30
30
桃春の月、59日。
鳴り響いたチャイムに、ある者はこの世の終わりかというようにがっくりと項垂れ、ある者はホッとしたように息を吐く。
今日は、入学して初めての月末試験、その最終日だ。
「ミーナ、どうだった?」
後片付けを終えたらしいシオンが、ミーナの席へと寄ってくる。ミーナは自信ありげに、満面の笑顔で応えた。
「流石、ミーナね!」
ぎゅ、と後ろから抱き着いてくるシオンに、ミーナはくすぐったそうに微笑む。
あの日からほんの少し、シオンからミーナへの接触が多くなったような気もするが、それもまたご愛嬌だろう。
「うう~……」
さて、二人がそんな風にスキンシップを図っていると、どんよりとした空気を漂わせ、アリアがミーナたちへと近寄ってきた。
「アリアちゃん……」
きっとテストの出来が、あまり宜しくなかったのだろう。ミーナはそう悟り、一瞬浮かべた苦笑いをひた隠して、アリアを慰める。
「まあまあ。試験はもう終わったんだもん! そんなに落ち込まないでよ、アリアちゃん?」
「追試が今から恐いよ~……」
(今から追試の心配をしなくちゃいけない出来なんだね……)
ミーナは心底落ち込んで肩を落とすアリアから、気まずげに目を逸らすことしか出来なかった。
「……ミーナ、ちょっといいか?」
と、そんな時、ミーナの後ろからレグルスが声を掛けてきた。
呼ばれたミーナは、ん? と首を傾げながら振り返る。ミーナの後ろにいたシオンは、敵意を乗せた目でじとりと睨みをきかせ、アリアは彼に気付かぬまま鬱々とした溜息を吐いた。
レグルスはそれらを一瞥し、僅かに躊躇するような間を置いてから、潜めるような声で言う。
「少し、話がある。今、大丈夫か?」
ミーナはハッと気付く。今月中には教えてくれると言っていたことについてだろう。彼女は得心がいったように、うん、と頷く。
「ごめんね、二人とも。先に、寮に帰っててくれる? あ、お昼は一緒に食べようね!」
「わかったわ」
「……いってらっしゃーい……」
いまだに沈むアリアが少し気になったものの、ミーナは背を向けるレグルスの後に続く。
「レグルス」
「何だ」
去ろうとするレグルスを、面白くなさそうな声色で呼び止めるシオン。近寄ってきたレグルスの裾を引っ張り、他の二人に、特にミーナに聞こえないように彼の耳元で言う。
「……ミーナは私のよ」
「アイツは誰のものでもないだろう」
どこか呆れたように言うレグルスに、シオンはむう、と頬を膨らませた。確かにその通りなのだが、非常に面白くないようで。
不機嫌を露にするシオンの頭に、ぽむり、とレグルスの手が乗せられた。シオンは流石にぎょっとして、何をするのかとレグルスを半目で睨むように見上げる。
「な、何よ?」
「いや、何でもない」
レグルスはそれだけ言って、瞠目するシオンを置いて、そそくさとその場から立ち去る。その行為に不思議がったミーナも、彼の後をついて同じように教室を去っていった。
その場に残されたのは、呆然と立ち尽くすシオンと、机に突っ伏して落ち込むアリアだけだった。
***
ミーナとレグルスがやってきたのは、学園の校舎裏にある温室の近くだった。人気のないそこで、ミーナは木を背にして、レグルスはその隣に座る。
「覚悟、決めたの?」
ちち、と鳴く鳥の声を聞きながら、ミーナが問いかける。端的なそれに、レグルスはこっくりと頷いた。
それからレグルスは外に音が漏れないようにと、『静寂≪サイレント≫』の魔法を使う。外から切り離され、鳥の声すら聞こえなくなった空間に、こんな魔法もあるのかと感心しながら、ミーナは彼の次の言葉を待った。
それから、少しの間があって、レグルスが口を開く。
「美奈」
その一瞬。彼になんと呼ばれたのか、ミーナはわからなかった。
だけどそれを理解した時、ミーナの胸は、まるで悲鳴を上げるかのようにどくんと震えた。ざっと脳内で血の気の引く音がして、彼女はただ驚愕に瞳を揺らす。両掌に嫌な汗がじとりと浮かんでくるのに、口の中は段々とからからに乾いていった。
「ねえ、レグルス……今、ミーナって、言ったんだよね?」
わなわなと慄く唇で、ミーナは辛うじて言葉を紡ぐ。
その名前は、この世界では誰からも呼ばれることがないはずの名前だ。
聞き間違いだ、そうに違いない。ミーナはそう断じようとして、しかしレグルスの言葉に遮られた。
「美奈、と呼んだ。ミーナ、ではなく」
ミーナは今度こそ、愕然とした表情でレグルスを見る。震えながら恐る恐る窺った彼の顔には、何の感情も浮かんでいないように見えて、それがより恐ろしく感じられた。
「な……んで……、その名前……」
「××美奈。市立××高校の一年生で文学部に所属。×月×日二十一時頃、高校での部活動後の帰り道、通り魔に刺されて死亡。気が付いた時には、この世界に転生を果たす」
ミーナは思わず息を呑んだ。
それは、何一つ間違いのない、彼女の過去だったからだ。
どうして、知っているのか。どうして、レグルスが? どうして?
