15 鳳祠の興り、招かざる客
李生が地面を強く蹴った。と思った瞬間には李生の姿は消えている。だが真澄は特に慌てた様子もなく、緩慢にすら見える動作で刀を持ち上げた。丁度そこで、李生の刀を見事に受け止めた。その瞬間には真澄も足に力を入れ、李生を振り払った。李生は刀を紙一重で避け、後方へ飛びのいて間合いを取った。
昴流の説明通り、李生が先に仕掛け、真澄がそれを受け止めた。だがそれを見ながらも、巴愛は別のことに気を取られている。
「李生さんが青嵐の人……?」
巴愛が尋ねると、昴流は実に歯切れ悪くうなずいた。
「そう……なんですよ。僕も詳しいことは知りませんが……兄皇陛下と弟皇陛下に直接助けられ、騎士団に入ったと聞いています。あの剣技は青嵐騎士が使うものですから、おそらく天崎部隊長のお父上は騎士だったんではないかと、僕は思っていますが……」
沈黙してしまった巴愛に、昴流が頭を下げた。
「すみません。こんなことは僕からお話するべきことではありませんでした。でも、天崎部隊長は本物の玖暁騎士です。御堂団長と宰相殿を除けば、陛下に対する忠誠心は部隊長が一番強い。そのことは確かです」
「あ、ううん、謝らないで。ちょっと驚いただけだから」
我に返って巴愛は首を振った。仰天したが、李生を疑うという気持ちは微塵もない。真澄たちと李生の結束はとても強かったし、信頼していなければ傍においたりしない。李生だって、後ろめたければ身を引くはずだが、それもない。李生は堂々として、自分が敵の生まれであることを有効活用しているような気がする。
何より、真澄なら「生まれがなんだ」と言いそうな気がするから。
「それで昴流、どちらが勝ちそう?」
咲良が何気なく話を修正する。昴流も姉の気遣いをありがたく思いつつ、話に乗っかった。
「……兄皇陛下ですね」
相手は皇だ。騎士であるならば、君主に刀を向けるということで無意識に自制は働く。李生の場合はそれがより顕著だ。そして李生の武芸は、迷いがあると途端に捌かれやすくなってしまう。誰よりも気配の察知に長けた真澄が、その隙を見逃すはずがない。
何合目かの打ち合いが、やはり両者とも弾かれて終わる。真澄も李生も呼吸ひとつ乱れていないが、李生のほうは若干表情が険しい。対する真澄はいまだに下段に構えている。
「これまでの戦いを見ていれば分かることだが……強くなったな、李生。さすが守りの専門家、防御と間合いの取り方は私も付け入る隙がない」
「恐縮です。が……守りに重点を置いてしまったせいで、攻めが弱くなってしまいました。確かに、敵将の前まで出ることができても、一対一で返り討ちに遭ってしまいそうです」
これほど冷静に自分のことを分析できる騎士はそういない。真澄は苦笑した。
「お前はそれでいいんだ。天崎隊という守りの要が存在するから、玖暁は安心して突撃できる。とりわけ私と、瑛士の隊がな」
「そうですか……」
「お前たちは攻めの隊としても十分前線に突っ込める力量を持つ。だがお前たちを突撃させたら、きっと玖暁は負けだ。李生、お前たちは『守り』あってこその部隊。何があっても、最後まで戦場に立て」
李生の隊が、玖暁の最終防衛ラインなのだ。戦場の最後尾にいて本陣を守り、戦いを支える重要な場所。李生たちが倒れること、それすなわち敗北だ。
李生は目を閉じ、頷いた。
「……心得ました」
「よし。さあ来い、李生」
真澄の声で、李生は閉じていた目をゆっくりと開く。自分の前に、刀を持った手をだらりと下げた真澄が立っている。力の抜けたその姿は、油断などではない。この構えこそ、真澄の強さ。
『あの時』の真澄と、今の真澄が重なる。あの時、真澄が手を差し伸べてくれたから。自分を守ってくれたから天崎李生は、ここにいる。真澄の存在は、絶望の闇の中にいた李生を引きずりあげた光そのものだった。
あの時と、真澄は何も変わらない。揺るぎのない意思と、真っ直ぐな瞳で、こちらを見ている。同い年なのだが、これ以上ないほど頼もしかった。昔の自分が真澄に依存しなかったのは、自分でも褒めてやりたいくらいである。李生は誓ったのだ――命に代えても真澄を守ると。そのために強くなる。例えそれが、故国の人間を斬り殺すことでも。
