3 婚礼の儀へ
真澄は「何もしなくていい」と言ったが、実際の問題で何もしないわけにはいかなかった。最低限の常識とマナーを身につけなければ、心無い人に「品格なし」と指差されてしまう。そうなって傷つくのは巴愛本人であるから、少しずつ身につけて行こう――それが、鳳祠真澄と九条巴愛の婚約に際し、宰相の矢須桐吾が出した条件であった。
そんなわけで巴愛は「貴族らしい立ち振る舞い」を学ぶことになった。貴族の系譜などは時間が空いたときに真澄や知尋などが教えてくれた。食事の席でのマナーと適切な言葉遣い、それらを指導してくれたのは昴流の三人の妹のうちのひとりで、小瀧葵生だった。彼女は巴愛と同年の十九歳、昴流の妹の中では最も淑女然とした少女だ。確かに信じられないくらいおしとやかなお嬢様だったが、それ以上に驚いたのは昴流が葵生を巴愛の傍に仕えさせると決めたことだ。咲良以外の兄弟とあまり仲が良くなかったはずの昴流が、妹を信頼しているということだ。
葵生は心優しい少女で、巴愛ともすぐ親しくなれた。昴流とは異母兄弟だが、それでも面影がどこか似ている。兄に似て聡明だし、気配りも適切。ただし昴流以上に堅苦しいのが難点で、何度指摘しても巴愛のことを「巴愛さま」と呼んでくる。未来の皇妃さまを呼び捨てになどできません、と頑なに拒否するのだ。まあ元々昴流のことも「昴流兄さま」と呼んでいるので、これは素なのだろう。もう巴愛はそのことに関して諦めることにしている。
勿論、昴流に巴愛の教育係として選ばれただけあって、テーブルマナーや言葉遣いはきっちりしている。特にテーブルマナーでは四苦八苦だ。そもそも洋食のフルコースなんて食べたことがないのに、さらに食べ方まで気をつけなければいけないのだ。「左端から食べてください」とか「お肉は最初に全部カットしては駄目です」とか「お皿を持っては駄目です」とか「姿勢を正しましょう」とか。正直言って料理を楽しむどころではない。真澄と実習も兼ねて夕食を共にした際、旅の間は普通に食事をしていた真澄が、まさか完璧にそれを身につけているとは驚いた。「俺だって本気を出せばこのくらい」だそうだ。なんでも食事のマナーは真っ先に矢須に叩きこまれたとか。巴愛もそのうち身について、自然とマナーを守れるようになるんだろうか、と未来の自分に思いを馳せる。
言葉遣いでも、「です」「ます」をつける丁寧語や、相手に敬意を表す尊敬語、自分がへりくだる謙譲語など、その意味は知っていても実際に使うとなるとまた難しい。誰に対して丁寧語なのか、尊敬語なのか。そもそもその境界線はどこなのか。皇妃ともなれば自分がへりくだることは少ないが、公式の場では皇に対しては謙譲語を使うべきなのだろう。貴族たちの上下関係をしっかり把握していないと、これも恥をかく。
そんな風に苦労していたが、真澄との婚約が正式に国内外に知らされたとき、玖暁のどの都市も大喜びをしたのだとか。知尋と昴流と矢須の根回しのおかげが、抗議する貴族もいなかった。巴愛の存在も公にされ、彼女は皇城のあちこちを出歩く許可がもらえた。と言っても大体が護衛の昴流か、巴愛付き侍女の葵生が一緒である。変わったのは、すれ違う騎士や諸侯が巴愛に挨拶をしてくるようになったことだ。巴愛もなんとか挨拶を返し、その場をしのぐと決まってほっとして息をつくのだった。
その日、玖暁の皇城ではパーティが開かれることになっていた。名目上は玖暁の奪還に際して大きな功績を上げた諸侯たちを讃えるものだが、実際は真澄と巴愛の婚約発表のようなものだ。つまり、巴愛の社交界デビュー。……そう聞くだけで巴愛からは血の気が失せる。
