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第29話 海戦の記憶

 夜が明けると、俺とスイリアは霧が立ちこめる山間の小道を進んだ。


肌を刺すような冷気が増していく。


俺は軍刀を手元で確かめながら足を進めた。


 地面に生い茂る苔が、しとどに足元を濡らしている。青白く光る霧の中、サクサクと足を踏み出す音だけが静寂を破る。


 「ここが"天狗の冷泉"へ通じる道か……?」


 薄青い光が木の間から漏れ、まるで自然が何かを警告するように見えた。


鈍く光る苔は足跡の形に沿って一瞬輝き、すぐに元の姿に戻る。なんとも不思議な現象だ。


 スイリアの話によれば、この泉は強力な魔力を帯びていて、訪れた者に"幻影の試練"と呼ばれる苦難を与えるらしい。


 「でも、陽菜ひなを救うためには、この泉の水が必要だ」


 振り返ると、少し離れたところでスイリアが山道の草花を摘みながら、こちらをじっと見つめている。彼女の銀紫色の髪が霧の中で神秘的に揺れていた。



 「やっぱり行きますか? 芦名殿」


 背後からスイリアの優しい声が聞こえた。振り返ると、彼女が心配そうな顔で俺を見つめている。なんでこんな時に可愛く見えるんだろう、と思ってしまう自分が情けない。


 「ああ、行くさ。陽菜のことを放っておくわけにはいかない」


 自分の責務を果たせなかった苦い記憶が、ビスマルク海の記憶と重なって蘇ってくる。背中に薄い汗が浮かぶのを感じた。


 だが、俺が抱える後悔はビスマルク海だけではない。


白雪の戦歴を辿ってきた中、南方のエンドウ沖海戦やバタビア沖海戦など、無数の戦闘で"救えなかった"者たちがいた。


 思わず足を止めると、霧が濃くなり、周囲の景色が変わっていくのを感じた。




スイリアの姿も見えなくなり、俺は突然、記憶の海に引きずり込まれていく……。




白雪の記憶


 太平洋戦争の緒戦。俺が艦長を務める駆逐艦「白雪」は第三水雷戦隊の一員として、南方作戦や蘭印作戦に参加していた。


 1942年1月下旬のエンドウ沖海戦では、オーストラリア海軍の駆逐艦ヴァンパイアやイギリス海軍の駆逐艦サネットと夜戦になった。


あのとき、運よく白雪には魚雷が命中せず、逆に敵を撃沈することができた。


 けれど、当時の俺は"勝ち戦"で浮かれていた。


サネットの生存者も救助し、可能な限り優遇したはずだが、連合軍の士兵たちが沈む艦と運命を共にする姿をどこか遠巻きに見てしまっていた。


そのときの彼らの声が、今も耳から離れない。


 「なぜ、お前たち日本海軍は……こんな血を流す必要がある? この戦争でお前たちは何を望んでいるのだ?」


 そう問いかけられたのに、当時の俺は答えを持たず、単に軍人として「命令だから仕方ない」と割り切った。


 「本当に……あれでよかったのか」


 そう自問する夜が何度もあった。呑み込んだ海水のように、あの記憶は胸の中でいつまでも塩辛く沈殿している。


 霧の中で蘇る記憶は、次第にバタビア沖海戦の光景に変わっていった。


バタビア沖海戦の追憶


 1942年3月初頭のバタビア沖海戦。白雪はジャワ島西部攻略作戦のさなか、米英蘭豪の艦隊(ABDA艦隊)と交戦した。


日本軍の輸送船団を守るために出撃したものの、激戦の末、敵を撃破して勝利を収めることはできた。


 だが、それは仲間の多大な血を伴う勝利だった。


砲煙の中で叫びながら沈んでいった吹雪型の僚艦たち、あるいは反撃を受けて沈んだ敵艦の乗員。彼らの絶望的な声を、俺はありありと思い出す。


 「艦長、こちらは被弾が甚大です……! もう、もたねえ……!」


 "勝った"はずの戦闘でも、犠牲は必ず残る。当時の第11駆逐隊は士気が高かった一方で、無理を重ねる作戦が多く、航海中の事故や空襲による被害が絶えず、指揮を執る者として自分の無力を何度も痛感した。


