10 嬉しくて厄介な手土産付き
翌朝早く、まだ日も昇らぬうちに真澄らは御堂邸を出発した。また地下水路に降り、皇城がある方向、つまり南方向へ水路を進んでいく。やがて水路は緩やかに下りとなり、空が天井で遮られた。途端に周りの景色が遮断され、一気に薄暗く気味が悪くなってくる。
「いやあ、良い雰囲気ですね。巴愛を連れてこなくてある意味正解だったかもしれません」
知尋が意地悪くそう呟く。暗く、狭く、寒い。巴愛がまさに嫌う場所である。それでなくとも、こんな薄気味悪い場所を好む女性はそうそういないだろう。天井から落ちてきた水滴が頬に当たって、奈織が「ひゃあ」と悲鳴を上げる。
瑛士が炎の神核を灯しながら先頭を歩く。
「しかし、こんなところで毎日のように遊んでいたなど、真澄さまはまったく……」
「けしからん、と思う? でも決戦前夜にワインを空ける人に言われたくないかもしれないよ」
「おや、なんのことです?」
「私にそれを言わせますか?」
知尋の鋭い指摘に瑛士は動揺したが、表面上は余裕そのものだ。
「で、そんなワインを差し入れたのは誰なんでしょうねえ?」
知尋はちらりと視線を後方の奈織に注いだ。奈織は瑛士ほど演技上手ではなく、「あはは」とごまかす笑みを浮かべた。
さらにその後ろを歩く真澄の表情は複雑だった。今のところとりあえず辛くはないのだが、これから辛くなりそう、という表情だ。例えるなら、腹痛になりそうなんだけどなるまではいかない、というような。肝心な場面で使い物にならなかったら困るので、無駄な体力を使わないように無言で歩いていた。
「ところでさ、俺たち矢吹のことちっとも気にしてないけど、もし出くわしちゃったらどうするんだ?」
宙がやや不安げに尋ねる。一拍ほど間をおいて、瑛士が答える。
「その時は、その時だ」
「行き当たりばったり!?」
「まあそう言うな。安心しろ、絶対逃がしてやるから」
いざという時は、瑛士がみなの盾になる。自分の身を犠牲にしても彼らのことを守ろうと誓っている。宙が思っているほど、瑛士は矢吹佳寿について楽観視しているわけではなかった。知尋と李生が敗北した相手に、瑛士が敵うとは自分でも思っていない。ああいう相手には敵の人数など関係ないだろう。騎士が何人束になっても瑛士に勝てないように、瑛士と黎が連携してもきっと矢吹佳寿には勝てない。なにか決定的な強さが必要だった。刀と神核術、せめてどちらか一方を封じることができれば。
と、前方でぼんやりと赤い光が見えた。瑛士が足を止める。同時に甲高い笛の音がこの地下空間に響いた。奏多が頭を掻く。
「敵襲を告げる青嵐騎士団の笛の音ですね、これ」
「敵って、あたしたちのこと!?」
奈織が意外そうに驚くので、がくりと宙がずっこける。
「青嵐騎士にとっての敵なんて、俺たちに決まってるじゃん」
青嵐騎士たちはこちらへ駆けてきた。瑛士が明かりを持ったまま身構える。
「おおっと、なんでこんな早くにばれたんだ?」
「当たり前でしょ、ここには監視カメラが取り付けてあったんです。見つかるのは時間の問題でしたよ」
知尋は言いながら、やる気満々だ。しかしここは道が狭く、一歩踏み外せば数メートル下の水路まで落下してしまう。大人数で戦うのは無理がある。奏多が腕を組む。
「なんか、放っておいても自爆しそうですけどね。こう、足を滑らせて仲間を道連れに落下、みたいな。あんな速さで走ってきたら」
「瑛士、火を消して」
急にそう言ったのは蛍だ。ゆっくりと前に進み出る。蛍が何を思いついたかは分からないが、瑛士は即座に火を消した。途端に周りは漆黒に包まれる。
「どうするの、蛍?」
奈織が小声で聞く。
「私が迎撃する」
「え!? こんな暗いのにひとりで……」
