9 戦友から親友へ
ゆっくりと意識が浮上してきた。見慣れない汚い天井が視界に入り、「どこだここは」と自分の居場所を失念する。やがてここが皇都、瑛士の名義上の家であると言うことに気付いた。
何が自分の意識を目覚めさせたのか、その正体はすぐわかった。ぼろい家ならではの、階下から漂ってくる夕食の匂いである。微かだが、宙と昴流の楽しそうな言い争いの声が聞こえ、それを瑛士が仲裁している声、それに応じる賑やかな笑い声が聞こえてくる。
ああ、自分が望んだ一般市民としての生活、一般市民としての家族。それはこんな感じなのかもしれない。争いとは無縁の、穏やかな夕暮れ時だ。
ぱたぱたと階段を上がってくる音がする。真澄が身体を起こすと同時に、扉がノックされる。
「真澄さま、起きてます?」
巴愛の声だ。掠れた声を元に戻すため咳払いを挟み、真澄が答える。
「今起きた」
その声で扉が開く。戸口で巴愛が尋ねる。
「具合どうですか? お夕飯できたんですけど、食べられそうですか?」
「ああ……うん、頂くよ」
「良かった。じゃあ、持ってきますね」
「……いや、私も下に行く」
真澄がそう言って寝台から降りた。巴愛が驚いたように振り返る。
「大丈夫なんですか?」
「少し眠ったら調子が良くなった。もう久しく、みなと一緒に食事もできていないから、調子がいい時はなるべくそうしたいんだ」
巴愛は微笑み、頷いた。
真澄を交えての食事は本当に久々で、かつ穏やかだった。大家族の食卓と言ったところだろうか。こんなにのんびりしていていいのかと思うほどにゆっくり時間が過ぎていった。食事が終わった後はやや真面目に、皇城潜入の作戦会議となる。真澄も黎が所持していた地下水路の地図を見て感心を通り越して呆れていた。
「地下水路の出口は皇城内のいくつかの場所に繋がっている。大神核があるとすれば、研究棟かな」
真澄の言葉に知尋も頷く。ぴんと来なかった巴愛に、昴流が「図書館の隣にあるんですよ」と耳打ちする。知尋が昔から入り浸るところである。
「研究棟なら出口はここが一番近い。まずはこの出口を目指すこととしよう」
地図上の出口の一つを真澄が指差す。その出口は地下水路を入ってすぐのところだ。本当にそこにあるなら儲けものだが、果たしてそううまくいくか。それは誰にもわからないが、とりあえずの目標がなければ行動もできないのである。
「……さて、問題は誰が行くかだな」
真澄が腕を組んで目を閉じる。瑛士がちらりと真澄を見やった。
「真澄さまは……行くんですよね?」
「私のことだからな」
「ですねえ……じゃ、俺も行きますよ、当然」
真澄と瑛士、知尋、蛍までは確実だ。巴愛はこの家で待機ということになるだろう。護衛の昴流も一緒だ。では、残りは一緒に行くか?
「……すまない。私はここで留守を守る」
そう宣言したのは黎だった。みな驚いた顔をしたが、瑛士と知尋と奈織は微妙な顔をした。
結局、黎、昴流、巴愛が留守を守り、残りの者で皇城に潜入することになった。黎は残る理由を、誰にも言わなかった。
★☆
夜、仲間たちがそれぞれ決めた部屋に引き取った後、かろうじてリビングと呼べる部屋には黎が一人でいた。おもむろに右手を上げ、その手で右目を覆う。その瞬間、黎の視界は真っ黒に塗りつぶされた。
「……見えるか?」
急に声をかけられたが、別に黎は驚きはしなかった。視界が利かなくなっている分、気配には敏感なのだ。いつから気付いていた、などと問いもしない。
「もう、見えないな」
瑛士は黎の向かい側に座った。そして息を吐き出すように促した。
「……理由、話せよ」
「……信用できないか? 私が戦力になるかどうかが」
「そういう意味じゃ……いや、そういう意味もあるんだけど。むしろ、純粋に理由を知りたいだけだ。お前の左目が見えないなら、俺がお前の左を務めたいからな」
「そんなときの、はあい、これ!」
唐突に割って入ってきたのは奈織である。ぎょっとした瑛士の目の前に、ワインの瓶が差し出される。
「な、なんだよこの酒?」
「さっき買い物行ったとき買ったの。兄貴にも気づかれずにね」
黎が不本意そうに眉をしかめる。気付かなかったのは真実らしい。
「兄貴の思い出話なんて聞いても楽しくないし、酒でも飲みながらじゃないと、とてもじゃないけど聞けないよ。だからまあ、ほら」
