18 本当は仲が良い
その後、栖漸砦に到着するまで真澄の発作が起きることがなかった。あの日以降天候にも恵まれ、順調な旅が続いたのだ。
栖漸砦は森の中に建てられた堅牢な砦だ。規模は玖暁の天狼砦に遠く及ばないが、青嵐を牽制するには丁度いい存在感だ。たびたび青嵐は彩鈴の国境を侵してくるというが、その度に砦に詰めている騎士が撃退しているという。おそらく彩鈴騎士で、唯一まともに機能しうるところだろう――とは、辛口の奈織の言葉だ。
砦に入城すると騎士が出迎えた。ここでも黎は恐れられているようで、かなり丁重な扱いを受けた。到着したのは昼だったが、一日は砦で身体を休めることになった。青嵐に入国するにあたって装備の点検などもあるので時間が必要だ。
そういう訳で暇になったのだが、巴愛にはとりたててやるべきこともなく、のんびりと時間を潰していた。奈織が巴愛の部屋を訪れたのはそんな時だった。
「やっほー、巴愛! いま時間平気?」
奈織は親しげに声をかけて部屋に入ってくる。以前はこういうタイプが苦手だったはずなのだが、最近は彼女のような性格の人間のほうが気楽だと思い始めている。
「うん。どうしたの?」
「特に用はないんだけど、暇だったからさ」
「つまり暇つぶし?」
「そういうこと。あちこち顔出して、色々話を聞いて回ってるんだ」
そう言った奈織は傍の椅子に座る。
「ここに来る前に昴流と話してきたんだけど、なんか堅っ苦しかったよ。巴愛とか瑛士と話しているときは砕けてるのに、あたしまだ警戒されてるのかなあ」
「うーん……人見知り、とか?」
「ええー、まさかあ」
自分で言っておいて巴愛も昴流が人見知りなんて思っていなかった。というか、奈織は昴流に警戒されていてもたいして気にしないらしい。
「ところで、巴愛ってどこかのお嬢様なの?」
急に転じた奈織の話に、巴愛は首を振った。
「そうなの? 昴流が『自分は巴愛さんの護衛です』って言っていたから、てっきり貴族だと思ってた」
「あたしは……色々あって、真澄さまに助けてもらったの。危険なことも多かったから、真澄さまと瑛士さんが昴流を護衛にって選んでくれたんだよ」
何者かと聞かれても、自分が過去から来た人間であると告げなくていい。真澄はこの旅に出る前、巴愛にそう言い聞かせた。巴愛はもうこの世界の住人だ。過去から来たなどと教えたら面倒なことになる。特に奈織が相手だと、研究意欲をかきたててしまうだろう。だから無理に教えなくていいのだ、とそう言った。
「家族は?」
「両親と弟がいたけど、何年か前に事故で亡くなった」
「ああ、そっか……」
奈織は無造作に短めの髪の毛を掻き回した。
「あたしもね、兄貴以外に家族いないんだ。親父が殺されて、母さんも後を追うように死んじゃって。でもあたしには兄貴がいて、兄貴がずっと面倒見てくれたの。十歳も年上だけど、兄貴だってまだ十六歳だったんだ。どれだけ苦労してきたか分かってるから、これでもあたしは兄貴に感謝してるんだよ」
父が殺されて、という部分を危うく聞き逃しそうになってしまった巴愛だったが、そのことを聞ける話の流れではなかった。
「兄貴って殆ど表情変えないし無愛想だし皮肉屋だし、冷徹そうに見えるけどさ、れっきとした下町で生まれ育った平民なんだよね。情に厚くて責任感だけは人一倍ある奴なんだ。兄貴のことも頼ってやってね。勿論あたしも、巴愛と仲良くなりたいし、巴愛の役に立ちたいから。何かあったら、遠慮なく言って!」
どんと胸を叩いた奈織だったが、はたと気づいて苦笑する。
「って、巴愛より年下のあたしが言うことじゃないね。なんか兄貴自慢みたいなこと言っちゃったし」
「ううん、そんなことないよ。有難う、奈織」
巴愛にとっては奈織も頼もしい存在だ。一応、同じ女性だし。
