第15話 スイリアとの出会い
俺は村のはずれで陽菜の額に手を当てた。熱い。異常なほどに皮膚が灼けるように熱を持っている。
「おい、陽菜! しっかりしろ!」
海戦で何度も目にした戦傷病者の症状を思い出す。ビスマルク海での戦いで、機銃掃射を受けた部下たちがこんな風に高熱を出していたっけ。だが、銃創ではなく毒か……。
陽菜はかすかに目を開け、俺の声に反応した。顔は真っ赤に上気し、乱れた呼吸が胸を小刻みに揺らしている。
「ご迷惑を……おかけして……すみません……」
か細い声で陽菜は言った。
こんな状態でも気遣いを見せる彼女に、胸が締め付けられた。
駆逐艦白雪の艦長として見捨てた部下たちの顔が脳裏に浮かぶ。今度は、絶対に守り抜かなければならない。
「そんなことは気にするな。今は安静にするのが先決だ」
俺は少し体を起こして周囲を見渡した。
アカブトマガスの襲撃で祭りの会場は惨憺たる有様だ。土煙が立ち込め、破壊された屋台や逃げ惑う人々の混乱が続いている。
建物の中には炎を上げているものもあり、村人たちは必死に消火活動に追われていた。こんな状況では、他人の面倒を見る余裕なんて誰にもあるはずがない。
「くそっ……」
呪詛のように呟いた。
「加えて、俺たちはこの世界に関する知識がほとんどゼロだ……いきなり詰んだか……」
状況判断に頭を巡らせていると、不意に澄んだ声が耳に飛び込んできた。
「そこの方、大丈夫ですか?」
顔を上げると、そこには一人の女性が立っていた。
まるで異質な存在のように、彼女だけが混乱の渦中にありながら静謐な空気を纏っている。
人混みに紛れて近づいてきたのか、気配にすら気づかなかった。軍人としての警戒心が一瞬遅れたことに、内心で舌打ちした。
銀髪——いや、よく見ると薄い紫を帯びた銀髪が風にそよぎ、知的な印象を与える眼鏡の奥に、深い青緑色の瞳が光っていた。
年齢は二十代半ばといったところか。整った顔立ちと凛とした立ち振る舞いが、どこか高貴な印象を醸し出している。
「ああ……」
少し言葉に詰まった。久しく女性と会話することも少なかった俺には、この美しい女性の出現は予想外だった。
だが今はそんなことを考えている場合ではない。陽菜の命が危険だ。
「先ほどの怪物にこの娘が毒のようなものをくらってしまい、動けなくなってしまった。どこか休める場所を知らないだろうか」
女性は俺の言葉を聞くと、表情を一変させ、深刻な面持ちになった。
「それは大変です」
彼女は素早く陽菜の様子を確認すると、
「ひとまず、うちの診療所に来てください。こう見えて私、医者をやっているんです。案内しますので、早く」
その言葉に思わず胸を撫で下ろした。こんな時に医師との出会いとは、まるで天の助けだ。
海軍では常に医務長がいたが、異世界では医療環境など望むべくもないと諦めていたのだ。
「恩に着る。申し訳ないが、よろしく頼む」
俺はそう言って陽菜を抱き上げた。あまりに軽い。
旅の疲れで体重が落ちているのだろうか。それとも元からこんなに軽かったのか。海軍の重い艤装や爆撃に耐える鋼鉄の体に慣れていた俺には、彼女の体の脆さに改めて危機感を覚えた。
女性の後を追って、俺は陽菜を抱えたまま歩き始めた。
診療所は町のすぐ近くの小高い山の上にあった。階段を登りながら、俺は周囲の地形を自然と観察していた。
曲輪や堀、石垣など、明らかに日本の中世の城の名残が見て取れる。時代は江戸初期、あるいはそれ以前か。
仮に同じ土地なら、会津若松城の支城か何かだったのかもしれない。戦国の乱世を越えて生き残ってきた堅牢な造りに、一瞬感慨に浸った。
診療所の建物自体も和風の外観で、古い神社を改装したようにも見える。
木造の二階建てで、屋根には苔が生え、軒下には薬草らしき植物が干されていた。玄関には「診療所」と書かれた古めかしい看板が掛けられている。
内部に入ると、清潔な香りが漂う空間が広がっていた。
待合室はあまり広くなく、簡素な作りだが、至る所に花が飾られ、柔らかな雰囲気を醸し出している。壁には薬草の図鑑や解剖図のような絵が掛けられていた。
女性はストレッチャーらしきものを持ってきて、俺に「こちらに」と促した。俺は慎重に陽菜をそこに寝かせた。
「待合室でお待ちください。処置をしてきます」
女性はそう言うと、陽菜をストレッチャーに乗せて奥の処置室へと移動していった。その手際の良さに、プロの医師の貫禄を感じた。
待合室には誰もおらず、俺一人が椅子に腰掛けて時間の経過を待った。
壁にかかった時計はカチカチと音を立て、その一刻一刻が長く感じられた。窓の外は徐々に暗くなりつつあり、夕暮れの赤みを帯びた光が室内に差し込んでいた。
約40分ほど経った頃だろうか。女性が処置室から出てきて、俺を呼んだ。
「お入りください」
案内されるまま処置室に入ると、移動式のベッドに横たわる陽菜が目に入った。
以前よりは幾分か良くなったようにも見えたが、それでも顔は上気したままで、不安定な呼吸を続けていた。
「先生、このお嬢さんはどうなったのでしょうか」
女性は陽菜のカルテらしきものに何かを書き込みながら答えた。
