも所詮無理な話。私には自分自身の親戚縁者はいないし、四国にいるのはあくまで

「両親の親戚」です。友達も皆無。

彼は結婚に関して私のような考えはどうやら持ってないようでした。

じゃあ彼にとって結婚てなんだったのか?未だにわかりませんがやはり

彼にとっても私は私の両親含めて「異端」だったようです。

それが理由に今では彼も再婚して今度はちゃんと結婚生活をおくっているようだからです。

私とのそれは結婚生活とは程遠いものでした。

前述のように当初から???のついた私はそれでも最初は必死に頑張ったつもりです。

一人前の夫婦として見られるようにと会った事もない彼の親戚縁者や友人たちをはじめ

全く個人的な交渉のない私(両親の)の親類縁者、かたっぱしから結婚報告のはがきを

投函し、その後も年賀状を毎年出し続けました。

もちろん家事もこなし、姑とも仲良くしました。

家のリフォームも私主導で頑張りました。

当時、彼の家で問題として起こっていた相続税対策も私は父の力を借りて

弁護士に相談したりし、乗り切りました。

彼はそういった様々な事柄に対して非常に面倒がり、積極的に参加はしませんでした。

当然、私へのねぎらいや感謝の態度もありません。

彼の興味はサーフィンのみでした。

私はサーフィンはしないのでそれまで知らなかったのですが

良い波というのは殆ど明け方でるそうです。

そのため彼は波の良い日は早々に支度して明け方出掛けます。

それから仕事に行くのもいとわないようでした。

そのため夜はいつもお酒を飲んですぐ寝ます。

私との対話は心も身体も殆どありませんでした。

休日もそれは結婚前のデートの時からそうでしたが全て波乗り繋がり。

私は完全に丘サーファー。彼と一緒にいようと思ったらそうするしかないのです。

2時間も3時間も私は彼を待ちます。

話がしたかった。会話。「何を考えてるの?」答えは「別に。」

明け方から起きて波乗りをし、その後仕事へ行って遅く帰宅の毎日。

疲れて眠そうな彼を無理やり起こして「話をしようよ。」と言っても

不機嫌そうに「何の話?」・・・そう言われても・・・。

波乗りのためにはあんなに頑張って早起きできる人なのに波が悪い日や雨の日は

休日でも私のためには起きてくれません。

結婚してふたりで生活しているはずなのに家ではいつも独りの私でした。

次第に私も不機嫌になっていきます。家事もおっくうです。

やりがいが無いというもの。

私と居ても退屈そうに居眠りする彼に頭から水をかけたりもしました。

独りの時間を持て余して再びアルバイトなどもしました。

彼が波乗りという彼の世界を持ってるなら、私にも何か見つけなければ。

と思ったりしました。

でも何に対してもたいして興味をもてません。相変わらず孤独に押しつぶされるのみ。

彼によく言われました。「オレはお前の親父のようにはなれない。」

どういうことでしょう?確かに私の両親は会話の嵐でした。

エキサイトすると朝までなんて普通です。

そんな親を見ていた私は夫婦ってそんなもんだと思っていたということでしょうか。

じゃあ普通の夫婦ってどんなの?