次の人のところに行くね、といって奈織は巴愛の元を去った。変わった子だけれど、友達としては楽しい子だ。巴愛はそう思った。
砦のロビーには人気がない。黎はひとりソファに座り、懐から通信機を取り出した。
離れた場所にいる相手と話ができる画期的なものだ。と言ってもつまるところそれは、電話機能だけが取り付けられた携帯電話でしかない。が、この世界ではかなり貴重だ。砦と王城を繋ぐような大規模なものは彩鈴だけでなく、玖暁にも青嵐にも導入されているが、掌に乗るほど小型のものは彩鈴が初めて開発しただろう。しかしまだ実験段階なので武骨なモデルだ。これを民間人が持てるようになるのはまだまだ先のことだろう。
ワンプッシュで特定の場所に繋がる。黎はその操作をして、通信機を耳に当てる。
『おう、なんだ黎。栖漸砦到着の報告なら、砦づめの騎士のほうから聞いたぞ』
狼雅がすぐに出た。黎が苦笑する。
「いえ、この通信機の使い方に自信がなかったので、ちゃんと繋がるのか試しただけです」
『お前って奴は一国の王を実験に使うのか』
狼雅の突っ込みに、黎は声もなく笑う。
『真澄や知尋の様子はどうだ』
「今のところ、問題はないようです。元気かと聞かれると、とてもそうは言えませんが」
真澄も知尋も、それぞれ不安を抱えている様子は黎にもよく分かる。狼雅も「だろうな」と呟いた。
『黎。お前が今目の前にいないと分かっているから聞くんだが――お前、真澄と知尋に仕えたいか』
「は?」
狼雅の口から飛び出した言葉に、黎はびくりとした。
『いや、言い方を変えよう。お前はまだ、俺を「殺したいほど憎んで」いるか?』
「……貴方は、私の言葉を受けて必死に努力してくださっています。確執がないかと言えば嘘になりますが――もう、そんな気持ちは捨てました」
『……そうか。だが、もし俺がお前の願いを実現できなければ、約束通りお前は俺を見切るんだろうが』
「私がそこまで薄情に見えるというのなら、心外です」
黎は即座に告げて、皮肉っぽく付け足した。
「貴方が奈織の生活を保障してくださるのなら、私は裏切りません」
『なんだ、結局はそこか。俺個人はどうでもいいのだな』
「仁徳で兄皇陛下と弟皇陛下に敵うとお思いですか?」
通話口の向こうで、狼雅が笑っている気配がする。
『今更優秀な部下を手放せるか。安心しろ、お前も奈織も俺が守ってやる』
「……有難う御座います」
その言葉だけは、素直に出た。狼雅の口調が一気に緩む。
『ところで、お前の「約束」の件だがな』
「何か思いついたのですか」
『うん、彩鈴には活火山が多い。きっと地下には湯が沸いているのではないかと思う』
「はあ」
『どうだ、温泉を掘り当てて観光地にするっていうのは。山の中腹にある露天風呂。なかなか良いと思うんだが』
「そんな観光業だけで諜報の代わりができますかね?」
『いやほら、土産物とか作ってだな』
「彩鈴特有のものなんて思いつきません」
狼雅が唸る。
『……まあ、お前が帰ってくるまでに何か考えておくことにしよう。少し長話が過ぎたようだな、切るぞ、黎』
「はい」
黎が短く答え、あっさりと通信は切断された。黎がふうと息をつくと、ロビーに奈織が現れた。
「あれっ、こんなところにいたの兄貴」
「奈織……俺に何か用か?」
奈織の前でだけ、黎の一人称は「俺」になる。
「いや、部屋にいるんだと思ってたからさ。王様と通信してたの? どう、調子は?」
「なかなか良い通信状態だ。組み立てたのがお前だと聞いて、うまく動くのかと心配したが……」
「うわ、ひっどい。自分の妹の技術が信頼できないのー?」
奈織がむくれ、黎が苦笑する。それからおもむろに尋ねた。
「……奈織。お前、父さんと母さんのこと、覚えてるか?」
