1 土煙、悲鳴、そして出会い
――うるさい。
わーわーと大勢の男の人の声が聞こえる。こんな喧騒は高校生以来だ。
地を揺るがすほど大きな音と振動。お祭りとかの、心臓に響く大音量の太鼓みたい。
ガキィン、と金属同士がぶつかる音がした。何これ、野球とかじゃないよね?
ブシュっと、何かが噴き出す音。液体なんだろうけれど、いまいち想像できない。
――悲鳴。悲鳴。悲鳴。
「そんなところで何をしている!?」
急に、鮮明な声が耳に飛び込んできた。揺蕩っていた意識は一瞬で現実に引き戻され、巴愛は目を開いた。
感覚が戻ってきて、すぐに咳き込んだ。なんて煙っぽいところなんだろう。どうやら地面にそのまま寝転がっていたようだ。というか、どうしてこんなところにいるのだろう。
すぐそばに気配がした。振り返ってみると、そこにあったのは肢。何の肢?
――馬の肢だ。
馬なんて牧場でしか見たことがなかった。あとは、テレビの競馬か。でもその馬なんかよりずっと大きくて、強そうだ。
その馬の上に人が乗っている。ん、どう見ても競馬の騎手なんかじゃない。どんな人なんだろう? 目がかすんでよく見えない。
裾の長い服。よくよく見て、それが和装束だと気付いた。どうして和服? 戦国時代の武士が着ていたようなごてごてした甲冑じゃなくて、袴というべきか。それは明らかに戦装束だった。
若い、男の人。巴愛より幾つか年上だろう。とても染めたとは思えない綺麗な茶色の髪。きっと地毛だ。瞳は優しい青。――ちょっと待て、青い目の人が和服ってどういうことだ?
その青年の手には、銀色に光る長大なもの。あれはなんだろう? ところどころ赤く染まって――良く見れば、青年の袴も赤いものが飛び散っていた。
銀色の光るもの。その切っ先は鋭い。
刀――。
「……え」
呆けたように巴愛が声を上げる。
わーわーとうるさいのは、兵士の歓声。
地を揺るがす大音量は、馬蹄の響き。
打ち鳴らされる金属音は、刀が交わる音。
噴き出す音の正体は、人間の血液――。
それに続く、悲鳴、悲鳴、悲鳴。
――ここは戦場だ。
「君は何者だ」
青年が静かに問う。巴愛は怯えたように青年を見上げた。
「あ――あたし、は」
答えようにも続きが出てこない。そのとき、一騎が猛然とこちらへ駆けてきた。その男は刀を構え、突進してくる。明らかな敵だ。
「玖暁の兄皇っ! その命、貰い受ける!」
大河ドラマでありそうな言葉だ。青年はさっとそちらを見やり、刀を一閃させた。
「取り込み中だ、退けッ」
あんな重いものを、どうして軽々と。そう思えるほど呆気ない一撃。
肩からの袈裟懸けを喰らった敵は悲鳴を上げて落馬する。その鮮血が噴き出る様子に、巴愛はさらに顔色を失った。
死んだ、のだ。刀で切り裂かれ、あの男は。
「あっ……あああぁっ」
巴愛が悲鳴を上げる。青年は少し悲しげな眼をしながら、巴愛に手を差し伸べてきた。
「掴まれ」
巴愛が呆然とそれを見上げ、手を伸ばす。青年の手を取るより先に、青年が巴愛の手を掴んでいた。
ふっと力が込められ、巴愛の身体は軽々と青年の馬にまで引き上げられた。左手一本でなんて膂力なのだろう。巴愛には何の負担もなく、ふわりと彼女の身体は青年の鞍の前に収まった。青年と向かい合うような形で、青年の左手は巴愛の頭をしっかりと自分のほうに押さえつけた。
「駆けるぞ。しっかり掴まっていろよ」
青年はそう囁き、打って変って大声を張り上げた。
「――撤退! 砦へ戻れ!」
その言葉とともに、青年は馬腹を蹴った。初めて経験する馬、しかも乗馬なんて生易しいものではない。巴愛は青年にしがみつきながら、混乱が限界に達して意識を手放したようだった。
★☆
「……様子はどうだ?」
「だいぶ高い熱ですね。まだ下がりそうにありません」
「そうか……まあ、目の前であれだけの血を見れば失神するのも仕方がないか……」
「元々体調が優れなかったのかもしれませんよ」
そんな声が聞こえた。じんわりと身体が暖かい。
ゆっくりと目を開けると、そこにふたりの人間が見えた。ひとりは、先程の青年。もうひとりはその青年にそっくりな人だ。双子なのだろうか? 見分けられないほどではないが、良く似ている。
「気付きましたね」
そうやって笑みを向けられる。助けてくれた青年のほうがじっと覗き込んできた。
「大丈夫か?」
