第4話~ダンジョンでの虐殺~
目の前には、暗く湿った空間が広がっていた。石造りの壁は荒々しく冷ややかで、まるでゆっくりと呼吸をしているかのように湿気が滲み出している。カビ臭い土の匂いと、正体のわからない古めかしい何かが混ざり合った不快な臭いが漂っていた。
まるで前の世界が唐突に切り取られ、この暗闇に置き換えられたかのように、彼らは何の脈絡もなくこの場所へと放り出された。自然の光はどこからも差し込まず、ただどこからともなく届く微かな光だけが、周囲の輪郭を辛うじて浮かび上がらせていた。
地面は不揃いで至る所が滑りやすく、一歩進むごとに足音が静寂の中に奇妙に響く。天井から滴り落ちる水滴の音や、自分たちの大きすぎる呼吸音さえも、ここでは増幅されているように感じられた。
空気そのものも重く、肌を刺すような微かな敵意が満ちている。察しの良い者なら気づくだろう。ここは「ダンジョン」と呼ばれる場所であり、恐ろしい魔物たちが跋扈する空間なのだ。ここは単なる地下道ではない。一歩先が死に繋がり、戦わずして生き延びるだけでも一つの勝利と言える、そんな場所だった。
突然の事態に生徒たちはパニックに陥り、その恐怖はやがて怒りへと変わっていった。
「クソッ!何が起きてるんだ!?ここはどこなんだよ!?」
「おい、あんた!あいつが何をするか知ってたんだろ!?どうしてこんなことができたのよ!」
赤髪の少女が、迷うことなくひかりを指差した。その顔は引きつり、今にも理性が崩壊しそうなほどに緊張している。彼女は震えを止めることができずにいた。
対照的に、ひかりは転移に対してそれほど驚いている様子はなかった。うつむき加減で、表情を一つも変えない。周囲のざわめきが次第に静まり、全員の視線が対峙する二人の少女へと注がれた。…正確には対峙ではない。ひかりは糾弾する少女を見ることなく、どこか遠くを眺めるように視線を逸らしていた。
「……どういう意味?」
「とぼけないで!あいつらが私たちをここに放り出すって分かってたんでしょ!それとも、あいつらの仲間なわけ!?」
「……価値があるのは、固有のスキルだけ」
「……え?」
「私たちの能力を知った時点で、彼らは切り捨てるつもりだった。巫女も言っていたはずよ。固有のスキルこそが勇者としての価値を決めるって。その力が期待外れなら、この世界の住人と変わらない存在でしかない」
彼女の言葉が、重苦しい沈黙を招いた。他の者たちにとって、それはまだ実感を伴わない話だった。彼らは彼女が見たものを見ておらず、到着した時から感じていた違和感も共有していなかった。しかし、その言葉には残酷なまでの真実が宿っていた。
そこへ眼鏡をかけた少年が割って入り、説明を遮った。
「待てよ……。ただそれだけの理由で、僕たちをここに送ったっていうのか? そんなこと、ありえない……」
「もし非戦闘員として除外して、どこかで保護していたら? 他の勇者たちが戦うのをためらったはずよ。自分たちが命を懸けている間に、誰かが安全な場所にいるなんて、誰も納得しないでしょ」
グループの間に、さざ波のような囁きが広がった。
「……いつ、そんなことに気づいたんだ?」
「召喚された直後よ。すぐにシステムを開いたわ。こういう世界なら、私たちを導く何かが存在するはずだから。……そして、システムを二度目に開いた時、経験値を2ポイント獲得できる」
生徒たちは一斉に自らのインターフェースを開いた。ポイントが「0」から「2」へと変わっているのを見て、彼らの顔に驚愕が走る。
