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桃春の月、15日。
ミーナとシオンの二人は、森の中にいた。森の中とは言っても、まだまだ浅いところではあるが、町中とは違いその雰囲気は静寂に満ちている。
「初めて森の中に入ったけど、全然魔物なんていないのね?」
「そうじゃなかったら、私も森になんか来ないよ……」
シオンは最初、静かな雰囲気を楽しんでいたようだったが、延々と続く同じ景色に飽きたらしい。期待はずれだという声色に、ミーナは呆れたように返す。
一体シオンは、町の近くにある森をどんな秘境だと思っていたのか。その答えはシオンのみぞ知る、である。
ちなみにシオンの胸元には、ミーナと同じく護りの魔法が込められたペンダントがあった。ただし、それに施された細工はミーナのものには及ばない。とはいうものの、普通に作品として世に出せるレベルではあるのだが。
愛の差だ! と胸を張ったセルジュに、それは職人としてどうなの、とその場にいたミーナは内心で非難した。強い感情を持つことで作品の出来が変わるのは、どんな職人にだってあることなのだが、その理由が「娘溺愛!」という時点で「何かこの人駄目な人だ……」と思わせるには充分なのだった。
「そういえば、ミーナはいつも森に何しに来てるの?」
「あれ? 言ってなかったっけ? 魔法の練習だよ?」
「あら、魔法の練習なら、家の裏口でやってたじゃない?」
「だんだん威力が強くなってきたから、全力を出す時はここでやってたんだ。危ないしね」
「ここでやる方が危ないわよ」
「……まあね」
シオンの言うことは間違いなく正しかったので、ミーナも気まずそうに頷いた。今まで魔物は一度も出たことはなかったが、出る可能性があるだけでも危険なことには変わりがないのだから。
それでも、新しい魔法を試すには森の中が一番安心なので、これからもミーナは続けるだろうけれど。
その時、がさり、と茂みが掠れる音がした。
「……!?」
ミーナとシオンは同時に、弾かれたように肩を跳ねさせて、音がした方を見る。
また以前のようにレグルスが迷ってしまったのかも、と少しだけ願ったミーナだったが、そんな偶然は二度も起こらないから偶然なのだ。
「……ギギッ、ギギ!」
そこから飛び出して現れたのは、緑色をしたカマキリのような魔物だった。ただしその体長はミーナの身の丈ほどあり、カマの部分は本物の鎌のように銀色に光っていたが。
「ひっ……きゃああああああ!」
「いやああぁあ!」
ミーナとシオンは一目散にその場から逃げ出す。二人は恐怖で震え真っ青になっていたが、特にミーナは顕著だった。まるで今にも倒れてしまいそうなほどに、顔からは色が失われている。
その魔物は二人を追いかけるが、さほど足が速くないのか距離は少しずつ離れていった。ただ、子供の足では、振り切れるほどの速度が出ないため、とうにかして対処する必要はありそうである。
「ミーナ、これからどうするの!? ……ミーナ!?」
シオンの呼びかけに、ミーナは応えない。応える余裕がない、と言ったほうが正しい。
ミーナの脳裏に浮かぶのは、あの日、自分の首を切り裂き、刎ねた凶刃。その凶刃に、銀色に光る鎌が重なっていた。
シオンは走りながら、何も言わないミーナの顔を伺い見る。彼女の表情に何を思ったのか、それ以上彼女に何も問いかけなかった。
そして、二人は無言のまま、森の中を縫うように駆けていく。
(どうしよう、どうしようどうしよう!?)
一方のミーナはといえば、酷いパニックに陥っていた。冷静に考えることが出来ていれば魔法の一発や二発、放つことも考えられたのだろうが、相手が悪かった。冷静に考えようとすればするほど、銀色がフラッシュバックして、彼女の思考力を奪っていく。
(……っ、駄目だ、冷静にならないと!)
焦る思考の中、ミーナは一瞬後ろを振り返る。魔物との距離があることを確認してから、走るのを止めて立ち止まった。シオンも同時に立ち止まり、彼女の様子を見守る。
ミーナは懐から紙を取り出して、一言唱える。
「水≪ウォーター≫!」
ミーナの頭上に大量の水が現れ、そして滝のように降ってくる。その水を全身で浴びたミーナは、文字通り頭を冷やすことができた。
シオンはミーナの奇怪な行動を、目を丸くして見る。魔法で魔物を攻撃するのかと思えば、いきなり水浴びだ。奇怪だとも思うだろう。
(……うん、大丈夫。やれる。私がしっかりしないと、私だけじゃなくてシオンも危ないんだから!)
さて、そうやって冷静さを取り戻したミーナは、今までの自分が全くもって冷静でなかったことにようやく気付いた。何故なら、手に持っていた紋章を書き記した紙がびしょぬれで、到底使い物になりそうになかったからだ。
(私の馬鹿ああああ!)
