16 皇の帰還
黎らがその地点に到着したのは、瑛士と別れて二日後のことだ。勿論彼らは、瑛士たちが自分たちの後を追ってきているとは知るよしもない。
大山脈の第三地区。玖暁の国境と彩鈴王都の依織を結ぶ街道から外れた大山脈の部分を『地区』と呼び、その中で第三地区は玖暁に接している地区だった。当然道はなく、管理人が時々立ち入るくらいで、殆ど手入れもされていなかった。そんなところで突如爆発が起こり、一気に山が炎上したのである。
到着した際騎士たちの尽力によって山火事は鎮火していたが、焼け焦げた木々が残っているだけで青々とした豊かな緑はひとつもない。灰色の煙がまだ上がっているため、鎮火はほんの少し前なのだろう。
だが、それにしても鎮火したとは思えない異常な熱気だ。黎たちが近づくと、作業をしていた騎士が慌てて近づいてきた。
「き、騎士団長!? なぜここに……」
「この奥に用がある。通してくれ」
「そ、それは無理です! 火は消えましたが非常に強い熱気が立ち込めていて、とても入れません!」
それに説明ができたのは奈織だ。
「強い魔力は熱を帯びるんだよ。知尋と戦ったときもそうだったでしょ……神核の暴走で、神核に込められていた魔力が一気に放出したから……」
びりびりと静電気に似た弱い痛みが肌に突き刺さっている。そう感じるのは自分だけかと思っていた黎だったが、どうやらこれが魔力らしいと納得した。
「ぐッ……うぅ!」
後ろにいた宙が、急にうめき声をあげて地面に膝をついた。奏多と蛍が駆け寄る。
「宙!?」
奏多が弟の身体を支える。黎が眉をしかめる。
「王冠としての体質か……」
「うん。宙はすでに体内に神核エネルギーを取り込んでいるから、魔力を取り込みやすい身体になっているんだよ。症状的には真澄と同じこと。これ以上進むと、身体に悪影響が出る」
奈織が呟く。その奈織の顔色もすこぶる悪い。黎がはっとして妹の肩を掴み、自分と向きなおらせた。驚いたように奈織が黎を見上げる。
「な、なに、兄貴……?」
「……お前も、なのか? 神核の実験か何かで、神核エネルギーを扱ったのか!?」
奈織は兄の視線から逃れるように目を逸らした。それから小さくうなずく。滅多に表情を変えない黎が、悲しそうな顔になる。怒っているわけでもなく、ただ辛そうなのだ。
「どうして……!」
「研究なんだもん。実験は、被験者がいなくちゃ成果が出ない。そうやって科学は進歩してきたんだよ。大丈夫、宙ほどの量じゃないから、安心して」
「安心できるか! どうして何も言わずに……」
言いかけた黎だったが、そんな説教をしている場合ではないと気付いて口をつぐむ。そっと奈織の肩から手を離し、そのまま腕を組んだ。
「……魔力が薄まるまで、待つしかないか」
今のところそれしかできないので、黎たちは待つことになった。だがどれだけ時間が経っても状況は変わらず、人体的にはむしろ悪くなってきた。健康体である黎や奏多、蛍でさえ濃い魔力の影響が出て気分が悪くなってきたのだ。黎が息を吐き出す。
「蛍殿。どうにかできないか?」
彼らしくない、丸投げである。
「……うまくいくか、分からないけど」
蛍は懐から何かを取り出した。それは透明な小さな石。魔力が尽きた神核である。
魔力が尽きた役立たずの神核を、蛍は前に突きだす。彼女が【集中】すると、辺りの魔力が一気に収束した。その先は、蛍が持つ神核だ。魔力を失ったはずの神核が再び魔力を吸い込み、神核としてよみがえったのだ。
「あ……なんか、楽になったかも……」
宙が冷や汗にまみれた顔を上げた。奏多が弟を立たせながら尋ねる。
「いま何したの?」
「このあたりの魔力を、この神核で吸い込んだの。少しは濃度が薄くなったと思う」
「そう言う使い方もあるのかあ」
「私も思いつきだったから、まさかうまくいくとは思わなかった」
「でもなんで使用済みの神核持ってたの?」
奈織の問いに、蛍が神核をしまう。
「神核の魔力が尽きたって言ってたから、もらった。知尋から」
