6 受け入れる、二度目の生
真澄に、近くにあった石段に座ってもらい、巴愛は昴流が汲んできてくれた水に清潔な布を浸した。その間に真澄は袖から片腕を引き抜き、しなやかな身体を晒す。その肩には深い刺突傷がある。背中側にまで貫通していた。
真澄の逞しい腕や胸元を見て顔を真っ赤にしていた巴愛だが、傷を見て表情が引き締まった。濡らしたタオルでそっと傷口の血を拭うと、真澄の顔が痛みで歪んだ。相当滲みているに違いない。
「大丈夫ですか?」
問いかけると、真澄は頷いた。
「多少痛みはあるが、慣れているからな。平気だ」
消毒用の薬が入った水で傷を洗い、傷に包帯を巻いていく。手慣れた様子の巴愛に、真澄は感心したように呟いた。
「なかなか慣れた手つきだな」
「あたし、母が病院勤めしていたんです。怪我したときの処置の仕方は大体習っています」
「そうか。……家族は?」
問われた巴愛は目を伏せた。
「四年前、両親と弟を亡くしました。去年にはたったひとりの肉親だった祖母も」
「……すまない、辛いことを聞いたな」
巴愛は首を振る。
「もうちゃんと受け入れましたから」
「そうか……」
真澄はもう一度そう呟いた。それからふっと視線を上げ、空を仰いだ。雲一つない快晴だ。
「巴愛の世界は、こんな醜い争いはないのだろうな」
羨ましそうな声だ。巴愛は包帯を切り、固定する。
「はい。でも……あの世界のほうが、醜いのかもしれません」
「ん?」
「戦争で真っ向からぶつかるなんてことないです。みんながみんな勝手で、ずるい」
真澄が黙る。巴愛は包帯を巻き終えて立ち上がった。
「はい、終わりです」
「有難う」
「……あの、もしかしてあたし、もう元の世界には帰れないんですか?」
巴愛の唐突な質問に、真澄は表情を変えなかった。ただ静かに、巴愛を見つめる。
「……どうしてそう思う」
「みんな、すごく親切ですから」
「それは当然のことだと思うが?」
「昴流はすごく丁寧にこの世界のことを教えてくれました。それって、あたしに早く慣れてくれってことですよね?」
真澄は小さくため息をついた。まったく動じた様子のない巴愛にはつくづく驚かされる。まさかそこまで見透かすことができていたとは。
「後で落ち着いて話すつもりだったが、まあいい。……結論からいうと、送り返すことは不可能なんだ。少なくとも、今はまだ。君がどこから、どうしてここに来てしまったのか、私たちには何も分からない。だから、申し訳ないが何もできそうにない」
真澄のはっきりとした言葉は、いっそ清々しい。もう二度と戻れないと言われても、不思議とそこまでショックではなかった。
「……この世界で、生きられそうか。いや……他に選択肢はないのだがな。勿論、君に不自由な思いをさせないために、私も全力で支援する」
続いて出た真澄の声は、一転して不安げだった。無理な提案をしているのだろうと思っているのだろう。
『真澄は繊細で心配性すぎるところがある』――知尋の言った通りだ。なんでこんなに、皇さまが心配してくれるのだろう。「ここに住め」で済む話なのに。
巴愛が微笑んだ。
「……あたし、兄皇陛下に助けられて本当に良かったと思ってるんです」
「なぜだ?」
「兄皇陛下のところでなら、生きられそうな気がするから」
巴愛はそう言って両手を後ろに回す。
「家族はいません。取り立てて未練は残ってないです。この世界でもう一度生き直すのも、いいかなって思うんです」
「……君はつくづく、たいした娘だな。普通なら混乱していそうなものだが、迷いひとつないとは」
「あたし、結構非常識なことでも信じますから。それにここは、現実です。目の前にあることは、ちゃんと受け入れなきゃ」
そうやって家族の死も受け入れ、乗り越えた。だからきっと今度も大丈夫なのだ。
「要領悪くて馬鹿だから、ご迷惑おかけすることが多いと思いますけど、精一杯頑張ります」
