29
29
「え、えええ? どう……ええ!?」
ミーナは、酷く混乱していた。錯乱と言っても、いいかもしれない。
シオンが男だという言葉が信じられず、かと言って本人の言葉を疑うことも出来ず、ミーナはただただ同じことばかりを延々と考え続ける。
しかし思考は上手く働かない。ミーナは目を白黒とさせ、ただその場に立ち尽くしていた。目線はいまだ、シオンが走り去った方角にずっと向けられている。だが、そこに当の本人はとっくに居ない。
――好きだよ。
思い出して、瞬間的にぼっと頬が赤く染まる。
「それって、それって……!?」
赤くなった頬を隠すように、その場に蹲るミーナ。周囲の生徒達がが不審な目を向けていたが、彼女はそれに気付けない。
ミーナはしばらくの間、その姿勢のまま、考えに耽る。だが、いつまで経っても、考えがまとまることはなかった。
「あら、ミーナさん」
そんな時、不意に頭上から声が降ってきて、ミーナは緩やかに顔を上げた。ソフィーだった。
ミーナは緩慢な動作で立ち上がり、笑顔を作る。
「あ、ソフィーちゃん……どうしたの?」
「どうしたの、はこっちの言葉だわ。そんな道の真ん中で蹲って、どうしたのかしら?」
「それは……」
ソフィーの明快な問いかけに、ミーナは硬い笑いを浮かべるしか出来ない。何か言わなくてはと口を仰がせるものの、すぐに閉口してしまう。そんな彼女に、ソフィーは何かを察したのか、すぐに話題を変える。
しかし、その転換方向が宜しくなかった。
「……あの、それで、シオンさんはどちらにいらっしゃるのかしら? あ、いえ、別に気になるとか、そういうわけじゃなくてね?」
ソフィーとしては、当然の問いかけだった。未だに仲直りできずにいる彼女が、少しでもシオンとの接触を持とうとするのは、仕方がないことなのだから。
しかし、ミーナにとっては、広野にあるたった一発の地雷を踏み抜かれたような気分だった。
「っ……」
ソフィーの言葉に、ミーナの顔がさあっと強張る。そうして、青くなったり赤くなったりと忙しい彼女の顔色に、ソフィーは訝しげに首を傾げるのだった。
***
どさりと、ベッドに飛びかかる。ベッドはぎしりと悲鳴をあげながらも、勢いのついたミーナを優しく抱きとめた。
うつ伏せの彼女は枕を抱き潰しながら、そのまま柔らかいそれに顔を埋める。
そして、うう、と低くうめき声を上げた。
ソフィーは何とか誤魔化せたものの、この問題が解決したわけではない。むしろ、袋小路に迷い込んで抜け出せなくなった子供みたいに、ミーナの心中にはただただ不安な思いが尽きなかった。
(だってさ、あんな可愛いのに、男とか有り得ないよね……?)
シオンの顔を浮かべ、すぐにぶんぶんと打ち消す。もはや想像の中でさえ、シオンの顔がまともに見られなかった。
何だか落ち着かなくて、足をばたつかせる。
枕は元の形など忘れたように、ひしゃげられていた。
出会ってから今までの思い出が、からからと映写機のように、ミーナの脳裏に映されて流れていく。
最初に会った時は、見蕩れて言葉も出なかった。
隣同士でお昼寝だって、沢山した。
いっつも抱き締められて、ミーナも抱き締め返した。
時たま、一緒にはしゃぎ過ぎて、共にミレイユに叱られたこともあった。
そんな懐かしくて、掛け替えのなかったはずの思い出たちが、酷くくすぐったく、そして、よそよそしいものに感じられてしまう。
ミーナは、ショックだった。だがそれは、一体何に対するものなのかは、わからない。純粋な驚きなのか、隠されていたことに対する哀しさなのか、それとも。
「うう……」
何度目か判らない、苦悶の声を上げる。
色々と考えすぎて、頭がぼんやりとして、目の前が霞んできたような気さえした。
(駄目だ……ちょっと、落ち着こう……)
ごろん、と仰向けになって、目元に手の甲を当てる。自分の手は、いつもよりひんやりとしていて、気持ちよかった。
