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最終話~悲劇的かつ勝利の結末~

ダンジョンの冷酷な抱擁の中で、ひかりはすべての感覚を失っていた。数分が数時間、あるいは数日へと変わったのだろうか。時間は暗闇の中に溶け去っていた。ただ、胃の腑が焼けるような痛みが、自分がまだ生きていることを思い出させていた。氷のような床に伏したまま永遠とも思える時を過ごした後、彼女は鉛のように重い体を引きずり、ゆっくりと上体を起こした。


(……みんなは、どこ?) 乾ききった喉の奥で、彼女は思考した。 (本当に、私だけが残されたの?)


その時、強烈な臭いが彼女を襲った。呼吸をするたびに肺を満たす、重く、鉄錆びのような、腐敗した悪臭。ショックで麻痺していた感覚が、それが死骸から放たれるものだと認識するのに数秒を要した。鼓動を早めながら、彼女は両手で床を突き、身体を反転させた。


臭いの正体と向き合った瞬間、彼女の息が止まった。


それはもはや、引き裂かれた肉と砕かれた骨の無残な塊でしかなかった。しかし、惨劇を免れ、乾いた血で固まった一房の赤髪が、疑いようのない事実を突きつけていた。――黒瀬亜里沙。彼女の残骸は、人間の理解を超えた暴力を物語っていた。それは「死」などではなく、外科的かつ野蛮な「虐殺」の跡だった。


ひかりは凝固した。虚ろな瞳で、その光景をただ見つめる。長い数秒の間、彼女の表情は仮面のように無機質だった。精神が、目の前の凄惨な現実を拒絶していたのだ。だが、やがてその仮面に亀裂が入る。顔が歪み、唇が激しく震え出した。彼女にはもう、その光景を直視し続ける耐性は残っていなかった。


立ち上がろうとしたが、足に力が入らない。歩くことさえままならず、暗闇の中を酔いどれのように千鳥足で彷徨った。ようやく辿り着いた壁に前腕を押し当て、崩れ落ちるのを必死にこらえる。だが、嫌悪感は意志よりも強かった。抑えきれない吐き気がこみ上げる。彼女は腹部を抱えて二つに折れ曲がった。脳裏には、クラスメイトだった無残な肉塊のイメージが焼き付いて離れない。


彼女は壁を背に、湿った石に肌を擦りながらずるずると滑り落ちた。完全な暗闇の中、彼女は荒い呼吸を整えようと努め、乱れた鼓動を鎮めるために腐敗した空気を深く吸い込んだ。機械的な動きで頬に指を触れる。肌の感触は紙のようにこわばり、ざらついていた。爪で軽く擦り、彼女は理解した。……血だ。数時間前、忘却しようとした虐殺の最中に顔に飛び散り、こびりついた乾いた血だった。


「……これから、どうすればいいの」


彼女はシャツのポケットに手を入れ、しわくちゃになった一枚の小さな写真を取り出した。この暗闇では何も見えないが、彼女はその細部までを完璧に記憶していた。皮肉めいた、苦い笑みが唇に浮かぶ。絶望の深淵において、かつての生活の残滓ざんしは救いであると同時に、拷問でもあった。あまりに脆すぎる、幸福の猶予。


「もし……もしも……」 彼女が囁くと、再び沈黙がその場を支配した。


突如として、彼女の動きが確かなものへと変わった。機械的な、無機質な動作。彼女は制服のシャツの裾を掴むと、壁に反響するほど鋭い音を立てて布を引き裂いた。服はぼろぼろになり、半ば肌を晒す形となったが、彼女は気に留めなかった。血に汚れた布を丁寧に折り畳むと、それを目元に当て、頭の後ろで固く結んだ。 このダンジョンの視覚的な地獄を見るよりは、自ら選んだ暗闇の中にいる方がマシだった。


彼女は目隠しをしたまま立ち上がった。瓦礫の散らばる不安定な足場に体がふらつく。最後のお別れとして、彼女は手に持っていた写真を床に落とした。紙が地面を滑る音が聞こえた。もう、必要ない。


