咲き誇る密かな想い
五年前、俺は大切な人を失った。それも、自分の目の前で。
俺は車に撥ねられ宙を舞う彼女を前に、ただ立ち尽くす事しかできなかった。
地面に叩きつけられた彼女が最期に、俺を見て悲しそうに微笑んだ。
その時の表情が未だに脳裏に焼き付いている。
彼女の死が受け入れられなかったのか、何もできなかった事への罪悪感からか。
俺は彼女が死んでから、一度も彼女に関係のある所に行かなかった。
恋人だった訳じゃない。だからと言って、友人と言える関係でもなかった。
恋情、友情、愛情…一時的に抱いた事はあっただろう。けれどそれが続いていた訳じゃない。
彼女がどうだったかは知らない。
けれど少なくとも、俺には恋人が居た。将来を約束する程の仲だった恋人が。
結局、彼女の死後、何処か不安定になった俺を見て、恋人から別れを切り出されたのだけれど。
それでも、俺にとって彼女は最も大切な存在だった。
互いが互いにもたらす、静かで穏やかな安息。二人の間にあったのはそれだけだった。
それだけで、十分だった。
彼女と共に過ごした時間。あの中にあった安息。
それはもう、二度と戻っては来ない。
今まで彼女の死から目を逸らし続けていた俺は、今になってようやく、それを認識できるようになった。
俺は、謝らなくちゃいけない。彼女に。
あの時、彼女はきっと、俺に助けを求めてた。
助けられなかったとしても、何か、行動がほしかったんだろう。
いや、行動じゃなくて、言葉だけでもよかったのかもしれない。
けれど俺は、何も…何もできなかった。
地に倒れた彼女の血が道に広がっていくのを、ただ黙って見ていた。
俺は彼女を、助けられなかった。…見殺しにしたんだ。
彼女はきっと、俺を許してはくれないだろう。
彼女は変なところで強情で我が儘で、意地悪だから。
それでも、彼女に謝る為、俺は今まで一度も訪れていなかった彼女の墓へ向かっていた。
彼女の墓へ向かう途中、小さな花屋を見つけた。
店の外で季節の花が身体一杯に、優しい春の陽射しを浴びていた。
それを見て、
(墓に行くならやっぱり花が要るか。)
そう思い、その店に寄った。
「いらっしゃいませ。」
明るい笑顔を振り撒く、自分と同じくらいの年の女の店員がいた。
彼女とは全く違う。顔も身体つきも髪型も。
けれど全く違うのに、何処か似ているような気がした。
「何をお探しですか?」
店員が聞く。
何を探してる?
そんなの俺にも分からない。
(墓に供える花を聞こうか。)
と思ったが、それは聞かなくても大体分かる。
それに普通の花じゃ、彼女はきっと喜ばない。
そこでハッと思い出した。
彼女は花が好きだった。そして目の前の店員も、花に囲まれて幸せそうに笑っている。
似ているのは、二人の雰囲気だ。
花に向ける情から生まれた、その柔らかい雰囲気。
それが二人の共通点だったのだ。
けれど今、それに気づいたところで意味はない。
彼女の好きな花も思い出せないまま、俺は花屋をぐるりと一度見回す。
そこでふと視界の端に映った、紅紫色の大きな花に目が止まった。
「…敦盛草…」
彼女がよく、俺に言っていた花の名前。
『“気まぐれ”“移り気”“変わりやすい愛情”…貴方には敦盛草がぴったりね。』
俺はこれまで、何度も人を好きになった。そして何度か付き合った事もある。
けれどどれ一つとして、長続きしない。
ついこの間まで付き合っていた恋人は例外だが、それでも結婚するまでに行かなかったのが結果だ。
そんな俺を笑って、彼女はよく俺にそう言っていたのだ。
「敦盛草をお求めですか?」
その花は別に彼女が好きだった花ではない。
けれどそれ以外の花が思い浮かばないのも事実だ。
