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「ね、ミーナちゃん! そろそろご飯いこーよー!」
「ごめん。アリアちゃん、ちょっと待って?」
急かすアリアの言葉に、ミーナは焦ったように声を上げる。まだ全部は終わりそうにないけれど、この問題だけでも書き終えてしまおう。そう思い彼女は、動かしていた手を必死に速めた。
アリアはミーナの後ろから手元を覗き込み、げ、と苦虫を噛み潰したような声を上げる。
「そーいえば、呪文序説に宿題なんてあったねー」
棒読みで彼女の口から出たそれに、ミーナは書き終えた手を止めて、訝しげに眉を寄せる。
「アリアちゃん、もしかして忘れてたの?」
「あっはははー! 仰るとおりっ!」
大きな笑いを上げながら、両手を腰に当て胸を張る。そして数秒後、大きな溜息と共にがっくりと肩を落とした。
「ミーナちゃんっ!」
「駄目だよ?」
「ううっ、まだ何も言ってないのにー」
不満げに口を尖らせる彼女に、ミーナが問う。
「どうせ「見せて!」とか「写させて!」とか「ミーナ先生!」とか言って、縋るつもりだったんだよね?」
「ぎく」
「そういうのは口で言うものじゃないと思うよ」
困り果てたようにしょぼくれるアリアの表情に、ミーナは肩を竦ませ、しょうがないなあ、と溜息を吐く。アリアはキラキラと目を輝かせた。
「え、見せてくれるの!?」
「それは駄目。代わりに、わからないところがあったら教えてあげるから」
「むむ……しょうがない、それで手を打とうじゃないかっ!」
「……やっぱ自力でやって」
「わ、うそうそっ! ミーナ先生、お願いしますっ!」
アリアが勢い良く頭を下げる。綺麗に90度に曲げられた腰に、ミーナは内心で苦笑するしかなかった。
「じゃあ後でね。っと、それより、早く行かなきゃ。二人が談話室で待ってるよ、きっと」
「そうだねー! いこいこ!」
夕食の前は、一度みんなで談話室に集まってから食堂に行くことにしているため、二人は早足で向かうことにした。
***
「わー、これほんと美味しいねっ!」
赤味の目立つスライスされた肉を、フォークでぱくりと平らげながら、アリアが頬を緩ませた。噛めば噛むほどに重厚な肉汁がじわりと溢れ出てきて、アリアは呑み込むのが勿体無いというように、もぐもぐと咀嚼を続ける。
「うん、本当美味しい」
ミーナもその美味しさに、思わず表情が緩むのを感じる。この料理を食べられるだけでこの学園に来た価値はある、なんて実にとぼけたことを考えてしまう。
寮の食事は、とても美味しい。ここで生活する生徒は貴族が中心なので、とてもこだわって作られているためだ。材料の質も高いし、貴重な調味料も惜しげもなくふんだんに使われている。逆説的に言うと、貴族はこれだけ美味しいものを毎日食べている、ということにもなるのだが。
「こっちの野菜の煮込みも美味しいわ」
野菜が溶けるほどにじっくりと煮込まれたスープは、深みのある味わいを作り出し、すくって口に含むたびに芳醇な香りが鼻腔をくすぐる。こくりと喉を通るたびに、温度だけでない暖かさがシオンの胸に満ちるようだ。
レグルスは柔らかく膨らんだパンを小さく千切って、ぱくりと口に入れる。穀物を練りこまれて作られたパンは、いい焼き色に色づき、千切り取った部分から香ばしい匂いが辺りに広がった。彼の表情は、心なしか緩んでいるように見える。彼にしては珍しい表情ではあったが、誰も指摘しない。それほどまでに、この食事が美味しいと実感していたからだ。
その後、しばらく四人の間から会話が消えた。本当に美味しい料理は、人々から言葉を奪うものなのである。
やがて、一番最初に夕食を全て平らげたアリアが、はふー、と妙な溜息を吐く。
「寮に入って十日経つけど、やっぱり悔しいほどに美味しいねー」
小さくぼやく彼女に、ミーナは最後に残った肉の一切れをフォークで突き刺しながら、うん、と笑う。
「ホント、美味しいよね。今までのも、別に嫌いじゃなかったけど」
ミレイユが作ってくれた食事も美味しかったけれど、味で言うと寮で食べるものには敵わない。その代わり彼女の料理には愛情が詰まっているので、一概に比べられるものではないだろうけれど。
ミーナは最後の肉の一切れを、ぱくりと頬張った。
「それにしても……寮での暮らしは不安だらけだったのに、実際暮らしてみると家に居るより楽よね」
「あ、わかるよー! 食事は超美味しいし! 洗濯は魔道具で全自動だし! もう、天の国にいるみたいだよね!」
二人の言葉に、ミーナは口内の物をゆっくりと味わうように噛み締めながら、声もなく頷く。
(お風呂もあるしね)
そして内心で、そう呟いた。彼女がこの寮生活で一番喜んだのは、大浴場の存在である。
黒の天使が広めたという風呂文化は、王族や上流貴族を中心として根付いているらしく、なんと寮にも大浴場が備え付けられていた。
それを彼女が知った時、妙ちくりんな魔法を広めた黒の天使を、初めて心から崇め奉った。狂喜乱舞のあまり、シオンにすら微妙な目で見られたくらいに。