***
「……ちゃん、ミーナちゃん?」
誰かの声で、ミーナは目覚めた。そうするつもりなどなかったのだが、どうやら眠ってしまっていたらしい。
起き上がって、ぼうっとしながら辺りを窺えば、アリアが帰って来たのだとようやく理解する。ふと窓の方を見れば、入ってくる光も赤く染まっており、ミーナが帰ってきてから数時間ほど経っていることが窺えた。
「お帰り、アリアちゃん……」
「うん、ただいまー! それよりミーナちゃん、なんか具合悪そうだけど、大丈夫?」
「……ん、大丈夫だよ。ありがとう」
体調を慮ってくれるアリアに感謝しつつ、ミーナは小さく溜息を吐く。アリアはそんな彼女を見て、心配そうに言葉を連ねた。
「本当に大丈夫? なんか、顔色悪いよー? ご飯、行ける?」
「そんなに顔色悪い、かな?」
触ってわかるはずもなかったが、ミーナは咄嗟に両手で頬を押さえる。やはりペタペタと触れてみても、いつもと違いがないように思えたので、両腕を下ろして小さく苦笑を零した。
「何か、調子が悪いから、今日はもう寝るね。悪いけど、夕食はアリアちゃん一人で行ってくれる?」
シオンと会い辛いのもあって、ミーナはそう口にする。
するとアリアは、不安そうな瞳で、ミーナを射抜いた。
「何かあったの?」
その問いかけに、ミーナは何も答えることが出来なかった。今口を開けば、余計なことも、一緒に飛び出してしまいそうだったから。ただ、口を噤むしかない。
「……シオンちゃんと、何かあった?」
「!?」
核心を付かれたミーナは目を丸くして、アリアを見上げる。ミーナの驚愕を受け取ったアリアは、苦笑してミーナのベッドに腰掛けた。
「私が帰ってきたときに、部屋の前でうろうろしてたからさ」
「え、本当!?」
「わ、待った待った!」
今にも部屋を飛び出しそうなミーナを、アリアが咄嗟に手で押し留める。
「もう部屋に戻っちゃったよ。どうしたの? って聞いたら、なんでもないわ、って。シオンちゃんもご飯は要らないってさ」
「そっか……」
ミーナの口から、思わず溜息が漏れる。深いそれに、アリアは困ったように頬を掻いた。
「……喧嘩したの?」
「喧嘩じゃないけど……ちょっと、ね」
「そっかあ」
アリアはそれ以上何も聞かず、えい、と勢いづけて立ち上がった。
「私はご飯に行って来るけど……無理しないでね、ミーナちゃん?」
「うん、ありがとう」
心配そうな表情を湛えながら、アリアが言う。ミーナはその心遣いに感謝しながら、ぎこちなく微笑んだ。
「じゃあ私、美味しーいご飯行ってくるよー」
「うん、行ってらっしゃい」
ミーナは手を小さく振って、アリアを見送る。
アリアは何度も振り返って彼女を気にしながらも、静かに部屋を出て行った。
ぼすん。アリアの姿がなくなって、ミーナは再びベッドに横になる。
「はー……」
それから、これ以上無いほどに、大きく溜息を吐いた。
シオンは、ミーナを気にしている。気に病んでいる、と言った方が正しいだろう。しかし、それに応えたいと思っていても、ミーナにはどうしたらいいのかわからなかった。
かといって、ずっとこうやって燻っているわけにもいかない。
ミーナはもう一度息を吐いて、ゆっくりと起き上がった。
(……とりあえず、整理しよう、整理)
驚きと、困惑と、その他の色々な感情が混ざり合って、何を考えればいいのかすらわからなくなっていたミーナは、思考の糸を一本ずつ解いていくことにする。
(うーんと……)
事の始まりは、シオンが男の子だった、という暴露だ。
それは非常に信じがたいことではあるのだが、シオンの様子から本当のことなのだろう、とミーナは思う。というより、そう仮定しないと、話がここで破綻してしまうため、本当なのだと考えることにした。
(それで、私は何を悩んでたんだっけ……?)