「弟皇陛下の年齢的に、そろそろ神核の寿命だったな」
神核の寿命は二十年ほど。幼いころから神核に触れてきた知尋なら、まさにその時期だ。そういえば旅の途中、しょっちゅう街に行っては神核を取り換えていたようである。
「宙、行けるか」
黎が問いかけると、宙は頼もしくうなずいた。
「勿論……! 兄皇さまを助けるために俺は来たんだ、こんなところで足手まといにはなれないよ」
「頼もしいな。……では行くか」
黎はそう言い、騎士から借り受けた槍を手に焼けた森の中に足を踏み入れた。
平坦、もしくは上りだったはずの森は、なぜか下りとなっていた。奈織が以前話したように、神核は暴走すると膨大な魔力とともに、凄まじい圧力を生み出す。その圧力によって地盤が下がり、まるで砲弾が被弾したかのような巨大クレーターが出来上がっているのだ。そのクレーターの底が、神核が暴走した地点である。
しかし巨大なクレーターだった。半径が一キロほどあるのではないかと思える。深さもかなりあり、底は木々に遮られていることもあって見えなかった。
「本当に知尋か矢吹は待っているのかな」
奈織が不安そうに問いかける。黎は頷いた。
「誘ってきている。そしてそれに気づいたうえで私たちがあえて誘いに乗ると、相手は知っている。矢吹は人をおちょくるのが好きなようだからな。きっといる」
「うん……」
「忘れるなよ。私たちの目的は大神核を取り戻し、それを消すことだ。神核を地面にでも落としてしまえば、蛍殿が消してくれる。相手を倒すことではない」
その指示に、みなは至極真面目に頷いた。と、奏多が警告を発した。
「人がいます」
緊張が奔り、臨戦態勢に入る。もっとも視力がいいらしい宙が眉をひそめた。
「弟皇さまだ……」
クレーターの底に、知尋がぼんやりと佇んでいた。黎はゆっくりとその傍に歩み寄り、自分の槍の間合いぎりぎりの場所で足を止めた。神核術を扱う知尋に射程などないから、知尋の間合いは測れない。後ろで宙が奈織に耳打ちする。
「人間が爆心地にいて無事で済むのか?」
「いや、普通無理。でも神核の暴走を引き起こしたのは知尋だと思う。知尋は神核を暴走させると同時に自分の身体を結界壁で守ったんだよ。つまり、大神核の魔力より知尋ひとりが持つ魔力のほうが強かったってことで、知尋は無傷だった」
魔力は魔力を通しにくい。黎や瑛士のように神核術を使わない人間と知尋のような神核術士に同じ術を放っても、知尋には利きにくくなる。それは魔力に耐性があるからであって、総じて神核術士は神核の攻撃に打たれ強い。前回は黎の脅威の破壊力で結界壁を砕かれた知尋だが、魔力による攻撃は絶対に跳ね返すことができる。大神核の暴走といえども同じだ。
「それと、神核を複製するのってこんな短時間でできるの?」
宙の次の問いは奏多に向けられていた。奏多は頷く。
「実物が手元にあれば、ほんの数十分だそうだ」
「おっそろしいな……もう既にその複製品、玖暁との戦争で投入されていたのか?」
「おそらく……」
黎がゆっくりと口を開いた。
「弟皇陛下」
知尋はこちらに背を向けたまま反応しない。
「水の大神核をこちらに渡していただきたい」
黎の要求も単刀直入だ。やがて知尋がゆっくりと右手を持ち上げた。その手には青い神核が握られている。
「……これのことか?」
彼らしくない、低く呟くような声が発せられた。黎がちらりと蛍を見やると、蛍は頷く。それが本物だ。
「そうです。その神核を頂きたいのですが」
知尋はゆらりと振り返った。あの時のように正気を失っているとは思えない、いつもと変わらない顔だ。知尋はふっと笑みをこぼした。その笑みは時々知尋が見せる悪戯っぽい笑みではなく、本物の冷たい残虐な笑みだった。
「だったら、力づくで奪え」
その言葉と同時に、知尋は両手を天に掲げた。同時に、何本もの光の矢が凄まじい勢いで降り注いできた。直撃したら、脳天から足先まで串刺しになりそうな鋭さだ。黎たちがみなそれを跳躍して避ける。