真澄に教えてもらった、守りの剣。敵を倒すことを目的に作られた青嵐武技・瞬刃流に、守る力である玖暁騎士団流を織り込んだ、独特の力だ。これで真澄を倒せるか。もし無理ならば、自分には真澄を守ることなどできない。出来るのは、せいぜい彼の危機を自分の身で引き受けることだけだ。
この一撃で、勝負が決まる。
李生がじりじりと姿勢を低くする。呼応して真澄もゆっくりと構えの姿勢を取る。重苦しい緊張。昂ぶりそうな呼吸を鎮めた李生は、ひゅっと息を吐きだした。それと同時に、爆発的な力で地面を蹴って飛び出した。
一瞬で真澄に肉薄する。真澄の若干驚いた顔。だがそれも瞬きする間のことだった。振り上げた刀は真澄の刀で受け止められた。先手を取ることに失敗したのだ。
真澄が刀を振り払うと、李生の身体がよろめく。今までは応じて間合いを取っていたのに、よろめいて避けられなかった。それほど真澄の力が強かったのだ。その瞬間、左肩に鈍痛が奔り、ついで意識が遠のいた。真澄が刀の峰で急所を打ち据えたのである。
刀を取り落した李生は倒れた。どさっという音に次いで、周りを囲んでいた騎士たちがそれぞれ感嘆の溜息をもらす。騎士団で最高の実力を持ち、まず間違いなく瑛士に次ぐ実力の持ち主である天崎李生が、真澄に敗れたのだ。真澄が鬼神のごとく戦場で刀を振るう姿はみな知っているが、それが果たしてどれだけの強さなのかは比較の対象がなければ分からない。今回、真澄の強さがはっきりとした。
真澄は刀を鞘に収めた。そのとき、真澄が息を切らしていることに瑛士は気付いた。簡単に李生を倒したように見えたが、かなりの力を使っていたのである。李生のほうは地面にうずくまり、しばらく身動きできない状態だ。峰打ちだったとはいえ、あれだけの力で的確に急所を打たれては、それが当然だ。
「……ッ……つぅ」
李生が額に汗を滲ませて呻く。真澄が李生の傍に膝をついて、彼を支え起こしてやる。
「大丈夫か!? すまん、力が加減できなかった」
「……大丈夫です。まだまだ……精進が必要ですね……」
李生は少し笑みを浮かべた。とりあえず、真澄が本気を出さざるを得ないくらいまで追い詰めることはできた。それで良しとしよう。もともと敵わないのは分かっていたのだが。
騎士の輪を割って青年が入ってきた。知尋である。真澄が目を見開く。
「知尋、いつからいたんだ? 確か神核の研究所へ行くと……」
「真澄が誰かに怪我をさせるのは分かりきっていますから、行くわけがないでしょう? 真澄と李生が戦いを始めたころからいましたよ」
真澄がぎくりとして、頭を掻いた。気配を察知するのが得意な真澄でも、さすがに戦いの最中で実の弟がいることには気付かなかった。
「李生、そのまま動かないで」
知尋がそう言いながら、李生の肩に掌をかざす。淡い光が李生の身体を包み込み、やがて彼は顔を上げた。
「有難う御座います、知尋さま……痛みが引いてきました」
「どういたしまして。さてと、李生だけ治したのでは不公平ですからね。今日は特別に治療してあげますよ」
それを聞いた真澄がぎょっとして止めようとしたが、知尋は首を振って制止を聞かなかった。
「今日は本当に調子がいいんです。美味しいお茶菓子のおかげかな」
からうかような口調で知尋は言い、打ち身や痣を作っている騎士たちのもとへ歩いて行った。こうなった知尋は絶対に言うことを聞かないので、真澄は肩をすくめて見送った。
使用人宿舎の屋上からその様子を見ていた巴愛は、ずっと肩に入れていた力を抜いて息を吐いた。瞬きもできないような凄まじい戦いだったのだ。
「真澄さまも、李生さんも……すごい」
あんな超常的な動きは、アニメや漫画のなかでしか表現できないものだと思っていたが、まさか現実で見ることになるとは。
「前皇ですら、あれほどの強さは持っていなかったといいますから、本当に兄皇陛下はお強いです。しかしそれでも、陛下は御堂団長に勝ったためしがないそうで……」
「瑛士さんはそんなに強いんだ……」
「戦場以外では滅多に戦わないんですけどね。どこであの強さを維持しているのか不思議ですよ……」
巴愛はもう一度、真澄たちに視線を送った。李生と瑛士が真澄とともに何か話している傍で、知尋が治療に当たっている。それを見て、なんて頼もしいのだろうと胸が熱くなった。こんな風に思うことは、いまだかつてなかった。