「……分かった」
真澄は硬い表情を和らげ、微笑んだ。
「こちらこそよろしく頼むよ」
「はい」
巴愛が頷いた瞬間、真横にぬっと大きな人影が立った。そして「こほん」とわざとらしく咳払いをする。仰天して飛び上がった巴愛を真澄が支えてやり、じろりとその人影を見やる。
「えー、お話はお済みでしょうか?」
「……瑛士、わざとだな」
真澄に睨まれた瑛士は軽く肩をすくめ、持っていた書類に視線を落とした。
「今のところではありますが、今回の戦績について報告します。第一師団に損傷なし、戦死者ゼロ。第二師団、部隊長位はみな生存、戦死者約一〇〇〇。歩兵部隊、戦死者約三二〇〇。神核術士部隊、戦死者一。負傷者はおよそ二万、うち重傷は八〇〇〇です。戦線復帰が望めない者は……」
真澄も黙って報告を聞いている。瑛士は淡々と読み上げ、やがて顔を上げた。
「……以上です。現在戦後処理に当たっている李生の隊はまだ集計していませんが、まああいつの隊は死者が出ても一人二人でしょう」
「死者は約四二〇〇人、か……三か月の激戦の末の犠牲としては上出来か。……が……」
不自然に真澄は言葉を切る。悔やみ、悲しむ言葉を口にしても手遅れなのだ。今からできることと言えば、怪我をした兵士たちの治療をし、これ以上の死者を出さないことである。
四二〇〇人が死んだ、と言われても、巴愛にはぴんときてくれない。そんな大勢の人が一度に殺されたなんてとても想像できないのだ。
と、新たに騎士の一団が入城してきた。瑛士が振り返る。
「お、噂をすればいいところに」
先頭に立っていた、真澄と同い年くらいの青年がこちらにやってきた。静かな目をした、真面目そうな人だ。だが冷たい印象はない。
その騎士は瑛士と真澄に敬礼し、口を開いた。
「陛下、団長。青嵐軍が国境を越え、撤退したことを確認いたしました。これより戦死者の遺体の回収を行います」
「おう、その前に被害状況を報告していけ」
瑛士の言葉に、騎士は淀みなく答えた。
「戦死者ゼロ、負傷者三〇、うち重傷者四です。他は俺を含め、ぴんぴんしています」
「犠牲ゼロ! さすがだな、お前の隊は」
「恐れ入ります」
瑛士に軽く頭を下げた騎士に、今度は真澄が言う。
「いつも最後まで任せてしまってすまないな」
「いえ。一任されることを光栄に思っています。それに俺の隊は、どうやら騎士団の中で態のいい雑用係である、という暗黙の認識があるようなので」
生真面目に答えた騎士に向かって瑛士が怒鳴る。
「だ、誰がそんなこと言った!?」
「暗黙の、と言ったではないですか」
揚げ足を取られた瑛士が黙る。真澄が苦笑した。
「それだけお前の隊は耐久力があって頼りになるということだな。なんにせよ、たいした怪我がないようで良かった」
労いの言葉に、初めて騎士の表情が和らいだ。心からほっとしたような笑みを浮かべた騎士が頷く。
「はい。――ご無事でよかったです。真澄さま」
さっきまで「陛下」と呼んでいたのに、今度は「真澄さま」と名を呼んでいる。それに気づいた巴愛は、おそらくこの騎士も真澄とごく親しいのだろうと思った。真澄と知尋を名で呼ぶ者は、みなそうに違いない。
騎士が巴愛に向きなおった。そしてゆっくりと頭を下げる。
「貴方の話は騎士団長から聞いていました。天崎李生と申します。何かあれば、どうぞ遠慮なく声をかけてください」
最初の昴流の挨拶と変わらないくらい生真面目だったが、彼は微笑んでくれた。この人は笑わないんじゃなくて、笑うことが苦手な、不器用な人なんだろう――と巴愛は認識した。そしてきっと、とても優しい人だ。
「李生さん……あたし、九条巴愛です。よろしくお願いします」
そう言って巴愛を礼を返すと、李生は頷き、踵を返した。
気を利かせたつもりだったのか、どこかへ行っていた昴流が戻ってくる。李生の後姿を見て驚いたように目を見開いた。