「こんな時に飲んでいいのかねえ……」
と言いつつも、奈織が気を利かせて用意してくれたグラスまで渡されてしまうと、瓶を空けないわけにもいかなかった。何より、決戦前夜に酒を飲んだと言う証拠を隠滅しなければならない。
奈織はさっさと部屋に戻っていった。結局瑛士はワインを開け、黎は思い出話をぽつぽつと語りだしたのだった。
「……私は、依織の貧民街で生まれ育ってな」
「貧民街?」
「ピンと来ないか? まあ、照日乃には『貧民』と括られる者はいないようだからな。陛下が生活を保護しているのだろう?」
瑛士は頷いた。真澄は民の生活が苦しくないように、一定以上の所得がない者には金を支給し、仕事を探してやっている。そうやってここ十年、民衆の生活は大幅に改善されていた。
「いま狼雅さまも同じように生活を保護している。が、前王はそんなことをしなかった。貧しい者は下へ下へと追いやられ、やがて『貧民街』という貧しい者と汚物の溜まり場が形成された。私はそんなところで暮らしていたんだ。今もまだ……そこに住む人たちは多い」
黎はワインのグラスを傾けた。今いるここも、皇都の中では下町と呼ばれる場所だ。だが、彩鈴の貧民街はこんなものではなかった。貴族たちの出したごみが行き着く最終地点。家を失って餓死・凍死する人が路傍に転がっているのは日常茶飯事。子供たちは毎日毎日ごみの山を漁り、金属の部品でもあれば拾い集めて売り、その日一日の食料の金銭を手にする。最初からそこに住んでいた者はまだしも、商売に失敗して平民街から落ちてきた者の末路は、いつも同じ「飢え死に」だった。
「貧しいと言ってもそれなりに暮らしていけていた。あの頃の生活は思い出したくもないが……なんとか生きていけていた。だが、奈織が生まれて半年ほど経って、父が軍に徴集された」
「徴集……」
「いや、徴集という表現は適切ではなかった。強引に連れて行かれてしまったんだ。青嵐へ送る諜報員としてな」
「! そういえば、奈織が……」
瑛士は、彩鈴へ向かう途中の大山脈で奈織から聞いた話を思い出す。「無駄な知識がないほうがうまくいく諜報には、貧民層の人間を使うことが多い」と。その家族には多額の金銭が支給されるから、喜んで家族を差し出す人もいるくらいだ、と。
「うちの母は反対していた。が、父は家族のためにと納得して青嵐に行ったようだ。その結果……三年ほどして、父の正体がばれ、青嵐で処刑されたと通告が来た。ろくに戦うことすらできなかった父が三年も保ったんだ、大したものだと思うよ」
実の父親にそんな言い方、と瑛士は思わないでもないが、黎の悔しそうな表情を見て何も言えなくなった。本当は誰よりも、父の死を悲しんでいたのだろう。
「三年の諜報活動の中で、我が家に支給された報酬はかなりの額だった。これなら貧民街を出ていけると思うくらいに……だが母はそうしなかった。父を死なせて得た金で生きようとはどうしても思えなかったらしい。いつか俺と奈織が大人になったときのために貯めておくのだと言って、手をつけずに働いた。そして母は死んだ。俺が十六で、奈織が七歳のときだ」
黎の素が出てきた。奈織の前でしか使わなかった一人称「俺」が口から出ているが、黎はそのことに気付いていないようだった。
ところで、この話からどうやって黎は騎士になって狼雅の傍仕えになったのだろう。どうして左目を失明することになったのだろう。そこが瑛士にはまったく見えてこない。確か狼雅には恩があるとか言っていたが。
「俺だってまだ子供だった。七歳の妹を抱えてひとりで生きていくのは、本当に辛かった。何が原因でこうなったのだろうと考えてみると……父が諜報員にされたことがそもそものきっかけだと思った。それは誰のせいだ。この国に諜報なんて仕事があって、それを行わせる国王が悪い。国王が悪いなら、宮廷にいる者全員が悪者だ……とまあ、そんな短絡的な考えに至ったわけだ。父を直接的に殺した青嵐の政府ではなく、民を死なせに向かわせた自国の政府を恨んでしまった」
黎の空になったグラスに、瑛士は酒を注いでやる。
「諜報なんてものがあるから父が死に、母が死に、自分と妹がこんな苦しい目に遭う。そう思った俺は、復讐してやろうと思ったわけだ」