★☆
夜になり、皇城は殆どの施設が消灯した。巴愛も一度は明かりを消してベッドに潜り込んだのだが、なかなか寝付けずに何度も寝返りを打ち、ついにベッドから起き出してしまった。どうして眠れないのかは分かっている。昼間の真澄と李生の華麗な立ち回りが頭から離れないのだ。すごいと思ったのは事実だが、怖いという気持ちもある。あんな風に戦える人がいっぱいいるこの世界で、非力な自分が生きていけるのかと。
巴愛の考えは少々大袈裟ではある。真澄や李生は世界でも指折りの騎士であり、彼らほど動ける人間が大勢いたら世界は血みどろになっているだろう。だが彼ら「超人」に守られている巴愛としては、不安が大きいのだ。
窓を開け、ベランダに出る。ベランダといってもかなり広いテラスのようだ。ベランダの下は綺麗な庭が広がっている。この寝所の棟のために造られた庭園なのだそうだ。昼間お茶をしたバルコニーもある。この棟は皇城本棟の裏側にあるので、人も来ない静かな場所である。
手すりに寄りかかって何気なく夜空を見上げる。美しい満月だ。雲ひとつない。
と、ひゅっという音が聞こえた。立て続けに何度も。巴愛は身を乗り出し、庭を覗き込んだ。
まず見えたのは、銀色の光だった。目が慣れてきて、人の輪郭が見える。真澄だった。庭でひとり、刀を振るっている。昼間のあの流れるような動きそのまま、ひとりで稽古していた。
なぜこんな時間に、という疑問よりも先に、巴愛はその動きに見とれていた。まるで本当に真澄の傍に敵がいて、それを斬り捨てているかのように違和感がない動きなのだ。
少しして真澄が動きを止めた。こちらに背を向けたままだったが、真澄の声が聞こえた。
「――眠れないのか、巴愛?」
「えっ」
思わず声を上げると、真澄が振り返る。巴愛の部屋は、その庭からは二階にあたる。まさか気付くとは思わなかった。
「いつから、気付いて……?」
「最初からだ。……降りてこられるか?」
「は、はい! すぐ行きます」
巴愛はそう言って、部屋の中に戻った。寝着の上から上着を肩に引っかけ、部屋を飛び出して一階へ降りた。と、庭に出る玄関のところで真澄は待っていた。刀は鞘に収めて腰に佩いているが、服装はいつもの袴ではなく、普通の和服だった。私服といったところか。袴姿以外の真澄を初めて見たので、巴愛には新鮮だ。
「お待たせしてすみません」
「大丈夫だ。こんばんは、巴愛」
真澄は挨拶の言葉とともに微笑んだ。戦場での毅然とした真澄とは別人のように、ただ純粋に優しい。巴愛も挨拶を返しつつ、やっと最初の疑問を投げかける。
「こんな時間に稽古していたんですか?」
「ああ、気が向いたときに時々。夜は静かでいい」
しみじみと真澄が呟く。それから巴愛を振り返る。
「少し散歩でもしないか?」
「でも、あたしが真澄さまの傍にいたら……」
「今日はいい具合に誰もいないんだ。滅多にない機会だから、是非」
そう言われて巴愛が断れるはずがない。薄暗い廊下を、真澄と連れだって巴愛は歩き始めた。真澄が言った通り誰とも遭遇しなかった。
向かったのは本棟六階にある謁見の間、つまり玉座がある場所だった。玉座は二つ置かれていて、一方に真澄、一方に知尋が座るのだという。謁見の間は殆どの壁が硝子張りで、今は月明かりが差し込んでいる。玉座の後ろの壁には、大きな旗が飾られていた。金縁の赤い布の中央に、巨大な鳥が描かれている。
「鳥……」
「鳳凰だ。伝説上の生き物だがな」
真澄がそう説明し、旗を見上げる。
「かつてこの玖暁には、鳳凰が存在したと言われている。民はみなそれを神と讃え、崇拝していた。その時鳳凰に仕えた人間の一族が、やがて鳳凰の消えた玖暁の新たな皇を名乗り始めた……それが私の先祖らしい。私の姓、鳳祠とは、『鳳凰を祠る者』という意味だ。この国旗は、その名残だろうな」
自分の先祖のことを話しているのに、まったく昂ぶった様子がないので、巴愛は首をかしげた。
「……その話、信じてないんですか?」
「まあな。ありがちな作り話だ。こういうのは民衆や他国への誇大広告に過ぎん。いっそのこと自分たちは鳳凰の生まれ変わりだ、とでも言ってくれたほうが清々しかったものをな。私の先祖はあくまでも人でありたかったらしい……ところで巴愛は、鳳凰を見たことがあるか?」
