表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/3

1 のっぴきならぬこと

本作は、江戸の日常の小さな謎を描く連作「鏡花水月謎解帖」シリーズ第3作です。

前作を読んでいなくても楽しめる内容になっています。


いつもの寺子屋の朝――のはずでした。

ですが、ほんの小さな違和感が、水絵の胸に引っかかります。

「江戸の月影」、はじまりです。


 寺子屋の準備をしながら、水絵(みずえ)は気をもんでいた。


鏡之介(きょうのすけ)先生、遅いねぇ。なにかあったのかな」


 心を見透かしたような新吉の言葉に、はっとして、水絵は笑顔を作る。


「そうね。遅いわね。でも、だいじょうぶよ、わたしがいるんだから」


 自分だって師匠なのだし、花吉の一件のときには一人で寺子屋を切り回した経験もある。鏡之介が少し遅れたくらいで、おろおろしていたら、子どもたちを不安にさせてしまう。


「さあ、はじめるわよ。みんな、座って」


 はあい……と返事をして、それぞれの席に座った子どもたちだったが、その表情は「鏡之介先生は?」と、問いかけている。


「鏡之介先生は、少し遅れているみたいだから、先にはじめていましょう」


「じゃあ、今日は算法は無しだね」


 算法嫌いの新吉が嬉しそうに言い、


「遅れてるだけなんだから、鏡之介先生が来たらやるよ」


 と、礼次(れいじ)にたしなめられる。


 少し前の水絵なら「わたしにだって、算法くらい教えられるわよ」と言っていたところだろう。だが、今はそんな気持ちはなくなっていた。礼次に抜かれて諦めたというわけではない。人には得意不得意がある。不得意のものがうまく出来ないと嘆くより、得意なものを伸ばしていくほうがいい。そう考えられるようになったのだ。


「そうね。とりあえず、鏡之介先生が来るまでは……」


 手習いをしていましょうと言おうとしたとき、外から声をかけられた。


「水絵ちゃん」


 岡っ引きの春太(しゅんた)だった。


祐光(ゆうこう)先生と鏡之介さんからの伝言」


 と前置きして、春太は子どもたちにも聞こえる声で言った。


「ちょっと、のっぴきならねぇ用事があるから、寺子屋はしばらく、水絵ちゃんひとりでやってくれってさ」


 その声が聞こえた途端、子どもたちが大騒ぎになる。


「もう……」


 水絵はつぶやいて、春太のそばまで行った。


「そういうことは、わたしにだけこっそり言ってよ。子どもたちがなにがあったのか聞きたがって、手習いにならないでしょ」


 小声で文句を言うと、春太は頭をかいた。


「すまねぇ。とにかく、早く知らせねぇといけねぇと思って焦っちまった」


「それで、なにがあったの? のっぴきならない用事って、なに?」


「なんでぇ、結局水絵ちゃんも聞きてぇんじゃねぇか」


 春太はにやりと笑い、だが、


「くわしいことは、祐光先生に聞いてくんな」


 と、教えてくれなかった。

 春太が、足早に立ち去る。うきうきした足取りに、水絵が首をかしげていると、新吉が訳知り顔で言った。


「きっと、笠森稲荷に行くんだぜ」


「それって……?」


「春太兄ちゃん、お仙に夢中なんだよ。ほとんど毎日、見に行ってるんだぜ」


 そんなことで、お役目はちゃんと務まるのかねぇ……と、まるで大人のような口調で言う。たぶん、両親や近所の者たちの噂話を、そのまま口にしているのだろうけれど……。


 お仙とは、谷中笠森稲荷門前の水茶屋の看板娘だ。浮世絵師・鈴木春信の美人画が売り出され、一躍江戸の人気者になった。お仙を題材にした狂言や歌舞伎が作られたという話も聞いた。

 もしかして、早く笠森稲荷に行きたかったから、「のっぴきならねぇ用事」についての詳しい話をはしょってしまったのかもしれない。祐光師が、理由も教えず、水絵に仕事を押しつけるなんて、おかしい……。水絵は、今すぐにでも祐光師のところに行って問い質したかった。


「水絵先生……」


 礼次が遠慮がちに声をかけた。礼次だけは、水絵のことを「水絵先生」と呼んでくれる。そして、「先生」という言葉が、水絵を冷静にした。子どもたちは水絵の指示を待っている。はやる気持ちをおさえ、水絵は子どもたちに向き直った。


「それじゃあ、小さい子はわたしがお手本を書くから、それを見て手習いをしましょう。大きい子は……」


 と言いかけた水絵の言葉を、案の定新吉がさえぎった。


「のっぴきならねぇ用事って、なにかな、水絵姉ちゃん」


「さあ、なにかしらね」


「気になるよね。おいら、祐光先生のところに行って、聞いてきてやろうか?」


 今にも飛び出しそうに腰を浮かせた新吉の両肩を押し込むようにして座らせる。


「子どもが手伝えることじゃないのは確かよ。行っても邪魔になるだけ」


「だって……」


 新吉は不満そうな表情を見せ、さらになにか言おうとしたが、その言葉を礼次にさえぎられた。


「大きい子はなにをすればいい?」


 礼次の助け船にほっとして、水絵は指示を続ける。


「大きい子は……そうね、草双紙の中から好きなものを選んで読んでいて」


「誠太郎文庫の中から選べばいいんだね」


 礼次に念を押され、水絵は頷く。


「誠太郎文庫かぁー。水絵姉ちゃんが読んでくれるなら面白いけど、おいらにはちょっとむずかしいんだよなぁ」


 ぶつぶつ言う新吉を礼次が本棚まで連れて行く。


「一緒に読もうよ。新吉が読めない字は教えてあげるからさ」


「ほんと? おいらが好きな草双紙、選んでいいのか?」


「いいよ」


「それじゃあ……」


 新吉や礼次をはじめとする大きい子たちが、それぞれ選んだ草双紙を読み始めたのを確認して、水絵は小さい子にお手本の字を書き始めた。新吉に字を教えながら草双紙を読んでいる礼次を頼もしく思いながら。


 小さい子どもたちにひらがなを教えていた水絵は、ふと、千代の表情が気になった。花吉が戻って以来、千代は常に明るい笑顔を見せていた。それが、ここのところ沈んでいるように見える。特に今日は、なにか言いたげに水絵をちらちら見ている。だが、視線を向けると、下を向いてしまう。


 水絵は、何気ない風を装って、千代のそばに座り、


「うん。上手に書けてるね。でも、ここはこうしたほうが」


 もっと良くなるよ、と筆を持つ千代の右手に自分の手を重ねた。

 すると、千代は、すぐ後ろにいる水絵にしか聞こえない声で尋ねた。


「水絵姉ちゃん、『のっぴきならねぇ用事』って、どういうことを言うの?」


最後までお読みいただきありがとうございます。

「のっぴきならねぇ用事」とは何なのか。

次回より、物語が少しずつ動き出します。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