彼女は一歩、そして二歩と、虚無の中へ向かって歩き出した。


その時、空気が震えた。物理的には何も見えないはずの彼女の意識の中に、光り輝くシルエットが浮かび上がる。それは弔いの道に立つ衛兵センチネルのようだった。崩壊しつつある理性の残骸か、あるいは失った者たちの彷徨える魂か。一歩進むごとに、彼女はその霊的な影を通り抜け、聞き覚えのある遠い声が魂に直接響いた。


「俺たちの分まで、死ぬんじゃねえぞ」男子の声がした。

「頑張って。信じてるから」別の、友人の穏やかな声が囁く。

「いつまでもくよくよしてないで、さっさと行きなさいよ」三人目の声には、いつもの苛立ちが混じっていた。それは、最後に自分を突き飛ばしたあの赤髪の少女の声だった。


やがて、それらとは異なる存在が現れた。より大きく、より強烈な気配。黒髪の少年がそこに立っていた。瞳は影に隠れて見えない。彼もまた同じ制服を着ていたが、ひかりは確信していた。彼は今回のグループの一員でも、召喚された一人でもない。もっと古く、深い記憶の中に刻まれた存在。


「ひかり、負けるな。お前は敗北が嫌いだっただろ?」


彼女は足を緩めることなく、彼を通り抜けた。筆舌に尽くしがたい感情――引き裂かれるような郷愁と、新たな力が混ざり合ったものが彼女の全身を駆け抜け、血を熱くさせた。視界は閉ざされたままだが、奈落に落ちて以来初めて、彼女は自分がどこへ向かうべきかを正確に理解していた。


音と感触だけで構成された世界を、ひかりは手探りで一歩ずつ進んでいった。ダンジョンの深淵へ向かっているのか、それとも奇跡的な出口に近づいているのかさえ分からない。突然、靴の先が虚無を捉えた。石が転がり、反響すら返ってこないほど深い淵へと落ちていく音を聞き、彼女の背筋に戦慄が走った。


心臓を激しく波打たせながら、彼女は咄嗟に後ずさった。急いで向きを変えようとした拍子に足がもつれ、不揃いな地面に激しく転倒してしまう。自ら選んだ盲目ゆえの不器用さで、震える手で宙をかき、すぐさま起き上がった。どこかで捕食者が、彼女の無防備な姿をあざ笑いながら観察しているかもしれない。それでも、彼女は目隠しを外そうとはしなかった。狼たちのあの赤い瞳を再び見るくらいなら、暗闇の中で死ぬ方がマシだった。


数時間が経過し、歩みは終わりのない苦行へと変わった。何度も躓き、荒々しい壁に体を叩きつけられたせいで、膝は生傷だらけになり、肘は焼けるように熱を持っていた。疲労が遅効性の毒のように筋肉に染み込み、動きを重くしていく。今は昼なのか、夜なのか。ここでは時間に意味はなく、次の一呼吸だけがすべてだった。意識が遠のきかけたその時、額を奇妙な冷たさが走り、視界システムに通知が表示された。


[ スキル:疲労耐性 レベル1 習得 ]


[ スキル:空腹緩和 レベル1 習得 ]


微かな熱が血管を巡った。まるで、彼女の体がようやくこの敵意に満ちた環境を受け入れ始めたかのようだった。


現実との繋がりを失わないよう左側の壁を伝って歩いていると、指先が完璧な直角に触れた。彼女は驚いて足を止めた。これまでのダンジョンの壁は荒々しく岩肌が露出していたが、この壁は滑らかで、絹のような手触りだった。冷たい表面に指を滑らせると、感触が変わった。指関節に伝わっていた石の冷気は、外科的な精密さで鍛造された金属――鉄格子の凍てつくような噛み跡へと変わった。


指先を数ミリ動かすと、より有機的で温かみのある感触に触れた。――木だ。深く優雅な溝が刻まれた重厚な木材。それは金属の構造体に嵌め込まれるよう、精巧に設えられていた。彼女は少しずつ身体を動かし、その構造の隅々までを探った。それは巨大で荘厳な「扉」だった。だが、取っ手のような突起はどこにも見当たらない。


