第十二話 甲斐武田氏の滅亡
山県昌景は武田信玄と、その息子の勝頼の2代に仕えました。武田四天王の一人に数えられ、昌景が率いる赤軍装の一団は「武田の赤備え」として、敵将から恐れられる存在でした。
騎馬から転げ落ちた山県昌景は、それでも、
「尾張の弱兵、この首、取ってみよ」
と、大太刀を振り上げて戦意を失ってはいない。
そこへ足軽が殺到して、
「おのれ、叩き殺せ!」
「討ち取れ、討ち取れ」
と、集団で襲いかかった。
「ぐがあっ、雑兵ども!」
昌景は必死に大太刀を振り回したが、
全身を槍で串刺しにされ壮絶に討死する。
その後も、武田の騎馬軍団は突撃を繰り返し、
バババーン、ババーン、バババーン!
激しい銃撃を受けて屍の山を築いた。
結局、戦闘は昼過ぎまで続いたのだが、
武田軍は1万人以上の戦死者を出したらしい。
「武田勝頼は武節城に逃げ込んだ模様です」
との報告を聞いた信長様は、
「これで武田氏も弱体化の道を辿るだろう」
と、ニヤリと笑う。こうして長篠の戦いは、
織田・徳川連合軍の圧勝に終わり、
帰路、俺は馬を並べた毛利新介に話しかけた。
「最早、今の戦場では武勇は必要なくなったのか」
「必要なのは鉄砲を集める財力なのかもしれない」
と、新介は答えた。
その後も、信長様と家康は七年にわたり、
武田領への侵攻を続けた。窮地に陥った勝頼は、
本拠地である新府城を捨てる。
「勝頼は小山田信茂の居城に向かった模様」
と、伝令が本陣に鎮座する信長様に報告した。
だが、勝頼は信茂の裏切りに遭い、事後、
「40人ほどの手勢で、天目山を目指しています」
しかし、そこで、
「滝川一益殿が勝頼を包囲したようです」
1582年4月3日。
包囲された武田勝頼は、嫡子の信勝や夫人、
生き残った家臣を集め、
16歳の信勝に家督を相続させたという。
「この武田信勝が甲斐武田家の21代当主である」
その直後、この地で一族郎党は自害する。
こうして平安時代から400年続いた名門、
甲斐武田氏は滅亡した。
武田勝頼の死後、その首級と対面した織田信長は「強者では、あったが運がなかった」と、勝頼の武将としての能力を高く評価していたそうです。勝頼は時代に選ばられなかった悲運の若き将だったのでしょう。