「あまり緊張なさらずに……私も傍に控えておりますし、会場内では昴流兄さまも警護に当たっています。何より兄皇陛下や弟皇陛下がお話を進めてくださいますから」
葵生が巴愛の髪の毛を櫛で梳かしながら、緊張でがちがちになっている巴愛をなだめた。今日の彼女は、真澄の母が使っていたというあの薄紫の着物をまとい、いつになくお洒落をしている。
「う、うん。でもあたし、人前に出るの、本当に苦手で……」
巴愛がぎこちなく答えると、葵生が微笑む。
「自信をお持ちになってくださいませ。姿勢正しく、顔は上げて、笑顔を忘れずに。これを忘れなければ大丈夫です」
「は、はーい……」
巴愛は曖昧に返事をした。
そしていよいよ巴愛は真澄と合流し、一緒に会場に入った。大ホールでワイングラス片手に談笑しているのは、どれも玖暁屈指の大貴族たちだ。できれば話しかけないでほしい、ボロが出そうだ。
「緊張しているのか?」
真澄がこっそり聞いてくる。巴愛が小さくうなずくと、真澄は笑みを浮かべた。
「大丈夫だ、俺に任せておけ……そんなことより、綺麗だよ、巴愛」
さりげないそれは、一言であっても巴愛にとっては褒め殺しである。
真澄と巴愛が会場に入ってきたのを見た貴族たちは、そろってふたりに注目した。貴族たちは、巴愛の姿を見るのが初めての者も多いはずだ。皇の妻となる女性がどんなものか、興味津々の視線が巴愛には痛い。だが内心はどうであれ、貴族たちは大きな拍手でふたりを迎えた。壁際には警備の騎士が控えている。今日の警備は昴流を含む御堂隊である。昴流が部隊長の肩書をもらうのは、もう少し先のことだ。それでもこれは決定に近い内定だとかで、瑛士は騎士の選定を急いでいるらしい。
パーティはつつがなく進行した。真澄の挨拶から始まり、諸侯への労いの言葉、そして巴愛との婚約の発表だ。それが終わると、真澄と巴愛は諸侯たちの輪に入って色々と話をすることになった。真澄は慣れているからいいが、どの諸侯も必ず巴愛に声をかけてくる。それは当然のことだ、諸侯にとっては得体の知れない娘であることに変わりはないのだから。どうにか答えていると、横から真澄がさりげなくフォローをしてくれた。とても有難かったが、フォローされてばかりでは駄目なので極力自分の言葉で答えた。一息ついたところで「上出来だ」と真澄に褒められたのが、嬉しかったり。
やがて気の抜けなかったパーティは終わりを迎え、侍女たちが片付けに取り掛かり始めた。巴愛は一息つくためにテラスに出た。冷たい夜風はパーティの熱気で火照った身体に心地よく、眼下に広がる皇都の夜景が非常に美しい。手すりにだらりと腕を乗せ、さっきまでの淑女の姿はどこにもない。
「巴愛」
声がしたので振り返ると、真澄がテラスに出てきていた。窓際には葵生が佇んでいる。良い距離感だ。
「お疲れ様。疲れたろう……大丈夫か?」
真澄が心配そうな顔で尋ねたのは、あまりに巴愛がぐったりしているからだろう。巴愛は微笑んだ。
「あー……大丈夫です。ちょっと、酔い覚ましに……」
酒の飲み方はそれなりに覚えた巴愛だったが、それと酒が弱いのとは別である。貴族の話に作り笑いを浮かべて相槌を打ちながら、少しずつワインを傾ける。飲んだ量は大したものではないのだが、やはり酒は駄目だ。
真澄は「そうか」と頷き、巴愛の隣に肩を並べた。真澄の高所恐怖症は相当だが、「真下を見なければ」平気なのだそうだ。だからこうして景色を眺めるのは問題がなく、しかも夜なので尚更気にならないのだ。
「ああいう祝いの席は、俺も苦手だ。騎士が開く宴会は大好きなんだが……適度に羽目を外して騒いでも、問題にはならないからな」
「真澄さまも、酔って騒いだりするんですか?」
