第5話「削除された彼女」
目が覚めたとき、部屋の空気が違っていた。
カーテンの隙間から差し込む朝の光。
それが、どこか“無音”だった。
真田莉央はゆっくりと身を起こした。
昨夜、撮影現場から帰ってきて、そのまま眠ったはずだ。
けれど――枕元に置いたスマホの画面には、
見覚えのない通知がひとつだけ残っていた。
「ファイルが削除されました:AUDITION_FINAL.mov」
心臓が一瞬止まったように感じた。
そのファイルは、彼女が自分で撮った“記録映像”だった。
白石監督のオーディションで撮られた、自分の最後のテスト。
削除した覚えはない。
というより、そのデータはローカル保存していない。
「どうして……?」
指先が震える。
通知をタップしても、何も開けない。
だが、ギャラリーの中に“空白のサムネイル”が残っていた。
灰色の枠。
再生時間は「00:00:01」。
音声も映像も存在しない。
再生ボタンを押した瞬間、画面が一瞬だけノイズに包まれた。
そこに映ったのは――自分の後ろ姿。
鏡でもカメラでもないのに、確かに“今の自分”だった。
莉央は思わずスマホを落とした。
画面が床に当たって暗転する。
静寂の中、耳の奥で“編集のクリック音”がした。
──カチ、カチ、カチ……
聞き覚えがある。
編集室で白石瑞希が使っていた音。
マウスを動かす、あの規則的なリズム。
部屋の隅を見る。
そこには、電源を落としたはずのノートPCが置かれていた。
画面がゆっくりと光を帯び、勝手に立ち上がる。
デスクトップには一つのフォルダ。
──「DELETED」
莉央は呼吸を整え、マウスを握った。
クリック。
中には、削除されたはずの動画ファイルが一つだけあった。
「AUDITION_FINAL.mov」
タイムスタンプは“今日の午後9時”。
まだ訪れていない時間。
そしてファイル名の横に、赤い文字が浮かんでいた。
「被写体:真田莉央」
その瞬間、スマホの画面が勝手に光り、
カメラが起動した。
自分の顔が映る。
だが、そこに映っていたのは――数秒遅れて動く“別の自分”だった。
莉央はノートPCの画面を見つめた。
映像の再生ボタンを押したわけでもないのに、
タイムラインがゆっくりと動き始めていた。
モニターの中に、彼女の部屋が映っている。
まるで、今この瞬間を俯瞰しているように。
ベッドの上の自分、机の上のスマホ、
そして――ノートPCの前に座る自分。
「……どういうこと?」
映像の中の莉央が、同じように呟いた。
声のトーンも、間の取り方も、まったく同じ。
だが――映像の中の彼女が、先に喋った。
まるで、自分の行動を“先に編集してから再生している”かのように。
再生バーの下に、小さな文字が浮かんだ。
「LIVE_EDIT:ON」
莉央の背筋に冷たいものが走った。
画面の中で、彼女が立ち上がる。
同時に現実の自分の身体も、勝手に動き始める。
自分の意志ではない。
脚が勝手に床を踏みしめ、カメラの方を向く。
「やめて……」
そう口にした瞬間、映像の中の莉央が、笑った。
現実の彼女とは違う、歪んだ笑顔。
そしてカメラの正面に顔を寄せて、囁いた。
「編集されるの、嫌?」
その声が、ヘッドホンからではなく、耳の内側に直接響く。
次の瞬間、モニターの中の莉央が右手を上げた。
画面越しに、自分の頬を撫でるように。
なのに――現実の莉央の頬に、確かな“冷たい感触”が走った。
「……っ!」
画面を閉じようとしたが、ノートPCが勝手に動いた。
ファイル一覧が一瞬で切り替わる。
“DELETED”フォルダの中に、次々と新しい動画ファイルが生成されていく。
「莉央_02.mov」
「莉央_03.mov」
「莉央_04.mov」
すべて、リアルタイムで生成されている。
タイムスタンプは“今、この瞬間”。
莉央は恐怖を抑えながら、最後のファイルをクリックした。
映像が再生される。
そこに映っていたのは、彼女自身だった。
けれど――部屋の壁の色が違う。
窓の外には夜景。
今は朝のはずなのに。
映像の中の莉央が、ゆっくりとこちらを見た。
画面の奥から、何かが滲み出してくるような視線。
「ここが、あなたの消える場所」
声と同時に、映像が真っ白に弾けた。
次の瞬間、ノートPCの電源が落ちる。
部屋は再び静寂に包まれた。
だが、空気が違う。
壁の色――白だったはずが、灰色に変わっている。
カーテンの外の空――夜になっていた。
スマホの時計を見る。
表示された時刻は、21:00。
ちょうど、「削除された映像のタイムスタンプ」と同じ時間だった。
部屋は、もう“彼女の部屋”ではなかった。
家具の配置も、壁の色も、少しずつ変形している。
まるで映像のレンダリング中――
ピクセルが現実を塗り替えるように、
空間の輪郭がゆっくりと組み替わっていく。
莉央は窓に近づいた。
外には、街の光が静止していた。
車も、人影も、風も動かない。
まるで一時停止した映像の中にいるようだった。
「……編集、されてるの?」
答える声はなかった。
ただ、背後から小さなクリック音が響いた。
──カチ、カチ、カチ……
ノートPCが、勝手に再起動している。
モニターには新しいファイル名が表示された。
「FINAL_DELETE.mov」
そして、その下に赤いテキスト。
「出力先:現実」
莉央の喉が凍る。
マウスもキーボードも動かない。
画面の中に映った自分――“記録の莉央”がゆっくりと笑う。
その唇の動きに合わせて、現実の彼女の口も勝手に動く。
「これで、あなたと私はひとつになる」
映像の中の莉央が両手を広げる。
画面のフレームが膨張し、
ノイズと共に、光が部屋全体に広がった。
莉央は叫んだ。
けれど、声は出なかった。
音が、編集で消されていく。
自分の存在ごと“ミュート”にされていく感覚。
――白い光の中で、最後に見たのは、
画面の中の彼女がこちらに微笑む姿だった。
そして、すべてが暗転した。
……。
どれくらい時間が経ったのか。
気づけば、莉央は再び自分の部屋にいた。
朝の光がカーテンの隙間から差し込む。
昨夜のことが夢だったのかどうか、もう分からない。
机の上には、ノートPCが静かに閉じられていた。
恐る恐る蓋を開ける。
画面には一つだけ新しい動画ファイル。
──「RIo_FINAL_Export.mp4」
ファイルサイズはゼロ。
だが、再生時間だけが表示されている。
「∞(インフィニティ)」
莉央は固まったまま、ディスプレイを見つめた。
その表面に、うっすらと“もうひとりの自分”の顔が映っていた。
笑っていた。
まるで、「撮影が終わった後の女優」のように。




