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和装の皇さま  作者: 狼花
弐部
34/94

8 亡命の旅

「真澄さま」


 名を呼ばれて、揺蕩っていた真澄の意識はゆっくりと浮上した。目を開けると、目の前に人間がいることに気付く。やがて輪郭がはっきりして、それが女性であることが分かった。


「……巴愛、か」


 誰であるか認識するより先に、名前が口から出た。本当に巴愛か、と考えて、声も顔も巴愛そのものであることをようやく確認できた。巴愛がほっとしたようにうなずく。


「良かった、目が覚めたんですね……」


 辺りを見回すと、森の中の夜だった。どうりで暗いわけである。真澄は木の幹に寄りかかって眠っていたようだ。傍の木には二頭の馬が繋がれていて、火も焚かれている。だがどうやら巴愛しかいないようだ。


「……ひとり、だけか?」


 そんなわけないと思いつつも、まだ意識がはっきりせず、そういう質問しかできない。


「瑛士さんは何か食べられそうなものを探すって言っていました。昴流は後方の見張りをするって……」

「不用心な奴らだな……」


 真澄は力の抜けた苦笑を漏らした。巴愛と眠っている真澄をふたりだけにして戦力がどちらも出かけるなど、信じられないことである。


 不意に真澄がくしゃみをした。もうじき夏とはいえ、夜は冷える。


 片膝を立てている真澄に、巴愛が何かをかけた。それは巴愛が羽織っていたカーディガンである。こちらの世界にトリップしたときに着ていたものだ。真澄が驚いて顔を上げる。


「私なら大丈夫だ、風邪をひく……」

「その上着、念のためにって持ってきたものなんです。だから気にしないでください」


 巴愛が微笑み、上着を返そうとした真澄を留める。立場が逆だなと思いつつ、ここまで来て真澄は意地を張らず、有難く借り受けることにした。


 草を踏み分ける音が聞こえた。真澄がはっとして傍に置いてあった刀を引っ掴む。巴愛を自分の後ろに下がらせ、地面に片膝をついて抜刀の構えを取る。巴愛の話からその正体は勘づいていたが、用心にこしたことはない。


「真澄さま!」


 思った通り、それは瑛士と昴流だった。瑛士は手に見慣れぬ果実のようなものを持っている。真澄はさりげなく刀を手放し、地面に腰を下ろした。


「ご気分はいかがですか?」

「……ああ」


 真澄の返事は曖昧で、返答としてはおかしなものだった。瑛士が沈鬱な表情になる。真澄の気持ちは当然だ。玖暁の滅びを見守る決意をしていたのに、知尋によってその役目から逃れさせられたのだから。


 真澄は喉まで出かかった溜息を無理やり押し込めた。巴愛と話していると、どうやら自分が皇であることを失念するらしい。瑛士と昴流の姿を見て、どっと実感が湧いてきた。そうだ――自分は玖暁の皇だ。たったひとりの弟とたくさんの味方、民を捨て、逃げた――。


「ここは彩鈴との国境か」


 結局口から出たのは、きわめて現実的なことだった。嘆きも落胆も出てこない。こんな状況でもさすが、そのあたりの地形は真澄の頭に叩き込まれているようだ。真澄の問いに瑛士が頷く。


「はい。明日には『大山脈』に入ります」


 大山脈は玖暁と彩鈴の国境でもある巨大な山の連なりだ。地理的に、大山脈は彩鈴領土となっている。彩鈴で一番険しい山脈であり、きちんとした山道が整備されているものの一般の人間では登山はかなり辛い。道から一歩外れれば、そこは未開の樹林である。


「そうか。……確か大山脈を越えるには三、四日かかったな。彩鈴の王都依織(いおり)に到着するには、そこからまた時間がかかる。先は……長そうだな」


 真澄は淡々と呟いた。彼の口から、照日乃の様子を尋ねる言葉は出てこない。聞いても仕方がないことだ。戦闘の真っ只中で戦場を離脱した瑛士に、その後皇都が――知尋と李生がどうなったかなど、分かるわけがないのだ。