「え? ……あんまり覚えてないかなあ。母さんはちょっと面影出て来るけど、親父は全然」
「そうだよな……辛く、ないか。寂しいと思ったりとか……」
奈織が今度こそ度胆を抜かれた顔をした。
「今更それあたしに聞く? ってか、兄貴大丈夫? なんで急にそんなこと……」
「いいから、答えろ」
「むう……寂しくないよ。辛いと思ったこともない。親父と母さんの話は兄貴がいつもしてくれたし、顔は分からないけど、あたしふたりのこと好きだよ」
奈織の言葉を聞いて、黎がふっと微笑む。そして手を伸ばして奈織の髪の毛を掻き回す。
「それならいいんだ」
昔黎が狼雅と交わした「約束」――
『俺はあんたに仕える。あんたに、俺と妹の命を預けよう。ただし――俺は彩鈴が嫌いだ。人を諜報員として敵国に追いやるこの国が、大嫌いだ。だから変えてくれ。諜報じゃなくて、もっと違う何かで、この国が発展するように――』
まだ少年だった黎は、無礼にも王太子だった狼雅にそう言い放った。しかしその時黎に恐れはなかったし、狼雅も馬鹿にはしなかった。
『それが簡単なことでないことは、お前も分かっているな?』
狼雅の問いに、黎は頷く。
『勿論。だから、傍で見張らせてもらう』
『俺を見張る?』
『処刑されるはずだった俺を助けたのはあんただ。俺だけでなく、妹の命まで。それは恩だ。だから、あんたに命じられたことはなんでもやる。でも、あんたを殺そうとした大罪人が、あんたに生かされたからと言って何をするかは、俺の勝手だ。それは、俺を生かしたあんたが悪い』
黎はそう凄んだ。
『俺は常にあんたに刀を向けている。隙さえあれば、あんたを殺す。それを忘れるな』
『……分かった。肝に銘じよう』
狼雅は神妙な顔で頷いた。
生かされたから、黎は狼雅の騎士になった。しかしそれは「仕えた」だけであって、「忠誠を誓った」というわけではない。その証拠に黎は――狼雅に仕えるようになって十年ほど経つが、いまだに、彼の前に跪いたことはない。
つい最近まで、黎は狼雅の「監視者」であって「暗殺者」だった。それ以外はなかった。しかし共に過ごすうちに、狼雅がどれだけ諜報制度を嫌っているか――それを廃絶するためにどれだけの努力をしているのかを知った。それを知って、黎の心は揺らいだ。
とどめは、四年前の即位式。
晴れて彩鈴国王となった狼雅は、王城前に集まった多くの市民に、こう言い放ってくれた。
『俺がお前らに言いたいことはひとつだ。「俺に忠誠を誓わなくてもいい」。俺はお前らに胸を張れるような立派な王にはなれないだろうからな。忠誠心なんかよりもっと大事なものを見つけろ。欲を言えば、この国をほんのちょっと好きだと思ってくれれば、それだけでいい』
お前らが大事にしたいと思うものを、俺も大事にする。
国王もへったくれもない、豪快なその演説は、いまだに話題に上るほど語り草にされている。
『どうして、あのようなことを?』
演説の後で黎が問うと、狼雅はにやりと笑った。
『お前のことを考えたら、自然と口から出た』
『私に向けた言葉だったのですか……?』
『ああ。いいな、黎。お前は奈織のことだけ考えろ。彩鈴が滅んでも奈織だけは守る、そんな気持ちで生きろ』
『彩鈴が滅んでも……?』
『そうさ。なんだ、別に未練も愛着もないだろう? お前はただこの国の土地に生まれただけであって、しかもこの国はお前の両親を殺した。どうするかは、お前次第だよ』
『では貴方は?』
『俺はどこにも行かんさ。この国を見捨てるつもりはない。俺が、なんとしてでも彩鈴を強くしてやる。お前との約束を果たすためにもな』
そう言われて、黎は分かったような気がした。狼雅は黎に、償おうとしていたのかもしれない。自分を殺して満足するなら、そうしろと言っているようで。そんなのおかしい。黎は狼雅を殺そうとした。それを許し、生きる場所をくれたのは狼雅だ。狼雅に償わなければならないのは、黎のほうなのに。