ミーナは改めて自分に問いかける。一体、何にこれ程までに衝撃を受けていたのかと。
しばし考えて、ようやく思い当たった。
「そっか、告白だ」
思わず、声に出た。
ミーナが何よりも困惑したのは、正直なところそれだった。
今まで女だと思っていたことに加え、好きなのだと告白までされた。その事実が、彼女をより混乱させていたのだ。
もしも、男だという暴露と、告白のどちらかだけだったとすれば、きっとこれ程までに衝撃は受けなかったはずだ。
……前者はともかく、後者だけであれば、全く別の驚きがあっただろうけれど。
(じゃあ、分けて考えよう。まず、シオンが男ってのは……)
少し考えてみる。
確かに、驚きの事実である。だが、貴族の血が入っていると言われた時にも、ミーナは驚いた。しかし、こうも思った。貴族だろうが、王族だろうが、シオンはシオンなのだと。
だから、男だとか、女だとか。そんなことに左右されず、やっぱりシオンはシオンなのだ。衝撃の度合いは全く違うけれど、シオンはシオンだと、ミーナは思うことが出来る。接し方は少し変わってしまうけれど、大切な幼馴染であることは変わらないのだから。
ただ、どうして女の子の格好をしているのか、それだけは聞く必要があるだろう。まさか趣味だということは、無いと思いたい。
(うん、こっちは何とか消化出来た。じゃあ、その……好きってのは……)
僅かに頬を染めながら、考える。
ミーナはまだ9歳だ。そして、シオンだってまだ10歳。ミーナの常識では、色恋なんかには、まだまだ早い年齢である。だけど貴族なんかには、この歳からもう婚約者が居たりするのかもしれない。
(……ええと)
ミーナは、確かにシオンが好きだ。だけどそれは、決して恋とか愛とかいう感情ではない。
シオンが男だとわかっていれば、これから先、もしかしたらそういう意味で好きになることもあるかもしれない。だけど今はまだ、そんなことを考えられる時期ではなかった。
(……うん、素直にそう答えよう)
きっと、シオンだって判ってくれる。
ミーナは整理のついた胸に手を当て、一度深く頷いた。
「……よしっ」
ベッドから降りて、身を解すように身体を伸ばす。それからミーナは、シオンの部屋を訪ねることにした。
***
「シオン、入っていい?」
ノック三回と共に、ミーナはドアに声をかける。すると、すぐに中から大きな物音がして、勢い良くドアが開けられた。そしてこの寮の部屋のドアは、外開きである。
つまり。
「~っ!」
小気味のいい音と共に、ミーナは思い切りドアに打ち付けられてしまう。咄嗟に腕で防いだものの、腕を襲うじんじんとした痛みに、彼女は腕を抱えてその場に蹲った。
「ああ!? ごめんなさいミーナ!?」
「だ、大丈夫……」
シオンに肩を抱かれ、よろよろと立ち上がるミーナ。
酷く間抜けな一幕であった。
部屋の中に招き入れられたミーナは、改めてシオンの様子を窺う。顔を反らすその表情は、酷く暗かった。
ミーナは一瞬躊躇ったものの、おずおずと口を開く。
「えっと、シオン。さっきのこと、なんだけど」
先程のことを切り出すミーナに、シオンは気まずげに俯く。そしてぽつりと、ごめんなさい、と言った。
「謝らなくていいんだよ?」
「だって……私は……」
泣きそうな表情で、シオンは唇を噛む。その苦しげな様子に、どうしたらいいのかわからなくなったミーナだったが、とりあえず聞くべきことを聞く。
「まずはさ、どうして女の子の格好をしてるか聞いていい?」
ミーナの問いかけに、シオンが小さく頷く。そして、静かな落ち着いた声で、ゆっくりと言葉を紡いでいった。ミーナは、それを真剣な表情で、一言も漏らさぬようにと聞く。
「……私の実家って、貴族でしょう? でもね、まだちゃんとした跡取りがいないのよ。従姉妹は、女ばっかりでね、男は私だけだった。だから、私が男だってわかったら、跡取りとして屋敷に連れ戻されちゃうかもしれなかったから……成人するまでは、女だって偽ることになったの」
相槌を打ちながら、なるほどね、とミーナは内心で思った。