私は彼によく言いました。「私達、老夫婦みたいだね。」

また彼には別の面もありました。

些細な事(大抵は会話がない等の私の不満からはじまりますが)でけんかをすると、

決まって「オレの金で食ってるんだ。」と言います。

私は生活費のやりくりとして彼から銀行カードを預かっていたのですが、いつも

なにか争う度、「カード返せ。」と言われました。

確かに結婚費用(主に波乗りのためのオーストラリア旅行ですが)家のリフォーム

等すべて彼の出費です。もちろん生活費も。

わたしのアルバイトなど微々たるものでしたから。

世間一般の親がしてくれるような私の両親からの嫁入り支度など援助はありません。

私には彼は「結婚して所帯を持った」という感覚が無いように思えました。

私の不満に彼も辟易していたのでしょう、ますます会話は無くなりました。

それでも一縷の希望を持ちました。子供が出来たのです。

これで彼も変わってくれるかも。と思いました。

再び頑張りました。昔、産めなかった子供がはじめて堂々と産めるのです。

育児も一生懸命しました。ママ仲間も作り、両親や姑にも孫を披露します。

でも肝心の彼の変化はありませんでした。

それどころか私が育児を始めたので自分への興味(会話したい等の要求)から

開放されて安心しているようでした。

今の私の記憶の中の娘の育児中に彼の姿はありません。

産後は完全にセックスレスにもなりました。

私は娘に固執するしかありませんでした。

その頃すでに非情な彼のことを嫌いになっていた私は彼の母親である姑に

ある嫌悪感をいだきはじめました。

私の身体の一部でもある娘を姑に触られるのが生理的にイヤなのです。

姑自身のことは嫌いではありませんでした。

彼との結婚生活終盤には逆に彼とよりも、姑と一緒に過ごす時間のほうが多かったし

たくさん色んな話をしてくれたし、聞いてもくれました。

赤ちゃんだった娘はとても可愛かったし両親も姑も大事にしてくれました。

ただ姑に娘を触られるのだけがどうしてもダメだったのです。

ある日、こんなことがありました。夜中に娘が夜鳴きをはじめました。

私はたまたまトイレに行っていて布団に帰ると娘がいません。

姑が娘を自分の布団に入れて抱いていたのでした。

これを嫌悪するのは異常なのでしょうか?

姑と娘と一緒に公園へ行っていたら、姑がなにげなく乳母車から娘を抱き上げ

私が座っていたベンチの場所から少し離れた場所に座りました。

私はだんだん自分がコントロールできなくなっているように感じはじめました。

はっきりいって赤ちゃんの娘は私のぬいぐるみでした。

毎晩よくわかってない娘をだきしめ泣きじゃくっていました。

その頃から彼とは寝室は別で私は娘と2人だけの部屋で再びひきこもってしまいました。

食事も別です。申し訳程度に食事だけ作って台所に置いておきます。

彼が仕事から帰る前に私は娘をつれて部屋へひっこみます。

帰ってきても彼は私に声をかけることはありませんでした。

ひきこもりはじめてからは姑とも顔をあわせなくなりました。

両親の所へももう行けません。でも誰も私に「どうしたの?」と言って

娘と引きこもっている部屋のドアをノックする人はいませんでした。

そんな中、娘は3歳になっていました。

出産直後まだ正常だった私はある育児検診で娘と同齢のママ友達がひとり

できました。彼女とは子供共々かなり親密に付き合い、一緒に何度も

旅行へ行ったりフリーマーケットのようなお店を開いたりしました。

もちろんそれら全て父親である彼抜きです。

でもそれも私の精神が不安定になるにつれ疎遠になってゆきました。

私に連動して娘の情緒も不安定になったのです。

「きよちゃんの子、ちょっと変だよ」

全然よそで笑わなくったのです。

ママ友の彼女の家に娘を預けたことがありました。当時は時たまそんな預けあいこを

していたからです。

その時娘は彼女の家庭のお父さん、お母さん(彼女)がそろって食卓を囲む

一家団欒の輪から数メートル離れて立ちすくんでいたそうです。

「こっちへおいで」といってもニコリともせず動かなかったそうでした。

それを聞いて私はもうだめだ。と思いました。

この時初めて精神科を受診しました。

傍から見ればきれいな新築の一軒屋に住む幸せな家庭。

私の知る限り彼は浮気はしていません。暴力もありません。

経済的にも苦しくはありません。

でもどうして幸せじゃないの?こんなに苦しいの?

私の精神の何かが幼い頃から狂いはじめている。

いつものくせでやはり両親には本心から相談はできませんでした。

結婚生活につかれてホっとしに帰りたい実家ではありません。

帰れば「どうしたの。何があったの。わかるように説明しなさい。」

何も言わずにただ「よく帰ってきたね。」とだけ言って欲しかった。

こんなコトで離婚はおかしい。子供を片親にするなんて・・・。

でももうギリギリでした。

ある意味彼もギリギリだったのかも知れません。

会社のお金を使い込んだのです。理由はパチンコでした。

カードを私が管理してお小遣いのみの彼にとってパチンコのお金はありません。

ソレを理由に私はそそくさとアパートを決めて家を出ました。

娘のために。そして私自身のために。こんなままでは終わりたくないと思ったのです。

その時はまだ漠然とですが、もう一度恋がしたい。

私の「仲間」はもっと他にいるはずなんだ。と感じていたのだと思います。

私は30才になっていました。


[第5章] 裏切られた期待・末期


離婚してからは両親の住むアパートのある街に部屋を借りました。

再び同居したりするつもりはありません。

でも母子家庭になってしまうという不安感で、もし何かあったときはどうしても

親に頼るしかなかったからです。

両親は離婚に対しては何も言いませんでした。

ただ例によってそれまで息子同然だ。とつきあっていた彼とも

姑ともきっぱり縁を切りました。

物理的には同居は無理でしたが両親は自宅のすぐ近所に

私達が住むことを求めました。いわゆるスープの冷めない距離です。

でも私は同じ街ではありましたが車で10分はかかる微妙な距離をおきました。

その頃父が娘のことを昔私に言っていたのと同じように

「この子は特別な神の子だ」などと言いはじめていたからです。

私はその都度「普通の子だよ」と反論しました。

娘に私の二の舞はさせられません。

両親の立場にたってみれば都合のいい話だとは思いましたが

できるだけホントに困った時にしか頼るつもりはありませんでした。

自分たちの手元に戻ってきた私と孫までも昔のように支配(洗脳)されては

たまりません。

精神科に通っていたことも両親には話しませんでした。

私が離婚した理由の両親の解釈はこうです。

やっぱり私は普通の子とは違った感性の持ち主だから「世間」の

普通の人とは合わなかったんだ。と。

ある意味当たっているのかもしれません。

それなら両親や私と同類の「立派な」感性の持ち主の結婚相手を見つけてきてよ!