その攻撃は前回も多用してきた。だが今回決定的に違うのは、知尋の意識があることだ。奈織が木の陰に身をひそめながら蛍に尋ねた。
「どうして知尋はあたしたちを攻撃するの!? 矢吹に操られているとか!?」
「操られているようには……感じない。そもそも、神核の魔力で人を操ることなんてできない」
「じゃあ、これが知尋の意思だっていうの……?」
「そうじゃない。そうじゃないと……信じたい」
蛍がぐっと唇を噛みしめる。黎にはその答えが分かるような気がした。『狂気』。戦いを愉しむ狂気が知尋に眠っているというのは、黎もその通りだと思っていた。知尋だけでなく、この場にいる皆、特に騎士である自分や奏多にはその気持ちがあるに違いない。それを理性で押さえているところだ。しかし知尋は前回佳寿に理性を奪われ、力のままに戦った。そして狂気が目覚めた。その狂気による、知尋にとっては「遊び」の戦いなのではないか――黎はそう思っている。
「いつまで逃げ回っている。それでは私に勝てないぞ」
知尋の手には刀がある。知尋はそれを片手に、黎に突進してきた。
知尋が刀を抜くところを黎は見たことがないが、その腕は侮りがたいものだとは以前から察していた。普段の身のこなしを見ていればわかる。真澄ほどではないが、知尋も相当修練を積んでいる動きをしていた。「只者ではない」というのは、「只者ではない」人間にしか分からないものである。
思った通り、知尋の剣戟は凄まじかった。容赦がない分、真澄や瑛士よりよほど力強くて勢いがある。神核術士が習得している剣術の腕ではなかった。
知尋の刀を防ぐ黎の槍がぐっと押され始める。知尋の笑みは絶えず、常に薄い笑みを口元に浮かべている。その実、瞳はまったく笑っていない。だが黎も、唯一瑛士と渡り合える実力を持つという自負がある。接近戦を挑んでくる限り、黎にまだ有利だった。
一度知尋に圧されかけたのは、その力量に驚いた一瞬のせいだ。己を取り戻してしまえば、黎の真骨頂である。一気に知尋を振り払い、よろめいた知尋に向けて槍を突きだす。この槍は黎が持っていた矛とは違って突くことしかできず、知尋が正面に張った結界壁によって阻まれてしまう。だが黎は結界壁を突く槍に力を込め、再び結界壁を貫くことに成功する。そして例のごとく槍は粉砕された。間髪入れずに抜き放った黎の刀が、咄嗟に振り上げた知尋の刀と激突する。
知尋の顔から笑みが消えた。それだけ彼が本気になったと言うことだ。まさかただの槍で二回も結界壁を破られるとは思っていなかっただろう。
知尋が黎と間合いを離す。そして神核術の詠唱に入った。奏多がそれを阻もうと飛び掛かった瞬間、異様な速さで【集中】が完了した。知尋は強力な術を放つとき、大概長く【集中】していた。まさかこんなにも速くその作業を終えられるとは想定外だった。
奏多の目の前で神核術が炸裂し、奏多が吹き飛んだ。それだけでなく、周りにいた仲間全員が衝撃波をくらって吹き飛ぶ。
知尋が倒れた宙の傍に歩み寄る。宙は痛む身体をゆっくり起こし、知尋を見上げる。
「弟皇さま……!」
呼びかけても、知尋は反応しない。刀が振り上げられ、宙に向けて振り下ろされた。
かつん、という音と共に、知尋の刀は後ろの木の幹に突き刺さった。宙は知尋に斬られる寸前、彼らしい俊敏さでその場を飛びのいていた。奏多がその背後から斬りかかる。だが知尋に容易く避けられ、逆に弾かれてしまう。地面に倒れかけた奏多を、何者かが寸前で抱き留めた。
「大丈夫か!?」
「……! 御堂さん……」
奏多が目を丸くする。瑛士は奏多を立たせ、刀を抜いた。黎がその後ろを見ると、当然ながら昴流と巴愛、そして真澄もそこにいた。真澄は辛そうだが、意識は保っているらしい。普通ならこんな早く来るはずがないのだが、黎たちはこの辺りの魔力が中和されるまで待っていたために時間を食っていたので、その間に瑛士たちが追いついたのだ。
「よう、来たぜ黎」
瑛士がそう言いながら刀を構えた。黎はふんと鼻で笑う。
