第1話「フェイクの血」
カメラが回り始めると、空気の密度が変わる。
誰もが息を潜め、レンズの先だけが世界の中心になる。
──それが、白石瑞希にとっての“現実”だった。
山間の廃工場。
窓から差し込む夕陽が鉄骨を赤く染め、埃が金色の粒になって漂っている。
自主映画『死角の女』の撮影は、予定より三時間押していた。
「カメラ、回します!」
助監督の山根夏帆が叫ぶ。
「サウンド、オールレディ!」
「アクション!」
主演の女優がゆっくりと振り返る。
恐怖に歪む顔。血糊で汚れたドレス。
台本どおり、ナイフを手に取る。
その瞬間──
女優の肩がびくりと震え、次の瞬間、刃が胸元に沈んだ。
鈍い音。
そして、真紅の液体が噴き出した。
一瞬、誰も動けなかった。
悲鳴が上がったのは、瑞希の「カット!」の声とほぼ同時だった。
夏帆が駆け寄り、俳優の榊原颯が倒れた女優の身体を抱き上げる。
床に広がる血は、ライトの熱で鈍く光り、ゆっくりと流れていく。
血糊ではない。
においが違う。鉄のように、湿った生のにおいだ。
「救急車!」
カメラマンの古谷が叫ぶ。
スタッフが慌てて走り回る。
その間も、瑞希は動かなかった。
視線はモニターに釘付けだった。
──いまの、撮れていた。
胸の奥で、恐怖とは違う震えが広がっていた。
完璧な演技。完璧なタイミング。
そして、完璧な“リアリティ”。
理性が叫ぶより早く、映像監督としての本能が囁いていた。
これが、欲しかった画だ。
数時間後。
撮影は中断され、現場には警察と救急が入り、事故として処理が進んでいた。
瑞希は事情聴取を終えると、暗くなったセットにひとり戻ってきた。
カメラはまだ三脚の上に置かれている。
メモリーカードを抜き、ノートパソコンに差し込む。
編集ソフトを立ち上げ、問題のカットを再生した。
モニターに映るのは、女優がナイフを持ち上げる瞬間。
コマ送りにする。
……手が、見えない。
ナイフの柄を握る指も、影もない。
それなのに、刃は“誰かの意思”を持つように、ゆっくりと胸へ滑り込んでいく。
瑞希の背筋に冷たいものが走る。
カメラの角度のせいだろうか。照明の影か。
もう一度、再生。
今度はスローで。
ナイフが持ち上がる瞬間、画面の隅で何かが一瞬、動いた。
白い影。
光の反射のようにも見えるが、確かに“人の輪郭”をしている。
瑞希はマウスを握る手に力を込めた。
呼吸が浅くなる。
ズーム。さらにズーム。
画面の奥。倒れる女優の後ろ──
カメラに映る、自分自身の後ろ姿。
あの場にいるはずのない、自分。
血糊まみれの床に立つもう一人の瑞希が、レンズをまっすぐに見つめていた。
翌朝。
撮影現場の事故はニュースにならなかった。
「撮影中の小道具の不備による不慮の事故」──それが公式な説明だった。
制作会社は対応に追われ、スタッフ全員が一時的に解散となった。
けれど瑞希だけは、誰にも連絡を取らず、編集室に籠もっていた。
壁一面のモニターに囲まれた、狭い空間。
蛍光灯の光が青白く、コーヒーの香りと焦げた配線の匂いが混じっている。
再生ボタンを押す指が、かすかに震えた。
──もう一度だけ確認すればいい。
そう自分に言い聞かせて、再生。
女優がナイフを手に取る。
スロー再生。
やはり、あの“白い影”が見える。
そして、その直後、ノイズのような音が混ざった。
「……みず……き……」
ノイズの中に、かすかに自分の名前が混じっているように聞こえた。
「誰……?」
思わず声が出る。
巻き戻し、音量を上げる。
──みず……き……。
確かに、囁いている。
だが音声波形にはノイズしか映っていない。
録音には存在しない声だ。
瑞希はヘッドホンを外した。
耳鳴りのような残響が残る。
モニターの右下で、何かが点滅していることに気づいた。
見慣れないフォルダがひとつ。
「RAW_0」。
自分が作った覚えはない。
開くと、中には一本の動画ファイルが入っていた。
拡張子は見たことがない形式で、再生時間は「00:00:00」。
再生ボタンを押す。
画面は真っ黒。
だが、再生バーだけがゆっくりと進んでいく。
その途中で──
カメラの前に、ひとりの女が立っていた。
照明も背景も、どこかで見たような気がする。
女が顔を上げる。
モニターに映ったその顔は、瑞希自身だった。
血に濡れた頬。虚ろな瞳。
そして、口元が動く。
声は出ていないのに、はっきりと唇がこう動いた。
「カット、かけて」
心臓が一度止まったように感じた。
慌てて再生を止めようとした瞬間、
パソコンの画面がフリーズした。
カタカタ、と。
ハードディスクの中で何かが書き換えられていく音がする。
モニターが一瞬、暗転。
再起動したとき、デスクトップに新しいファイルが増えていた。
「SCENE_02_REAL」。
フォルダを開くと、事故当日の別アングル映像が収録されていた。
──自分が、女優を見下ろして笑っている映像だ。
現場には、カメラは1台しかなかった。
なのに、誰が撮った?