シングルマザーになったことから私はとにかく真面目に職種の好き嫌いにとらわれず

働こうと決めました。

もう二度と「俺の金で食わせてやってる」なんて男の人から言われるもんか。

あらゆる条件を考えると私のできるのはやはり事務でした。

その決意どおり2度目の結婚をして息子ができても産休をもらってその職場は続けました。

2度目の結婚相手は比較的すぐに見つかりました。

その人は最初の彼とは何もかも違ってみえました。

年齢も今度は私より5歳も年下で性格も明るく、たくさん色んな話ができました。

何よりも当時4歳だった娘が懐き、彼も可愛がってくれました。

みるみる娘が明るくなっていったのです。

私も元気になり精神科通いもやめました。

それこそ朝まで話てもつきないほど私達は会話しました。

理想の関係だと思いました。最初の結婚で傷ついたことも昔のつらい思い出も

払拭されるソウルメイト「仲間」です。今度こそ。

私は有頂天でした。

両親にももう侵されない。大丈夫!

浅はかなのでしょうか。見る目がないのでしょうか。

両親との確執にとりつかれて私はいつも失敗します。

彼と話がたくさんできたのは共通の問題があったからでした。

障害があるほど燃え上がるということです。

彼には奥さんがいました。外国人の。

彼の離婚には1年の時間がかかったのです。

弁護士、調停、慰謝料、外国人ゆえのビザ問題。彼の転職・独立問題。

彼と話し合う事柄はたくさんありました。

息子もその間に産まれました。

両親には妊娠してからの事後報告。

まさにドラマチックの連続な毎日でした。

30才も過ぎた娘の行動をもはや両親は規制できません。

結局私の父が彼の慰謝料の一部を立て替えて離婚が成立しました。

今にして思えば外国人パブで知り合った人と結婚してしまうようなひと。

離婚もせずに私のアパートに転がり込んで子供まで作ってしまうひと。

でも人当たりはよく、陽気で両親も彼を可愛がりました。

彼のご両親も年上で子持ちの私を何のためらいも無くむかえてくれました。

彼にはお兄さんがいて義理ながら初めて兄弟も出来ました。

今度はきちんと。と思い、頑張って結婚式も挙げました。

数少ない友達をかき集め(どうして私が呼ばれるんだろう?そんなに親しくないのに?

と、思ったであろう友人ばかりでしたが)無理矢理、四国から従兄弟も呼びました。

とにかく私は必死で理想を取り繕いました。

全てが終了して問題の片付いた私達は新生活をはじめます。

その頃から私は再びコントロール不能に陥りはじめました。

日常生活の私達にはそれまであんなに毎晩尽きることなく話をしていた話題がなくなったのです。

前の彼はサーフィンでしたが今度の彼は昔からの級友たちと草野球チームにはいっていました。

休日ごとに野球に行く行かないでもめました。

以前のサーフィンの件でこれもトラウマになっているようでした。

日常生活に埋没した彼は出会った頃の彼とは違いました。

これではまるで前の結婚と同じです。

私も幼い頃からの習性であれこれなんでもざっくばらんにおしゃべりできません。

したことがないからです。

数々の問題が片付いた彼は安心しきってもう私をちやほやしてくれません。

次第に前の結婚生活を彷彿させる事柄が次々と起こり始めました。

彼がパチンコをはじめました。

今度はキャッシングをしてです。借金はどんどん膨れ上がりました。

彼の内緒のキャッシングを発見した私は子供の学資保険を取り崩して

返済しました。

離婚をするまでの10年間、何度同じことがあったでしょう。

その都度彼はもう2度としないと誓うのです。

我慢できなくなり彼の両親と私の両親を交えて約束させたこともありました。

でもだめだったのです。

私は悩みました。悪いのは私?

