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2 月と菊の着物

千代の問いの余韻が消えぬまま、水絵は「のっぴきならぬ用事」の渦中へと踏み込みます。

そこで待っていたのは――。


「のっぴきならない用事っていうのは……」


 どうやって説明しようかと考えながら、何故、千代がそんなことを気にするのか水絵は訝った。春太はそういう言葉遣いをしていたが、それはついさっきのこと。言葉の意味がわからなければ、その場で訊けばいいはずだ。こんな風に囁くように問うほどのことだろうか。

 それに、千代の表情が暗くなったのは数日前からだ。今朝の春太の言葉が原因ではないはず。それならば……。


「避けて通ることも、逃げることも出来ない、絶対やらなくちゃならない用事、ってことだけど……」


 言葉の説明をしてから、水絵は声をひそめて千代に尋ねた。


「春太さん以外に、誰かが『のっぴきならねぇ用事』って言ったの?」


 千代は答えるために口を開いたが、それは声にならなかった。そして、


「ううん。さっき春太さんが言ったから……」


 と言って、うつむいてしまった。

 重ねて問い質すべきか、しばらく様子を見たほうがいいか……水絵が悩んでいたとき、


「水絵先生、交代だ」


 いきなり背後から声をかけられ、水絵は驚いて飛び上がった。


「なんですか、いきなり」


 振り返って文句をいうと、鏡之介がくすくすと笑い、その隣で新吉が、こちらは大笑いしていた。どうやら、ふたりで示し合わせて水絵を驚かそうとしていたらしい。その後ろで、礼次が眉をひそめている。

 まったく……礼次の方が鏡之介さんよりよっぽど大人じゃない、と思いつつ、水絵は驚いていないふりを取り繕う。


「ずいぶん遅い」


 お出ましですね、と言いかけて、水絵はふと気づく。


「え? 交代って、どういう意味です?」


「言葉通りだ。こっちは俺が引き受けるから、おまえは祐光先生のところに行ってくれ。水絵に頼みたいことがあるそうだ」


「わたしに?」


「ああ。水絵じゃなきゃ、出来ねえことだ」


 鏡之介の言葉に、新吉の目がきらきら光る。それがなんなのか知りたくてたまらない様子で、鏡之介を見上げている。だが、鏡之介は気づかないふりをしている。

 その気持ちは、水絵も同じだった。自分にしか出来ない用事とは、なんなのだろう。どきどきするし、なんだかちょっと嬉しい。だが、それは顔に出さず、水絵はなんでもないことのように立ち上がった。


「わかりました。じゃあ」


 あとはよろしく……と言いかけて、水絵は千代のことを思いだした。


「鏡之介さん、ちょっと」


 と、鏡之介を隅に連れて行くと、小声で告げた。


「千代ちゃんの様子が少しおかしいんです」


「ああ、ここ数日、なんか思い悩んでいる様子だな」


 鏡之介も気づいていたのかと、少しほっとして、水絵は続ける。


「『のっぴきならねぇ用事』って言葉が気にかかっているみたいで。ちょっと気をつけてあげてください」


「承知した」


 子どもたちの中にもどっていく鏡之介を確認して、水絵は寺子屋を出る。千代のことを鏡之介に頼んで少し安心すると、さっきのどきどきが蘇ってくる。

 祐光師がいる庫裏に向かいながら、ちょっと嬉しかった理由に気づく。さっきまで、水絵も子どもたちも春太の言う「のっぴきならねぇ用事」については、蚊帳の外だった。だが、水絵は祐光師に呼ばれた。「水絵じゃなきゃ、出来ねえ」ことを頼まれるために。


「もう、子どもじゃないってことか」


 歩きながらつぶやく。一人前の師匠と認めてもらったとわかっていても、やはり鏡之介や祐光師とは違う。まだ自分は子どもたちの方に属しているような気がしていた。けれど、今、庫裏に向かう水絵は、祐光師や鏡之介と同じ立場にいるのだと思える。そんな些細なことが、水絵には嬉しくてたまらなかった。


「手習いの最中に呼び出したりして、すみません」


 部屋に入ると、祐光師はまず、そう言って軽く頭を下げた。


「いえ」


 と言いながら、水絵は祐光師がひとりではないことに気づく。

 布団が敷かれ、そのうえに起き上がってじっとこっちを見ているのは、傷だらけの……。


 ――男だった。


 水絵が、男かどうか判断に迷ったのは、たいそう整った顔立ちをしていたからだった。いわゆる瓜実顔に、切れ長の目。髪を首の後ろでひとつに括っている。喧嘩でもしたのか、細かい傷や腫れがあったのだが、男の美貌はそんなものに損ねられはしなかった。

 迷った理由は、美貌だけではない。着物が男にしては派手だった。一見、泥だらけで、しかもあちこち破れているので、みすぼらしく見えるが、仕立屋の娘の水絵には汚れに隠れた美しい月と菊の模様が見て取れた。かなり上等の品なのではないか、と思う。

 はだけた胸元に目がいって、水絵はようやく、男だと確信したのだが……。

 座っているのでよく見えないが、帯は市松模様のようだ。総じて言えるのは、気質(かたぎ)の男の出で立ちではないということ。


 自分が無遠慮に見つめてしまっていることに気づき、水絵は、あわてて視線を祐光師にもどす。


「事情がありまして、この方をしばらくお預かりすることになったのですが」


 その言葉に、また男を見てしまう。水絵がまじまじと見つめても、男はまるで気にしていない……というより、水絵のことなど見えていないような無表情だった。整った顔立ちだけに、それが不気味に思え、水絵は背筋に悪寒を感じた。この男は怖い……と水絵は感じた。


「申し訳ないのですが、この方に合う着物を調達してきてはくれませんか?」


千代の不安と、美貌の怪我人。

一見関係のない出来事が、やがてひとつに繋がっていきます。

続きをお楽しみいただければ幸いです。

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