とは言っても、それを三人の中で喜んだのはミーナだけ。全学年合わせて30人も居ない平民の中という括りでさえ、風呂に入るのはミーナだけだったりする。
貴族の脇を堂々と通り抜けて風呂に入る彼女は、ある意味大物だと上の学年からのもっぱらの評判である。
「部屋は二人部屋だけどそこそこ広いし、学園まで徒歩五分の好立地! こんな最高な物件、他にはないよっ! ……とは言っても、その分お高くなってるんだけどねー」
アリアは商人の娘らしく声高らかに宣伝していたが、最後にそうやってオチをつける。
特待生なのでミーナには全くわからない事情だが、ここまで過ごしやすいのだからそれは高いのだろうな、と彼女は思った。
「ね、アリアちゃん、良かったらどれくらいか教えてもらっていい?」
ミーナの問いかけに、アリアが金額を答える。
それは、平民の四人家族が三年は余裕を持って暮らせる額だった。ちなみにそれで一年分の学費+寮費らしい。そして学園への入学金は、四人家族が一年間暮らせる額くらいだとか。
「あ、あははは、そ、そんなにするんだ」
「これが、するんだよねー」
肩を落とすアリアに、ミーナは乾いた笑みを浮かべる。
今更ながら、本当に特待生になれて良かったと思う彼女なのだった。
***
食事の時間が終わったミーナたちは、談話室で静粛時間までの暇を潰すことにする。やはり考えることは皆同じなのか、部屋の中はざわざわとした話し声で溢れていた。
ミーナたちは比較的人の少ない、部屋の角を陣取ることにする。二人掛けのソファに、レグルス・ミーナ、アリア・シオンと別れ、背の低いテーブルを挟んで向かい合って腰掛けた。
「はー、食べた食べたーって感じ!」
お腹をぽん、ぽん、と軽く叩きながら、アリアが笑う。夕食を食べたばかりだというのに、朝食は何かなあ、なんて未来の美味しい料理に思いを馳せた。
「そうだわ、ミーナ。あとで呪文序説の判らない部分を教えてもらいに行っていいかしら?」
「あ、宿題?」
ミーナの問いかけに、シオンがこくり頷く。横に居たアリアが宿題という単語に、う、と息が詰まったような表情を浮かべた。
「んー、どうせなら今ここでやらない?」
「ここで?」
ミーナの提案に、シオンが不思議そうに首を傾げる。アリアが、え、と嫌そうな声を上げた。どうやら、何だかんだと理由をつけて見せてもらう算段だったらしい。
「うん。アリアちゃんにも教えるって約束したから、レグルスにも先生役やってもらおうかなって思って」
「あ、なるほどね。わかったわ、部屋から教科書とノート取って来るわね」
「ううー……シオンちゃんも居るなら真面目にやらなきゃだー」
アリアは頬を膨らませる。ミーナが口を引き結びながらじろりと睨みつけると、彼女は誤魔化すように乾いた笑いを発してから、先に席を立ったシオンの後を追いかけた。
そして、ミーナはレグルスと隣同士、二人きりで残される。
「なんか、二人きりになるの、久しぶりだね」
「そうだな」
何となく照れくさくなって、ミーナは頬を掻く。記憶を辿って、学園の試験ぶりかな、なんて逃避のように考えた。
「……レグルスは寮生活、どう? 一人部屋なんだよね?」
「十分、楽しんでいる」
「そっか」
彼の淀みない答えに、ミーナはホッとしたように微笑む。正直なところ、寡黙な彼が上手くやっていけるのか不安だったのだが、楽しんでいると言うのなら大丈夫だろう。そこで「まあまあだ」とか「そこまででもない」とか言われると、ちょっと不安になってしまっただろうけれど。
彼がミーナたち以外、つまりは男の友人と一緒にいるところは見たことがなかったが、寮に入ってまだ十日だ。これからいくらでも機会はあるだろう。
「楽しんでいるか?」
不意に返された言葉に、ミーナは笑う。
「うん、楽しいよ。まだたった十日だけど、すごい楽しい」
「そうか」
口元に、僅かな弧を描くレグルス。まるで自分のことのように喜んでくれたらしい彼に、ミーナはどこかくすぐったいものを覚えた。
「三人でここに来れて良かった」
独り言のようなそれに、レグルスは小さく頷く。
「これからもっと沢山授業があって、もっと大変になるんだろうけど。頑張ろうね」
「ああ」
「わったしも頑張るー!」
「ひゃ!?」
いつの間に帰ってきていたのか、唐突にアリアが会話に混ざってきて、ミーナは驚いて声を上げる。レグルスに向けていた視線をアリアへと向けると、彼女の後ろにシオンもいるのが見えた。
「お帰り、二人とも」
「ただいま。ミーナ、こっち来て教えて?」
ぐい、と手を引かれ、シオンの隣に席を移すミーナ。アリアは何を思ったのかにやりと怪しげな笑みを浮かべて、ミーナが避けた席に腰を落ち着けた。
「アリア、何を笑っているの?」
「な、何でもないよっ!?」
にやにやと笑うアリアに、シオンが静かに問いかける。見た目は落ち着いているはずのシオンの後ろに、何やら恐ろしいものを感じた気がして、アリアはびしりと姿勢を正すのだった。