「来ると思ったよ、最初から」
知尋が嬉しそうな笑みを浮かべた。その瞳には真澄が映っている。
「……やっと来たな。ならばもう、こんなものは不要だ」
知尋が無造作に地面に放り捨てたのは、水の大神核である。宙がばっとそれを掴み、蛍に放り投げる。彼女は他の二つの神核を取り出し、消滅の呪文を唱え始めた。宙が蛍を守るように身構える。
知尋が真澄に向けて歩を出した。瑛士がそれを遮る。
「どけ、瑛士」
このときの知尋は、いまだかつてないほどの威厳に満ちていた。瑛士はそれでも怯まない。
「どきません」
守るために斬る。斬ることで知尋が正気に戻るなら、その業を背負う。瑛士の覚悟だ。
知尋が無言で神核術を発動させる。瑛士がそれを防ぐと、知尋が刀を手に斬りこんできた。その時点で、瑛士はおかしいと察した。なぜ神核術を得意とする知尋が、わざわざ刀で斬りこんでくる? 神核術を使えば瑛士らは知尋に近づくことができないし、何より知尋の剣術は瑛士が仕込んだものだ。瑛士には黎以上に、知尋の剣術を捌くのが容易だった。
同じことに、真澄も気づいた。巴愛に支えられながら、ぼんやりと霞む視界の中で、知尋がおかしな戦い方をしていることが分かった。それと同時に真澄はあることを予知した。それは双子の兄弟ならではの、不思議な感応力だったかもしれない。
瑛士が刀を横に薙ぐ。それを防ごうと刀を上げた知尋だったが、寸前、刀を下ろしたのだ。
「――っ! 瑛士っ……やめろ!」
思わず、真澄が制止の声を投げかけた。それにより、瑛士の刀は知尋の右脇腹を切り裂く寸前でぴたりと停止する。それを見た知尋が、気の抜けた笑みをこぼした。
「は、はっ……どうしてそう……貴方は甘いのかな……」
知尋は瑛士が動揺している一瞬の隙を突き、彼の射程から外れた。そして真澄に向けて駆けだした。その手には刀。真澄を斬るつもりだ。
「信じてもどうしようもないことがある! 信じれば裏切られる! それが分かったはずだ! この期に及んで私を止めるなら、それは死にたいということか!?」
知尋が怒鳴りながら駆ける。直後、蛍の術が完成した。
「Get lost!」
蛍の手元にあった三つの大神核が、砂が零れ落ちるように音もなく消滅した。
知尋が凄まじい勢いで距離を詰めてくる。同時に昴流と瑛士、黎が駆けだしたが、間に合いそうにない。巴愛が真澄をぎゅっと抱きしめ、目をつぶった。
真澄は残された最後の力で巴愛のことを己の背で庇おうとしたが――何かが先程までと違うのを感じた。
視界が明るい。
意識がはっきりしている。
身体が軽い。
力がみなぎってくる。
真澄の右腕に刻まれた赤い紋章が、ゆっくりと溶け出していた。それは完全に消滅する。
知尋が刀を振り上げた。もう絶対に助からない。だが。
真澄が片膝を立てた。足に一片の力も入らなかったはずなのに。立てた足に体重をかけて前かがみになる。左手が傍に置いてあった刀の鞘を掴んで持ち上げる。右手がその刀の柄を握り、鞘から銀色の刀身を抜き出す。そして抜刀の勢いのまま、大きく刀を振るった。
知尋の刀をその半ばから叩き折り、刃と柄を分解した。
この出来事が、コンマ五秒ほどで行われた。
今の今まで死にかけていた人間のできる業ではない。
知尋が吹き飛ばされ、地面に倒れた。持ち主の手を離れた柄はその傍に落ち、刃の部分はくるくると回って離れた場所の地面に突き刺さる。
それと同時に真澄が立ち上がった。刀を持ち、自分の足で立っている。その表情には生気があった。
「ま……真澄さま?」
巴愛が真澄を見上げる。真澄は振り返って微笑み、巴愛に片手を差し出した。それを握ると、いつかのように力強い手がそこにあった。真澄に引き起こされた巴愛の目に、ゆっくりと涙が溜まった。
「お帰り……なさい――」
なぜ自分が真澄にそう呼びかけたか、巴愛自身分からない。だが、なんとなくそう言いたかったのだ。真澄はゆっくり頷いた。
「ああ。……ただいま」