ミーナの思考は、目まぐるしく動いていく。
だけど思考は、彼の放った言葉で、停止した。
「……お前を殺したのは、俺だ」
一瞬、何を言われているのかわからなくて、数瞬の後に理解したミーナは、顔を真っ青にして、勢い良く立ち上がる。逃げるように、数歩後ずさった。
「わ、私を、殺した? ……じゃあ、あの、あの男は……レグ、ルス?」
「そうだ」
短い肯定に、ミーナは呆然と立ち尽くす。まるで鉛を飲み込んだように、胃の下の辺りが酷く重くて、息苦しくなった。
「待っ、待って待って……!? どういうこと!? 何で私のことっ……私をっ……!?」
混乱して、言葉が上手く出てこない。ミーナは狼狽しながらも、たどたどしく言葉を紡ごうと口を開く。だけど、何かを言おうとするのに、何も言葉が浮かばない。聞きたいことは、聞かなきゃいけないことは、沢山あるはずなのに、何一つ口に出来なかった。
そんな彼女をじっと見つめていたレグルスは、唐突に語り出した。
「……俺は、元々、世界を管理する存在だった。人間たちの言葉で“神”と言えばいいか」
(……か、神?)
突飛すぎる言葉に、ミーナはあれこれと言い募ろうとしていた口を噤んで、黙り込んでしまう。それを見て、レグルスは言葉を続けた。
「俺は、地球という星のある世界を管理していた。といっても、特にやらなくてはいけないこともない。生命体が死滅しない程度に、全てをただ見ていればいいだけの、退屈な仕事だ。……だが、見ているだけでも、声は聞こえてくる。星の声、植物の声、動物の声。その中でも一番大きく響くのは、人の声だった。その多くは妬み、哀しみ、苦しみ、怨嗟といった、負に偏ったものだった。まだ“神”として未熟だった俺は、そんな声たちに、だんだんと狂わされていった」
すっと、目を細めるレグルス。
それは無表情に見えて、だけど何処か辛そうにミーナの目には映った。
「そうやって狂っていった俺は、狂気と自我の間を朦朧と行き来して、ふとした瞬間に自分を失った。そして、気付いた時には美奈という女を殺していた」
「……気付いた、時には……って」
「美奈には……ミーナには、悪いと思っている。だが、事実、そう形容するしかないんだ。本当に……気付いたら、我に返ったら、俺の両手は、血に染まっていた。それ以外、何も覚えていない。一体どうしてここにいるのか、どうして凶器なんか持っているのか、どうして女を殺めたのかも……何も、わからなかった。ただ、目の前に首を掻き切られた死体があって、その死体は俺が殺したのだと、それだけは、何故かわかった」
ぎり、とミーナは歯を軋ませる。
自分の死は、そんな、簡単に言えるようなものだったのかと思うと、悔しくて、腹が立って、そんな感情がない交ぜになったものを抱えながら、彼女は睨むようにじっとレグルスを見た。
「……それで。どうして、私はこの世界に生まれたの? レグルスが、何かしたの?」
「その、通りだ。せめてもの償いにと、美奈にはもう一度、生きて欲しかった。そして、今度こそ幸せになってほしかった。しかし、神だった俺が関わってしまった魂は、二度と同じ世界には戻れない。だから、俺が作ったこの世界に、お前の魂を持ってきた」
レグルスは真剣な面持ちで言う。それが、彼の真剣な気持ちであることは、ミーナにもわかった。自身を転生させたのが、彼にとっての贖罪だったのだと、そのことだけは理解できた。
だけど、それで彼のやったことが納得できるかと言われれば、また別問題だった。
「……んで」
「ミーナ?」
「何でッ、そういう余計なことをするの!? っていうか、何で今更そんなことを言うのっ!?」
ミーナは沸々と湧き上がる感情に任せたまま、我武者羅に腕を振りぬいた。彼女の掌は、レグルスの左頬を強く打ち付ける。不意をつかれる形で思い切り殴られた彼は吹き飛ばされ、地面に勢い良く倒れこんだ。
ミーナは肩で息をしながら、レグルスを睨み付ける。レグルスは唖然とした表情で上体を起こし、感情に任せて激情するミーナを見上げた。
「幸せになってほしいなら、転生させる前にでも、言ってよ! それなら、そんなこと要らないとか言えたし、考える時間だって、自分を納得させる時間だってあったのに! そうやって、何も言わずに、放り出して! そして、今頃……赦してほしいからって、そんなこと、言い出してっ……!」