「――……あの、あたし」
「あのあとすぐ倒れたんだぞ。……ああ、起きなくていい。しばらく休んでいろ」
青年はそう言って、起き上がりかけた巴愛を寝かせる。その青年の服装はやはり袴姿で、おそらく青かったと思われる着物は返り血で赤黒く染まっている。その様子が、如実に先程の光景を思い出させた。
そうだ、この人はさっき、人を斬っていた――。
「……! すまない、こんな格好で君に会うべきではなかったな」
青年は巴愛の表情の動きに気付いたのか、そう謝ってきた。そう言われてしまうと、巴愛のほうが申し訳なくなってしまう。
「いえ……あの、助けてくれて有難うございました」
青年は頷き、身体を起こした。そしておもむろに尋ねる。
「……ところで君は、私のことは知らないのか?」
「? はい……ごめんなさい、どこかで会いましたか?」
「いや、初対面だが……まあいい」
青年は呟きつつ顔を上げ、名を名乗った。
「私の名は鳳祠真澄。こちらは私の双子の弟、知尋だ。君は?」
そのさまはまさに威風堂々。これほど誇らしく名を名乗る人に、巴愛は出会ったことがない。
「巴愛……です。九条巴愛」
「そうか。では巴愛。ゆっくり話を聞いてやりたいところだが、私にはまだ仕事があってな。弟に分かる範囲のことを教えてやってくれ。勿論、無理はするなよ」
その人、真澄は優しく笑みを浮かべ、部屋を出て行った。残されたのは双子の弟だという知尋と、巴愛だけだ。
「知尋と申します。よろしくお願いしますね」
知尋はやんわりと名乗った。別段気張った丁寧さでもなく、自然な口調だった。
「は、はい」
「真澄は事情を話せと言いましたが、まずは休養が必要です。眠ってもらって大丈夫ですよ」
「でも……戦い、してるんですよね……?」
問いかけると、知尋は首を振った。
「いまは両軍とも兵を退いています。もしそうでなくても、ここは安全ですよ」
安心させるようにそう言ってくれたのだろうが、あまりの混乱でとてもゆっくりなどできそうにない。
ちらりと部屋の中を見渡す。石造りの壁と天井。自分が寝ているのは、結構低いベッド。
目の前にいる知尋は、戦装束とまでは行かないが、やはり和服を着ていた。そんな和装が普通の人たちの使うものが洋風のベッドだなんて、ちょっとアンバランスのような気もするが、あまり違和感はない。真澄や知尋たちは、まるきりの日本人とは言えないが西洋人でもない、やや東洋よりの顔立ちだった。多分そのおかげで、違和感は薄いのだ。
「……落ち着かないのなら、やっぱり少し話でもしましょうか」
知尋が気を遣って尋ねる。巴愛が戸惑いがちに頷く。
「そうですね……貴方は、この場所にまったく見覚えがないのですよね」
「はい」
「ここは我々玖暁皇国と、敵国の青嵐神聖国との国境に位置する砦です。――ここまで、大丈夫ですか?」
一気にしゃべったあと、知尋は確認してくる。聞きなれない単語ばかりで頭がショートしそうだが、まだついて行ける。
「大丈夫……です。あ、いえ、やっぱり大丈夫じゃないです……そんな国、聞いたことないし」
知尋は静かに巴愛を見つめている。その瞳は優しげだったが、それだけではない鋭利さも持ち合わせていた。まるで巴愛から何か探り出そうとしているみたいに。だが余裕のない巴愛はそんなことに気付かない。
「あたし、どうしちゃったの……?」
巴愛は俯いてそう呟いた。
「――ここで目覚める前、最後に見た光景はなんですか?」
知尋がまた違う質問を投げかける。そう言われ、巴愛ははっとした。
バイト帰り。雨が降っていた。少し熱っぽくて、ぼんやりしていた。それで――。
「横断歩道を渡っていたら、信号無視の車が突っ込んできて――」
「……? シンゴウ? クルマ? 歩道は何となくわかりますが、それはなんでしょうか」
知尋に心底不思議そうに問い返され、巴愛もまた拍子抜けする。
「えっと……ないんですか? それ」
「私が知る限りでは、存在しませんね」
「嘘……」
さらに巴愛は項垂れた。知尋がなだめるように話を続ける。
「突っ込んできたということは、衝突事故のようなものでしょうか?」
「は、はい、そうです」
やや気を取り直し、巴愛は頷いた。そこであることに気付く。
あたしは車に撥ねられた。そこで意識は途絶えている。ということは、つまり―――?