彼の言い分はこうでした。

(日常生活で私は何もざっくばらんに、例えばその日あったことなど、

話をしてくれない。これでは自分も話にくい。

そのくせ口では「話しよう、話しよう」と言って休日の自分の趣味等を

束縛したり、くつろいで居眠りしているのを怒ったりするのはおかしい。

話したければ何でも言ってくればいいじゃないか。

要求ばかりでそれが通らないと不機嫌でそんな私に疲れる。)

確かにその通りかもしれません。でも私は子供の頃から自分のことを話すのに

慣れてなかった。明るく何でも今日あった出来事なんか無邪気にしゃべれなかった。

心の繋がりってどういうものでしょう?

それではどんな状態だったら私は安心して孤独から逃れられたのでしょう?

私はどんな事を求めていたのか?

わからないまま、しかし私は孤独でした。

次第に再び前回と似たような結婚生活が続きます。

休日、友達との草野球に出かける彼。私は子供と彼の帰りを待ちます。

小さい子供がいる家庭は忙しく、仕事もしていた私は家事と育児をやっとのことで

終わらせて、さあ、彼とゆっくり話でもしようと振り返ると

彼は居眠りをしています。

たたき起こして「話しよう。」眠そうに「何の話?」どこかで体験した情景。

・・・そう言われると、なんだか萎縮してしまって何も話せない私も以前と同じ。

淋しい気分の私は彼が仕事から帰宅しても明るく笑って「おかえりなさぁい。」

などと、言えません。彼にはそんな私が不満です。

私と結婚するとみんな不機嫌になり嘘をつき借金をしはじめる・・・。

結婚3〜4年目ころから私は再び精神科の薬を飲まなければ正常な日常生活が

できなくなりました。朝起きて仕事に行く元気が出ないのです。

無理を避けるためアルバイトに変え、通い始めてもすぐ行けなくなり辞める

という日々で転々と仕事先も変えざるを得ませんでした。

それでもさらにさらに自分なりに頑張っていました。

これ以上失敗はしたくないし、子供の、特に娘のためには頑張るしかありませんでした。

何度嘘をつかれてもその都度許し、自分も悪いのだと反省して

なんとか良いコミニュケーションが取れるように彼にはたらきかけました。

本音を言えば彼にも頑張って欲しかった。

嘘をついたりしてパチンコなどに逃げずに。私の心の闇を一緒に探って欲しかった。

うつ状態に陥った私への対処法を一生懸命考えて欲しかった。

でも現実には彼はただ困惑して逃げただけでした。

私の症状にさらに追い討ちをかけるように嘘をついたり隠し事をしたりして。

その度に私は失望して落ち込み、さらに疲れて行きました。

そんな私と付き合う彼もまた疲れていたのも事実でした。

でも、それでも!私の事を放置してほしくなかった!

もう悪循環です。

最後の1〜2年はそれまで続けていた仕事が全くできなくなり、仕事も解雇扱いでした。

薬を飲んでいる時は爽状態なのかいろいろ完璧に出来るのですが

ふとしたきっかけで落ち込んでしまい、薬をのむこともうとましく、

過去一番にひどく、家事一切、子供の世話、人付き合い

とうとう自分の身の回りの世話さえできなくなってしまいました。

それまでつきあっていた友人からの信頼を失い、外に出ることもこわい状態です。

子供もこのままでどんな影響がでるかおそろしい不安に追い込まれる。

ふつうに仕事をこなしてその上買い物、子供の食事、洗い物掃除洗濯・・・。

それが出来ない当時の家の状態はごみ屋敷で

私がいちから掃除をはじめるにはどこから手をつけたらいいかそれだけでメゲてしまいました。

台所に立って洗い物をするだけで立ってられなくまります。

洗濯機にあふれた汚れ物、かびだらけのおふろ・・

私が何もしないとこうもなるのか。どういうふうに考えたらできるようになるのでしょう。

彼の協力は殆ど期待できませんでした。

彼もまた自分もうつだ。と言って仕事に出掛ける以外は何もしませんでした。

あとは家庭の中を見たくない一心で帰りの遅い日々。キャッシング。

もうすでに彼がどこで何をしているか詮索する気力もありません。

全くコントロール不能でした。前の結婚のときの「ひきこもり」など

非じゃありません。

2度目の結婚で、「今度こそ」という期待が大きすぎたのでした。

40歳になっていたもう若くない私には反動がどっと押し寄せたのです。


[第6章] 疲れ果てた日々・子供達へ


2度目の離婚はそれはそれはつらいものでした。

不眠、失神、過食、活字中毒でひきこもり。

ODオーバードラッグで交通事故をひき起こし

気が付いたら病院で隔離されベットに縛り付けられていた

こともありました。

私の両親、彼の両親、お兄さん、みんな巻き込んで大騒ぎをしました。

私が精神科に受診していたことも両親の知るところとなりました。

ところが、両親はなんと私の「うつ病」を認めてくれませんでした。

気のせいだ。と、取り合ってくれません。

「精神科の薬なんか飲んでるからそんなになるんだ。」と言うのです。

ひきこもってぼろぼろの私を見て

「ひどいよ。しっかりしなさい。」と叱咤するだけ。

どんなに家の中がひどい状態に散らかっていても掃除ひとつ

手伝いに来てはくれない母でした。

さすがに中学生になっていた娘がヘルプの連絡をして

1〜2回は来てくれましたが、父には止められていたのか

ひたすら時間を気にしてそそくさと帰って行きます。

「あんな心の弱い娘なんてほっとけ。」なのでしょうか?