狼雅に向けていた憎悪の槍を黎が下したのは、この時だった。
ふっと笑みを浮かべると、奈織が怪訝そうな顔をする。
「ちょっと兄貴、急ににやにやしないでよ……」
「いや、少し昔のことを思い出してな」
「昔のことぉ? あたしは笑えるような思い出なんかないよ」
「まあな。……あの頃の俺はなんて馬鹿なことをしたのだろう、と自分の馬鹿さ加減に笑えたんだよ」
「あー、兄貴、貴族の人と結構揉めたもんねえ。あの頃、荒れてたよね、兄貴って」
「荒れてなんかいない」
「何さー、隙あらば王様に斬りかかろうとしていたくせに。何があったのか知らないけど、仕えてんのかそうじゃないのか分かんなかったよねえ」
「昔の話だ」
黎はむっとして否定した。黎が狼雅に斬りかかった時、奈織は傍にいたが幼かったためにその理由をあまりよく覚えていないようだ。
「……ところで、お前どこに行くつもりだったんだ?」
ふと問うと、奈織ははっとして頭を掻いた。
「あっ、そういえばそうだった。知尋のとこに行って、神核のことちょっと聞いてこようかなって思ってたんだよ」
「『弟皇陛下』、最低限『知尋さま』とお呼びしろ」
「えー、だって知尋はちゃんと承諾してくれたもん」
奈織はそう言って「じゃあね」と片手をあげて、軽い足取りで歩み去った。黎が溜息をつく。
「……人の苦労も知らないで、好き勝手育ちやがって」
まあ、だからこそ憎めないのだが。
思い切り平民モードになってしまった気分を、黎は咳払いして「騎士」に正した。
★☆
夕食で全員が集まった時に、黎はこの後のルートを説明した。目的地である青嵐の神都までは、直線距離で五日ほど。しかし人目につくことは避けたいので極力街には入りたくない。いくつかの街は迂回することになったので、到着にはもう少し時間がかかるだろう。
「これはだいぶ後の話なのですが……」
食事中は他愛無い話に徹していたが、食後のお茶が出されて話を再開した黎は、懐から薄いカードを取り出した。それを一枚ずつ、真澄らに配布する。
「途中、検問があります。こればかりは迂回して通ることができないので、その通行証を提示してください」
「……偽造、かな?」
真澄が問うと、黎は微笑んで答えなかった。だが、否定しないので偽造は確実だ。
「あえてお答えしませんが、彩鈴の諜報員はそれを使って入国しています」
「答えているようなものじゃないでしょうか……」
昴流が困ったように呟く。黎も微笑んだが、口から出た言葉は真剣だ。
「青嵐がどれほどの情報を有しているかは分かりませんが、兄皇陛下らが彩鈴に逃れたことは確信しているでしょう。となれば、青嵐は彩鈴側を警戒しているはずです。戦いになるかもしれませんが……」
「殲滅するしかないな。生き残りに応援でも呼ばれたらたまらない」
瑛士の言葉は残酷だが、確かにそれ以外の道はない。瑛士の視線が真澄に向けられ、真澄は目を閉じた。
「……分かっている。後方に下がって、戦いはお前たちに任せる」
「有難う御座います。知尋さまも……」
「そうだね……」
知尋も頷いた。真澄と知尋の顔を不用意に晒すわけにはいかない。ただでさえ、好戦的な真澄は戦場で敵兵に顔を知られすぎている。
「……援護くらいは、させてもらうよ」
知尋の揺るぎない言葉に、瑛士も折れた。知尋の神核術による援護は、何者にも代えがたい。
夕食が済んだ後、真澄は勿論だが知尋たちもみな早めに身体を休めた。そんななか、彩鈴の兄妹は構わず夜が更けるまでそれぞれ起きていたのだが。真澄らにとって青嵐は初めての土地だが、彼らにとってはそうではなく、別に青嵐に行くからといって心が高ぶることも、逆に不安に思うこともなかったのである。




