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「うー……」
ミーナは自室にあるベッドの上で、体育座りをしていた。そして昼間のこと……魔物に襲われたことを思い出しては、はあ、と大きな溜息を吐く。
(今日は何とかなったけど……)
両掌をじっと見下ろし、またしても溜息を吐く。
初めて魔物と会ったにしては上出来だ、と思えばいいのか。それとも魔法を練習し始めて一年経つというのにあの体たらく、と思えばいいのか。
平和な前世を経験していた美奈としては前者だろうが、ミレイユに魔法を習っていたミーナとしては後者だろう。
(道具の使い方を覚えても、それを有効に使えなくちゃ意味がないのに……)
ミーナは、情けないやら悲しいやらで、そう自嘲する。そしてまた一つ、溜息を零した。
(刃物って、未だに慣れないんだよね……)
この世界に生まれ変わった当初は、母の持つ包丁にまで嫌悪感を抱いていたこともあるミーナ。
前世の最期は、とことん彼女のトラウマになっているようだった。
(だいぶ慣れたと思ったんだけど……突発的だと流石にまだ無理、か)
トラウマ解消のため、ミレイユにせがんで武器屋を見に行ったこともあった。じっと刃先を見つめるミーナの目に、その様子を見ていた店主は狂気の光を感じたという。
(まあ、それは置いておいて……)
トラウマはすぐに治らないからこそトラウマなのだ。ミーナはそう言い訳して思考を切り替える。人はこれを、現実逃避と言う。
(今日のやつは足が遅かったからいいけど、もっと足が速かったら、どうなってたんだろう)
ぶるり。恐怖を覚え、ミーナは身体を震わせる。
二人とも護りのペンダントを持っていたけれど、何度も攻撃を受ければ、当然防御は破れてしまう。
その間に、レグルスが助けに来てくれれば、命は助かったかもしれないが、それでも怪我は免れなかっただろう。最悪、間に合わずに死んでいたかもしれない。
(やっぱり、影紋章魔法も練習しよう)
ミーナは思いながら、指先に魔力を集中させる。そして空中に、影、と書いて、すぐにその文字をかき消した。
ミレイユには止められている。だから今まで、これに関しての練習はしなかった。
でも、この先、きっと必要になる時が来るんじゃないだろうか。その時に「練習していないので使えません。だから手加減してください」なんて、通じるわけがないのだ。
厄介ごとに巻き込まれないように練習をやめたそれを、来るかもしれない厄介ごとのために練習する。本末転倒な気もするが、前世の最期を考えると、「かもしれない」は十分考えなくてはいけない可能性だ。ミーナは少なくともそう思った。
(ごめんね、お母さん)
ミーナは、ぐっと拳を握る。
やるからには、中途半端にならないように。
それが、母との約束を破ることに対しての、彼女の誓いだ。
***
「わあ……!」
「綺麗ね……」
色とりどりに咲き誇る一面の花。視界いっぱいに広がる美しい色に、ミーナとシオンは歓喜の溜息を吐く。
桃春の月、34日。
レグルスの案内で訪れた花畑は、満開に綻び、誰にともなくその美しさを主張していた。町から少し離れた湖畔の片隅にあるその場所は、野生の花の群生地のようであった。
「……えーいっ!」
ミーナは勢い良く花のベッドに倒れこむ。シオンもまた、花に囲まれてうっとりとした表情を浮かべていた。レグルスは少し離れた場所でただ静かに、そんな彼女たちを見守っている。
森の中で魔物に襲われたあの日、シオンとレグルスが顔を合わせたことで、ミーナたち三人は一緒に遊ぶようになった。最初は、シオンが少し嫌な顔をしていたものの、ミーナとレグルスが二人きりで遊ぶ方が耐えられなかったようだった。
しかし何度か遊んでいるうちに、シオンが持った悪感情も少し薄れたらしい。とはいえ、ごくたまに、シオンが憮然とした表情でレグルスを見ることもあるが、彼は全く気にしていないようであった。
「ふわあ、もう、最高っ……!」
ころころ、と転がりながら、ミーナは言う。全身からこみ上げてくる、擽ったくて気持ちいいという感触に、身を捩りながらくすくすと笑った。
