11 急かされる逃亡劇
追っ手は地下水路からだったため、必然的に瑛士たちは地上階へ逃げることとなった。が、明るく見通しのいい、しかも広大なこの城の中を走って逃げるのは一筋縄にはいかない。瑛士たちを血眼で探している騎士があちこちにいて、そのたびに瑛士たちは方向転換を強いられる。真澄がこんな状態である以上、一刻も早く脱出しなければならなかった。
あてもなく走るのは時間の無駄である。通路の一角でとりあえず一行は立ち止まり、知尋が凄まじい速さで計算を巡らせる。瑛士ですら――というか瑛士だから――現在位置は不明であるが、知尋にとっては生まれ育った「家」だ。ありとあらゆる道を知っている。
「瑛士、ここは第三別棟の一階南、【陽光の回廊】の途中だ。この先の渡り廊下を渡った先は第一空中庭園。さらにその先は第一別棟の南、【夜光の回廊】。それを抜けると本棟二階、【華厳の大回廊】の南に繋がる。理解した?」
矢継ぎ早の確認作業に、瑛士はやや遅れて頷いた。第一やら第三やら、一体いくつの棟と庭園があるのだろう。
「はい、たったいま」
「本棟に入ったら寝所のほうへ。巴愛がいつも使っていた裏口から脱出する。ここまで……十分で行ける?」
瑛士は知尋を見つめた。知尋が微笑む。
「みなの姿を消します。走り抜けるよ」
「! そんなことしたら、知尋の身体が!」
奈織が反対した。奈織は神核学者であるから、姿を消すという術がどれだけ強力で消耗が激しいのかを知っている。しかもこれだけ大人数である。知尋は頷く。
「もって十分でしょう。だから走り抜けてほしいんですよ。これだけの追っ手と戦いながらの脱出は不可能です」
知尋の言うことももっともだ。瑛士は半瞬躊躇ったが、すぐに頷いた。
「分かりました、お願いします」
「少し準備がいる。身動きが取れなくなるから、時間を稼いで」
知尋はそう言い、目を閉じた。
姿を消す、つまり透明人間になる、などというマニアックな神核は勿論存在しない。その術は、知尋が自分の魔力を高めることで使う、神核に頼らないものだ。知尋ほど魔力が高いからこそできる術で、その分消費は激しい。そして【集中】の時間も長くなる。
と、ばたばたと回廊の両側から騎士が走ってきた。知尋と気を失った真澄を守るように中心に置き、瑛士と蛍が左を、奏多と宙が右を主に相手どることになる。奈織は知尋の傍で援護射撃だ。
奏多は刀を抜かなかった。あの超人的な肉弾戦をするつもりなのだろう。知尋を守るのが最優先なので、一瞬でかたをつけたい。
奏多が敵陣に飛び込んだ。瞬間、骨が折れる嫌な音と絶叫が連鎖した。兄ながらその所業に宙が絶句し、やや青褪めながら、迫ってくる敵を斬り倒している。宙にとっては避けるという動作が非常に容易で、ひょいひょいと敵の攻撃を空ぶらせている。動体視力がいいのだろう。空ぶると大きな隙が生まれる。宙はそこをうまく突いていた。
さて、と瑛士が刀を構える。と、そこに見慣れた顔があることに気が付いた。青嵐騎士に瑛士の知り合いがいるわけではない。この場にいるはずもない男が、いまなぜか瑛士の目の前にいたのだ。
その男は慣れない刀を抜き、真っ直ぐ瑛士に斬りかかってきた。それだけで相手の意図を理解した瑛士は十分手加減してそれを押し返し、その男を壁に押し付けた。瑛士が押し、男が瑛士の刀を自分の刀で受け止める。傍目には、瑛士の攻撃を必死に防いでいる男、という図にしか見えないだろう。
瑛士はその男に顔を寄せ、低い声で尋ねた。
「……矢吹佳寿はここにいるのか?」
「いえ……あの男は朝から姿を消していて、騎士たちが必死で探しているところです。王冠も所在を掴んでいないようなので、完全な行方不明です」
ますます怪しくなってきた。佳寿の行方を探して、騎士たちの警備は薄くなっていた。わざとそうしたのだろうか?