「復讐? 誰に?」
「しょっちゅう平民街にお忍びでやってくる、変わり者の王太子にだ」
「……それって」
「ああ、狼雅さまのことだ。いつものように数人の護衛を連れてやってきたあの人を殺してやろうと思った。諜報を憎む気持ちで貧民が王太子を殺すんだ、そうすればこの国も少しは変わるのではないかと期待して」
「お前って奴は……」
瑛士は呆れるしかない。王太子をただの庶民である黎が殺そうとするとは、なんとも大胆な発想である。当時の黎には、そんなことをして奈織がどうなるか、考える余裕はなかったのだろう。大体の場合、暗殺者の家族もろとも死刑となる。
「刃物と言えば包丁くらいしか持ったことがなかったが、それでもいけると思ったのは愚かだったな。狼雅さまに斬りかかったがあっさり避けられ、護衛の騎士の刀が左目を直撃した。酷い痛みで気を失い、目が覚めたときは病院にいた。しかも、傍には狼雅さまと奈織までいた」
「治療……してくれたのか」
「何の罠かと思ったよ」
黎が小さく首を振った。
★☆
「おう、起きたか」
声がしたのでそちらを見やったが、声の主は見えない。左目は包帯で覆われていたので、仕方なく首ごと動かす。と、そこには自分が殺そうとしたはずの王太子・樹狼雅と、狼雅と手を繋いでいる妹の奈織がいた。黎は無事な右目を大きく見開いた。
「奈織……!」
「左目付近の傷は完治するってさ。ただ、視力は著しく落ちたらしいし、将来的には失明するかもしれないが……まあ命があっただけ満足しろよ」
狼雅は朗らかにそう言ったが、黎はそれどころじゃなかった。奈織がここにいるということは、もう黎の身元は割れているのである。遠近感と平衡感覚を失ってふらふらする身体に鞭打ち、黎はベッドの上に飛び起きた。
「奈織から手を離せ! 何の真似だ!」
「おおっと、命の恩人に酷い言い草だな。まあいいや、ほれ」
狼雅はあっさりと奈織の手を離し、兄のほうへ行くよう言った。奈織は「兄貴ぃ」と言いながら黎にすがりついた。妹を抱きしめてやりつつ、黎は狼雅を睨む。狼雅は肩をすくめた。
「そんな顔で睨むなよ。俺は別に、お前ら兄妹を殺すつもりはないぞ」
「どうして……状況分かってるのか!? 俺は貴様を、殺そうとしたんだぞ……! なんで、助ける……?」
「死んじまっていいのか? そんな小さな妹残して、お前は死ねるのか? そいつは無責任ってもんだ」
言葉に詰まった黎をよそに、狼雅は堂々と病室内の椅子に座る。
「さてと……時宮黎くん。生憎だが俺は、お前に殺されるほど恨まれている覚えがない。以前に会った覚えもない。で、そんなお前が俺を殺そうとした理由は、お前の親父さんが諜報員として青嵐で殺されたからかな?」
やはり調べられていた。黎は無言を貫いたが、狼雅はそれを肯定と受け取った。
「それで俺を憎むのは筋違いってもんじゃないかね。お前の親父さんを殺したのは俺じゃなくて、青嵐の政府の人間だ。復讐なら、そっちにするべきじゃないか?」
「誰が父さんを殺したかなんて分からない。地道に犯人捜しなんてできない! けど父さんに諜報を命じた奴の一族なら、俺の手近にいる! 誰か憎まないと、俺はやっていけなかった!」
「成程。人間の心理だな。国王が諜報を命じたから、息子である俺を、か。良い見せしめかもしれないが、もし成功していたとしても諜報活動はなくならなかったと思うぞ」
狼雅はそう言って腕を組む。
「国王である俺の父親はな、民衆を自分の道具だと思っている。情報を得て他国に売りつけるっていう金儲けしか頭にないんだ。その点では、俺ですらあいつの道具に過ぎない」
「……王太子なのに?」
「そう。加えて俺は真っ向から親父に諜報活動の規模縮小を願い出ている。親父にしてみりゃ、疎ましい存在だろうよ」
黎は目を見張った。このふざけた王太子が、諜報活動の規模縮小を願っている? そんな話は初耳だった。
「なあ黎、変えてやりたいとは思わないか。この、ふざけた彩鈴って国をさ。諜報で人を死なせる必要がない、そんな新しい国に俺はしたいんだ。どう?」
「……どう、って……」
「一緒にやらないか」
「はあ?」
黎は拍子抜けした。狼雅はにっと笑う。