「本当、暖かいし、のんびり出来るいい場所だわ」
ミーナの言葉に、シオンがそう同意する。流石にミーナほど全力でくつろいではいないようだったが、シオンもまた、両足を伸ばしてリラックスしていた。
「でも、レグルスったら、どうやってここを知ったの?」
「あ、私も知りたい!」
シオンの言葉に、ミーナも起き上がる。
ミーナたちから少し離れたところ、花畑の外で立っていたレグルスは、二人の問いかけに彼女達に近付く。
そして、二等辺三角形になるような位置で、静かに腰を落ち着けた。勿論、短い辺がミーナとシオンの結ぶ線だ。
「色々と見て回るのが好きなだけだ」
「それでこんなところまで? レグルスって物好き?」
シオンの、歯に布着せぬ容赦ない一言に、ミーナは苦笑する。
二人の折り合いが合わないのは……というか、シオンがレグルスを一方的に敵視しているのは、ミーナも気付いていた。
……折り合いが合わない根本的な原因が自分だなんて、彼女は全く考えもしないようだったけれど。
だが、二人の「私たちはライバルなのよ!」「……ライバルらしい」という台詞を聞いて、今では微笑ましく見守ることにしていた。レグルスの方は、あからさまに言わされました、というものだったけれど、そんなやり取りが出来ているということは、それなりに仲が良いのだろう、とミーナは思っている。
「どうだろうな」
レグルスは、それだけ言って先程のシオンの言葉をかわす。シオンはむう、と頬を膨らませるが、これ以上は無駄だと思ったのか、その場に寝転がった。
ミーナもまた、シオンの隣に転がり込む。シオンは両手を伸ばして、ミーナの腕を絡め取る。ミーナもそれに応えるように身を寄せて、二人はくすくすと笑いながらじゃれ合った。
そんな二人に、いつの間にか立ち上がっていたレグルスが声をかける。
「もう少し、奥に行ってみないか」
「奥? まだ何かあるの?」
ミーナの問いかけに、レグルスは頷く。ミーナが期待を込めた目でシオンに視線を向けると、小さく溜息を吐いて「付き合うわ」と返してきた。
「行く!」
「こっちだ」
ミーナの返事をわかっていたかのように、レグルスはすぐに身を翻す。ミーナは慌てて立ち上がりそれを追いかけ、シオンは面白くなさそうに頬を膨らませるのだった。
***
ミーナがそれを見た時、自分の息が喉で塞き止められたような気がした。
「すごい……」
シオンの圧倒されたような声も、ミーナの耳には入らない。
彼女はただ、はらはらと舞い散る花びらに、唖然とした表情を向ける。
(さく、ら……?)
レグルスの案内でやってきた場所には、一本の桜があった。その桜は樹齢がどれくらいなのか想像もつかないほどに大きく、雄大なものだった。
この世界に来て、初めて見る桜。その大木は、圧巻だった。妖しいまでの魅力を振りまいて、その場所に立っていた。舞い散る花びらは、辺りの緑を覆い、周囲を薄桃色で染め上げている。
「あ……」
ミーナは別に、桜に特別な思い入れがあるわけではなかった。お花見をしたことはあれど、所詮花より団子。
なのに、彼女の胸は、ぎゅうぎゅうと苦しいくらいに締め付けられる。彼女の喉は、ひくひくと震えてしまう。
ぼろり。ミーナの目から、涙が溢れる。
懐かしかった。美しかった。そして、それ以上に寂しくなった。
「……ミーナ? どうしたの、ミーナ?」
シオンがそうミーナに問いかけたとき、レグルスが無言のまま一歩を踏み出して、そのままミーナの頭に手を乗せる。
シオンは一瞬、レグルスの行動に頬を引き攣らせたが、彼女の様子を見て押し黙る。
ミーナは、泣いていた。ただ無心に、はらはらと涙を零していた。
「どうした。この花に嫌な思い出でもあったか」
「何でも、ない。大丈夫……」
レグルスの問いに、ミーナはふるふると首を振る。レグルスはそうか、とだけ言って、彼女の頭をゆっくりと撫でた。
「悪かった」
「え……?」
「ここに連れて来るべきでは無かった」
「違う、レグルスは悪くない……!」