「…はい。」
「分かりました。少々お待ち下さい。」
店員は零れるような笑顔を見せて、敦盛草を取りに行った。
大きな花なのと珍しい花なのとで少々値が張り、結局一本しか買えなかった。
簡単なラッピングをしてもらい、小さな花束ができた。
それを持って、俺は店を出る。
「ありがとうございました。」
店員の弾む声を背に、俺は再び彼女の墓へと向かう。
道中、先程の敦盛草の一件で思い出した事を考えていた。
彼女は花言葉にとても興味を持っていた。
彼女に花言葉からオススメの花を聞いたら即座に答えられる程、彼女は花についての知識が豊富だった。
けれどそんな彼女にも、特別思い入れのある、お気に入りの花はあった。
それなのに、それがどうしても思い出せない。
後少しなのに、どうしても出て来ない。
それが何なのか、ずっと考えている内に、答えは目の前に現れた。
彼女の墓は、ほんの少し暗い、小さな林のような所の中にあった。
彼女の墓の他にも墓は幾つかあるが、彼女の墓を探す必要はなかった。
彼女の墓を囲うように咲く、青色の群集。
小さな花なのに印象深く、異常な程に存在を誇示しているそれは、勿忘草。
<forget-me-not>
ああ、そうだ。
彼女はそう言っていたじゃないか。
『一緒に居たいとか、愛してほしいとか。そういう事は望まない。ただいつまでも、“私を忘れないで”。』
普通の愛の言葉よりも何倍も重く、タチの悪い言葉。
それは自らの死後も、俺を縛り付けようとする。
「…これは十分、呪いだよ…」
呆れているのか。それとも嬉しいとでもいうのか。
片手で覆った俺の顔は、きっと笑っている。
すると風通しの悪いはずのこの場所に、一瞬強い風が吹いた。
咲き誇る勿忘草が舞い上がる。
−忘れるなんて許さない−
そう言うかのように、視界が青く塗り潰される。
「忘れないよ…忘れられる訳がない。」
彼女と過ごした時間は、本当に心地好かったんだ。
そんな時間を共有できる人はもう、きっと彼女以外に見つからない。
そんな彼女を、どうして忘れられるのだろう?忘れる事なんて、できはしない。
けれど多分、彼女には言葉だけじゃ足りない。信じてはもらえない。
何があったのか知らないが、彼女はとてもうたぐり深い性格だったから。
俺は手に持つ敦盛草に目をやる。
敦盛草の花言葉。彼女に言われた後、俺も調べてみた。
“気まぐれ”
“移り気”
“変わりやすい愛情”
確かにそうだった。
けれどもう一つ、別の言葉があった。
「俺は“君を忘れない”。」
そう言って、俺は敦盛草を彼女の墓に置く。
勿忘草の花びらがその上に被さっていく。
もしかすると、これは彼女が仕向けた事かもしれない。
俺は彼女に誘導されたのかもしれない。
けれども、この花に託した想いは本物だ。
これから先、俺はまだ別の人を好きになるだろう。生涯を共にする、愛する人にも会うかもしれない。
それでも、俺は彼女を忘れない。
きっとこれは、彼女の思い通りの展開。
けど、それでもいい。
俺にとって最も大切な人は、これから先も彼女以外にできないのだから。
彼女の墓の近くに生えていた勿忘草を一本取り、俺は彼女の墓を後にした。
『ねぇ、知ってる?勿忘草で有名な花言葉は“私を忘れないで”。でもね、もう一つあるんだよ。それは“真実の愛”。』
−貴方は気づいてなかったよね?貴方は私を愛してはくれない。でもね、どんな事を言っても、態度には出なくても。私はずっと、貴方を想ってた。お願い。愛してくれなくてもいいから、“私を忘れないで”。貴方の中に私がいつまでも残れるように。けれど、できることなら…どうか、この想いに気づいて−
咲き誇る密かな想い
−本当の想いは伝わらない−