「有難うよ。それだけ聞ければ十分だ」
「……弟によろしく」
男はそう言い、ばっと身を翻した。敵を装って瑛士に斬りかかり、重要なことを教えてくれたその男は、この城で働く侍従の男だった。
「まったく、自分の身の危険も顧みないで。よく似た兄弟だっ」
瑛士はすぐさま、蛍が相手取っていた騎士たちを切り崩しはじめた。
追っ手の数は減らない。この広い回廊が騎士で埋まりつつある。さすがに瑛士が苦しくなってきたとき、ぱっと眩い光が辺りを包んだ。それが晴れた瞬間、騎士たちは慌てて辺りを見回した。目の前にいたはずの敵が、一人残らず消えていたのだ。
姿が見えなくなっただけで、瑛士は変わらずその騎士の目の前にいた。が、目の前にいて気付かれないのはなかなか悲しいものだと思う。とにかく、同じように姿が消えた仲間たちの姿は瑛士に見えたので、急いで真澄を背負って駆けだした。なんと身体が透明になると、人間の身体をすり抜けられるようだ。これも奇妙な感覚である。
百メートルある回廊を一気に駆け抜ける。ちゃんと仲間たちはついてきていた。現在地と道順さえわかれば、物覚えの悪い瑛士でも道案内くらいできるのだ。
本棟を中心にして、別棟は周囲に四つある。本棟の東に繋がっているのが第一別棟。西に繋がっているのが第二別棟。第一別棟の南に繋がるのが第三別棟。第二別棟の南に第四別棟。一と三、二と四の別棟の間にはそれぞれ空中庭園がある。
第一空中庭園は、第一別棟と第二別棟の間にある屋上庭園のことだ。草花が咲き乱れる美しい庭園を、瑛士はそのまま駆け抜ける。そしてまた室内に入ると、そこは第一別棟である。
第一別棟も他の別棟と同じ造りで、長い回廊を二度折れる。やはり直線で百メートル以上あり、駆け抜けるのはなかなか辛いところだ。
また渡り廊下を渡る。そこが本棟で、少しきらびやかな印象がある場所だ。ここまで来てしまえば、瑛士もちゃんと道が分かる。巴愛も何度か行き来した場所だ。本棟の廊下を駆け、第一別棟よりもさらに東にある寝所の棟へ向かう。真澄や知尋、巴愛の部屋がどうなっているか見たいところだったが、制限時間の十分は刻々と近づいてきている。寝所に渡ってからは昇降機ではなく階段で下に降り、寝所の裏口を使って皇城の敷地から外に出ることに成功した。
そこで不可視の術が解除された。走っていた知尋が前につんのめり、奏多が知尋の腕を掴んで引き留める。
「弟皇陛下、大丈夫ですか」
ようやく一行が足を止める。訓練している瑛士などは真澄を背負っていてもまだ大丈夫だが、奈織や宙、蛍は辛そうだ。知尋は汗をぬぐい、頷いた。
「とりあえず大丈夫です……急いで、家に戻りましょう。黎と昴流がいるとはいえ、心配です……」
皆は頷き、人目を避けつつ住宅街へ降りた。息が落ち着いた奈織が腕を組む。
「もしかして矢吹佳寿ってさ、あたしたちの大神核集めを急がせたいんじゃない?」
矢吹が神核を集めさせている、というのはもう決定的なことだと奈織は言う。それに加え、さらに急がせているというのだ。
「真澄の呪いが進行したら急がざるを得ないじゃない? 今回のことはそれを狙ったんじゃないかな」
「急がせて、集めさせて、最後にどうする? 大神核を消滅させたいのか、それとも奪うのか?」
「それは分からないけど……でも、あたしたちにしてみれば、敵の思惑だと分かっていても大神核を集めないわけにはいかないんだし」
奈織が俯く。宙が息を吐き出す。
「矢吹ひとりでも集められそうなもんだけどな」
「矢吹は大神核の存在は知っていても場所は知らなかった。場所を知っていても入手することができなかった。大神核の力はすごいけど、知尋みたいな人じゃないと気配は感知できないし。特に彩鈴の大神核はあの湖の下なんだよ。流石に矢吹でもあの水をひとりでは抜くことができなかった。抜くには国家級の力が必要……だからこういうことを仕組んだとしたら、どう?」
確かに筋は通っているが、本当だとすれば随分回りくどいことをしたものである。
「もっと急がせようとするかもしれませんよ」
奏多が言う。瑛士が首を捻った。
「どうやってだ?」
「とりあえず俺たちは家に戻ったら休みたいですよね?」
「ああ、真澄さまも知尋さまもこんな状態だしな……」