「この国を変えたいって思っている奴らに声をかけて、俺は組織を作っているところなんだ。組織っつっても、まあ同じ考えの奴らの集まりってだけだが」
「もしかして、それに俺を勧誘してる?」
「ああ」
「……あんた、分かってるのか。俺はあんたを殺そうとしたんだぞ。その未来が実現しない限り、俺はあんたを殺したいほど憎み続ける」
「構わんよ。だって、実現するからな。俺が王になったとき力を貸してくれ。そうすれば俺は諜報制度を廃止してやる。時間はかかるかもしれんがな」
その自信はどこから来るのだ。黎より幾つも年上のはずなのに、なんだか色々立場が逆のように思えてきてしまった。
「お前が選んでくれるなら、生活は保障する」
「別にそんなもの欲しくない」
「ちなみに俺の勧誘を断った場合……」
「殺すのか」
「いや、殺さん。王太子を暗殺しようとした、その罰金を払ってもらう。加えて、怪我の治療費っていう借金もあるぞ。当然だが、犯罪者はどこの国も雇ってはくれん。処刑よりマシととらえるかどうかは、お前次第だな」
黎は脱力した。
「その点、俺の話を受ければ暗殺未遂も治療費の話も全部なしだ」
「それ、俺に選択の余地はないじゃないか!」
「ああ、あえてそう言った」
黎は奈織の髪の毛を撫でながら、ぽつりと言った。
「俺が欲しいのは……奈織の安定した生活だけだ。ちゃんと学校行って、やりたいことをやらせてやりたい。あんたはそれを……俺に誓えるのか」
「お安い御用だ。なんなら跪いてやろうか?」
「……遠慮する」
ちょっと信用ならなかったが、選択の余地がなかった黎は、苦渋の決断で狼雅に仕えて騎士になることになってしまったのである。黎に与えられた任務は、諜報制度を支持する強硬派を斬り捨てること。狼雅の剣としての任務だ。それを受け入れた際黎と狼雅は約束をする。「諜報に変わる彩鈴を作り出す。もしできなかったら、いつでも黎は狼雅を見限る」と。狼雅はいまだに、その約束を忘れていない。
★☆
黎がそんな話を語り終えた際の瑛士の一言は、短かったが核心をついた。
「なんというか……成り行き任せだな」
「俺もそう思う」
黎は憮然として呟いた。
「だが狼雅さまは約束を守ってくれた。奈織を学校に通わせ、神核研究に携わらせることができたのも、あの人のおかげだ。俺もようやく、自分の間違いに気づいた。もう……狼雅さまを殺したいほど憎むことはない」
たまにむかつくけれど、と黎は言ってはならないことを付け加えた。
「左目の視力は年々低下していてな。それでもまだ辛うじて見えてはいたんだが、やはりもう駄目らしい。丁度いい機会だから、お前たちが出かけている間にこの感覚を掴んでおく。……戦えなくなることはないから、安心してくれ」
「ああ。お前と昴流がいれば、滅多なことはないだろう。……にしても黎、お前酒が入るとよく喋るなあ。奈織の差し入れは的確だったわけだ」
その言葉にぎょっとした黎が眉をしかめる。と、違和感がなかったので聞き逃してしまったが、瑛士が自分のことを下の名で呼んだことに気付く。と同時に、彼に対して封印していた「俺」という言葉で話してしまっていたことにも気づいてしまった。
「なあ黎。最初にも言ったが、俺はお前の左側に立つよ。だからそう心配するな。これでも俺は十年以上、あの無鉄砲な真澄さまの左を務めてきたんだ」
左はただでさえ死角になりやすい。瑛士は長年、その死角を補ってきていたのだ。黎がふっと笑う。
「それは、兄皇陛下もさぞ大変だっただろうな」
「大変なのは俺だ! 真澄さまは俺以上に戦場で恐れを知らない人なんだぞ」
むきになった瑛士に黎は改めて笑みを浮かべ、ぽつっと呟いた。
「有難うな……瑛士」
――友人、か。
若くして騎士になり、平民のくせに狼雅に贔屓され、出世を続ける時宮黎という男は、他の騎士から見れば憎悪の対象だった。だから意識的に親しい者を作らなかった。そのため「友」という概念がよく分からないのだが――御堂瑛士は同じ目的を持って戦う同志で、戦友だ。けれど今はそういう関係じゃなくて、ただ純粋に「仲が良い」関係になりたいと思っている。つまり、この旅が終わっても交流がずっと続くような、ありふれたただの「友人」だ。
戦友から親友へ。
人生の中にひとりくらいそういう人物がいたほうが、楽しいのかもしれないな。