「結構するぞ。飲んで気が大きくなるのは、酒の成分上仕方がない。だから今日は殆ど飲めなくて物足りないな」
結構飲んでいたような気がするけどなあ、とは巴愛は口に出さなかった。真澄が腕を組んで不快そうに言う。
「知尋は『今日の主役は真澄と巴愛ですから』とか言って、殆ど貴族どもの相手をしないで一人で飲んでいたし……ずるい奴だよ」
その愚痴を聞いて巴愛は微笑む。愚痴なんて、真澄の口から殆ど聞いたことがない。聞くようになったのは最近――婚約をしてからだ。
「――ああ、そうそう。急な話なんだが、明日出かけられるか?」
真澄が話題を変えた。巴愛は明日の予定を思い浮かべたが、通常たいしたことはしていないので年中暇だ。
「大丈夫ですけど……」
「少し遠出をしないか。一泊二日で」
「え、え!? どこへ……?」
本当に急な話に巴愛が仰天する。真澄が苦笑した。
「久遠という街だ。覚えているか?」
「……えっと、彩鈴へ行くときに寄った街ですよね」
「正解だ。そこの宿のご主人に預けていたものを、そろそろ引き取りに行こうかと思ってな」
それを聞いて「あっ」と巴愛も思い出す。真澄は母の形見だというネックレスを預け、金を借りていたのだ。日本での質屋だったらとっくに質流れにあっているだろう日数が経過していたが、あの宿屋のご主人はそんなことをしないだろう。
「本当ならふたりで旅行、と言いたいところだが……外出の許可をもらえただけで有難いことだから、文句は言えないか。ま、ちょっとした気晴らしにな」
「――はい! 一緒に行きます」
巴愛の返事に真澄は笑みを浮かべた。
「決まりだ」
そう言った真澄は、巴愛に手を差し出した。その手を取ると、真澄はしっかりと巴愛の手を握った。いわゆる「恋人の」手の繋ぎ方をしてテラスからホールに戻ると、それまで忠実に控えていた葵生も昴流もいない。どれだけ気を遣ってくれているんだろう、と巴愛はふたりに感謝した。
★☆
真澄と巴愛の婚約が発表されたのが、玖暁が奪還されて一か月後の十月下旬だった。
そしてそれから約半年――年が明けて再生暦五〇二〇年五月。ふたりは婚姻の儀を執り行い、晴れて夫婦となることになった。
式典の準備はだいぶ前から知尋が総指揮を執っていた。おかげで知尋好みの派手な――ではなく、真澄と巴愛に気を遣ったのか、さすがに豪勢だが落ち着きと品格ある式典の雰囲気になった。玖暁の皇の婚礼ということで、国内だけでなく諸外国の王族や貴族も大勢列席する。その中でもやはり最前列の席に座るのは、かつての旅の仲間たちだ。青嵐の立て直しで忙しかった奏多や宙とは、本当に久々に会った。
いま巴愛は、侍女の葵生や奈織、蛍とともに着付けの真っ最中だ。葵生はともかく、奈織や蛍は着付けの手伝いになるんだろうか――と疑問に思わないでもないのだが。
まだ人もまばらな会場に早めに入っていた昴流は、一通り安全を確かめた。それが終わると、そわそわと落ち着かなくなり、視線が彷徨いだす。
「落ち着け」
瑛士が昴流の背中を大きく叩き、昴流が思わず前につんのめる。
「うう、そうは言ってもですね……」
「堂々とここで巴愛のことを待て。これはお前が選んだ未来なんだろ」
昴流は溜息をついた。
これは昴流が選んだ未来。それはその通りだ。巴愛にとっては真澄と結ばれることが何より幸せだと思っている。それは誰の目から見ても明らかだし、彼女の心は真澄に向けられていた。昴流だって、彼女の幸せを優先にした。そのために自分の気持ちは殺したのだ。いいのだ、これで。すべては正しい道筋を進んでいる。