「……グループ分けの話が出た時点で、確信したわ。彼女はすでに私たちのスキルを把握していた。おそらく『鑑定』系の能力ね。それに、彼女の振る舞いは不自然だった。**彼方**くんも、それに気づいていたはずよ」
赤髪の少女は、ひかりの言葉を理解すると同時に後ずさりした。その瞳は不安に揺れ、焦燥が彼女を蝕んでいく。彼女は最後にもう一度、問いかけた。
「……だから、あいつはあんたに近づいたの?」
「『お願いだ……。抵抗する気がないなら、せめて他の奴らが無駄に死なないようにしてくれ』。彼は私にそう言ったわ」
赤髪の少女の怒りが、ついに限界を超えて爆発した。彼女は拳を握りしめ、歯を食いしばると、猛然とひかりに詰め寄った。
「じゃあ、私たちはただの『ハズレ』のせいで死ぬってわけ!? ふざけないでよッ!!」
ひかりが答える間もなく、拳が放たれた。衝撃が頬を打ち抜き、彼女の体はあっけなく崩れ落ちる。湿った石の床に頭を打ちつけないよう、彼女はかろうじて両手で身を支えた。呆然としたまま起き上がろうとする口元から、微かな吐息が漏れる。
だが、二撃目はさらに無慈悲だった。赤髪の少女の足がひかりの顔面を捉え、再び彼女を背後へと吹き飛ばす。今度はすぐに起き上がることすらできず、ひかりは地に伏した。
赤髪の少女は彼女に馬乗りになった。技術など何もない、ただ剥き出しの感情を乗せた拳を何度も振り下ろす。その一撃一撃は、抑えきれない恐怖の裏返しだった。床は次第に汚れ、ひかりの顔は痣に覆われ、その相貌は見る影もなく変わっていく。
「賢いつもり!?……この女、地獄に落ちなさいよ! あんたも死ぬのよ、分かってる!? 死ね……死ねッ!」
「おい……もう分かったから、やめろよ……」
誰かが声を上げたが、実際に近づこうとする者はいなかった。ひかりを引き離す勇気も、あるいは意志も、誰一人として持ち合わせていなかったのだ。 (もし彼女が警告してくれていれば、こんなことにはならなかったはずだ。) 皆、心のどこかでそう考えていた。 他者より早く真実を悟ったとして、救い出そうとしなければ何の意味があるのか。 その冷静さが、自分たちの運命を何一つ変えないのであれば、何のための明晰さなのか。
ひかりは叫ばなかった。ただ、ダンジョンの暗い天井を見つめ、雨のように降り注ぐ拳をなすがままに受け入れていた。まるで、自分たち全員を待ち受ける結末を、すでに受け入れているかのように。
その時、突如として重苦しく、息詰まるような沈黙が辺りを包み込んだ。 粘りつくような暗闇の中に、無数の深紅の火花が灯る。――数十もの赤い眼が、強烈な飢えを孕んでグループを凝視していた。 恐怖に屈した一人の生徒が、切り裂くような悲鳴を上げて闇雲に走り出した瞬間、パニックは火薬に火がついたように爆発した。
奴らはそこから現れた。 隆起し、歪んだ筋肉を持つ巨大な狼たちが、影の中から這い出してくる。その巨体もさることながら、最も忌まわしいのはその「尾」だった。粘液にまみれた蛇が独立してうごめき、二股の舌を突き出している。 原始的な恐怖が全員を飲み込み、生存本能に突き動かされた人々が我先にと逃げ惑う。
混乱の中、ひかりに跨っていた赤髪の少女も逃げようと立ち上がった。しかし、足がもつれて激しく転倒してしまう。悲鳴を上げる暇さえなかった。 一体の怪物が跳躍し、不揃いな牙が並ぶ巨大な顎を開く。 鈍い咀嚼音とともに、怪物は彼女の頭部へ直接食らいついた。 乾いた破壊音が通路に響き渡り、直後に少女の絶叫は沈黙へと変わる。狼の尾の先にいる蛇が、すでに彼女の物言わぬ四肢に絡みついていた。