彼はそんな私にはっきりと「もう愛してない。」と言いました。

どんなに思いとどまってもらおうとすがっても、何をしても何を言っても無理でした。

私も彼も最後はもうやけくそになって傷つけあい、別れるしかありませんでした。

彼が出て行ってから私は必死で準備をしなければなりません。

引越し、各種手続き、ODしながら執りつかれたようにやりました。

子供達の学校とか環境をこれ以上は変えないように

それまで住んでいた部屋の近くに安いアパートを借りて

当分はとても働けそうにないし、彼からの援助も見込めないので(もちろん親からも)

生活保護をうけるしかありません。精神的には屈辱ですが

子供のためにはしかたありません。

とても引越し準備などの労働はできなかったので高額でしたが

「引越しらくらくパック」ですべて業者に頼みました。

それでもその最中には失神状態で倒れこんでいたありさまです。

まさに命からがらそれだけのことをやり終えたあと、エピローグにもあるような

寝たきり状態になってしまいました。

そんな中、もちろん子供達も平気だったわけではありません。

息子の小学校からは何度も担任の先生から「様子がおかしい。」だの

「宿題をぜんぜんしてこない。」だの連絡がありました。

でも、私は情けないことに何の対処もできません。

再三、連絡をくれた2年生の時の担任の先生とはついに顔をあわせじまいでした。

進級して3年生で担任になった先生はとうとう心配して自宅まで個別の家庭訪問

してくれるしまつです。

息子本人はコトの重大さがどこまでわかっているのか私の前ではひょうひょうと

しています。まだ、こんな母親でも「ママ好き」と言ってくれていることが救いです。

娘に関してはもう危機感のひとことです。

新しいパパであった彼が大好きだった娘は離婚当初ひどく泣きました。

ママが何も家のことをしないからだとか誰が吹き込んだのか浮気したからだとかそんなことを

なじられた事もあります。

ママはうつ病という病気で今こういう状態なんだよ。なんて説明してくれる人はいません。

もちろん私自身も自分の状態を説明できるような精神的気力もありませんでした。

当時娘が小学生のころからずっと続けていた習い事がありました。

スポーツ系のそれは母親の関わりが必至でそれがないと成り立たないほどです。

私にはとてもそれが精神的負担になっていました。

私が関われないと、娘はそれを辞めなければなりません。

彼女にとってそれは何よりもつらいものでした。

このままでは一事が万事ママのせいで娘の生活はめちゃくちゃです。

私は恥をしのんでその習い事の先生とママ友達に娘を託しました。

周囲に今の自分の状態をカミングアウトして、してもらえる協力はすべて

頼みました。こうしてかろうじて娘はその習い事は続けられることになりました。

何もできない私。どんどん成長する子供達。

このままでいいはずありません。

両親はもう私に触れません。

今となっては私のことをどう思っているのかわかりません。

きっとむこうも、もうどう扱っていいのかわからないのでしょう。

さすがに生きているかどうかのみ、時々様子は見に来ます。孫のことも心配なのでしょう。

でももう何の意見もしません。本当にドア越しに顔を見せるだけで数分で

帰ります。

でも私にとってはそのほうが幸いです。

本当に両親には申し訳ないけど私にとって彼らが一番のストレスなのです。

もうすぐ娘は私があの問題を起こしたのと同じ年齢になります。

彼女は心の中で何を思っているのでしょう?

昔の私のようにひたすら親を憎んでる?