「ああ、天崎部隊長だ……もうちょっと早く戻ってくれば良かったなあ」
どうやら昴流は、李生ともお近づきになりたかったらしい。何か話を始めた真澄と瑛士の傍で、巴愛が尋ねる。
「李生さんって、昴流より偉い人なの?」
「はい。騎士団は御堂団長を頂点にしていくつかの部隊に分かれて、それぞれの部隊には部隊長がいます。僕はただ単に団長の隊の所属ですが、あの人は天崎隊の部隊長ですから」
「じゃあ、管理職ってことかぁ」
巴愛の呟きは意味が理解できなかったようだが、昴流は興奮したように熱っぽく語った。
「天崎部隊長はそれだけじゃなくて、団長に最も近い部隊長なんです。いわば、主席部隊長って感じですかね」
「そんなにすごいんだ」
「李生の隊は少々特殊でな。人数こそ少ないが、だからこそ隊内の結束が強い。加えて異常な耐久力の持ち主が揃っていて、前線に突っ込ませても籠城戦をさせても損傷は少ない。守りの戦いで、李生の上を行く者はいないだろう」
聞いていたらしい真澄が話に交じった。瑛士も腕を組む。
「人数が少ないって言うのが最大の利点なんだな。機動力も高いから索敵、工作、なんでもできる。真澄さまや知尋さまの直接警護も務められる。まず間違いなく、騎士団の精鋭だよ。隊全体としても、李生個人としてもな」
「あまり愛想のいいタイプではないが、話してみると良い男だぞ。李生も私の傍に従う人間の一人だから、顔を合わせることは多くなるだろう。早めに打ち解けてやってくれ」
真澄はそう言い、巴愛を振り返った。
「……とにかく、この状況がもう少し落ち着いたら、ゆっくり話をしよう。それまで部屋に戻っていてくれるか?」
これ以上ここにいても、自分が邪魔になることは分かっていたので、巴愛は素直に頷いた。
「はい、分かりました」
「すまないな。小瀧、あとは任せる」
昴流が真澄と瑛士に頭を下げ、巴愛を連れて踵を返した。
真澄は瑛士とともに、治療をしている知尋のもとへ向かった。気付いた知尋は立ち上がる。額にはうっすらと汗がある。
「巴愛との話は終わったんですか?」
いたずらっぽく尋ねられ、真澄が憮然とする。
「どうして誰も彼もがその話にするかな」
「仕方ないでしょ、今最大の話題なんですから。……それはともかく、あまり外で彼女と長話しないほうがいいですよ。そろそろ騎士の目につきはじめます。せっかく彼女を、衆目の目に晒さないようにしている努力が水の泡です」
知尋の指摘は尤もだ。真澄としても、巴愛の存在を必要以上に公にする気はない。そんなことをすれば真澄の傍にいる彼女は寵姫か、とでも言われてしまう。彼女が委縮するのは分かり切っていた。
「分かっている、もう部屋に戻らせた……って、だからそうじゃなくて。今後の話だ、今後の」
「なんだ、無理に話を戻さなくてもいいのに」
知尋はくすくすと笑った。もう真澄は無視する。
「青嵐軍は完全に国境を越えたと李生から報告を受けた。そこまで戻ったのなら、もう攻めてくる気はないだろうと私は思うが、どうだ知尋?」
「同意見です。あちらの犠牲はこちらより甚大なはずですから、攻めてくるにしても軍の再編には時間がかかります」
真澄は次に瑛士に視線を向ける。瑛士も頷いた。
「俺も同じく。まあ仮に攻めてきたとしても、天狼常在の騎士で対処には事足りるでしょう」
「……よし、分かった。瑛士、全軍に通達。戦闘はこれで終了、各自治療を済ませ次第、休息に入るように。天狼駐在部隊に事後のことを引き継ぎ次第、皇都に帰還する」
「了解しました。真澄さまもお疲れでしょう、少しはお休みくださいね」
「ああ」
瑛士は身を翻した。知尋ももうすでに治療を再開している。傷にかざした両手から溢れる光が傷を包み、瞬時に癒していく。そのさまは神々しくさえもあった。だが万能の治癒術を使えるのは知尋ひとりであり、彼ひとりで二万近い負傷者を診るのは無理があった。そのため、刀による斬撃をくらった程度の者は普通の処置を受けている。勿論手当をしたからと言って痛みが瞬時に引くわけでなく、多くの者が痛みにあえいで地面に寝転がっている。