その間にも、惨劇は広がっていった。狼たちは人智を超えた俊敏さで動き回り、逃げ惑う者たちを数跳びで追い詰めていく。眼鏡をかけた少年は行き止まりに追い込まれていた。完全に身体がすくみ、彼はその場に崩れ落ちると、手のひらを地面で擦り剥きながら必死に後ずさった。眼鏡のレンズが涙で曇る中、一頭の獣が彼の絶望を味わうかのように、ゆっくりとした足取りで近づいてくる。
「いやだ、やめてくれ……お母さん!」
狼に慈悲などなかった。熱い飛沫が突如として舞い、血が壁に抽象的で不気味な模様を描き出した。悲鳴は一つ、また一つと消え去り、代わりに暗闇の中で饗宴が始まる忌まわしい音だけが響き渡る。
誰一人として、容赦はされなかった。……ただ、一人を除いて。
ひかりはまだ地面に横たわったまま、先ほどから動こうとしなかった。その体は打ち捨てられたかのように静止し、呼吸はあまりに弱く、ダンジョンの重苦しい静寂に溶け込んでしまいそうだった。彼女の周囲に残っているのは、先ほどの混乱の跡と、今や途絶えてしまった悲鳴の遠い残響だけだった。
狼たちは彼女のすぐ側を通り過ぎるが、見向きもしなかった。湿った石の上を鳴らす足音が静かに響き、その黒いシルエットが闇へと滑り込んでいく。一頭が近づき、頭を下げて短く彼女の匂いを嗅いだ。だが、唸り声を上げることも攻撃性を示すこともなく、そのまま背を向けて立ち去った。
おそらく、すでに死んでいると見なされたのか。あるいは、もはや獲物として認識されなかったのか。
仰向けに倒れたまま、ひかりはひび割れた石の天井を見つめていた。その瞳は見開かれているが虚ろで、何かに焦点を合わせることもできない。意識はある。しかし、その精神は肉体から切り離され、恐怖も痛みも、そして怒りさえも感じなくなっているかのようだった。
やがて狼たちは完全に去り、ダンジョンの深淵へと消えていった。何事もなかったかのように、自らの本能に従い、縄張りへと戻っていく。静寂が戻ってきたが、それは以前よりもさらに重くのしかかっていた。
普通であれば、このような状況で生き延びれば安堵が訪れるはずだ。ため息をつくなり、体が震えるなりするだろう。しかし、ひかりは反応しなかった。歓喜の兆しも、涙さえもなかった。
これが、終わりなのだろうか。 最後の生存者となったひかりに、ここから抜け出せる可能性など一パーセントも残されていない。そして彼女の心の奥底では、この世界で抗い続ける意欲はすでに消え失せていた。戦い、進み、希望を持つ……そのすべてが空虚に思えた。
ついに、わずかな動きが彼女の静止を破った。ゆっくりと、まるで夢遊病者のように、彼女は暗い天井へと手を伸ばした。指先は震え、手の届かない場所にある目に見えない何かを掴もうとしている。だが、そこには何もない。
呼吸は弱く、不規則だった。一息つくごとに、自分がまだ生きているという事実が苦痛と共に突きつけられる。思考は秩序を失い、ぼんやりとした記憶と言葉にできなかった後悔が混ざり合っていく。この世界は彼女に何も与えてくれなかった。ただ奪うだけだった。――元の世界も、同じように。 けれど、一つの問いが消えずに残る。……問題だったのは本当に「世界」だったのか、それとも、それに向き合えなかった自分たち自身だったのか。
「……あなたが、いてくれたらよかったのに」
伸ばした手が、冷たい地面へと力なく落ちた。その短い呟きには、言葉以上の重みが込められていた。届くことのない呼びかけ、独りになることへの静かな拒絶、あるいは、口にすることさえためらわれる「別れ」の言葉だったのかもしれない。