ただ、寂しくなっただけ。全然泣くことじゃないのに、勝手に涙が出てしまっただけ。それを上手い言葉で説明できないミーナは、それ以上何も言えず、押し黙ってしまう。
「ミーナ!」
「わ、え、シオン!?」
シオンが唐突に名を呼んで、彼女の後ろから抱きつく。つまりミーナは、シオンとレグルスに挟まれた格好になるわけで。
男であるレグルスと、絶世の可愛さを持つシオンに囲まれ、ミーナは涙を忘れ、パニックでぐるぐると目を回す。
「ここでお昼寝しましょう!」
「お、お昼寝ぇ!?」
「そうよ! ほら、そこに寝転がって! レグルスも!」
シオンの唐突過ぎる提案に、ミーナは困惑しながらも素直に従う。レグルスもまた、シオンの勢いに押され、その言葉に黙って従った。
ミーナの右側にはシオン。左側にはレグルス。ミーナを中心として、三人の手は、しっかりと結ばれている。
「はい、寝るわよ! いいわね!?」
「あ、は、はい……」
シオンの剣幕に押され頷いたミーナは、そのまま目を細めてぼんやりと空を眺める。
右手に感じる、シオンの暖かい温度。
左手に感じる、レグルスのちょっと冷たい温度。
シオンがどうして昼寝なんて言い出したのかミーナにはわからなかったが、驚きの連続で、すっかり寂しさはどこかに飛んでいってしまったようだ。
はらはらと舞い散る花びらは、当然彼女達にも降りかかり、三人の服や髪には、薄桃の飾りが増えていく。
一瞬、花びらを見て寂しい気持ちが頭をもたげた気もしたが、二人の体温を感じていれば、そんな感情もすぐに消えてなくなってしまう。
(……寝よう)
寂しい気持ちも、二人の間で一眠りしてしまえば、きっと忘れてしまうはず。そうすれば、後に残るのは、この美しい花びらを楽しむ気持ちだけ。
ミーナはそう考えて、静かに目を瞑った。
***
「……眠った、わね?」
ミーナがすうすうと寝息を立てるのを、シオンとレグルスが顔を覗きこんで確かめる。
シオンが繋いでいない方の手でふにふにと彼女の頬を突いたが、起きる様子が無いので、完全に眠りに落ちたらしい。
シオンはほっと息を吐いて、レグルスは何も言わずに、元の川の字に戻る。
「ねえ、レグルス。ミーナが泣いた理由、わかる?」
「……わからない」
「……本当でしょうね?」
詰問するように、シオンが声を低くする。レグルスは気圧された様子もなく、ああ、と応えた。シオンは憮然とした表情ながら、無理矢理に自分を納得させる。
「でも、また今度ミーナを泣かせたら、次は許さないんだから……!」
「……お前こそ、な」
シオンの言葉に、レグルスが珍しく嘲るように返す。その金色の瞳には、いつもミーナに見せる優しげな色ではなく、まるで虚空のような暗闇が映っていた。
「なっ、何よ……!?」
「隠し事」
「っ……!」
その単語を聞いたシオンが、血相を変えて起き上がる。声を荒げそうになったが、隣で静かに眠るミーナを見て、やがて言葉を飲み込んだ。
シオンは苦々しい顔をしながら、自分と繋がっているミーナの手を、自らのもう片方の手で包む。そして小さく息を吐いて、自らを落ち着かせた。
「……何で知っているのかはわからないけれど。私は、ちゃんと自分から打ち明けるわ。だから、それまでレグルスは黙っていて」
「そうか」
レグルスの応えを最後に、苦しいほどの静寂が三人を包む。そんな刺々しい雰囲気に、ミーナがん、と眉を寄せた。
「レグルス、これ以上はやめましょう。ミーナが起きちゃうわ」
「そうだな」
二人が慌てて休戦協定を結び、ようやくその場の雰囲気が和らぐ。ミーナもそれを敏感に感じ取ったのか、にへらと妙な笑顔を浮かべた。
(人のことを言える立場じゃないんだがな……)
レグルスは、ミーナと繋がった方の手に込めた力を、ほんの少しだけ強める。
隠し事。
シオンに言ったそれは、レグルスもまた同じだった。むしろ、シオン以上に大きな秘密が、レグルスにはあった。
そしてミーナにも、転生という秘密がある。
三人は、そうやって少しずつ己を隠しながら、これからも友達として、幼馴染として過ごしていく。
そんなことに全く気付かないのは、今現在、緩みきった笑顔ですやすやと眠っているミーナだけなのだった。