0.5話:ラッキーアイテムはオレンジ
お久しぶりです。しばらくぶりの新作です。
前日譚……というよりお試し版というお話です。
雰囲気を掴んでいただけると幸いです。
20:45。
某都市、某中心市街地は昼間以上の賑わいをみせている。
自動車のヘッドライトと通行人のブルーライトが街を照らす主要駅から地下鉄で三駅下り。
上ではネオン管と、下には提灯とが燦然と輝く繁華街からさらに二つ横道へ逸れた裏通り。
そのまま心もとない電灯を頼りに真っ暗な通りを進むと、そこにはごく平凡なオフィスビルがある。
——『(株)ふたふたねこ』。洒落たフォントの割にビルの電飾看板は明滅を繰り返す。
20:46。
「時間よりも気にすることがあるのでは?不審者さん」
その最上階——とは言ってもせいぜい三階で一番上質な座椅子に背を預けていた壮年の男。特に驚いた様子もなく、腕時計から声の主へと視線をあげた。
そこにはいかにもなビジネスマン、きっちりと整えられたスーツ姿の青年がいつの間にか立っていた。
『雪蓑 猫弐』——首から吊るした名札からは判別できないが、こんな夜分に社長室で用があるのなんて、社長本人か不審者くらいだろう。その点不審者の身としては、こちらを前にしても悠然とすまし顔を崩さない点から名札には信憑性が持てた。
不審者と呼ばれたその男はポケットからアトマイザーを取り出すと、中身の香水を両手首、そして体のあちこちに吹きかける。迷った素振りは見せつつも、まるで消臭スプレーを使うように豪快に吹きかけている。入口に立っていた雪蓑にまで、その柑橘系の香りが夜風によって広がっていた。
「……ああ、すんませんね社長。いやあ迷いはしたんだけども、やっぱりアポは必要でしたかね?」
「ふっ、そうですね。せめて御一報でも頂ければ、もう少しはましなおもてなしもできましたのに」
ぼんやりとした月光が背後から男の影を伸ばしている。
窓を開けていても車通りなんて滅多になく、そのため外からの情報量は少ない。ちょうど酔っ払いたちの喧騒が時折薄らぼんやりと聞こえる。
「やはりあれだけでは貴方には不十分だったようだ。いやそもそも彼らのやり方ではお気に召さなかったようですねぇ……」
外から更に酔っ払いたちの祝砲が複数と木霊している。随分と陽気な発砲音が、気前よく次々と重奏みたく響かせている。
「いやいや責めないでやってくださいよ。あそこまで熱烈な歓迎は久々だったもんでね。ただ互いに休日出勤までして気遣ってもらうのは些か気が引けるもんで」
「それで彼らを無視して、悠々と忍び込んでいらっしゃると?」
「無視だなんてそんな。むしろこちらにはお構いなくと、無|視をしてもらっただけだから」
男が引き笑いをしていた最中で、一層大きな祝砲が響くと、それを皮切りにまた夜に静寂が戻ってきた。どうやら景気の良い打ち上げも終わったようだ。
今はただ、柑橘系の甘い匂いだけが部屋の情報量を支配していた。
「あ、そうそう。ちょっとこれだけ読んじゃってもいいすか?もうすぐでキリがよくって……」
ビル風に前髪を揺らしつつ、男は腰のポケットから新書サイズの書籍を取り出す。本のタイトルは「ドキっ!?絶対当たるラッキー占い365日!」。
「ええ構いませんよ。しかし変わったものをお読みのようで」
「ああ……似合わないって?自覚はあるんだけどさ。ただこういったライトなものの方がラッキーアイテムも丁度いいんだよな。無茶じゃなくてさ。ほら、今日の俺だったらオレンジなんだってさ。分かりやすいだろ?」
薄暗いということは、月華を食う照明がないということでもある。つまり強がりではなく彼が読書をするのには十分な月光が射し込んでいた。
「ふふふ、なるほど。確かにシンプルで用意もしやすい。貴方の不審行為にも納得できました。ただ……私が変と申し上げたのは別にお顔にそぐわないからではなくですね?」
雪蓑は涼しい表情と声色のままカチリと乾いた音を起こした。
その音も行動もいたって自然に慣れた手つきだったもので、男も事態に気づくのが遅れた。
まさしく取《・》り出した瞬間には全く気付かず、それでいていつの間にか既にこちらに向けられた拳銃の撃鉄を倒す音だということに。