でもこれだけは言えます。

決して孤独ではないはず。言いたいことを言えなかった昔の私のような

精神的締め付けは感じてないはずだと。

二度も離婚を経験させてつらい思いをさせてしまった分、できるだけ

やりたい事はやらせてあげました。環境も変えないように転校もさせませんでした。

お陰で彼女には小さい頃からの友達がたくさんいます。

小さい頃から出来る限り昔私が親にして欲しかったことはしてあげました。

友達を呼んで誕生会をひらいたり、年齢によって興味をもったキャラクターやテレビ、

アイドル、歌、服装・・みんな一緒に楽しんだつもりです。

もちろん弟の息子にも精神的余裕が許す限りやってあげるつもりではいます。

娘は今、昔私がやりたかったことを実現しています。

テレビを見て「このアイドル格好いい。」

「今はみんなスカート短いよ」って制服のスカートはミニ。

「こんなのダサいよ。」「うっざー。」「やばくね?」

私が親に対して外でのそれとは使い分けていた言葉遣いを娘は普通にしゃべります。

「友達の○○がー。」「こんど○○とあそびいくんだー。」

おそらく全てではないにしろ、気軽に友達のことなども話してくれます。

流行りの歌も一緒に歌います。

どれも私は昔、両親に対して無邪気に振舞えなかったことを娘はなんの躊躇もなく

接してくれます。

私はずっと、もし、自分に子供ができたら両親が私に接していたようには

絶対しないぞ。と誓っていたことを実行しているつもりです。

私には娘がうらやましいです。

彼女の人生はまさにこれから。

片親にはなってしまったものの、今の時代、そんな子はたくさんいます。

決して特別ではないでしょう。

現に娘や息子の友達にもそんな子はたくさんいます。

私が味わっていたほどの疎外感は家でも外でもそんなに感じてないはずです。

私は一生懸命「普通に」子供を育ててきたつもりで、これからも

そうするつもりだから。

簡単なこと。私の親が反面教師です。

してもらいたかったこと、言ってもらいたかったことを実行すれば

いいだけですから。

ただ「うつ」になってしまったことだけが子供達に申し訳ないです。

離婚は悲しかったけど後悔はしていません。

仮面夫婦や喧嘩ばかりの両親を見るより子供のためだったと思っています。

もし娘の父親である人と結婚生活を続けていたとしたらきっと

娘は一人っ子で両親は仮面夫婦です。

3歳のとき情緒不安定になっていた彼女がそのまま大きくなっていたら

どうだったでしょう。

その面では2番目の彼に感謝しています。娘を明るい子にしてくれました。

ただ、彼も悲しいかなこれ以上は娘のためには良くなかったかもしれません。

離婚後、歯止めがきかなくなったのか彼はさらにキャッシングがかさみ、

自己破産したのです。

私の責任(私の病気に対する苦悩)は抜きにしてもあまりに意志薄弱すぎます。

結婚当初、私の父に借金した彼の前の奥さんに対する慰謝料も

一方的に御破算にし、謝罪もないそうです。

離婚時、彼も納得して取り決めたはずの養育費も最初の1〜2ヶ月分払ってくれた

のみでその後は一年近く何も言ってきません。

もちろん、うつでひきこもりの今の私に他人を批判するようなえらそうなことは

言えませんが、子供達にとってはそれは別問題だと思うのです。

私との関係はもういいとしても、子供達の大好きなパパである彼が

そんな無責任な人だとは到底、子供には言えません。

娘に個人的にメールをしてきて「ディズニーランドへ連れてってやる」とか

言ってるようですが、その前にきちんとけじめをつけてもらいたいです。

息子にも電話で「釣りに連れてく」と約束しておいてそのまま一年近くたちます。

その間、息子は「春休みにパパが連れてってくれる」・・・「きっとゴールデンウィークだ」

「夏休みだから今度こそ」・・・と心待ちに話していましたが

最近ではとうとう何も言わなくなってしまいました。

ある日娘が「私、知ってるんだ。

ママは高校生のとき不良とつきあって赤ちゃんができたんでしょう?」

と言いました。

私の母に聞いたんだと言います。

その時、私は母を心底憎いと思いました。絶対、許せない。

その頃の私と同じ年頃になった娘に対してなんて心ない発言でしょう。

当時の私の心境なんか何も知らなかったくせにそんな事実だけを

軽々しく言ってほしくありません。

もし話すとしても、いつか私の口からきちんと打ち明けるつもりでした。

どこまで私をわかってくれないの?ひどい・・・。

子供の頃から私を支配し、私の人格を尊重してくれなかった父。

そんな父の陰に隠れて味方すらしてくれなかった母。

今はもう顔を見るのも苦痛でストレスがたまります。

確かに現代、社会問題にもなっているようないわゆる「幼児虐待」は

ありませんでした。

でも私にはこれは「精神的虐待」だと思っています。

私が未だにこんな風に思っていることを両親が知ったらどう思うでしょう?