「あ、あたし……もしかして、死んで……る?」
さあっと顔色を失う。ここは死後の世界で、あたしはあの事故で死んでいるのではないかと思った。
知尋がそっと巴愛の手を取った。知尋の手は温かい。
「……私の手、冷たいですか?」
知尋の問いに、巴愛は首を振る。
「巴愛の手も温かいですよ。貴方は生きています。そして、私も」
そう微笑みながら、知尋は巴愛の手をベッドの上に戻す。そして着物の袖の中から、大きなブレスレットのようなものを取り出した。いくつか綺麗な宝玉がつけられていて、ぶつかるたびに凛とした音がする。
「もうお休みなさい。安心して眠れるおまじないをかけてあげますから」
「おまじない?」
「はい」
「知尋……さんは、陰陽師か何かですか」
ついつい聞いてしまい、知尋は苦笑しながら首を傾ける。
「オンミョウジ? よく分かりませんが、多分違いますよ。……そうそう、これにも見覚えがありませんか?」
ブレスレットについた宝玉を、知尋は巴愛の眼前に差し出した。淡い緑色に輝いている。
「ないです……なんですか?」
「神核、と言います」
ここにきてまさかの横文字言葉だ。いや、案外そうではないのかもしれないが、ちょっとこれだけは異質だ。
「生きるのに不可欠なものなのですよ。まあ、見ていてください――」
知尋は神核と呼ばれる宝玉を掌に包み込み、目を閉じた。その凛とした佇まいに、巴愛は目を奪われる。
だが次の瞬間にはぎょっとしていた。知尋の身体が淡く光ったのだ。目の錯覚などではない。目をこすってみても、やっぱり知尋の身体は光っている。
それを見ている間に、身体が内側から暖かくなってくるのを感じた。この暖かさは、さっき目覚める直前の安堵感と一緒だ。先程も知尋が、これと同じことをしてくれていたのだと確信する。
胸の内にあった不安や恐怖が薄れ、何とも言えない安息感が広がった。すっかりその流れに身を任せた巴愛は、すぐに眠りへと誘われてしまった。
巴愛が眠ったのを確認した知尋は立ち上がり、巴愛の毛布の乱れを直して部屋を出た。廊下には多数の騎士たちが往来していて、知尋を見た者はみな敬礼をしてくる。それに頷きながら知尋は石造りの廊下を進み、軍議室の扉を開けた。
室内には双子の兄真澄と、数人の騎士がいた。彼らは皆騎士団の中の幹部たちだ。
「……あの娘はどうした?」
真澄に問われ、知尋は微笑む。
「眠らせました。だいぶ混乱していたようですし、無理をさせては可哀相なので」
「そうか。それでどうだった、見た感じは」
知尋は空いている椅子に腰を掛けながら答える。
「良い子ですねぇ。丁寧で素直で、実に健気だ。彼女が着ていた不思議な服も可愛らしいですが、着物を着させたらさぞ映えるだろうと……」
「……知尋。私はそういうことを聞いているわけではないのだが?」
真澄が腕を組んで呆れたように言う。知尋はくすくすと笑った。
「失礼しました、勿論分かっていますよ。――私の意見としては、彼女が敵の工作員である可能性は、まずないといっていいと思います」
知尋が笑みを収める。
あえて真澄が知尋と巴愛を二人きりにしたのは、巴愛が何者かを探るためだ。敵である、という可能性がゼロでなかったわけではない。市民を装って偶然真澄らに近づき、暗殺でもしようと思えばできる立場に巴愛はいた。真澄が刀を使うさまは先ほど巴愛も見たので警戒するだろうが、知尋は優しいし温和だ。事情を話すにも、暗殺するにも、知尋のほうが簡単だと考える。勿論、知尋も自分の身は自分で守れる。そのあたり、真澄は何も心配していなかった。