ミーナは、三秒前の冷静でない自分を力いっぱい罵った。
(……まあ、そんなこと言っててもしょうがない。とにかく、この状況をどうにかしなきゃ)
ミーナは自分にそう言い聞かせて、改めてシオンに声を掛ける。
「シオン、もうちょっと走れる? この先に、いつも魔法を練習してる、開けた場所があるんだけど」
「え、ええ、大丈夫よ。行きましょう……!」
ミーナはシオンを先導するように走る。シオンは、結局さっきの水は何だったのかしら、と内心で首を傾げるのだった。
***
いつもミーナが魔法を練習している、森の中の小さな空き地に辿り着いた二人。ミーナは、その辺りに落ちていた枝を拾い、地面に紋章を書く。
(えっと、まずは一応防御!)
ミーナは殴り書きで紋章を記す。
「『守≪バリアー≫』!」
二人を包むように、半ドーム状の膜が現れる。とりあえず少しの間はこれで大丈夫だろう、とミーナは次の魔法のための紋章に取り掛かった。
(えっと、とりあえず簡単な『一』を。あと、敵は虫っぽいから……)
ミーナは余裕のある内に、紋章を書いておくことにする。
と、そうこうしている間に、魔物が二人に追いついてきた。
「ギギギギィッ!」
魔物が発する耳障りな鳴き声に、ミーナは眉を潜める。魔物は威嚇するように銀色の鎌を擦り合わせたが、ミーナはそれを見ても恐怖はあるが、もう我を失うことはなかった。
「ミーナ、頑張って……」
ぎゅ、とシオンがミーナの後ろに隠れながら、彼女の濡れた服を握り締める。ミーナはそれに応えるように頷いてから、呪文を唱えた。
「『一≪ファースト≫』!」
一発の魔力弾が、魔物に向かって飛んでいく。しかし魔物は、鎌でその魔力弾をいとも簡単に切り裂いてしまった。ミーナはく、と悔しそうにそれを睨む。
(……やっぱり、まだまだ実践では難しいか)
魔力の操作には、強い集中力を要する。練習時のように集中する暇が取れない今、初歩の初歩である『一』では思ったような威力が出ないのだ。
ミーナが、わざわざ地面に紋章を書いているのもそのためだ。影紋章魔法の練習を殆どしたことがなく、集中出来る時間も少ない今、時間がかかるとは言え、地面に書いてしまう方が堅実だった。
「ギギィ!」
これで終わりか? とでも言っているかのように、魔物は嘲り鳴く。そして二人を追い詰め、狩りをするかのように、一歩踏み出した。
「まだまだっ! 『火≪ファイア≫』!」
ミーナの指先から、小さな火が空中を走る。そして、敵の身体の表面を撫でるように焼いた。しかし、そんな小さな火では、焼き尽くすことなど到底無理な話。魔物の身体に移った火は、焦げ目を残してすぐに鎮火してしまう。
「ギギギギッギギギィ!」
怒り心頭。身を焼かれた魔物は、そんな様子でミーナたちに襲い掛かってくる。しかしミーナは慌てずに、次の魔法を繰り出した。
「『炎≪フレイム≫』!」
彼女の指先から、大きな火が放たれる。それは、魔物の半身を包み込むほどに大きかった。魔物は咄嗟に逃げようと身を引くが、炎はそれを追いかける。
「ギギィイイイイ!?」
火達磨になった魔物が断末魔を上げながら、全身を焼かれる苦しさにのた打ち回る。その光景を、二人は戦々恐々としながら見守った。そして十数秒後、ようやく魔物は動かなくなる。
ミーナはそれを見て、ホッと息を吐く。いざとなれば『火』と『炎』で『火炎』の魔法を使おうと思っていたのだが、その必要は無さそうだった。
(美味しそうな匂いだなあ……)
丸焦げになった敵から漂ってくる、まるで海老を丸焼きにしたような香ばしい匂いに、ミーナは不謹慎ながらそんなことを考えてしまう。そのお陰で、初めて魔物を倒したという事実に、それほど嫌悪感や忌避感は抱かずに済んだ。
「……ミーナ、凄いわっ!」
「そ、そんなことないよ」
我に返ったシオンが、ミーナの手を取りながら言う。その言葉に、ミーナは照れたように笑った。
と、そんな風に二人が安心したその時、がさり、と茂みが掠れる音がした。
「え!?」
「まだ何かいるの!?」
二人は、肩を震わせながら音の方を見やる。
しかし、そこから出てきたのは。
「大丈夫か」
いつものように無表情なレグルスであった。
ミーナはびっくりして、目を丸くする。
「……レ、レグルス!? 何でここに!?」
「悲鳴が聞こえた」
どうやらレグルスは、二人の悲鳴を聞きつけてやってきたらしい。
ミーナは安堵の溜息を吐いてから、彼にお礼を言って笑いかける。レグルスは表情筋をぴくりともさせないまま、それに頷きで応えた。
だが、シオンとしては面白くない。
全く見知らぬ少年が唐突に現れたどころか、ミーナから親しげに話しかけられ、挙句の果てにニコリともしないのだから。
シオンは、じっとりとした目でレグルスを見る。レグルスもまた、何故見られているのかわからない、という風にシオンを見返した。
ばちばちと、一方的に火花が散る。
(……何で二人とも見詰め合ってるんだろう? 一目惚れ……にしては、雰囲気悪いよね?)
しかしミーナは、良く分からないと言った様子で、二人の動向を見守るのだった。