「その休息の時間を取らせたくないとしたら、ですよ。御堂さん、何が起こったら早く出発しなければって思います?」
「……家にまで騎士の手が伸びていたら、だな」
「ですよねえ」
奏多はいささか他人事のように言ったが、逆にそれが瑛士らの危機感を煽った。
「兄貴はとっくにこんなこと気付いていたかもしれない。目のこともあるけど、それで留守番を選んだんだとしたら……」
奈織が不安げに呟く。瑛士は無言で歩く速度を上げ、殆ど走りになった。家までは、まだ距離がある。
★☆
御堂邸の庭先では、黎が昴流を相手に稽古をしていた。左目が見えなくなったと言ってもまだ完全ではなく、時々は見えるらしいが、もうどうせなら見えないことにしたほうがいいとして布で左目を覆ってしまった。視界が半分になったところで、左からの攻撃に対応するためにはかなりの訓練がいる。さすがに刀は使えないが、昴流には左から重点的に攻撃をしてほしいと頼み、黎は昴流が次々と放つ拳や蹴りを避ける。
最初の内は黎も昴流の攻撃を避け損ねることがあったが、小一時間ほど続けていれば慣れたらしく、もうすべての攻撃を軽く避けることができるようになっていた。逆に昴流のほうが疲れ果てている始末である。見学していた巴愛が微笑む。
「黎さん、慣れるの早いですね」
「避けるだけならなんとかな。攻撃に転じるとなると、距離感がつかみにくくなりそうだ」
黎はそう言って、傍に立てかけてあった槍を手に取る。槍は主に突く武器だが、黎の槍には斬る部分もある。矛というべきだろうか? 矛は槍や薙刀の前身だった武器だ。どちらにせよ間合いの長い武器だから、射程を見誤れば大きな隙を生む。
巴愛が持ってきた茶を飲みほした昴流が、大きく息を吐き出した。
「にしても黎さん、どこで槍術を覚えたんですか? 槍を基本に扱う騎士って珍しいですよね」
「槍を学び始めたのは、お前の言うとおり『珍しい』からだ。その珍しい武芸を私に教えてくれた人がいる」
同じように茶を手にして地面にそのまま座り込んだ黎の言葉に、昴流と巴愛が沈黙する。
「私は一度命を失いかけ、しかし生き永らえた。どうせならなんでもやってやろうと思ってな。自ら玖暁にも青嵐にも諜報活動で赴いた。騎士団長に選ばれた時も受け入れた。大嫌いだった戦いと諜報、地位、すべて手に入れたうえで、変えると決めたからな」
「彩鈴の諜報制度を……ですか?」
昴流の言葉に、黎が頷く。
「正義感に燃える無名の若者は、権力を嫌う。そんなものに頼らずに国を変えたいと願う。だが現実的には無理なことだ。国の在り方を変えるには、まず力が必要だ。それを思い知ったから、屈辱を一度受け入れたんだ」
下から吠えるだけでは変わらない。権力者を暗殺しても変わらない。自分も権力という力を得て、そこから変えなければならないのだ。
「……私の変革の野望は、ここからだ」
黎がポツリとつぶやく。
と、穏やかだった黎の表情が急に引き締まった。一瞬遅れて昴流も気づく。ただならぬ敵意が迫ってきていた。
「巴愛さん、家の中に」
昴流に促され、巴愛は大人しく家の中に引っ込んだ。昴流が刀を腰帯に佩く。
泰然とした歩調で御堂邸の敷居をまたいできたのは、三十代に見える細身の男だった。だがその威圧感と底知れぬ強さを、黎も昴流もすぐに感じた。黎は槍を握る手に力を込め、昴流はじりじりと腰を落とす。
黎が前に進み出た。
「貴様が矢吹佳寿か」
ここに来て「誰だ」とか「何の用だ」とは言わなかった。ごく端的に問いかけると、相手の男も静かに答えた。
「はい」
「消え失せろ」
用件すら聞かず、黎は身構えた。佳寿は微笑む。
「貴方のような強者とまみえるのは、私の楽しみでもあるのですよ。せめて名をお聞かせ願えませんか?」
「……彩鈴王国騎士団団長、時宮黎」
「そちらは?」
視線を向けられた昴流は、黎と並べるほどの実力がないことを自覚しているから少し戸惑った。その末に短く名乗る。
「玖暁騎士、小瀧昴流」
満足したらしい佳寿が刀の柄に手をかける。
「戦う相手の情報は一切持たない主義でしてね。相手がどれだけ強いかを報告されたあと実際に戦ってみて、なんだこの程度かと失望したくないので」
「たいした自信だな」
念には念を入れるタイプの黎は、心から不快そうだ。黎は佳寿から目を離さずに、昴流に告げる。
「下がれ小瀧。巴愛殿の安全を最優先にして戦え」