問われた巴愛は目を丸くし、首を振った。
「鳳凰なんて伝説上の生き物でした」
「ということは、だ。世界が滅びる前にすら存在していなかった生き物に、私の先祖が仕えられたわけがないのだ。民が自分たちを崇拝するよう仕向けるための、嘘の話だ……世界が再生して五〇〇〇年。玖暁が建国して三〇〇〇年。常にこの国の覇権は鳳祠家が握ってきた。簒奪者と言われても、仕方あるまいな」
自虐的な真澄の言葉を、巴愛は拙い論理で否定する。
「始まりがそうでも、ここまで玖暁皇家は続いてきているんじゃないですか。だったらもうそれは嘘じゃないと思います。真澄さまと知尋さまに守られたこの国は、とても幸せそうだから」
「……そうか。悪いな、暗い話をして。どうしても口を開けば小難しい話になってしまう。気が利いた話題が思いつかないな……」
「あたし、まだ殆どこの世界のこと知りませんから、こういう話してもらうほうが嬉しいです。それに、真澄さまと話していると落ち着きます」
そう言うと、真澄はふっと笑った。困ったような笑みが、薄闇の中でも巴愛にははっきり見える。
「君は本当に……重苦しい話ばかりでもう嫌だ、とは思わないのか?」
「はい、全然」
「……ふふっ、そうか。有難うな」
真澄は頷き、腕を組んだ。
「何か困ったことがあればすぐに言ってくれよ。出来る限り応えるようにするから」
「じゃあ、ひとつだけ」
「ん?」
無欲な巴愛が珍しい、と内心で思いつつ真澄がその言葉を待つ。彼女のほうもだいぶ勇気がいる願い事のようで、少し迷っているようだ。やがて決心したのか、顔を上げる。
「働きたいんです」
「……働く?」
「働いてもいないのにご飯も服もお金ももらうのは、なんか心苦しくて。少しでもいいからお仕事もらえると、有難いんですけど……」
真澄は戸惑いつつその言葉を吟味していた。だが結局、真澄の考えは一周して元のものへ戻ってきた。
「……すまない。いずれはそうできるかもしれないが、今は辛抱してはくれないか?」
「あたし、そんなに不器用なほうじゃないんですけど……」
「そういう話ではないんだ。……君の正体を知っているのは私と知尋、そして瑛士ら騎士の数人だけだ。砦にいた騎士たちは、君のことをただの『客人』だと思っているし、他の廷臣たちは存在自体知らない。私が厳しく箝口令をしいているからだ」
真澄はゆっくりと言葉を紡いでいく。慎重に言葉を選びながら、だ。
「もしも君の存在が貴族たちに知られれば、君は様々な形で彼らに干渉されるだろう。私は、君が政治の道具として利用されるのを防ぎたいんだ」
「利用……?」
「この国には、私が皇であることに不満を持つ者もいる。私を皇の座から引きずりおろすためにも、巴愛の存在は利用されかねない。だからこそ、巴愛が他人の目につくことを避け、君の移動を制限させてもらっている」
巴愛は俯いた。自分の立場を忘れかけていたのだ。李生からも、巴愛の存在が真澄の生命や立場を揺るがすこともあり得る、と釘を刺されていた。それをすっかり失念し、真澄に無理なお願いをしてしまったのだ。
「……そうでしたね。わがまま言ってごめんなさい」
「謝らねばならないのは私のほうだ。すまん、本当に……」
頭を下げた真澄を慌てて巴愛が制止しようとして、これではエンドレスなので、真澄が話を変えた。
「その詫びと言ってはなんだが、今度海へ行かないか?」
「海ですか?」
「ああ……別に遊びじゃないが、視察でな。城のことは知尋に任せて、一週間後から四日空けることになる。共に行かないか」
「でもそれって……」
「同行する護衛は瑛士の隊だ。昴流がいてもまったく怪しまれないし、咲良とともに私の侍女ということでどうかな」
そう聞かされ、巴愛の表情が明るくなる。
「じゃあ……!」
その時、かちりという音がした。ごく些細な音だったが、この空間ではやけに大きく聞こえた。巴愛が顔を上げた瞬間、真澄が凄まじい勢いで振り返った。見据える先には、闇がある。
「何者だ!?」
厳しい真澄の声。無意識に、巴愛は真澄の後ろに隠れてしまった。真澄がそんな巴愛を片手で引き寄せ、招かざる闖入者を睨み付けた。