「違う! 俺は、許してほしいわけではっ……」
「嘘!」
叫ぶような、悲痛な声だった。
レグルスは目を見開き、表情を苦しそうに歪める。
「今更そんなこと言い出したくせに! 今頃、私に悟らせたくせに! 「そんなこと気にしてないよ、むしろ転生させてくれてありがとう」なんて言われたかったんでしょう!? ほとぼりが冷めてから、そうやって受け入れて欲しかったんでしょう!?」
ミーナの口からは、次から次へと言葉が溢れていく。彼女が思ってもみない言葉まで、今までの辛酸と鬱憤を吐き出すかのように、次々と飛び出していく。
「ずるい、ずるいよ……! 何で、もっと早く打ち明けてくれなかったの……!? どうして記憶を無くしてくれなかったの!? どうして私を、お母さんと、お父さんのところに、生まれ変わらせたの……?」
薄く涙を溜めながら、ミーナは膝をがくんとつく。
ミーナはただ悲しくて、悔しくて、わけがわからなくなった。
記憶の奥底に秘めていた感情が次から次へと溢れ出てきて、感情を吐露するように、ただただ叩きつける様に言葉を紡いでいく。
「もっと早く言ってくれれば、私はもう一度なんて生きたくないから、記憶を無くしてって頼めた! ……あの二人の、あんなに優しい両親のところじゃなかったら、こんな罪悪感なんて感じることもなかった! ……どうして、どうしてよ……今更、記憶なんて失ったら、心配させちゃう。……シオンだって、アリアだって、他の人たちだって……!」
ミーナの目から、涙が零れ始める。
その雫が、ぽたり、ぽたりと地面を黒く染めた。
「……私は、もうミーナだよ! 今更っ、美奈を思い出したくなんて……美奈に、戻りたくなんて、無かったのに……! どうして、レグルスは、今更そんなこと、言うの!?」
何かが決壊したのか、顔を両手で隠してただ泣きじゃくるミーナに、レグルスは言葉を失い、転んだ姿勢のまま、固まってしまう。
しばらくの間、ミーナはひっく、ひっくと、しゃくり上げる。レグルスはただ黙したまま、泣き続ける彼女を呆然と見守ることしか出来なかった。
「……馬鹿……大ッ嫌い……余計な、お世話でっ……レグ、ルス、なんかっ……」
ぼろぼろと、ミーナの目からは、涙が雨のように零れていく。彼女の口からは、うわ言のように言葉が漏れていく。彼女がいくら拭っても、いくら押さえようとしても、それらは止まなかった。
悔しいのか、悲しいのか、苛立たしいのか、腹が立つのか、責めたいのか、逃げたいのか、消え去りたいのか。ミーナはぐちゃぐちゃな気持ちを抱えて、ひたすら涙を零す。
その間、レグルスは何も言えないまま、ただ苦しげに自らの肌に爪を突きたてていた。
やがて、二人にとって永遠にも感じられるような時間が経ち、ミーナの涙も落ち着いたころ、ぽつりと彼女は言った。
「…………ごめん、レグルス。八つ当たり、だった」
とても、疲れたような声だった。事実、疲れていたのだろう。泣くということはとても体力のいる行為だから。
「八つ当たり、なんかじゃない。それはお前の、正当な権利だ」
「……ううん、違う。これは、ただの八つ当たりだよ。だって、聞きたいって言ったのは、そう願ったのは、私なんだから。だから、ごめんね。ごめんなさい……」
ミーナは視線を地面の辺りでさ迷わせながら、震える声で言う。レグルスはいまだ苦しそうな表情のまま、彼女から目を逸らした。
はあー、と長く大きな溜息を吐くミーナ。それから、いまだ倒れた姿勢のまま固まっていたレグルスへと近寄り、手を伸ばした。
彼は一瞬目を揺らしたが、彼女が小さく頷くと、その手に自身の手を重ねる。彼女はえい、と勢いづけて、彼を引っ張り起こした。
それから、二人でまた、先程のように隣同士に座る。ミーナは膝を抱えるようにして、体育座りの姿勢を取っていた。
「……別に、転生したくなかったとか、そういうわけじゃないの。……いや、別にしたいわけでもなかったけど。というか正直ね、私の意志とかガン無視で転生させられたって考えると、ほんと腸煮えくり返るし、安らかに眠らせろよ大馬鹿って思う」