「どうやら、この方はトマトに対して過剰に反応する体質を持っているようです。加えて、先ほどの怪物——アカブトマガスと呼ばれるものですが——から受けた毒が体内に回ってしまったようです」
銀髪の医師は深刻な表情で続けた。
「このままではまずいかもしれません」
その言葉に、胸に石が落ちたような感覚を覚えた。まだ若い陽菜がこんな目に遭うなんて……俺は少し絶句しながら、
「そ、そんな……」
女性は俺の様子を見つめ、少し間を置いて尋ねた。
「失礼ですが、娘さんでしょうか?」
この質問に、俺は少し考え込んだ。
そもそも俺たちの関係をどこまで明かすべきか。異世界転移のことまで話せば、疑われるかもしれない。かといって、嘘をつくのも気が進まない。
「いや……実は、私とこのお嬢さんとは血縁関係はない。誤解のないように言っておくが、みだらな関係でもない」
俺はできるだけ真実に近い形で説明することにした。
「偶然この近くで出会い、一緒にいたところ、怪物に襲われてしまったというわけだ」
女性は俺と陽菜を交互に見比べ、何か探るように見つめた。彼女の鋭い観察眼に、思わず身構えそうになる。
「そうだったのですね」
彼女はやがて穏やかな微笑みを浮かべた。
「何か事情があるようですね。わかりました」
そして再び真剣な表情に戻り、
「この方を救う方法はあるのですが、私一人ではとてもできないんです。どうか手伝っていただけないでしょうか」
「それは何だ?」
女性は窓の外を見つめながら静かに語り始めた。
「この町の隣にショワルの村というところがあります。そこの山奥に、二つの湧水があるんです——冷湖の霊泉と天狗の冷泉」
彼女の言葉に、思わず眉をひそめた。「天狗」とは、日本の昔話に出てくる妖怪ではないか。なぜ異世界にそんな名前の場所が? だが、それよりも陽菜を救うことが先決だ。
「冷湖の霊泉には、薬物の効果をより引き出す成分が含まれており、天狗の冷泉には、解毒作用のある水が湧き出ています」
彼女は少し寂しげな表情を浮かべて続けた。
「本来なら定期的に採取してストックしておくべきなのですが、最近はあのような怪物が山を跋扈し、村を襲うようになって……一人では行くことができなくなってしまいました」
女性の声には、わずかな後悔の色が混じっていたように思える。
「もし可能であれば、一緒に来ていただけないでしょうか」
迷う理由などなかった。
「もちろん、いいとも」
俺は即座に答えた。
「ついでにあの怪物を倒しに行くこともできれば、より万全だな」
女性はその返事に、心から安堵したように微笑んだ。彼女の顔が一瞬で明るくなり、どこか別人のように見えた。
「ありがとうございます!」
それから彼女は少し恥ずかしそうに付け加えた。
「そういえば、申し遅れました。私はスイリアと申します。ここで医者をやっています」
「俺は芦名定道だ。芦名と呼んでくれ」
簡単に自己紹介を済ませると、スイリアはさらに続けた。
「では芦名殿、今日はもう遅いですから、ここに泊まっていってください。水の採取は明日にしましょう」
彼女は立ち上がりながら説明した。
「隣に離れがありますから、後で案内します。必要なものがあれば遠慮なくおっしゃってくださいね」
俺は少し気になったことを尋ねてみた。
「町はずれのここで一人暮らしなのか? それはそれで不用心ではないか?」
スイリアはその質問に、くすりと笑った。
「ご心配なく」
彼女は右手の手のひらを見せながら言った。
「これでも私は精霊魔法の使い手なので、狼や人間の盗賊くらいなら敵いませんよ」
そう言いながらウィンクしたスイリアの手のひらに、緑色の光が集まってきた。小さな星屑のような光が渦を巻き、彼女の周りを舞う。
思わず息を呑んだ。これが異世界の魔法か……。
海軍時代には「魔法」など夢物語だと思っていたが、目の前で起きる光景に言葉を失った。
「そうか……それは頼もしいな」
少し感心した口調で答え、別の懸念に移った。
「いや、俺のような男をやすやすと泊まらせるのは大丈夫なのかと思ってね。余計な心配だったようだ」
スイリアは優しく微笑んだ。
「先ほどから貴方の所作を見ていましたが、変なことをするような方には見えませんでした」
彼女はまっすぐに俺の目を見て続けた。
「それに、あのお嬢さんを救うために躊躇なく行動なさる様子を見て、貴方を信用しても大丈夫だと判断したんです。私も、変な人を泊めたりはしませんから」
彼女のその言葉に、どこか照れくさい気持ちになった。信頼されるというのは、ありがたいことだ。
「そうか……」
俺は少し頭を掻きながら、目を合わせないようにして言った。
「では、明日は世話になる。よろしく頼む」
スイリアはうなずき、広間に向かって何か準備を始めた。窓の外では、夕焼けが深まり、遠くの山々が黒い影となって浮かび上がっていた。
明日は山の泉を目指す旅だ。陽菜を救うため、そして、この異世界での新たな冒険のために——俺は静かに覚悟を決めていた。
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