2 夜が明けて、やはりこれは現実で
翌日目が覚めたとき、もう日は高かった。部屋の中はやはり昨日と同じ見知らぬ場所で、もしかして夢だったのではと期待していた巴愛はショックが大きかった。
やはりこれは現実だ。あたしは日本ではないどこかに来てしまった。
身体を起こすと、きゅるきゅると腹の虫が鳴った。こんな状況でも腹は減るのだと、自分に呆れる。そういえば昨日から丸一日何も食べていない。
部屋を出てみようか。でも勝手にどこかへ行けば問題になるかもしれないし、そもそもここがどこだか分からないのだから迷うに決まっている。大人しくしているべきか、と思い直した。あの優しそうな真澄と知尋のこと、ほったらかしにはしないだろう。……たぶん。
と、扉がノックされた。よく考えてみると扉は押し引きするタイプのもので、扉も窓も障子ではなかった。まあそれはどうでもいいとして。
飛び上がった巴愛は、裏返りかけた声で返事をした。
「は、はい!」
扉が開いて、人が入ってくる。真澄か知尋かと思ったら、また別の人だった。黒い質素な着物を着た、多分巴愛と同年代くらいの若い男の人。
その人は巴愛に深く頭を下げ、顔を上げてから口を開いた。
「失礼いたします。本日これより巴愛殿の護衛に任じられました、玖暁騎士団団長旗下所属、小瀧昴流と申します。以後、よろしくお願いします」
巴愛「殿」!? まさかそんな敬称をつけられることになるとは。
「は、はあ……」
曖昧に頷くと、不意に昴流の表情が和らいだ。にっこりと笑うと、どこにでもいそうな好青年にしか見えない。
「……なあんて、長ったらしく名乗っても仕方ないですよねえ?」
「――へ?」
「ご飯食べます? 一応持ってきたんですけど」
堅苦しい人かと思えば、なんだこの砕けようは。
昴流は廊下に置いてあったらしいワゴンを引いてきた。その上には食事が乗っている。それは何かというと――明らかな洋食。素材に違いはあるだろうがロールパンにスクランブルエッグ、野菜のスープといったメニューだ。
膳でも出てきたらそれっぽかったのに、着物着た人たちがナイフとフォークで食事するなんて。想像するだけで笑える。
そもそも、日本人として、着物は「和」、ナイフとフォークは「洋」という先入観があるから奇妙に思えるだけだ。この世界は「着物を着た人たちがナイフとフォークで食事をする」という文化であり、常識なのだ。早くそれに慣れ、割り切らないとこの先生きていけそうにない。
昴流はてきぱきと食事を机に配膳していた。その手つきは滑らかで見事なものだ。巴愛を席に座らせ、自分はその向かい側に座る。このとき巴愛は「自分も座っちゃうんだ」と密かに思ったが、別に執事ではないのだから構わないだろう。
「食べられそうですか? 戦時中なんでこんなものしか出せないんですけど」
「大丈夫だと思います……ええっと、小瀧さん?」
「昴流でいいですよ。ほら、僕、素はこんな感じですから。堅苦しいのは好きじゃないんですよ」
昴流は言いながら、コップに水を注いだ。これも戦時中なので、紅茶やら珈琲やらは出せないそうだ。
「じゃあ昴流……あたし、いや、私の護衛って、どういう意味ですか?」
「護衛というより、話し相手というべきでしょうか。巴愛さんにとってここは未知の世界なのでしょうから、いろいろ説明を、と。そうでもしないと暇でしょう?」
確かにその通りである。
だが昴流は騎士だという。刀を差しているからには戦うためにここにいるはずだし、巴愛の話し相手をするなど彼には面倒なことだろう。
「ごめんなさい。私のために面倒なこと……」
そう謝ると、昴流は吹き出した。
「いやだなあ、謝らないでくださいよ。むしろ僕は嬉しいんです。巴愛さんは皇陛下直々の賓客、つまり国賓です。そんな人の護衛を任されるなんて、大抜擢なんですよ。陛下ともお近づきになれますし」
「陛下って?」
慣れない単語を聞き返すと、昴流が首をかしげた。
「あれ、昨日お会いになったはずですよ?」
「昨日会った……?」
昨日会ったのは真澄と知尋以外にはいない。皇なんて――。
……まさか?