この世界での成人は15歳。子供から「男」へと変わっていく辺りだ。それまでなら、何とか男であることを誤魔化せるだろう。
成人していれば、もう周りからは大人と見なされる。だから、自分の将来を自分で決めることが出来る。貴族としての血を受け入れることだって、そこから逃げることだって、自分の意思を持って出来るのだ。
それらを考えると、成人が妥当な時期なのだろう、とミーナはぼんやり考えた。
余談だが、シオンがいつも纏うふわふわとした服装は、身体の線を誤魔化すためのものだ。……シオンの母であるシュレイナの趣味も、多大に含まれてはいるが。
「最初は、男児が生まれたら、そこで終わりにするつもりだったんだけど……結局、今の今まで、出来なかったから」
「そっか」
それ以上言うことが無いのか、シオンはそれだけ言って黙りこくった。二人の間に言葉が無くなり、あるのは気まずい沈黙だけだった。
「……あのね、シオン」
気まずい空気を切り裂いて、ミーナが不意に口を開く。俯いていたシオンは顔を上げ、彼女を窺うような視線で見やる。
「別にね、シオンが男だとか、女だとか、私は気に……うーん、やっぱりちょっとは気にするかな?」
女だと思っていた幼馴染が、男だった。その事実に、ミーナが受けた衝撃は、計り知れない。
ミーナが真剣な表情のまま言えば、シオンが不安に揺れる瞳で彼女を見つめる。
「でもね。今更その程度で、シオンのことが嫌いになるわけじゃない。すごく驚いたし、今でも心のどこかでは、シオンが男だなんて納得できていない部分もあると思う。だけど、今でもちゃんと、シオンは大好きな友達で、私の大事な幼馴染だよ。だから、騙してたとか、そんなことは考えなくて良いよ。しょうがない、ことなんでしょう?」
「でも私はっ、ずっとミーナを騙してっ……!」
「シオン」
更に言い募ろうとするシオンを止めるために、ミーナはシオンの名を呼び、手を引いて、身体を優しく抱き締める。
シオンは一瞬、驚きに全身をびくりと揺らし、硬直した。しかし、やがて目に雫をいっぱい溜めたかと思うと、自分の気持ちに任せて彼女を抱き締め返す。
「よく、一人で頑張ったね。私にまで隠してるの、辛かったでしょ?」
ぽんぽん、とあやすように背中を叩く。
シオンは何度も首を横に振りながら声も無く涙し、ミーナの服を皺が出来るくらいにぎゅうっと握り締めた。
***
どれだけの間、そうしていただろう。しがみ付くようにミーナに抱きついていたシオンが、彼女からすっと離れる。
「……ミーナ、ごめんね」
「気にしない、気にしない」
赤い目元を隠すように、シオンが俯いて言う。ミーナは微笑みながら、シオンの頭をよしよし、なんて撫でた。
先程とは打って変わって弛緩した空気。妙に心地よい疲れが、二人に凭れ掛かる。
「ねえ、シオン」
その空気を壊さないような、ゆったりと柔らかな声音で、ミーナが言う。
「私ね、今はまだ恋愛とか、考えられない」
聞きながら、シオンは目を伏せる。哀しげというよりは、理解していたという表情で、黙ってミーナの言葉を聞く。
「シオンへの好きも、レグルスへの好きも、アリアへの好きも、お母さんへの好きも、お父さんへの好きも。今は全部、一緒の感情だから」
ミーナの言葉に、シオンが微笑む。その微笑みは、どこか悟ったようであり、そして苦味を内包したものだった。
「ええ、わかってたわ。……本当はね、まだ言う気なんか、なかったの。でも、ミーナも、レグルスも、私の手の届かないところに、二人で行ってしまうかもと思うと、居ても立っても居られなくなった。私だけが同じ場所に立てもしないまま、指を銜えて見ているだけなのは、嫌だったの……」
言いたい。けど、言えない。
そんな感情の間で、ずっと揺れ動いていたシオン。
だけど、もうシオンに……彼に、負い目は無い。
シオンは、にっこりと、今までよりいっそう綺麗な微笑みを浮かべる。
「これからも、大好きよ、ミーナ」
「私も、大好きだよ、シオン!」
いつもと同じように投げかけられた言葉に、ミーナもいつもと同じ言葉で返す。
だけどほんの少しだけ、お互いの言葉に込められた感情は変化していた。