「闇は人間に恐怖をもたらす。私、訓練したからはっきり周りの景色見えてる。心配しないで」
どのみちこの場所では、一対一が基本の戦闘となりそうだ。知尋が微笑んだ。
「じゃあ、私が敵の明かりを消しましょう」
相変わらず、楽しそうな声である。
瑛士が灯していた明かりが消えて目標を見失った青嵐騎士たちは、一応ゆっくりこちらに前進してきた。そこで、ふっと数人が持っていた火の神核が消えてしまう。慌てて点けなおそうとした瞬間、横合いから人間の形をした風の塊が飛来した。
悲鳴が連鎖した。次いで、下の水路へ落下した者が派手な水しぶきを上げる。通常の人間なら絶対に飛び越えられない通路と通路の間を、蛍は尋常でない跳躍力で飛び越えて敵に攻撃し、すぐさま跳躍を繰り返して別の場所を襲う。まるで複数の敵が襲っているかのように見せかけたのだ。正体のわからない敵からの攻撃にうろたえ、恐怖した騎士たちは次々と自ら足を踏み外して水路へ落下していく。刀をむちゃくちゃに振り回して味方を斬り、恐怖のあまり走り出して宙を踏み、そのまま落ちる。蛍は最小限の動きしかしていないのだが、あっという間に敵を混乱に陥らせたのだ。
やがて悲鳴が終わり、悠々と蛍が戻ってくる。敵の激しい自滅に、みな唖然とするばかりである。
瑛士が神核をつけ直したところで、今度は後方で笛が鳴る。瑛士が舌打ちする。
「ちぃッ、今度は後ろか! 蛍、先頭任せる。奏多は真澄さまを!」
瑛士が神核を夜目の利く蛍に渡し、頷いた蛍が駆けだす。宙が追いかけ、真澄を支えた奏多が続き、奈織と知尋が走り出す。瑛士は殿だ。
「目的の出口はここからまっすぐ南、四つ目の階段だ」
真澄が指示し、蛍が「オッケー」と答える。「オッケー」という聞きなれない単語にみな首をかしげたい気分だったが、とりあえず了解したようなのでみな何も言わなかった。
大人ふたりが肩を並べてやっと歩けるほどの幅しかない道だ。自然と隊列は縦に伸び、追手が続々と近づいてくる。
ひとつ目の階段を通り過ぎる。二つ目も通り過ぎた。三つ目に差し掛かったところで、知尋がはっとして足を止めた。
「! ……ちょっと待ってください」
先を進んでいた蛍らが停止する。知尋は階段を見上げた。
「間違いない……大神核はこの上です」
「この上は地下牢だが……」
真澄が呟くが、知尋の言うことなのだから信じるしかない。もともと仮の目的地が研究棟だっただけなので、そこに絶対神核があるとは言い切れなかった。地下牢にあるとしても、それが真実なら仕方がない。
「みんな、上がれ」
真澄の指示でまず宙が階段を駆け上がった。人の気配がないことを確かめて、他の仲間に合図する。と、蛍が瑛士に尋ねる。
「瑛士、この神核捨ててきてもいい?」
「捨てる? 構わんが、何するつもりだ」
「あいつらともう少し追いかけっこ。適当なところで神核を捨ててくる。すぐ行くから、階段の上で待ってて」
蛍はそう言い、神核を片手に駆けだした。追っ手は神核の光を目指して追いかけてきている。蛍がそれを持ってさらに逃げることで、騎士たちは瑛士らに気付くことはないだろう。
ここまできてやめろと言うことはできなかった。蛍は敵に追われながら丁度真反対の階段の下にたどり着き、階上へ向けて思い切り神核を投じた。これで騎士たちは、蛍が上へ行ったと思うだろう。蛍はそのまま水路を飛び越え、元の場所へ戻ってきて素早く階段を上がる。瑛士が踊り場で息をひそめて待っており、合流後、すぐにふたりは階段を上がった。
鉄ごしらえの重い扉を、奏多が押し開けた。地下水路と変わらず、ひんやりと冷たい空気が漂っていた。真澄も瑛士もあまり足を踏み入れたことのない地下牢だが、知尋が迷わず進んでいく。大神核の気配を追っているのであって、知尋自身も地下に詳しいわけではない。