「彼女はあまりに無知すぎる。都合のいい記憶喪失を装っているのではないかと疑いはしましたが、あれがもし演技なのだとしたら相当ですよ。恰好といい、口からでる言葉といい、私たちの常識とはかけ離れている。加えて彼女は、神核の存在すら知りませんでしたからね」
「……神核を知らない!?」
「ええ。この世界はすべて神核で回っているというのに……ね。もしかしたら、彼女は別の世界の住人なのかもしれません」
知尋が微笑む。面白いと思っている、そんな顔だ。なんでも楽しんでしまうのはこの弟の美徳というべきか。
「彼女の世界と私たちの世界は全く別で、いわば異世界。本来ならどうやっても交わるはずのない関係ですが、何かが歪み、両世界を繋ぐ扉が開いた。彼女は偶然そこを通り抜けてこの世界にやってきた――のかもしれません」
「途方もない話だな」
真澄はそう呟いたが、弟に「正気か?」と問いかけるような真似はしなかったし、案外その仮説を受け入れているようだ。というか、現代日本に生きる者ならばまず大笑いするか病院に連れて行かれるかどちらかである「異世界トリップ」という説だが、この世界に神核というものが存在し、いわば「魔術」が普通に存在する以上、あながち不可能という話ではなかったのだ。
「彼女を元の世界へ戻すことはできるのか?」
「さて……彼女が、何が原因でここへ来てしまったのかが分からない以上は、どうしようもありませんね。そういう事例は聞いたことがありませんし」
「……この世界に留まるのだとすれば、彼女には不自由な思いをさせるだろうな」
価値観も、常識も、何もかも違う人間だ。慣れてくれ、の一言で済ますには辛すぎる。彼女には彼女の生活や家族があったのだろうから。
「……これもあくまで、私の仮説ですが」
知尋がさらに言う。
「彼女はどうやら、最後に事故に遭ったようなんですよ。詳しくは分かりませんが、私たちで言うところの馬車に轢かれるような事故です。事故に遭った彼女はどうなったのか。一つ目の仮説は、事故に遭った直後にこの世界へ落ちた。つまり忽然と消えた、というわけです」
「二つ目は?」
「実は彼女は、彼女の世界では死んでいる。意識も容姿も維持したままこの世界に転生してしまったという仮説です。もしくは」
「……もしくは?」
「ここに来たことで、彼女の世界での九条巴愛という存在は抹消された」
巴愛には否定したが、知尋は彼女が実は死んでいるという説もあり得るのではないかと思っていた。仮説的には、現代で彼女の存在は「行方不明」か「死亡」か、「そもそもそんな人間は地球上にいない」のどれか。死んだのが先か、ここへ来たのが先か、どちらも大差ない。どれにしても、彼女にとって辛いことでしかない。
加えて、もう二度と帰れないのであれば、知らせることでもない。
ならばこの世界で生きてほしい。それが真澄の思いだ。
真澄は組んでいた腕を解き、傍に控える騎士の男に指示をした。
「彼女の傍に、騎士を一人つけろ。護衛だ。選定は騎士団長に任せる」
「承知しました」
「すぐに作戦を練る。一刻も早く戦争を終え、帰還するぞ。……彼女の身の振りは、そのあとだ」
知尋も頷いた。内心で、お人よしなんだからこの人は、と苦笑していたのは秘密だ。