「真澄さま……申し訳ありません」


 瑛士が真澄の前に跪き、深く頭を下げた。そんなかしこまったことをされたのは初めてと言っていい。真澄は僅かに目を見張った。


「急に何を謝る?」

「真澄さまのお心を無視致しました。そして、俺は知尋さまや大勢の部下を見捨てました」


 真澄はふっと肩の力を抜き、瑛士の肩に手を置いた。


「……その先は言うな。私は知尋に玖暁の未来を託された。あいつへ文句を言うのは少々お預けだ。……玖暁が青嵐に奪われたのなら、私はそれを取り戻す。そう決めた。だから瑛士、私の決意をへし折ってくれるな」

「はい。……失礼しました」


 瑛士が詫びる。真澄は巴愛と昴流に目を向けた。


「巴愛、昴流。辛い思いをさせたな。それでも……共に来てくれたことが、私はすごく嬉しいよ」


 昴流は苦い笑みを浮かべた。


「いえ……僕の苦労など、これからのことを考えれば些細なものです」


 とはいうものの、正直昴流も辛い心境だ。姉を失ったと思えば、今度は生まれた国を失った。多くの家族や仲間たちの安否も心配である。


 巴愛が胸の前で手を握る。


「あたし、どこまでも一緒に行きます。できること、なんでもしますから……」


 言いかけた巴愛だったが、真澄を見て驚いたように急に口を閉ざした。真澄がその表情の真意を読み取れずに怪訝そうな顔をする。と、瑛士がそっと真澄に声をかける。


「真澄さま。涙は悲しみを和らげるために流れるのだと、昔から言い伝えられているのをご存じですか。いや、俺が知っているくらいですから勿論ご存じですよね」

「なんだ。いきなりどうしてそんなこと……」

「……泣いておられますよ」


 その時初めて、頬を伝って顎から涙の雫が滴っていることに真澄は気づいた。慌ててそれを拭う。


 守るべき国と民を失い、自分の半身とも言える双子の弟を失った。無意識のうちに、その悲しさが涙になっていたようだ。


「……私が人前で涙を流すことを嫌っていると知っていながら、あえて指摘するなんて嫌味だな」


 真澄は涙を拭いながら、少し微笑んだ。瑛士も応じて微笑む。


 今日くらい、泣いてもよろしいのではないですか。――とは、真澄の不満の声が飛びそうなので瑛士は言わなかった。口に出したのは別のことだ。


「おそらく、青嵐は我々を血眼で探し回っているでしょう。いつ追っ手がかかるとも分かりませんね」

「休めるうちに休んだほうがいいです」


 昴流の言葉に真澄と瑛士も頷いた。月は中点に達している。そろそろ日付が変わるころだろう。


 とはいえ、みな身一つで飛び出して来たので着替えも寝具も何もない。真澄は膝掛として使わせてもらっていた巴愛のカーディガンを彼女に返した。何か言おうとする巴愛を、今度は真澄が制する。


「野宿は慣れているんだ、心配するな。巴愛は自分のことを大切にしてくれ」


 巴愛が曖昧に頷きつつカーディガンを受け取った。瑛士が顎をつまんで懐かしそうに呟く。


「そういえばよくありましたねえ、夜中ふらっと行方をくらませたかと思ったら皇都の外れの丘に寝転がって星空観察をしていて、そのまま眠りこんで俺に負ぶわれて部屋に戻ったこととか」

「なっ……!」


 真澄が一気に紅潮した。巴愛と昴流は瞬きを繰り返すだけである。


「瑛士、お前どうしてそういう昔のこと……!」

「忘れるわけないでしょう。他にもいろいろ恥ずかしいこと覚えていますよ」

「くっ、言うな……私が一番恥ずかしいんだ」


 真澄が髪の毛を掻きむしった。巴愛が尋ねる。


「あ、あの……それほんとのことなんですか?」

「……ん、まあな。夜空の星は、街の電飾の中だと霞んで見える。そういう人里の明かりから離れたところで、星そのものを見たかったんだ……昼間はまともに出歩けなかった頃の、ささやかな楽しみだった」