導いた結論を口に出そうとしたとき、またしても扉がノックされた。昴流が立ち上がって扉を開けた。その途端、砕けていた昴流の雰囲気が一瞬で張りつめられたような感じがした。
昴流が来客に頭を下げ、壁際に控えた。そして現れたのは真澄だ。今日の着物は濃い緑である。だからといって新しいものでもないようで、かなり着古されて身体に馴染んでいるようだ。これもやはり戦装束か。
「食事中だったか、すまないな」
「いえ……おはようございます」
「ああ、おはよう。……というには少し遅い時間かな」
真澄は微笑んだ。――やっぱりこの人の笑顔は、すごく優しい。
「昨日はよく眠れたか?」
「はい、熱も下がったみたいです。知尋さんにもお礼を言いたいのですが……」
「あいつもなかなか忙しいからな、今日は直接会えないかもしれない。……私でよければ、知尋に伝えておくぞ」
「あ、ならお願いします」
頷いた真澄はちらりと壁際に立つ昴流に視線を送る。すぐに巴愛に視線を戻した。
「……小瀧とはうまくやれそうか?」
本人がいる目の前でそんなこと聞くなんて。少し戸惑ったが、巴愛は頷いた。
「はい」
「まあ、だろうな……会って早々、楽しそうな声がしていたことだし」
昴流が無言でばつが悪そうな顔になる。
「小瀧は騎士団長が直々に推薦した男だ。剣の腕もたつし教養もある。護衛としても話し相手としても最適だろう。それは私も保証する。本当ならば私か知尋が傍にいてやれればいいのだが、なかなかそういう訳にはいかんのでな」
巴愛は真澄を見上げた。
「また今日も、戦うんですか?」
「……ああ。ここは完全防音だから聞こえなかったと思うが、昨日も夜通しでこの砦は敵の攻撃を受けていたのだ」
「えっ!?」
まったく気付かなかった。攻撃の中で巴愛はのんびりと眠りを貪っていたのだ。そう思うと申し訳なくなってくる。
「だが心配は無用だ。ここは我が玖暁が誇る要塞『天狼』。この砦と騎士団がある限り負けはない。そしてこの戦いは、今日で終わる」
決して大袈裟には思えない、静かな自信。その言葉はとても心地よく響いた。
「だから安心して待っていてくれ。戦いが終われば君ともゆっくり話ができる。このあとのことは、そこで決めよう」
「はい……あの、気を付けて」
結構勇気を出して巴愛は無事を祈った。真澄は頷き、踵を返す。そして、壁際に立つ昴流の前で足を止めた。
「小瀧、彼女のことを頼んだぞ」
「お任せください。……ご武運を」
かしこまって昴流が頭を下げた。真澄はそうして部屋を出て行った。
真澄が退室してすぐ、昴流が深い息を吐き出した。この人はオンとオフの差が激しい人だ。
「はああぁ、緊張するなあ……ところで巴愛さん、さっきの話しぶりから察するに、あの方がどういう人かご存じありませんよね?」
問われた巴愛は素直に頷いた。昴流が頭を掻く。
「この玖暁皇国には、二人の皇が存在するんです。双子の兄弟で、兄を兄皇、弟を弟皇と呼びます。で、真澄さまは兄皇陛下、知尋さまは弟皇陛下なのですよ」
「……私、皇さまに助けてもらったの?」
「そうですね」
「で、今の人が皇さま?」
「その通り」
皇さまといえばこの国で一番偉い人。逆らったり無礼を働いたら処刑される。巴愛が皇に抱く印象はその程度で、みるみる血の気を失った。
「やだっ、そうとは知らずにっ……!」
パニックに陥った巴愛を、苦笑して昴流がなだめる。
「まあまあ、身分を名乗らなかった陛下も陛下ですよ。もうお分かりでしょうが、おふたりとも身分とかそういうの気にされない人ですから。別に巴愛さんが陛下を呼び捨てても、陛下は許しますよ」
「で、でも。皇さまは気にしなくても部下の人とか気にするでしょう!?」
「それはまあ。けど、戦地に口うるさい廷臣はいませんよ。いるのは陛下に命のすべてをお預けすると決めている騎士たちだけです。陛下の性格に感化されて、まあ楽しい人たちが多いですよ」
「楽しい……?」
「簡単に言えば仲良いんです。騎士同士も、騎士と陛下も」
僕みたいな緩いのがいる時点で変でしょう、と昴流が笑ったが、否定できないことが複雑だ。
「いいですか、貴方は昨日急に戦場のど真ん中に現れたんです。それを陛下が見つけ、助けた。戦場で戦えない者を抱えるのは非常に過酷なことなんです。それに貴方は明らかに怪しい人間だったし、陛下が巴愛さんを斬って捨てても誰も責めはしなかったんですよ。だけど陛下はそうせず、巴愛さんを守りました。砦に戻ってからは弟皇陛下も必死で貴方の治療をして。出陣前で慌ただしいこの時間に兄皇陛下は様子を見に来て……巴愛さんは、両陛下からとても大事に扱われているんですよ」
そう諭され、巴愛は黙った。手厚く看病してもらい、護衛までつけてもらい、容体も気にしてくれている。本当に、見ず知らずの巴愛のことを守ろうとしてくれているのだ。
真澄の姿が脳裏に浮かんだ。戦場で目を覚ました時、彼の血にまみれた姿は「怖い」と思った。けれどそのあと差し出してくれた手は温かく、守られている間真澄の身体は力強かった。声も低く落ち着いていて、笑顔もとても優しい。
――あんな若くて格好いい人が皇さま、かあ。
「陛下のことはご心配なく。勝つと言ったら絶対に勝たれる人です。今日の夜には、きちんとお話しできますよ」
「そうですか……」
「じゃっ、さしあたって早くご飯食べちゃってください。そのあとは色々話でもしながら、砦の中を歩いてみましょう。危険なところを除けば、砦内は自由に歩き回っていいと陛下から許可されていますからね」
戦争中だというのに昴流は明るい。楽天的なのか、仲間たちに絶対の信頼があるのか。多分どちらもだろう、と巴愛は思う。
戦争中だし、刀とか怖いけれど、こういう人がいるならこの世界も楽しいのかも――と少しだけ思う。子供のころは人並みにRPGゲームもやったし、こういう世界観には慣れている。
そうだ、よくある異世界トリップ――そう思ってしまえばいい。ここが地球でないことは確かなのだから、広い宇宙のどこかにあるかもしれない、地球以外に人類が生きる惑星だと思おう。別に巴愛は宇宙人を信じないが、だからと言って絶対いないとは言えないから存在を否定はしない。幽霊の類もそうだ。それに比べれば、ここに生きるのは同じ人間。
家族もいない。恋人も、取り立てて親しい友人もいない。別に日本に戻れなくても、あたしは構わない――。