確かに彼らにも言い分はあると思います。

でもこれが私の真実なのです。

おぼろげながら私の病気や両親との確執が理解出来てきた娘は

おじいちゃん、おばあちゃんのことを少し別の目で見始めたように

感じます。昔の私がそうだったようにおじいちゃん、おばあちゃんには

話題を選んでしゃべります。服装なども

「こんなのはじーじはキライだよね。」などと言います。

もちろんすきなテレビ番組などもおじいちゃん、おばあちゃんの前では

見られないと自覚しだしました。

「精神的虐待」といえば私も別の意味では自分の子供達に強いてるのかも

しれません。

子供達の父親をうばってしまったし、祖父母、親類縁者も

疎遠にしてしまいました。

今は「ひきこもり」で満足には学校行事等にも参加できません。

生活保護家庭で肩身の狭い思いもしているでしょう。

だけどあの頃の両親と違って私はそれを自覚しています。

そして少しでも負担をかけないように投薬治療しながら必死で

子供達と接してるつもりです。

いつにか私のこんな心を子供達に解ってもらいたいです。

きっと解って許してくれる優しい子になってくれると信じたいです。


エピローグ・これからの私


現代、うつ病というのはとてもメジャーになっていて

殆どの現代人がある程度の予備軍だといいます。

関連した本などもたくさんあります。

テレビニュースでは幼児虐待が毎日のように報道され、

私なんかよりもきっともっと過酷な思いを抱えた人も

たくさんいることでしょう。

こんな私の体験など見ようによってはただの自意識過剰、ファザーコンプレックス、

考えすぎ、ただの甘ったれと批判したくなる人もいるかもしれません。

反対の見方をすれば私は親に可愛がられて守られて育った一人娘。

五体満足で幸せな結婚もし、健康な子供も授かっています。

障害を持ってる人もいれば不妊で苦しんでる人もいます。

それこそ生きてるだけで幸せなはず。

でも頭ではわかっていてもその気持ちをコントロールすることが

出来なくなるのがこの病気なのではないでしょうか。

頭でわかっていればいるほど、わが身のこんな状態に罪悪感を持ち

苦しむのです。

では、現実にあるこの私の抱える思いはどうすればいいのでしょう。

私は自分で自分のことを許してあげたい。

もちろん私の考えだけが正しいなんていうつもりはありません。

でもいいじゃないか。

思い切って人のせいにしても。

幼い頃から精神的虐待を強いた親のせい。

結婚をして一緒に生きて行こうと、(病める時も健やかなる時も)

