12月
12月初旬
朝晩はすっかりと冷え込み、昼間も窓を開け放つ時間が少なくなってきた。
私は泰隆さんのことを好きなのだとはっきり自覚するようになった。
煮え切らない気持ちでいるのはいい加減疲れてしまったのだ。認めてしまえば、少し楽になった。
彼との、この関係を無くしたくないのはなぜか、という疑問も、彼のことを考えると、鳩尾のあたりがぎゅっと締め付けられるようになる現象も、彼のことをもっと知りたいと思う心も。ねじまがった理由を考えなくても、ひとえに彼のことを好きなのだという答えに落ち着いて、納得できてしまうのだ。ああ、そうか、好きなんだ。と、私の気持ちを再確認するだけにすぎない。
これまでのように、一つ一つの気持ちの揺らぎに対して言い訳のような理由を考える時間も、手間も、気力も使う必要がない。うん、好きだからしょうがないじゃない。の一言で済ませてしまえるのだ。
好きだと自覚してしまった今、何もせずにはいられない。
いつ泰隆さんがお茶会をすることに飽きてしまうかわからない。
もしも、彼に大事な人が出来てしまったら、私はその話を聞き続けられる? 彼が女性とお付き合いを始めてしまったら? いつできるかわからない女性の影におびえ続けることになるのだと思う。
でも伝えてしまったら、関係が終わってしまうかもしれない。
冗談っぽく好きだと伝えてみて、反応を見てみる…?
私は彼への好意を伝えてその後、どうしたいのだろう。
もっと彼のことを知りたい。うん。それはわかる。
もっと気楽にいられるようになりたい。うん。私が、話す内容に制限をかけているせいで、私も彼も気を使っているところがある。
いつ終わってしまうかわからない、この奇妙な関係を、はっきりと名前がある強固なものにしたい。そうだ。私は彼の傍に、手の届く位置に居たい。
この関係を次に進めるにはどうすればいいのだろう。
『俺のことを知ってもいいと思ったら、いつでも俺の部屋においで。』
彼の言葉がリフレインする。
ああ、そうか。次に進むのは簡単なことだったんだ。
12月中旬
いつ泰隆さんの家に侵入するか。ずっと機会を伺っていた。彼が家にいるタイミングで、邪魔にならなそうな時間を考えていた。決行は金曜の夜にしようと決めて、週末の予定をそれとなく聞いてみたりした。
12月第1週は泰隆さんの会社の忘年会、第3週は私の会社の忘年会があるので、第2週の金曜日に踏み込んでやろうと決心した。
私と彼の侵入許可の合図は、窓の鍵が開いている状態で、カーテンが半分以上開いているとき。大体彼の家のロールカーテンは半分開いている状態だ。鍵がかかっていなければ、いつでもおいで、という言葉通りにさせてもらおうと思っていた。
そして今日が、決心していた第2週金曜日。
カーテンの隙間から泰隆さんの部屋を伺う。なんか自分でやっててストーカーっぽい。
彼の部屋の窓はロールカーテンが6割くらい開いていた。そして窓も、数センチだけ開いていた。よし、決行しよう。
私の部屋の窓淵に中腰で立つ。靴下からひんやりとした冷たさが伝わる。どきどきいっているのがわかるくらい、心臓が大きな音を立てているのがわかる。
下を見る。うう、高いなあ。窓の淵を持つ手に力が入る。ちょっと汗ばんでるかも。
泰隆さんはいつも何を考えてこの高さでの移動をしていたのか、ちょっと気になる。怖くないのかな。
片手を伸ばして、泰隆さんの部屋の窓を侵入できる大きさまでそろそろと開ける。
泰隆さんの部屋は静かだった。居なかったらどうしよう、と思うものの、ここまでやってやっぱやめ。というのは私の中では許せない。えぇい、女は度胸!
ごくり、と喉がなったのを感じながら、意を決して、えい、とジャンプした。
ジ ャ ン プ し す ぎ た。
私の足は、泰隆さんの部屋の窓淵を捉えることなく…
「あいたっ!!」
お尻が淵に衝突し、おでこをロールカーテンにぶつけ、更に背中を窓の下の壁に打った。その反動で更に頭も打った。痛い。しゃがみこんでいるような状態になったものの、最後は足で着地できたので、お尻を二度打つ事態は免れた。
「紗希ちゃん!?」
泰隆さんの焦ったような声を聞き、顔を上げると、お風呂あがりらしい泰隆さんが目に入った。タオルを首にかけてこっちにくる。
残念ながら、服は着ていた。けれど…濡れた髪と上気した肌がめちゃくちゃ色っぽいです。は、鼻血出そう。思わず鼻下を両手で覆い、目だけで泰隆さんを伺った。
泰隆さんは一瞬視線を彷徨わせ、まずは私の部屋の窓を閉め、泰隆さんの部屋の窓も閉めた。外から入る空気を遮断するだけで、部屋が少し暖かく感じる。
私の前にしゃがみこんで目線の高さを合わせると、小首をかしげながら、
「大丈夫?」
と言った。
彼の目にも声にも、部屋に突然入ってきたことに対する拒絶の色は全く無く、私を心配しているだけのようで…無意識のうちに力が入っていた体がリラックスしていくのを感じる。ぶつけた部分の痛みは、単純に、時間が経つごとに和らいでいる。怪我はしていないだろう。
「大丈夫です。痛かったですけど。そんなことよりも泰隆さん、髪乾かさないと風邪ひいちゃいまあぁ?!」
話している途中でぐっと引き寄せられ、気が付いたら泰隆さんの腕の中にいた。私は正座を崩したような体勢で泰隆さんの足の間に入り込み、彼の両腕は向き合う私の背中に回っている。お風呂上りのせいなのか、伝わる体温は温かく、薄いルームウエア越しに感じる彼の体の感覚は、想像(えぇ、断じて妄想ではありませんよ)していた通り、しなやかな筋肉を感じさせるものだった。シャンプーの香りがして、なんだか心地いい…って、なんでこんなことになってるの!? ていうかなんで私リラックスできちゃうの! この状況で!!