玖暁の牢は牢といっても、それなりに清潔で、罪人であっても人権は確保されていた。そのため決してあってはならなかった拘束用の鎖、拷問器具などが、なぜかいまこの空間に存在している。青嵐人たちが持ち込んだのだろう。おそらくここに捕えられているだろう李生や矢須のことを考えると、真澄は肝が冷えた。
看守はいない。だいぶ薄い警備だ。捕虜に構う暇はないということだろうか。だとすれば、なおさら捕虜である玖暁騎士たちの扱いは酷いはずである。足早に角を曲がっていくつかの牢の前を通り過ぎ、知尋がある牢屋の前で立ち止まる。鉄格子越しに向き合った人物を見て、真澄が目を見張った。
「李生……!?」
「……! 真澄さま」
壁に寄りかかって腕を組み、目を閉じていた李生がはっとして顔を上げ、次いで顔をほころばせた。
「ああ、知尋さま、御堂団長も。良かった……」
「李生、お前こそ大丈夫なのか!? 怪我は……!?」
瑛士が尋ねる。李生の足首は鎖で繋がれていたが、それ以外は案外元気そうに見えた。李生も頷く。
「実は、少し前に神核エネルギーを無理矢理使われてしまいまして。多少なら人体に影響ないとかで、骨折の類は完治してしまいました。むしろ体調はいいです」
「そ、そうだったか……良かったのか、良くないのか、何とも言えんが……無事ならいいんだ」
瑛士がほっと胸をなでおろす。真澄は知尋を振り返った。
「ところで、大神核は……?」
「……李生。何か持っていない?」
知尋が問いかけると、李生はおもむろに懐から大きな紫色の神核を取り出した。淡い光を発している。
「これ……のことですか?」
蛍が身を乗り出す。
「それが『神雷』!」
「どうして李生が……?」
真澄がもっともな問いをする。
「矢吹佳寿という男から渡されました。いずれ真澄さまがこれを探してここにやってくるから、と」
「矢吹が!? どういうつもりなんだ……?」
瑛士は腕を組んだが、真澄は自分の仮説通りの展開に眉をひそめた。矢吹佳寿はあえて真澄に大神核を集めさせている。いずれすべてを横取りするつもりで――。
李生が静かに立ち上がる。鎖がじゃらりと鳴った。まっすぐ真澄と向き合う。
「真澄さま」
「……ん?」
「矢吹はこうも言いました。これを真澄さまに渡したら、真澄さまがどうなるか分からない、と」
「私がどうなるか分からない……?」
「罠でしょうか」
知尋が呟く。真澄は頷いた。
「そうかもしれないな」
「真澄さまが本当にここへ来たとき、これを渡していいものなのか。随分考えたのですが、結局答えは出せないうちに、真澄さまはここへ来てしまった」
李生が苦しそうに言った。真澄は一歩前へ進み出る。
「李生、私の呪いはこの神核がなければ解くことができない。ここには、これを手に入れるために来た。例え罠であったとしても……」
「……そうですか。では俺は、真澄さまを信じます」
李生はそう言い、格子の隙間から腕を出して大神核を真澄に差し出した。真澄が手を伸ばし、大神核に触れた。――まさにそのとき。
真澄の身体がびくりと硬直した。と同時に、ほんの少し大神核に触れたその指先から、強大な魔力が真澄の身体に流れ込んだ。
「ッ!?」
真澄の身体が光る。その身体は崩れ落ち、慌てて瑛士が主を支える。大神核は床に落ちて転がる。
「真澄!?」
知尋が兄の傍に駆け寄る。真澄は苦しげに目を瞑っている。呼気は荒く、大量に発汗していた。
「な……にか、が……神核に、触れた瞬間に……私の、身体に流れて……」
真澄が呟く。
神核から流れ込むものは魔力、つまり神核エネルギーしかない。だが通常、触れたくらいで神核のエネルギーは流れ込まない。しかしはっとした知尋は真澄の呪いの紋章を見る。少し前に見た時より、その色は確実に赤みを増していた。ここ最近の進行の速度を遥かに上回る色の変化である。