約束したのに逃げ出した男たちのせい。

間違ってるのかもしれません。でももうそう考えなければ生きてゆけません。

信仰している宗教はありませんが「神様、私を許して。」

と言いたいです。

この先の人生、何があるのかわかりませんが

私はもう、両親に分かってもらおうなどと頑張るのはやめます。

同時に他人にも私を理解してもらえることは無理なんだと

悟りました。

「仲間」探しもおしまいにします。

私が自分の今までの体験から考え、信じたように子供を育てます。

まず、現在の最悪の状況から体調を少しでも戻して

普通の日常生活をおくる人間にだけは戻りたい。

おそらく一生、薬は必要かもしれませんが。

子供には好きなように生きていってほしい。ただ私が犯した失敗だけは

繰り返してもらえなければそれだけで善しです。

そして最後に死ぬ前に「これでよかったんだ」と思えれば幸いです。



我が人生

どうしてこんなに親が疎ましいんだろう。

もうとっくに成人はおろか既に中年に差し掛かっている年齢だというのに・・。

まだ親の目が気になってしかたない。

精神は10代の頃から進歩していない。

気持ちがとても縛られている。親離れ出来ずにいるのだ。

そのせいでとうとう精神にも支障をきたした。

おかげで今は親の顔を見るのでさえストレスがたまる。

親孝行なんてもってのほか。

世間の人はどうしてお母さん、お父さんが好きなのだろう。

親不孝まっしぐらの人生。心の闇の中心はいつもそこに立ち返る。

思いやりのない自分を忌み嫌い、自己嫌悪に陥る。

そんな何かが欠落した人間は他人と深く関わることができない。

人の気持ちがわからない。

優しくなれない。

「そんなことはないよ」と誰か肯定してくれる人はいないのだろうか。

否である。

結婚相手にも救いを求めた結果、去られてしまった。

あろうことか2度までも。

そんな自分に我が子はついてきてくれるのだろうか。

「虐待の連鎖」という言葉が胸をよぎる。

こんな母親を何時の日か自分のように憎む時がくるのだろうか。

恐ろしくてしかたない。

こんな自分を慕ってくれるのは、もはや我が子のみだ。

それもまだ幼いゆえ。

個々の自分を持った子供達に自分はどう移るのだろう。

今の自分と同年代になった我が子と将来どんな親子関係が待っているのか

不安でしかたない。

逆に自分は未だに親を求めてやまずにいるのか。

その裏返しでこんな事になってしまったのかわからない。

すぐ近くに健在している、しかしもう決して若くはない親に対して

ろくな会話はおろか顔を見ることも出来ずにいるのだ。

親を思うと申し訳ない気持ちと憎しみとで正常でいられなくなる。

彼らの人生にとって自分は完全に脇役である。

それはあたりまえのことなのだが全てにおいての疎外感が

いつまでもつきまとう。

どうして自分はこんなに淋しいのか。

自分自身の人生をしっかり歩む事が出来ないのか。

何故こうもこんな思いからいつまでたっても抜け出せないのだろう。

思えば自我が確立される年代からずっと自分は親に否定され続けた。

「本当の自分」を認めてもらえずに育ったように感じる。

それからは何をするにも「本当はコレは親の意向とは違うんだ」

という気持ちが前提となってつきまとってきた。

それは現在にまで至る。

幼少期から自分というものを認められなかった子供は生涯

自分に自信が持てずに育つ。

しかしながらどうしても人間として生きている以上「自我」というもの

には目覚めてしまうものだ。

そしてそれを罪悪感として認識してしまい、苦しむ結果となる。

本当に子育てとは難しいものである。

いくら親の意向があったとしても、この先人生を歩んでゆくのは他でもない

自分自身なのだ。

親が責任をとることはできない。

たとえ殺人を犯したとしてもだ。結局は一番当人にのしかかる。

三つ子の魂百までというが、まさに幼少期の自我の形成は大切なもの

だと実感させられる。

自分の両親は子育てに完全に失敗している。

そんな親は子供など持ってはいけなかったのだ。

ゆえに自分は生まれてくるべきではなかった。

ほんの米粒ほどの微々たるものではあるかもしれないが、

この世の中に「哀しみ」がまたひとつ増えてしまった。

そしてそれはひょっとすると連鎖するかもしれないのである。

まったくもって愚かである。

自分に関わった全ての人物にもそれを味あわせてしまった。

何の役にもたたないこんな愚かな自分に関わってしまったせいで

不幸な時間を過ごさせてしまった人々に詫びたい。

自分に今出来るのはただただ我が子にこの連鎖をさせないようにと

努力すること。

図らずも産み落としてしまった命に対して責任を持てるのはもはや

自分ひとりしかいない。

そのためには死ぬ事はできない。

というかその勇気がないのが本音である情けない自分がいる。

本当は自分の存在を抹殺して、他の第三者に我が子を託した方が

あるいは子供達にとって幸せかもしれないとは思うこともある。

ただ、今死んで結果、両親が面倒をみることになってしまうのだけは

避けたいのである。

それこそ「連鎖」がはじまってしまう。

こんな苦しみは自分ひとりで充分だ。

おかしな話だが自分は自分の親から我が子を守るために生きているのだ。

もちろん、こんな思想を持っている自分は異常であることは

認識している。

もっと別の面から見た違う考え方を持てれば良いということも知っている。

現にもっと自分よりも過酷な状況下で明るく前向きに暮らしている人が

たくさんいることもわかる。

でも、自分にはどうしても出来ないのだから仕方ない。

これまでそう思って自分なりに散々努力してきても結果がこうなのだから

仕方ないのだ。

人間には向き、不向きがある。

いくら勉強しても成績が上がらない人もいれば逆上がりが出来ない人もいる。

同性にしか興味が持てない人も猟奇的殺人を犯してしまう人も・・様々だ。

自分は誰に理解されなくてもこのままで自分を信じてこれからは生きたい。

他人にこれ以上迷惑さえかけなければ許されるのではないだろうか。

人は独りでは生きてゆけないという。

自分ひとりで生きてく、というようなおごった気負いはもちろんない。

これからも他人の力を知らず知らずには借りて生きてゆくのであろう。

でも、誰も心の中までは侵せない。

自分はもう誰の意見もきかない。

明るく前向きに親孝行して・・・なんて人並みのことは出来ない。

出来ないからって悔やまない。

自分なりに生きていく。

結果、それで今よりもっと辛い思いをすることがあったとしても

もうそれは正真正銘自分の責任。後悔はしないのだ。

願わくばそんな事態に陥らないことを望むものではあるが。

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― 新着の感想 ―
[一言] 掲載当時より随分と時が経過していますが、いかがおすごしでしょうか。 この小説を読ませていただいて、理解できる部分が多く、その悲しみと虚無感が手に取るように伝わりました。 親と子というのは、血…
[一言] 私もうつで、機能不全の家庭に育ちましたので、興味深く読みました。痛いほどの孤独感、お子さんへの愛情が伝わってきました。ご本にされたら、きっと多くの方の励ましになると思います。ご自愛ください。…
2009/06/24 04:56 菅野メリー
[一言] 私も親に対して似た感情を抱いてるところがあるので共感するとこもありましたし、今の環境で重なるところがあり自分自身このままではいけないなと励まされました。 ありがとうございます。
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