「はい」
昴流は頷き、刀を抜きつつ後退する。
先に仕掛けたのは佳寿だった。青嵐の人間は「先手必勝」という言葉の生きた見本のようなものだから、これは当然のことだろう。
黎はその攻撃を受け止め、横に弾いた。佳寿がその動きに合わせ、横っ飛びに位置を変える。
「ほう、すごいですね。私の一撃を受け止めた相手はいますが、軽々と弾いたのは貴方が初めてだ」
「私以上のことが確実にできる相手を、私はあと二人ほど知っているぞ」
黎は素っ気なく告げる。真澄と瑛士のことだ。瑛士と黎は互角と思われがちだが、自分が瑛士に一歩及ばないことを黎は知っている。最たるは真澄だ。調子が良いときですら真澄は瑛士に勝てなかったと言うが、それは「自分が師匠である瑛士に勝てるわけがないだろう」という無意識の真澄の思い込みによって引き起こされたことだと黎は思っている。本調子で真澄が本気になったら、きっと誰よりも強い。あの若い皇は、それくらいの潜在能力がある。
「それは……いずれ戦ってみたいですね」
佳寿は微笑み、刀を構えた。
「戦うだろうとも。私たちと敵対するつもりなら、この先必ず」
黎の左に回り込んでの攻撃。的確な斬撃だった。攻撃に転じたときの黎の不安が、まさに的中する。
槍を振るったが、寸前で佳寿の身体を空ぶった。黎に大きな隙ができる。佳寿がすかさず追撃して黎を切り裂く直前、黎を守るように結界壁が構築された。佳寿の斬撃を防ぐほど強力な結界壁だった。黎も佳寿も驚いたが、そこで昴流が飛び掛かった。突然のことで対応が遅れた佳寿の着物の裾が切り裂かれる。が、傷には至っていない。
佳寿はにやりと笑い、標的を昴流に変えた。昴流は身を沈めて斬撃を避け、刀で攻撃を受け止めることはしなかった。
結界壁を張ったのは巴愛だ。彼女は短期間で、この矢吹佳寿の斬撃を防げるほどに神核術の腕が上達していた。教えた昴流も形無しだ。だが、何回も障壁を張れば巴愛にも影響が出る。
昴流が追い詰められる。昴流に振り下ろされた刀を受け止めたのは、またしても巴愛の結界壁だった。佳寿が結界壁に刀を当てたまま、ふっと笑みを浮かべる。
「なかなか腕のいい神核術士がいるようですね……しかし、脆い」
佳寿は腕に力を込め、結界壁を叩き破った。硝子が砕けるような音がして、結界壁が消える。そのまま昴流を襲った斬撃を、寸前で黎が庇って受け止める。
「巴愛さん!」
昴流がするりと佳寿の射程から逃れ、家の中に駆け込む。壁際に巴愛が倒れていた。結界壁を張った術者以上の力で圧力を加えると、結界壁は砕ける。その衝撃は術者にも強く影響を出すのだ。
「巴愛さん、しっかりしてください! 巴愛さんっ!」
「――ふ、ぅ……ぁ……昴、流」
ぼんやりと目を開けた巴愛を見て、昴流はほっと安堵の息を漏らした。
「有難う、助かりました。……少し休んでいてくださいね」
黎が槍を構え直しながら、佳寿を睨み付ける。これだけのことをして汗ひとつ浮かばない佳寿は、本当に強い。このままでは、負ける。
と、佳寿の背後から強烈な光の矢が飛来した。佳寿がはっとして刀を振り、光の矢を弾く。それと同時に銃弾が連続して撃ち込まれる。それらを防ぐ佳寿に斬りかかったのは、瑛士だった。
「人の家でよくもまあ好き勝手してくれたな!」
瑛士がそう言って佳寿を押し切る。佳寿がにっこりと微笑む。
「さすがにこれだけの人数がいると分が悪いですね……この場は一時休戦ということで」
瑛士らと間合いを取った佳寿が神核術を発動させる。強烈な光が消えたとき、その場に佳寿の姿はなかった。
「転移術……ですね。もうこの場にはいません」
酷く疲れた様子の知尋が呟く。昴流が気を失った巴愛を抱きかかえて家の外に出てくる。宙が駆け寄った。
「巴愛さん、大丈夫か!?」
「気を失っているだけだ……すぐ、目を覚ますよ」
昴流がそう言って息を吐き出す。黎も槍を地面についてそれにすがった。黎がへたり込んでしまうほどの力量の持ち主だったのだ。ただでさえ黎には片目というハンデがあった。
瑛士が舌打ちする。
「あいつの思惑通りか……くそっ」
瑛士は皆を見渡した。互いの無事を確かめることも、大神核の入手を喜ぶことも後回しだ。
「すぐ彩鈴へ発つ! 馬を取りに戻って、そのまま大山脈を越えるぞ!」