 真澄はそう答え、瑛士に刺々しい視線を送る。


「それを、瑛士が毎回連れ戻しに来るんだ。人の楽しみを邪魔して……」

「お言葉ですけど、皇子が行方不明になって神谷団長に責任に問われるの、俺なんですよ」

「そのくらい叱られろ、まったく……」


 普段の真澄からは想像もできない砕けっぷりである。


 真澄と瑛士の付き合いは長い。瑛士は前騎士団長、神谷桃偉に自ら願い出て騎士になった。十代のころである。神谷桃偉は真澄と知尋という幼い皇子の護衛役でもあったから、桃偉にくっついて来た瑛士が真澄らと親しくなったのは当然のことである。そのうち真澄のお目付けが桃偉から瑛士に移り、やんちゃな皇子に瑛士が手を焼いたこと甚だしい。ある意味で、真澄と瑛士は実の兄弟よりも深い絆で繋がっているのだ。


 憮然としていた真澄だったが、ふっと寂しげな陰がさした。大変で、でもそれでも穏やかだった幼いころの日々。いつもそこには知尋がいて、桃偉がいた。もうふたりともいない。


 瑛士がどうして急にこんな昔の思い出を引っ張り出したのかは分かる。昔の調子に戻ってほしいのだろう。憎まれ口を叩き合った、あのころに。そうすれば、少なくとも今の暗い状況を吹き飛ばせるのではないだろうか。事実、現状も忘れて真澄は瑛士の手に乗ってしまった。


 瑛士が着ていた上着を脱ぎ、真澄に差し出した。


「騎士団がないいま、俺はただの旅の同行者です。気楽に、とは言いませんけど、必要以上に暗くなるのはやめましょうよ」


 真澄は苦笑いして、上着を受け取って肩に引っかけた。そして巴愛を見る。


「……そういうわけだ、私は瑛士のむさくるしい上着で我慢するから、大丈夫だよ」

「は、はあ。そうですか……」


 どこから「そういうわけ」に飛んだのか巴愛には分からなかったが、一応頷いておく。なんだか真澄と瑛士の関係が主従ではなく友人、もっと言えば兄弟のようになったなあ、と感じてはいた。


「むさくるしいとは失敬な。その上着は俺が――」

「瑛士」


 真澄の一言で瑛士は黙る。この辺りにはまだ主従が残っているらしく、瑛士は素直に従った。真澄と焚き火を挟んで向かい側の木の根元に座った瑛士は、先程取ってきたらしい果実を手に取った。じっと見てから、隣に座る昴流に差し出す。


「昴流、これ食ってみろ」

「……これ、食べられるものなんですか?」


 昴流は怪訝そうにその果実を見やった。色や形は林檎のようだが、巴愛にもよく分からない。


「そう怪しむなって。これだけ熟してりゃ、きっとうまいぞ」


 疑心暗鬼だったが、瑛士が自信を持って勧めるので、昴流はそれを受け取って一口齧った。音や触感も林檎そのもののようだ。


「……ん、普通にいけますね。林檎よりちょっと酸味が強いかなってくらいで……」

「そうか、よし。真澄さま、巴愛、食べても平気ですよ」


 昴流が吹き出した。むせながら、昴流が抗議する。


「僕のこと、毒見役にしたんですか!?」

「ふたりに得体の知れないもの食わせるわけにはいかないだろうが」

「うう……団長、なんか性格変わってませんか……?」


 昴流はそう嘆いたが、瑛士の性格は「変わった」のではなく「戻った」のである。騎士団長としての威厳や重厚さを出すために皮をかぶっていただけで、本来の瑛士は「陽気な兄貴」でしかないのだ。


 昴流の犠牲に感謝すると同時に苦笑いし、真澄と巴愛はその果実を食べることにした。正直腹の足しにはならないが、絶食するよりはましである。この果実は森の至る所に自生しているそうなので、一応食べ物には困らない。