――が、いったい僕は何をしているんだろう、と自分に呆れてしまう瞬間も確かにある。大好きな人が別の男と結ばれるための根回しを、あんなに必死でやるなんて。
「……御堂団長」
「なんだ?」
「折角腹を括っていたんですから、今更後悔させるようなことを言わないでください……無性に悲しくなってきます。僕は、巴愛さんと兄皇陛下を、笑って祝福したいんです」
「お、おおう……そいつはすまなかった」
瑛士が慌てて謝った。昴流は苦笑する。
「団長も、早くいいお相手を見つけられると良いですね」
「あのなあ……俺なんかよりお前や李生のほうが、もっと脈ありだろう。だがまあ、退役したら考えてもいいかな」
「退役って――?」
ぎょっとした昴流に、瑛士が首を振る。
「おいおい、冗談だ。俺は退役なんざしないよ。現役の騎士として、俺は戦場で死ぬと誓っている」
「はあ、吃驚した……要するに、結婚するつもりはないってことですね」
「そういうことだ」
昴流は安堵の息をつく。――だが瑛士の気持ちもわかる。いつ死ぬか分からない武人の妻というのは、とてつもなく心労を重ねてしまうものだろう。そんな風に毎日心配をかけてしまうというのも、心苦しい。いくら青嵐との戦争が終わったからといって、騎士であるからには人々を守るために尽力することに変わりはない。そこにはいくらでも「不測の事態」が潜んでいるのだ。
と、不意に瑛士の肩を誰かが叩いた。振り返ると、そこにはよく見知った顔があった。瑛士が顔を綻ばせる。
「よお、黎か。遠いところをよく来てくれた」
「久しぶりだな。こちらこそ、お招きいただいて感謝する」
微笑んだ黎の傍には、彩鈴の国王である狼雅をはじめとする、かつての仲間たちの姿があった。昴流の丁寧な挨拶に軽く頷いて流した狼雅は、会場内を見渡した。
「知尋はどうしたんだ? ここに来てから一度も姿を見ていないんだが」
「弟皇陛下でしたら、裏方の仕事に奔走されています」
「なに、あいつが自ら?」
「ご自分の手で真澄さまと巴愛の婚礼の儀を成功させたいんだそうですよ。相当な熱の入れようです」
瑛士が苦笑いを浮かべた。無理もない、と瑛士は思っている。知尋は今何よりも、真澄と巴愛の幸せを願っている。少しばかり過剰すぎる気もするが、彼らの幸せがそのまま知尋の幸せでもあるのだろう。無理をしすぎて身体に障るのではないかと心配したものだが、あの生き生きとした表情からは決して疲れが見て取れない。
「弟皇さまは兄皇さま限定で、尽くすのが生きがいみたいだもんな。昴流といい勝負って感じだ」
宙がそんなことを言うので、奏多が軽く弟の頭を小突いた。
「こらこら。俺たちは一応青嵐の代表で来ているんだから、滅多なことは言うんじゃないよ」
「いてっ。……ああもう、そんなんじゃなくてさ。名目上はそうかもしれないけど、俺は兄皇さまと巴愛さんの友達として、お祝いに来たつもりだぜ」
宙が頬を膨らませる。と、そこへ新たに人影が現れた。それは知尋、そして巴愛の着付けを手伝っていた奈織と蛍だった。
「良いこと言ってくれるね。友達……か。有難う、宙」
「知尋さま」
瑛士が振り返る。知尋は微笑んだ。
「準備が整いましたよ。あとは主役の登場を待つばかりです」
「巴愛、すっごく綺麗だったよ! ねえ、蛍?」
奈織が興奮したように言うと、蛍も頷いた。彼女も頬が上気している。
「うん。……幸せそう」
「羨ましいよねえ。やっぱりあたしたちも、幸せな結婚したいし、男どもに期待ってところかな?」
思い切り意味ありげな奈織の視線を受けた宙がぎくりとして、何気なく居住まいを正した。
いよいよ、真澄と巴愛の婚礼の儀が始まる。
長らくお待たせしました。
次の話で、最終話となります。