瑞希は椅子から立ち上がり、部屋の外を振り返った。
編集室のガラス越しに、誰かが立っている。
照明の反射で顔は見えない。
だが、シルエットがゆっくりと手を上げ、レンズを覗く仕草をした。
──カメラを構えるように。
瑞希は息を飲んだ。
振り返ったときには、もう誰もいなかった。
夜。
編集室の時計は、午前二時を指していた。
瑞希は再びパソコンの前に座り、息を潜めた。
モニターに映るのは「SCENE_02_REAL」。
恐る恐る再生ボタンを押す。
画面の中、照明が照らす廃工場。
そこに、撮影スタッフの姿はない。
いるのは──瑞希ひとり。
女優の身体が床に横たわり、その横で瑞希がしゃがみ込んでいる。
カメラ目線で笑っている。
唇が動く。音声はない。
だが、読めた。
「カット、かけて」
その瞬間、映像の中の瑞希が顔を上げた。
──カメラの外、つまり今の“こちら側”を見た。
現実の瑞希は息を止める。
モニター越しに視線が交錯した気がした。
彼女の背後で、何かが軋む音がした。
ゆっくりと振り返る。
編集室のドアが少しだけ開いている。
その隙間から、カメラのレンズのような光がこちらを覗いていた。
息が喉で止まる。
その瞬間、モニターが再びノイズを走らせた。
画面が乱れ、音が歪み、次の瞬間──
映像の中の瑞希が、画面のこちら側に手を伸ばしてきた。
黒い爪が、モニターの内側を掻くように動く。
ピシッ、とガラスがひび割れる音。
瑞希は思わず後ずさりした。
心臓が暴れるように打ち、冷や汗が頬を伝う。
ひびの隙間から、白い指がゆっくりと現れた。
それは現実の光を反射していた。
「……やっと、撮れたね」
声がした。
耳元で、まるで自分自身が囁くような声。
瑞希は振り返った。
そこに立っていたのは、まるで鏡から抜け出したような“もう一人の瑞希”だった。
同じ髪、同じ服。
ただ、目だけが違う。
レンズのように光を反射して、何も映していない。
偽者の瑞希が、微笑んだ。
その手に握られているのは──撮影用のナイフ。
だが刃の先から、一滴の赤い液体が落ちた。
「あなたは撮る人。私は撮られる人。……でも、どっちが本物なんだろうね?」
本物の瑞希は、声を失った。
鏡合わせのように動く偽者が、ゆっくりとカメラを構えた。
レンズの中に自分の顔が映る。
それがノイズとともに歪んでいく。
そして、偽者が囁いた。
「カット」
画面が完全に暗転した。
翌朝。
制作会社のスタッフが編集室に入ると、モニターにはひとつの映像が再生されていた。
昨日までの編集データはすべて消えている。
残っていたのは、たった一本──
タイトル「REAL_SCENE_FINAL」。
再生ボタンを押すと、画面の中で瑞希が笑っていた。
カメラを構え、静かに言う。
「第1話、クランクアップです」
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございます。
この物語の登場人物たちが、あなたの心に少しでも息づいてくれていたら嬉しいです。
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次回も心を込めて書きます。
またこの世界でお会いできるのを楽しみにしています。
――ありがとうございました。