ミーナが、いや、美奈が正直な気持ちを伝えれば、レグルスはまた、すまなかった、と頭を下げる。いつもより小さく見えるその姿に、彼女は溜息を吐いてから、いいの、と首を横に振った。
「結局のところ……今は何だかんだで楽しくやってるし、許すよ、レグルスのこと。“転生させてくれてありがとう”とは、言えないけど。でも、許す。……そもそも、どうしてこの世界に生まれてきたんだろうって思うことはあっても、特に何かを恨んではいなかったんだけどさ」
「……だが…………いや、すまなかった。……ありがとう、ミーナ」
「うむ、宜しいっ」
ミーナは、泣きすぎて少し嗄れた喉を手でさすってから、えいっと勢い付けて立ち上がる。
そして、片足を軸として、くるりとレグルスを振り向いた。
「それで、私を守るってのは、殺した責任を感じてるから? っというか、神様だったのに、何でこの世界にいるわけ? ……あれ? そういえば世界を作ったとか言ったよね? どういうこと?」
いったん気持ちが落ち着けば、疑問ばかりがわきあがってきて、ミーナは次から次へと質問を投げかける。レグルスはそれに頷いて、一つ一つ丁寧に答え始めた。
「俺は、一人の人間を殺してしまったことで、神であることに限界を感じた。別に、生き物を殺した程度で咎があるわけじゃない。ただ、俺自身がもう嫌だったんだ。だから、贖罪にと、殺してしまった美奈の魂を転生させてから、神をやめることにした。……結局のところ、贖罪になど何一つなってなくて、俺自身の自己満足に過ぎなかったんだが」
レグルスは自嘲気味に口元を歪めながら、続ける。
「俺は、美奈の持っていた電子辞書を核に、この世界を作り上げた。彼女が少しでも過ごしやすいような世界になるようにと、そして、少しでも懐かしさを得られる世界になることを願って。それは、とても大事に使われているようだったから。……だから「漢字」と「外国語」が魔法になったんだ、この世界では」
思いもよらなかった事実に、ミーナが思わずきょとんとする。
電子辞書と言われ、学生時代にいつも持ち歩いていたそれを、一生懸命に思い出した。
(確かにあの電子辞書は、愛用してたし、それに漢和辞典だとか、英和・和英辞典だとか、確かに入っていたけど……。あの辞書が核? になった世界って……何か笑っちゃうな)
ミーナの愛用していたというその電子辞書には、旅行用の小辞典も入っていたため、旅行に使うくらいの簡単な中国語や、イタリア語、ドイツ語、フランス語などでも魔法が発動する。ミーナ自身は知らないが、実際、『再会』の魔法は中国語の読みで伝わっていた。
「……そうして、作り上げたこの世界にミーナの魂を持ってきた後、俺は神をやめた。だから俺は、美奈を守るためだけに、今この世界にいる」
あまりにも予想通りな言葉に、ミーナが小さく溜息を吐きながら右手で頭を抱える。
んー、とか、うー、とか妙な唸り声を上げて悩んでから、うんと一度大きく頷いた。
「……ねえ、レグルス。それもやめよう? 神をやめたついでに、私を守るとか、贖罪とか、そういうのもやめて、全部忘れちゃおう?」
本当に軽い口調で、ミーナが言う。
レグルスは一瞬目を見開いて、だが、と口を開きかけた。しかし、彼の言葉は、ミーナの言葉に重ねられて、すぐさま防がれる。
「やめるの! 負い目があるなら今日で終わり! っていうか、負い目とか感じられると、本当に腹が立つから。だって、レグルスの負い目があったって、私はあの世界に、あの日々に戻れるわけじゃないんだし。もっと堂々と「俺は神だ! だから俺に従え! 俺が転生させてやったんだ敬え!」なんてやってもらった方が、まだマシなの!」
ミーナのそんな乱暴とも言える言葉に、レグルスは少しの間躊躇ってから、小さく頷く。その言葉が、彼女の気遣いだということが、ありありと理解出来たからだ。
本当は、こんなに簡単に赦されるものではない。だが、これ以上の問答は、きっとミーナの負担になってしまう。レグルスはそれを悟って、色んな気持ちを込めながら、そうか、と頷く。
「わかった。……であれば、これからは、友人として一緒に居てもいいだろうか」