真澄は負傷者の間をゆっくり歩く。そしてある負傷兵の前で足を止めた。
それは歩兵の少年だった。普段から訓練を積んでいる第二師団、つまり騎士団の面々とは異なり、歩兵はこの戦争限りの志願兵だ。戦闘経験が浅い者が多く、ただでさえ歩兵と騎兵では差がありすぎる。犠牲が最も多いのは、この歩兵たちである。
傷の程度は浅く、治療は後回しにされているらしい。確かに真澄からすれば大したことのない傷だが、少年には痛すぎるだろう。目を固く瞑って呻いているので、真澄が傍にいることに気付かないようだ。
――皇たる者、みなに平等であれ。公平であれ。それは分かっている。が、そんなことよりも真澄はいま目の前で苦しむ少年に手を差し伸べずにはいられなかった。
真澄は大量に積み上げられた包帯を手に取り、少年の傷の手当てを始めた。目を開けた少年が何度か瞬きをし、それが真澄であることに気付いて飛び上がった。
「けっ、兄皇陛下っ……!?」
「おっと、動くなよ。傷が開く」
真澄はそう言って傷を洗っていく。真澄にも一応、応急手当の心得はある。
「人手不足だ、私で許せよ」
「いっ、いえ……! とんでもございません!」
少年が真澄に押さえつけられながら答える。その様子に真澄は苦笑した。
「お前、年はいくつだ?」
「今年で、十五になりました……」
「十五か。自分から志願して参加したのか?」
「はい……! 玖暁のため、両陛下のため、少しでもお役にたてればと……!」
「……私と知尋は、幸せ者だな」
嬉しくはあるが、悲しくもある。こんな幼い少年を、人殺しの場に連れて行かねばならなかったいまの世界が、悲しくて仕方がない。
「……私がみなにしてもらって一番嬉しく思うことを、お前に教えてやろう」
「え……?」
「『ひとりでも多く生きて帰ってくること』。それが私の願いだ。お前はそれを叶えてくれた」
少年の目から涙がぼろぼろとこぼれた。生き残った、という実感が今更に沸いてきたのかもしれない。
「有難う」
真澄が微笑むと、少年は何度も頷いた。
治療を終えて立ち上がるころには、少年は眠ってしまっていた。真澄はその少年を見つめて微笑んだ。
「……早く、戦争のいらぬ平和な世が訪れればいいな……」
そのために、自分たちが努力をしなければ。あと何度民に血を流させることになるか分からない。その報いは必ず受ける、だから今は立ち止まれない。
その後も歩兵たちに声をかけながら真澄は手当てを続けた。彼らにとって瑛士ですら遠くの存在なのだから、真澄など雲上人だ。その雲上人に声をかけてもらえた、あまつさえ治療をしてもらったということは、彼らにとって最大の報酬であると言えるかもしれない。それだけ真澄の人気は高かった。
治療を終えた知尋が立ち上がり、息をついた。真澄が歩み寄って尋ねる。
「治療は終わったか?」
「はい……命に関わりそうな傷の者は、みな……」
言い終わる寸前に、知尋がぐらりと倒れた。真澄が片手を出して知尋の身体を受け止める。
「そろそろ限界だろうと思ったよ」
真澄が肩をすくめ、知尋を支える。知尋が目を閉じたまま力なく笑い声をあげる。
「ははっ……ごめんなさい」
「構わん。が……何度も言っているが、ほどほどにしろ。疲れは確実に蓄積されている。そのうち取り返しがつかなくなるぞ」
「はい……」
知尋は呟き、完全に眠りに落ちた。
はい、と頷いて知尋が守ったためしがない。きっとまた無理をする。慣れたので仕方がないが、やはり心配は尽きなかった。
知尋を砦内の部屋に運び、自室に戻る。戦争で昂ぶっていた気はようやく睡魔と疲労に形を変え、真澄の意識を朦朧とさせてくる。身体が休息を要求していた。
ベッドに倒れこんだ真澄は、そのまま垂直に闇へ引きずられていった。