第5話 艦長、異世界に降り立つ
「死んだはずなのに、目覚めると見知らぬ森の中……?」
大日本帝国海軍の駆逐艦「白雪」の艦長だった芦名定道は、ビスマルク海海戦で戦死したはずだった。
しかし気づけば不思議な森に転生していた。
戦争のトラウマを背負いながらも、軍人の矜持と責任感で新たな世界での冒険を始める芦名の物語。
Side Ashina
俺は深い意識の闇から浮上するように、森の中で目を覚ました。
視界はまだぼんやりとしている。頭の奥に鈍い違和感があり、耳鳴りのような微かな音が鼓膜を刺激して、周囲の音が満足に捉えられない。今はただ、脳内に浮かぶ「ここはどこだ」という問いが空回りしているだけだ。
「……ここは?」
まぶたをゆっくりと開いていくうちに、俺の目に周囲の様子が徐々に飛び込んできた。
眼前には濃密な緑がうねるように揺れている。
枝葉の隙間から差し込む木漏れ日が織りなす光と影のコントラストは、どこか現実離れした幻想的な景色を作り出していた。まるでファンタジー映画のワンシーンのようだ。
空気は湿り気を帯び、鼻を刺激するのは生々しい草木の香り。深い夢から醒めたばかりのように、俺の思考は混乱していた。とにかく現状を把握しなければ。
手のひらを動かしてみると、枯葉としっとりした土の感触が確かにある。背中に当たる地面は冷たく湿っていて、間違いなく屋外だということを肌で理解させられた。
「撃たれたはずなのに、痛みがない……どういうことだ?」
ごくり、と唾を飲み込みながら胸に手を当ててみる。そこには何の傷もなく、血の感触もどこにもない。軍服の上からそっと撫でても、銃創の痕など見つからない。
俺の最後の記憶は、戦闘機から銃撃を受けて意識を失った瞬間——轟音と硝煙の臭い、そして寒気を伴う鋭い痛みが体を襲ったはずなのに、今はどういうわけか、まったくの無傷だ。
「これは夢なのか、それとも……もしかして俺は死んだのか?」
確かめるように指を曲げたり伸ばしたりしてみる。痛みがないどころか、身体はどこも異常を訴えていない。
だが、地面の冷たさや、風に揺れる木々のざわめき、そして自らの鼓動——どれもが生々しく、夢や幻とは思えなかった。
「この空気……どの戦場とも異なる。ここは、一体どこなんだ?」
胸がざわつき、警戒心が急速に高まる。俺は周囲に目を走らせ、今後の行動を考え始めた。
「まずは、情報の収集か……いつものように進めよう」
独りごちる声が自分の耳にはっきりと響く。
自分が生きているという実感をかろうじて繋ぎ留めるために、まずは何を確認すべきか——。装備品、方角、食料や水……しかし、当面は危険が潜んでいないかどうかが最優先だ。
次の瞬間、右手の草むらが激しく揺れるのを捉えた。
「——ガサッ」
重く湿った草や枝葉がこすれる音が聞こえる。続いて、低く唸るような音がかすかに混じった。
まるで野獣の威嚇とも、あるいは未知の怪物の声とも思える不穏な響きに、俺はとっさに軍刀の柄へ手を伸ばした。
すると、遠くから誰かの叫び声が聞こえてきた。それは確かに、日本語の声——。
「日本語……? しかも、女性の声?」
まるで幻聴のようだが、たしかに女性の悲鳴らしきものが聞こえる。ここがどこなのかもわからない状況で、同胞らしき存在がいるとは。放っておくわけにはいかない。
俺は呼吸を整え、音のする方向へ慎重に足を運んだ。
地面を踏みしめるたび、湿った土がかすかな弾力をもって押し返してくる。
だが軍人としての俺は、足音を最小限に抑える術を心得ていた。
木々の合間から視線を伸ばすと、そこに広がるのは異様な光景だった。
大きな狼のような生き物が五匹、奇妙な隊列を組んで、一人の少女を包囲している。
少女は必死で逃げようとするが、狼もどきたちは狡猾なまでに退路を断ち、一歩も逃さない構えだ。