「——これから死ぬのにラッキーアイテムとは滑稽だなと」
——そして男が本を置く間も与えず、些かこれまでの雑談のテンションのまま引き金を引いていた。
「ぐ、ぐぅ……ッ」
男の呻き。凶弾はその占い本とその奥にある男の体を諸共貫いていた。
蹌踉めく体から本やその前方へ飛沫が浴びせかけられ、咄嗟に机上へもたれかかるもぴしゃりと溜まった飛沫が掌を濡らしていた。
「ふう……まったく世話を掛けさせる」
雪蓑は安堵を零すと、男が手をついている机までゆっくりと歩みを進める。
「部下全員をすり抜けていた時点で察しはついていましたが、貴方も“竜の遺産”目当てでしょう?」
軽快なステップで男の側へと近寄る。
「しかし奴らをいなしたことで油断しましたね?貴方にはいつ拳銃を取り出したのかも、ましてや敵意すらも分からなかったはず」
雪蓑はリラックスして机を介して男を見下ろすのだが、さすがにほくそ笑むことを隠すことはできていなかった。
「私が所持しているのは“秘匿の瞳”。拳銃も、精神も、この建物だってそう。物質、非物質を問わず、大きさにさえ制限なく他者からのあらゆる観測を断ってくれる」
矛盾しているように聞こえるかもしれないが雪蓑は冷静な男だ。今まさにほくそ笑んでいながらも、思考を絶やさない。
「この能力の最大の強みをお教えしましょう。それは視覚情報がまったく信じられなくなることです」
この解説にしても同様である。決して油断からペラペラと説明しているわけではない。
その目的とは目の前の不審者に脅威を認識させること。相手に「既に別の武器が向けられているのかもしれない」と、不安要素を植え付ける。たったほんの僅かな不安でも外部的要因のない今この場においては雲泥の差となる。
さらにはその場で見せつけるようにわざとらしく両の手にある拳銃を手放した。
無論、拳銃は自由落下。床の影に向かって当然のように吸い込まれていき、そしてそのまま物音もなく消えた。
「さて、貴方がどんなものをお持ちなのかは存じ上げないが、残念でしたね。能力も活かせず、お好きな占いも外れてしまって」
「……——いや、これでいい」
「ほお。しかしこれの何が良いのです?」
雪蓑の冷静さを崩れない。
だが対して机にもたれかかったびしゃびしゃの男は不敵に顔を上げていた。
「間に合ったからだよ、この本の成果が。ラッキーアイテム様々だって」
「そのオレンジとやらの占いが?ふふふっ、今更やれるものならどうぞ?」
——雪蓑の嘲笑混じりのため息。
しかしオレンジの臭いを纏わせた男は右の拳に力を込める。
「ああ……そうさせてもらうさ!」
威勢のいいその言葉を皮切りに、男はもたれかかっていたその腕をただ全力で前に振った。前方へのフルスイングのため思い切り体勢を崩し、そのまま肩から崩れ落ちる。
しかし殴るためや払うためではなく、あくまで手を濡らしていたその机上にぶちまけられていた液体を投げつけるような動きだった。
故に一貫して冷静だった雪蓑も特に避けることはなかった。それはあくまで彼の腹部からぶちまけられたものだからだ。すり替えたり何かを混ぜたような素振りはなかったし、ましてやオレンジの要素など微塵もない。ならばその“ただの液体”を浴びたとして何になるのか。防ぐ理由がなかった。
故に本命に備えその液体を気に留めることすら辞めた。
——だが視線を壮年の不審者に戻した、まさしくその瞬間、雪蓑の肉体をただの液体が貫通していた。
この度はお手に取っていただき誠にありがとうございました。
改めまして、お久しぶりの新作です。
具体的なキャラクターや背景は次回以降で描写したいと思います。
なので今回は前書きにある通り雰囲気を掴んでいただければ幸いです。なのでほとんどの情報がまだアバウトではありますが、今後は答え合わせをしながら読んでいただけるような構成を考えております。
……とにかく頑張ります。
なので次回以降も訪れていただけることを願っております。
それでは簡潔ではありますが、この度は読了お疲れさまでした。
次回の訪問も心よりお待ちしております。