「……え、そこから? 私はとっくに、友達だって思ってたんだけど……」
「いや……俺も思っている、ミーナ」
レグルスが、小さく笑う。ミーナは何度目かわからない為息を吐いて、呆れ笑いを浮かべた。
それから何を思ったのか、先程思い切り叩いた方の頬を、人差し指と親指で抓りあげる。
「あにょ、みーにゃ……いひゃいの、だぎゃ」
「うるせーこのやろーこれくらいはさせろよーばかれぐるすー」
「……負い目は、やめひぇいいのれは、無はっひゃか?」
「うるせーこんちくしょーかわりみはやすぎだろコイツーこのうらみはらさでおくべきかー」
棒読みで淡々と言いながら、ミーナはとりあえずレグルスの頬を爪を立てて抓っておく。胸に秘めるものが、何もないわけではなかったが、とりあえずこの一抓りで全部清算。そういうことに、彼女は決めたのだ。
力いっぱいのそれは、かなり痛いようで、レグルスは思いきり涙目だったけれど。
平和的解決には、違いないだろう。
***
「よ! ミーナにレグルス!」
「あれ、リュート? どうしたの?」
ミーナとレグルスが、共に寮に帰る途中のこと。
寮の玄関まで目と鼻の先、というところで、二人は黒髪の少年に呼び止められた。
振り返ったミーナの目元と、レグルスの頬がほのかに赤くなっていたことに少年は気付かず、にこやかな笑顔のまま話を進める。
「なあ、もうすぐ夏休みだろ? ちょっと避暑地に行くつもりだったんだが、お前らも誘おうと思ってきたんだよ。ほら、こないだのお礼に、な」
人の良い笑みを浮かべているはずのリュートの言葉に、何故か良からぬものを感じたミーナ。彼女は一瞬の間にどうしようか考えて、すぐに断ることに決める。どうしてか何となく、嫌な予感がしたからだ。
「えっと……夏休みは実家に帰りたいし、遠慮しておくよ。ね、レグルス?」
「……ああ」
「ん? お前ら、たった十日の休みで実家に帰るつもりなのか? 確かお前らの町までは、馬車で片道二日かかるんだったよな?」
(何で知ってるの私の故郷!? ああ、でも調べればすぐにわかっちゃうものなのかな……?)
ミーナはとりあえずそう思うことにして、上手い断り文句を頭の中で考える。
だがそれを考え付く前に、ミーナの後ろから二つの声が。
「ミーナ、レグルス、お帰り!」
「ミーナちゃん、レグルス君、お帰……って、わわっ、王族さん!?」
(……あ、何だか、もっと嫌な予感がしてきた)
聞き慣れたその声たちに、ミーナはぴしりと硬直する。
そして二人の登場により、誰にも悟られず、にやりと深められるリュートの笑み。
「なあお前ら、ミーナの友達だよな? 夏休みに、避暑地に行かないか?」
「避暑地、ですか?」
「わわ、ちょっと行ってみたいかも!」
王族の少年に話しかけられたシオンとアリアが、そうやってやり取りを交わす。
ミーナがそれをどうにか止めようと、一生懸命三人の会話に割り込もうとしたのだが、少年が浮かべる人の良い笑みと、言葉巧みに進められる会話に遮られ、どうすることも出来ず。
「というわけで、夏休みは旅行決定だな!」
「わーい! 楽しみー!」
「……あ、ごめんなさい、ミーナ。何だか勝手に決めちゃったけど、大丈夫だったかしら?」
心底楽しみという風に笑うアリアと、伺いの形を取っていながらも、興味津々な様子のシオン。
そんな二人を見てはミーナも今更駄目とは言えず、渋々了承することに。
「……うん、いいよ。楽しみだね?」
そうミーナが言った瞬間、リュートの笑顔が歪められたのだが、誰にも目撃されることはなかった。
もしもミーナがそれを見ていたのなら、旅行など是が非でも拒否していただろうが、それはあくまで仮定の話。
(ちょっとした旅行なんだし、大丈夫だよね? 嫌な予感は、きっと気のせいだよ、うん)
旅行に行くことを了承してしまった以上、そうやって自分に言い聞かせたところで、結局は巻き込まれる羽目になってしまうわけで。
転生者のミーナ。
男の娘のシオン。
元神様のレグルス。
そんな、それぞれの事情を持った三人は、アリアや、どっかの王族や、その他個性豊かな人たちに囲まれて。
どういう形であれ、これからも毎日を過ごして行くのでしょう。
きっと、ね。
1章・きっとよくある転生のお話 了