彼女は肩全体で押し、何らかの仕掛けや軋み音を期待したが、その障害物は微動だにしなかった。恐怖と飢えで削り取られた今の彼女の力は、その圧倒的な重量の前では、吐息ほどの価値もなかった。出口か、あるいは新たな絶望か。目の前にありながら、彼女はそのしきいを越えることができなかった。


しかし、その堅牢な外見に反して、ひかりは扉の構造的な弱さを感じ取った。痺れた指先が、何世紀もの湿気によって朽ちた木材の繊維を捉えたのだ。この扉も、彼女と同じように時間に蝕まれ、疲れ切っていた。筋肉の奥底で燻るわずかな熱量をかき集め、彼女は数歩下がり、背後の虚無を手探りで確かめた。深く息を吸い込み、地を蹴る。もはや掠れた喘ぎでしかない咆哮を上げ、彼女はその全身の体重を扉へと叩きつけた。


衝撃は凄まじかった。乾いた破壊音がダンジョンの静寂を切り裂く。中央のパネルを突き破ったひかりは、鋭い木片の雨に埋もれながら、隣の部屋の床へと激しく叩きつけられた。


[ スキル:苦痛耐性 レベル1 習得 ]


視界にシステムのメッセージが流れたが、彼女の目には入っていない。もはや正気の沙汰ではない意志に突き動かされ、彼女は奇跡的に立ち上がった。全身の繊維が悲鳴を上げていたが、彼女はそれ以上の「何か」を感じていた。部屋の中心から彼女を呼ぶ、音楽的なまでの波動。


ゆっくりと、厳かな手つきで、彼女はついに視界を遮っていた目隠しを解いた。 迎えた光はあまりに強烈で、彼女は瞼を細めずにはいられなかった。広大な円形の広間。その中心にある剥き出しの石の台座に、三つの宝石が埋め込まれた黄金の剣が突き立っていた。宝石の輝きは炎のように揺らめいている。天井の目に見えない開口部からは神々しい光の柱が降り注ぎ、その武器を聖なる輝きで満たしていた。


「……やっと、見つけた……」


彼女は岩の小山を這い上がり、爪を立て、最後には四つん這いになりながら登り詰めた。頂上に達すると、彼女は剣の護拳つばに倒れ込むように寄りかかった。最後の英雄的な力を振り絞り、柄を掴んで力一杯に引き抜く。 澄んだ風切り音と共に、刃は台座から解き放たれた。だが、その反動で彼女の体は後ろへと投げ出された。


血に染まった膝の上に伝説の剣を乗せ、彼女は床に座り込んだ。埃と血に汚れた顔に、静かな涙が幾筋もの線を描く。その唇に浮かんだのは、奇妙な笑みだった。心からの安堵、そして、ようやく出口を見つけた者だけが浮かべる平穏な表情。


「……願うわ。いいえ、ただ忘れたい。……すべてを、忘れたいの」


彼女は手にした力を凝視しなかった。征服できる王国も、屠れる魔物も想像しなかった。彼女は黄金の刃の先を、無限の疲労と共に脈打つ自らの胸へと向けた。一瞬の躊躇もなく、叫び声一つ上げず、彼女はその金属を突き立てた。


肌を伝う鋼の冷たさが、彼女の最後の感覚だった。 身体から力が抜け、ゆっくりと石の上に横たわる。ようやく暗闇が彼女を優しく包み込んだ。 世界から見れば、それは潜在的な英雄の喪失であり、計り知れない力の損失だっただろう。だが、ひかりにとって、それは悪夢の終わりだった。 誰もが神になろうとするこの無慈悲なダンジョンの中で、彼女は「自由」になることを選んだ。 そしてこの最期の選択において、彼女は最大の勝利を収めたのだ。

次話より、物語は一人称(私)視点へと切り替わります。ここまでお読みいただき、ありがとうございます。

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