泰隆さんの顔を確認しようとして、自分の顔を上げようと思ったら、頭をぐっとおさえられて、彼の胸に顔を押し付けるような格好になった。あれ、泰隆さんの心臓の鼓動がとても速い気がする。
「これくらいじゃ風邪ひかないよ。紗希ちゃんが、俺の予定を聞かずにこの部屋に来ると思わなかった。しかも窓から。いつでもおいでとは言ったけど、想定してたのは玄関から、だよ。心臓に悪いから、紗希ちゃんは窓から出入りするの禁止。落ちなくて本当に良かった。」
そう言って、ほうっと息を吐くと、先ほど私の頭の動きを阻止した手の力を抜いた。そのまま彼の指で髪を梳かれる。きもちいい。でも、なんでかどきどきしない。私の体はリラックスモードに入っているようだ。なぜこの状況でリラックスできるんだ? 私よ。
彼の心音も、徐々に落ち着きを取り戻していた。
「ごめんなさい。私、どうしても確認したいことがあったんです。」
私の口からすらりと出た言葉。それは、私が泰隆さんの家に侵入しようと思ったきっかけ。でも、泰隆さんには言わないでおこうと思っていたこと。
「…なに?」
ゆっくりと私の髪を梳いていた手が止まる。
私は今度こそ顔を上げ、泰隆さんと目を合わせた。
「合図を決めてから、泰隆さんの部屋の窓は電気がついてるときは大体、開いてたと思うんです。いつでも部屋に来ていいって言葉でも、行動でも言ってくれてくれたことはわかってます。」
「…うん?」
泰隆さんは相槌だけ打って先を促す。
「でもそれって、私の部屋に来ておきながら自分の部屋に来てほしくないなんて言えないからかと思ってました。だから、私が連絡しないで急にここに来れば、泰隆さんの本音がわかると思って。」
頭に添えられていた右手が、するりと降りてきて頬に添えられる。
「それで? どうだった?」
彼の声の質が変わった。
低く耳を打つ囁きの中に愉悦の色を含んだそれは、なんだかえろい。急に顔が熱くなる。
声はえろいけど、私の反応を見る彼は楽しそうだ。表情は優しくて、先程と同じはずなのに、彼と目を合わせていることが出来ず、思わず目を閉じた。も、もしかして、泰隆さんの気分次第で私が泰隆さんをどう感じるか変えられるの!? なんてスキルっ! まさか、天然のふりをしてほんとは…
ふ、と耳元に吐息を感じたと思えば、
「紗希」
ちょっ、その声で、そんな耳元で、呼び捨て。
ぞくり、と体の中心を甘い痺れが走る。ちょっと待て私、おかしいだろ私。声フェチだった覚えはないぞ。
髪の上に柔らかい感触とちゅっとかわいらしいリップ音。
「や、すたかっさん?」
薄らと開いた目に映ったのは、いつものふわふわした雰囲気の泰隆さんじゃなく、少し真剣な表情の、男の顔をした泰隆さん。ときめきの要素を感じます。
「ずっと、紗希ちゃんが自分でこの部屋に来てくれるのを待ってた。話していても、俺のプライベートな話を意図的に避けているところもあるし、距離を感じてた。この部屋に来てくれたってことは、俺のこと少しでも知りたいと思ったって解釈してもいいんだよね?」
私が何も言わなくても、私が彼を訪ねた理由を察してくれている。
でも私は何も言ってない。こんなんじゃだめだ。泰隆さんに甘えっぱなしなんて。
「泰隆さん、私、泰隆さんがいつか『お茶のみ友達』に飽きて、この関係が無くなっちゃうんじゃないかって怖かった。私が余計な詮索をして泰隆さんに嫌われるのが怖いんです。泰隆さんはいつでも聞いていいよって言ってくれてたのに…」
いたたまれない気持ちになって、目を伏せると、あやすように頭を撫でられる。
撫でながら、泰隆さんはゆっくりと話し始める。
「身内のことを話す紗希ちゃんは真っ直ぐで、暖かくて、紗希ちゃんが大事にしている身内の一人になりたいと今も思ってる。あわよくば、その中でも一番になれたら、とも思ってる。」
はっとしておもわず泰隆さんを見上げる。彼はふわり、と春の日差しのように柔らかく微笑んで、私の頬に、ちゅと唇を落として流し目でちらりと私と視線を合わせる。
彼の一挙一堂に、いちいち私の心臓は高鳴る。天然なのか、確信してやっているのか。どっちにしても性質が悪い。
「紗希」
耳元でひどく甘く掠れた声で呼ばれ、忘れていた甘い痺れと熱が蘇る。
「好きだよ。俺のことをもっと好きになって、紗希の全部を俺に頂戴?」
あなたにそんなこと言われて、落ちない人間がいますか。ってゆーか、もうとっくに私自身が戸惑うほど、泰隆さんのことを思ってる。だけど、それはまだ、黙っていようかな。泰隆さんの体にそっと手をまわし、ぎゅっと抱きしめると、彼は嬉しそうに微笑んだ。