 「何のための戦いだったんだ……」


 記憶の中で呟く俺の声は、霧に溶けて消えていく。


そして、次の記憶がぼんやりと浮かび上がってきた。


ガダルカナル島・サボ島沖海戦の痛み


 さらに、ガダルカナル島の戦い――。


白雪は幾度となく輸送作戦に従事し、駆逐艦輸送による"鼠輸送"に駆り出された。


そこではアメリカ軍の艦隊が夜陰を縫って待ち伏せしており、吹雪を轟沈、叢雲や夏雲を処分せざるを得ないという悲劇が起こった。


 「艦長……叢雲が……もう曳航は無理です。雷撃で処分するしか……ありません」


 仲間同士で艦を沈めるという絶望。


サボ島沖海戦の結末は、俺の胸に重くのしかかった。


吹雪型のネームシップを失い、吹雪型は"白雪型駆逐艦"と改定されたとも聞くが、そんな名誉は俺にとって苦痛でしかない。


 霧の中で俺は膝をつく。胸に押し寄せる痛みを堪えきれないかのように。そんな俺を、さらに強烈な記憶が飲み込んでいく。



 そして白雪が沈む1か月前の、1943年2月のケ号作戦によるガダルカナル島撤退。いくら頑張っても、ガ島を守り抜けなかった日本軍は結局撤退を余儀なくされた。


白雪も撤退作戦の最中に機関トラブルを起こすなど、満足に動くことができなかった。


 その後のビスマルク海海戦では、物量で圧倒的に優勢な連合軍航空隊の前に、輸送船団はなす術なく壊滅。


駆逐艦「白雪」も被弾炎上の末、沈んでいく――俺は艦と運命を共にしたはずだったが、気がつけばこの異世界で生き延びてしまっていた。


 「……俺は、一体何なんだろうな。どれだけ戦っても救えなかった奴らがいるってのに、今度は異世界なんて……」




 「艦長! なぜ我々を見捨てたのですか!」


 振り返ると、ずぶ濡れの軍服を着た白雪の乗組員たちが立っていた。彼らの体からは海水が滴り、床に小さな水たまりができている。


 「俺は……俺は見捨てたわけじゃない! 俺も一緒に沈むつもりだった!」


 必死に叫ぶと、彼らの姿もまた霧の中に消えていった。


 深呼吸して立ち上がる。霧の向こうから、小川のせせらぎが聞こえてきた。その方向に歩み出す。


 「けど、今は迷ってる場合じゃねえ。再び仲間を失うくらいなら、何度でも立ち上がるまでさ」


 そう呟き、足取りを強める。


今の俺には、陽菜を救うという明確な使命がある。


失われた命は取り戻せなくても、目の前の命は守れるはずだ。


 「芦名殿! 大丈夫ですか?」


 霧が晴れるように、スイリアの姿が再び見えてきた。彼女は心配そうに駆け寄ってくる。


 「ああ、大丈夫だ。ちょっと思い出していただけさ」


 そう答えながら、俺は彼女に微笑みかけた。スイリアは安堵の表情を浮かべ、小さく頷いた。


 「あの先に泉があります。もう少しです」


 スイリアに導かれて、先に進む。遠くで小川のせせらぎが徐々に大きくなっていく。その先に"天狗の冷泉"があるのだろう。


 過去は過去だ。もう変えられない。


だが、これからの未来は、自分の手で切り拓いていける。そう思うと、胸の中に小さな灯がともった気がした。


 「さあ、陽菜を救おう」


 俺はそう呟いて、スイリアと一緒に冷泉へと歩を進めた。

今回は芦名の過去の記憶に焦点を当て、彼が抱える心の傷と向き合う姿を描きました。


太平洋戦争当時の海戦は実際の史実を基にしていますが、芦名というキャラクターは創作です。


次回は、ついに天狗の冷泉にたどり着いた二人が何を見るのか、そして陽菜救出のための戦いが始まります! お楽しみに!


お読みいただき、誠にありがとうございます!


皆さんの応援が私の創作の原動力となっています。


少しでも楽しんでいただけたなら、ブックマークや感想、評価ポイントなどをいただけると大変嬉しいです。


「良かった」「このキャラクターの言動が印象的だった」など、ほんの一言でも構いません。


読者の皆さんの声を聞くことで、より良い物語を紡いでいけると思っています。

よろしくお願いいたします。

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