9ルベルトの所見
グレイシャス伯爵という名前を、私は伯爵の罪を知る前からよく知っていた。それもそのはずだった。グレイシャス家の娘が私の通う学院にいたのだから。
他国へ赴き、見識を深め、同時に自国の立場を知る――そんな目的で在籍することになったレスティナート王国の初等学院は正直に言えば退屈でしかなかった。
ヒルベルム王国に比べて天と地ほどの差がある、技術でも知識でも劣った国。群がってくる羽虫のような貴族令嬢たちは勉学などそっちのけで男に尻尾を振る者たちだった。男子生徒もまた、私に取り入って将来の道を切り開こうとする者ばかりだった。最も、流石は貴族、血統に由来する優秀さはそこそこだった。
正直、最初は期待があっただけに落胆との落差が大きくて、失望の一言だった。未来の貴族たちの結束力を高めるとともに、有能な者は平民であっても国の繁栄に貢献させる――そんな目的を掲げるレスティナート王国の学院システムにはそれなりに興味があったのだ。
やはり大きいのは制服の存在だろうか。ヒルベルム王国にも貴族の子どもたちが学ぶための学校はあるが、制服というシステムはなかった。だからだろうか。特に女子生徒たちの間には、着古したドレスを着ている者などをあざ笑う習慣があった。
一体何をしに学園に来ているのか、その話を耳にしたものはあきれ返ったものだった。そういう意味では、レスティナート王国での経験も全くの無駄というわけではなかったかもしれない。
そんな初等学院の生活が二年目に差し掛かったところから、私はその名を聞くようになった。
リリスティア・グレイシャス。グレイシャス伯爵の愛娘であり、甘やかされて育ったわがまま姫。伝え聞く横暴なふるまいから、私は彼女のことをそう評価していた。
とるに足らない存在だった。わざわざ顔つなぎをする必要など全く感じない、関わらなければ無害な存在だった。
関わる気も起きない、存在だったはずだった。
そこから変わったのは、いつのことだっただろうか。
ああ、確か、学院の図書館で彼女の姿を見かけたのがきっかけだった。
普段は周囲に控えさせているという取り巻きもつれず、彼女は大量に積み上げた本を驚くべき速さで読み進めていた。
時々止まっては何事かメモしている様子だったから、ただ見栄を張って高速で読んでいるふりをしているわけではなさそうだった。
これまで聞いてきたグレイシャス伯爵令嬢と、目の前の人物が本当に同一の存在なのか、疑って。同時に、私は自分の目を疑った。
けれどレスティナート王国で多少親しくなった学友は、彼女こそがグレイシャス伯爵令嬢で間違いないと告げた。
それから、彼女に「興味」を持ったのかと驚愕の顔を浮かべる友人の勘違いを否定して、私と彼女の邂逅とも呼べない些細な出会いは終わった。
それからも度々、学園で彼女の姿が目につくようになった。しもべのように同級生を従えて歩く女王然としたふるまい。使用人の些細な失態に揚げ足をとり、解雇する姿。かと思えば、二学年合同授業の場で予想もしない深い切込みで意見を述べるなど、彼女はひどくちぐはぐな姿を私に見せた。
その異様さに、私は次第に目が吸い寄せられていった。
そしてある日、グレイシャス伯爵が我がヒルベルム王国が誇るヒルベルム硬貨の偽造を行っているというタレコミが入った。
正直なところ私の気を引きたい子どものいたずらだとは思ったが、あまりにもうっとうしいので調査に及んだ。
そして、その情報は事実だった。
伯爵はひそかにヒルベルム硬貨の偽造を進めていた。
私は父に書簡を送って対応を協議した後、レスティナート王国に伯爵の悪行を訴え、伯爵を捕らえるに至った。国力の差を実感しているからか、レスティナート王国の国王は私が口にしたヒルベルム王国国王の要求をすべて飲んだ。そうして私は伯爵の身柄を抑え、まだ始まってすぐだったらしい偽造計画を阻止した。
そう、まだ計画段階だった。つい数日前に活動を始めたと言わんばかりにお粗末なデータのみ。けれど、偽造をしようとしていた立派な証拠だった。
だからこそ、対応に困った。ヒルベルム硬貨を汚そうとした罪は重い。一方で、ずさんな計画に過ぎなかったそれを持ち出してグレイシャス伯爵家を一族郎党処分するのは違うと思った。
その時にリリスティア・グレイシャスの顔が思い浮かんだのは、否定できない事実だった。
一瞬、考えた。この件を機にリリスティア・グレイシャスをレスティナート王国から引き抜いて、我が国の民とすることが可能なのではないかと。あるいは、彼女を私の部下にするのもありかもしれないなんて、気づけばそんなことを考えていて、私は自分自身に驚いた。
私はどうやら、相当に彼女のことを有望視していたらしい。
その思いは、彼女と対峙するたびに、言葉を交わす度に大きくなっていった。
私を見ても色恋に揺れることのない毅然とした姿を見せる彼女の、揺らぎのないまっすぐな瞳。
何もなくなった部屋で、夕日に祈るように体を丸めて一人静かに泣いていた彼女の背中。
自分を破滅させた憎き相手だろうに、あくまでも淑女として気丈に微笑んで見せた彼女の在り方に、私は飲まれた。
気づけば私は、ソファで貧乏ゆすりをしながら彼女のことを考えていた。未来の王としてあるまじき姿だ。けれど、報告が待ち遠しかった。
去っていく彼女の背中がちらついた。
君は――私のもとで働く気はないか?
言いかけた言葉を、何度も口の中で転がした。私が言いたかった言葉は、彼女に求めた立場は、こんなものではないと心が叫んでいる気がした。
気のせいだ。だが、このままただ彼女が苦行の中にあり続けるのは耐えられない。
だから私兵を送って、グレイシャス家の者たちの現在を探らせることにした。これであれば部下に違和感を持たれることなくリリスティアの情報が手に入るだろう。
ため息をつき、眉間をもみほぐす。視界の端に光るものを見て、私は窓の方へと視線を向けた。
窓の外、気づけば空はとうに明るくなっていた。報告があまりにも遅い。
もしや部下に何かあったか、だが我が国の精鋭なのだから万が一というのは考えにくい。だとすればリリスティアの方に目が離せない状況があるのでは――ぐるぐると思考が回るうちに、気づけば窓ガラスをカツカツと嘴でつつく鳩の姿が目に入った。
窓を開き、おとなしい鳩の足に括りつけらえた金属の筒をとる。
暗号文を流し読みして、思わず目を疑った。
「……悪漢に襲撃され、家令が撃退。リリスティアも毒を負ったものの、家令が生気を行使することによって九死に一生を得た?そのうえ、彼を助けるためにヒトゲ草を素手で引き抜いて根をかみ砕いたぁ?」
ああ、目を疑ったとも。そこに書かれているのは、とても九歳の甘やかされた令嬢のものとは思えなかった。
ゾクリと、体が震えた。口に手を当てれば、気づかぬうちに私は笑みを浮かべていた。
リリスティア・グレイシャス――
「――面白いな?」
ああ、私はもうずっと、彼女から目を離すことができそうにない。