「呪いが進行した……!? 神核に触れたせいなのか!?」
宙が誰にともなく尋ねる。知尋が舌打ちしたげな表情になる。
「そうか……真澄に呪いを刻んだ大神核は『神炎』だけれど、この『神雷』も同じ呪いの効果を持つ大神核なんだ。きっと残るひとつもそうなんだろう。そして真澄は、体質的に雷の神核の力の影響を最も受けやすい。これだけ大きな神核なら尚更……だから、触れた瞬間に力が一気に真澄の身体に流れ込んだ」
「それで呪いが進行した……」
「神核の魔力は、王冠が身に注入するエネルギーと等しいものだ。今の一瞬で、真澄の身体にどれだけのエネルギーが流れたか……人体に悪影響を及ぼすという量は、とっくに超えている。抵抗力が弱まれば、当然呪いの進行も速くなる」
李生や宙程度のエネルギー注入者なら、身体が丈夫になる有効量である。少し多くなれば、身体能力が倍増するが効果が切れると急激に衰える。王冠はこの量だが、真澄はそれよりもっと多量で、有害なだけだ。李生が苦い顔になる。
「申し訳ありません……!」
「李生のせいじゃないよ。これは……仕方がなかった」
知尋は言いながら、床に転がった大神核を拾い上げる。知尋が持ってもなんら影響はなかった。李生は沈黙する。
「なぜ矢吹がさも罠があるように言って李生にこれを渡したのか……おそらく矢吹は、神核に触れた真澄がこうなると知っていたんでしょう。そして自責の念に駆られた李生に付け込もうとした。――そんなところじゃないかな」
知尋の言葉に李生が我に返る。知尋が微笑んで頷き、李生も目を閉じた。と、瑛士が刀を抜き放った。
「牢を開ける。外に出よう、李生」
「! いえ……俺はここに残ります」
その言葉にみなが目を見張る。李生は顔を上げた。
「今ここで俺が皆さんに助け出されるのは……矢吹の思惑通りになる気がします。だから俺はここに残ります。いずれ真澄さまたちが、皇都奪還に乗り出されるその日まで……」
「しかし……!」
「ここには多くの部下たちも囚われている。俺は、来たるべき日になったら彼らを解放してまとめなければならない」
瑛士が渋ったとき、遠方で人の声がした。知尋が立ち上がる。
「迷っている暇はないね。李生……必ず戻る。それまで、もうしばらく耐えてほしい」
李生は笑みすら浮かべ、静かに頷く。それは知尋を絶対的に信頼するがゆえの笑みだ。瑛士が片手を牢に滑り込ませ、何かを李生の足元に滑らせた。それは腕ほどの長さしかない脇差だった。
「それ一本でも、何かあったときの役には立つな?」
「有難う御座います」
李生が礼を言い、それを懐に滑り込ませる。瑛士が力を失った真澄を背負った。とっくに真澄は意識を失っている。蛍が先導して駆け出す。
「奏多!」
李生が呼びかける。奏多は足を止め、旧友と十五年ぶりに向き合った。ゆっくりしている場合ではないのだが、生来のマイペースはここでも力を発揮し、奏多は場違いなほど穏やかに微笑んだ。
「無反応だから、気付いていないのかと思ったよ。李生」
「それはこっちの台詞だ。……変わらないな。その空気読めないところ」
宙が不安げに顔を出す。
「李生さん……俺……」
「大きくなったな、宙。ちゃんと覚えてるよ。もっとも、お前が俺のことを覚えているのかが怪しいところだと思うけれど」
李生の言葉に、ほっとしたように宙が微笑む。宙が李生と別れたのは二歳のときで、勿論宙は李生のことをぼんやりとしか知らない。それでも奏多がいつも聞かせてくれた「隣のお兄ちゃん」のことが、宙は好きだったのだ。
「奏多、真澄さまと知尋さまを頼む……俺の分まで」
「任せろ。思い出話は、いずれまたゆっくり」
李生の言葉に、奏多はしっかりと頷いた。そして軽く手を振り、その場を後にした。