「これはただの野生動物ではない……」
俺は直感的にそう判断した。普通の狼であれば、群れとしての連携はあるにしても、これほど"計算"された動きを見せるだろうか。
前衛は獲物を威嚇しながら追い込み、側面に回り込んだ二匹が逃げ道を塞ぎ、後方に位置する二匹が止めを刺す——それはまるで、戦場で部隊が包囲殲滅を図るかのような巧妙な配置だった。
「戦術的な狩りか……これは面倒だな」
軍人としての本能が、戦場で培った危機感を呼び起こす。
少女の恐怖は見るに堪えないほどだが、攻撃範囲に踏み込めば自分もただでは済まないかもしれない。だが、放置すれば少女は確実に狼たちの餌食となるだろう。
俺は咄嗟に作戦を頭の中で組み立てた。距離は約十メートル、狼の牙が少女の喉元に届くまであと数秒。攻撃のチャンスは今しかない。
「賢いな。だが、それが仇になる」
狼たちは統率が取れている分、こちらの動き次第で一斉攻撃をかけてくるだろう。しかし俺の足は自然と前へ進んでいた。
俺は、少女を無視して自分だけが生き延びるなど、できないと悟っている。
白雪艦長としての矜持が、俺をそうさせるのだろうか。それとも単なる人間としての本能か。そんなことを考えている暇はなかった。
自らの軍刀を抜き放ち、微かに目を伏せると、深く息を吸い込んだ。
「戦場なら見捨てるのが正解だ。だが、ここは違う……」
自分が置かれた状況は正規の戦場ではない。指揮系統もなければ、護るべき仲間もいない。ならばこそ、目の前で助けを求める人間を救うのが人としての本能だ。
鋭く軍刀を振りかざすと同時に、一瞬で地面を蹴って間合いを詰めた。刀の重みと鍛錬で培った突進力が合わさり、まるで俺の身体が弾丸と化したかのように疾走する。
「敵との距離、およそ十メートル。突進の勢いを利用すれば、一撃で仕留められる——」
その言葉どおり、狼の横腹をかすめるように走り抜け、最も危険な位置にいた一匹の首を一閃した。刃が空気を裂く音が耳の奥に響き、その後に生々しい血の匂いが立ち昇る。少女の喉元に迫っていた獣が、一瞬で地に沈んだ。
その間に少女は尻餅をつくようにして倒れ込んでいる。目を奪うほどの恐怖と驚きが彼女の顔に浮かんでいた。
他の狼たちは短い静寂の中で次の一手をうかがうように配置を変えた。一匹が倒れたとはいえ、包囲網はまだ崩れてはいない。俺が少女の前に立ちふさがる形を取れば、狼たちはじりじりと輪を狭めてくる。
その動きに明確な焦りはない。
むしろ、俺を一匹の強敵と見なして警戒しつつ、四匹で再度攻撃の機会を探っているようだ。
「ふむ……まだ退かぬか。粘るな」
俺は小さく息を吐き、後ろ手に少女をかばいながら、地面に足を滑らせるようにして後退した。周囲を囲む獣のうち、あと二匹ほど迅速に斬ることができれば、優位に立てる。
「貴殿は日本人か?」
緊張の合間を縫うように、俺は短く問いかけた。外国語ならどうしようもないが、もし日本語が通じるなら、状況確認が可能だ。
少女は血相を変えながらも、俺を見上げ、「え……」と困惑した面持ちを浮かべているが、何か言い返そうとして言葉が出ないようだ。
その隙に、狼たちの低い唸り声が空気を震わせた。
俺がもう一度、状況を整えようと意識を集中したその時——。
「——来るぞ!」
まるで俺の思考を読み取ったかのように、狼たちは一斉に地を蹴って跳躍してきた。牙を剥き出しにして襲いかかるその姿は、人間の兵士以上に統率が取れていた。
刀の柄を握り直し、俺はわずかに姿勢を沈める。迫りくる鋭い牙と爪から少女を守るため、次の瞬間、命を懸けた反撃へと踏み込んだ——。
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