「とりあえず見張りは俺がします。敵に悟られてはまずいので火は消しますよ、月明かりで我慢してください」


 軽い食事のあと、瑛士の言葉と同時に、焚火の炎が揉み消された。


 真澄は目を閉じる。火も消したので、聞こえるのは夜光虫の鳴き声だけだった。


 月明かりは酷く頼りなかった。闇に目が慣れてくると、ぼんやりとだが瑛士と昴流、巴愛の姿も見える。それを思うと、皇都は煌びやかな光の中に存在していた街なのだと改めて感じる。皇都の夜景は真澄も知尋も好きで、よくテラスから眺めたり、時にはお忍びで夜出歩いたりもした。皇都照日乃は、夜も眠らない街だったのだ。


 いま、照日乃はどうなっているのだろう。飛び交う砲火と神核術で無残に破壊された市街は、ちらりと真澄も皇城から目にした。建物より人命が大切なのは勿論だが、戦争で傷つくのは騎士だけではないのだ。彼らの生活の場を守ることができなかった。


 そんなことを考えながら、数十分はうとうとしただろう。静かだった森の中に、異様な音が聞こえた。足音だ。


 真澄はすっと目を開けた。瑛士も身を起こし、昴流が巴愛の身体を揺さぶる。


「気付きましたか」

「ああ」

「……近づいていますね」


 静かだったせいで、聴覚が鋭くなっていたのだろう。草をかき分け、こちらへ近づいてくる音がする。


 真澄は刀をつかみ、身を預けていた木からゆっくりと離れた。身を低くしたまま、繋いだ馬の傍へ寄る。瑛士が綱を外した。


「どうせ馬蹄の音で気づかれます。今のうちに全速力で駆け抜けましょう」

「分かった。巴愛、乗れ」


 真澄の指示で巴愛が馬に乗る。最近はそういう機会が多かったので、さすがにひとりで馬に乗るくらいはできるようになった。と、巴愛の後ろに真澄が飛び乗った。巴愛が真っ赤になる。


「え、えっ!?」

「窮屈だろうが辛抱してくれ」

「そ、そうではなくて……その……」

「私の手綱さばきが心配か?」

「いえ、それも違くて……」


 距離が近いです、なんて言えるわけがない。というか今更である。真澄の顔は巴愛の真上にあって、巴愛は真澄の胸に背をぴったりとくっつけているしかない。


「安心してくれ、夜目は良いほうだ」


 いつも察しが良いくせにこういうときだけ鈍い真澄が憎らしい。真澄は瑛士に先駆けて馬を駆けさせた。にやにやしている瑛士が昴流を振り返る。


「じゃ、俺らも行くぞ」

「は、はい……その、僕が後ろですか?」

「なんだ、じゃあ地面を走るか?」

「いえ、とんでもない……」


 昴流は渋々、瑛士の操る馬の後ろに飛び乗ったのだった。まだ瑛士の性格の豹変ぶりについて行けないので、まだ言葉がしどろもどろである。本来は昴流自身が、こういう軽い性格であったはずなのだが。


 真澄も瑛士も乗馬に関しては巧みな技能を持っていた。木をかわしながら進んでいくと、やがて森を抜けた。後ろを振り返っても追っ手の気配はない。気づかれる前に駆けだしたのと、気づかれたとしても相手が徒歩なのは確実だったので、完全に撒いただろう。


「真澄さま、あれ、街じゃないですか?」


 巴愛が指さした先に、確かに人里の明かりが見える。真澄が頷いた。


「あれは久遠(くおん)の街だ」


 久遠は彩鈴との国境に位置する玖暁の都市だ。玖暁の最西端の都市である。瑛士が肩をすくめる。


「こんな時間ですが、一軒くらい泊めてくれる宿があるといいですね」

「顔見知りがひとりいる。そこを頼ろう」


 真澄がそう言って馬を走らせた。


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