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悲劇の悪役令嬢は王子殿下を愛さない  作者: 雨足怜


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7戦鬼と守るべき者

 カツン、と音が響いて。

「きゃ⁉」

 リリスティアの小さな悲鳴を聞いて、ノートンは素早く顔を上げた。

 その目に、リリスティアを捕まえる別の男の姿を捉えた。裏を生業とする者特有の、陰鬱な顔。その目だけが獣のようにギラギラと光る男は、鋭いナイフをリリスティアの首に突き付けながら邪悪に笑っていた。

 怒りにとらわれるあまり周囲の警戒がおろそかになっていたことを恥じたノートンは、音が鳴るほどに強く歯を食いしばった。動き出そうとノートンが重心を前に傾けたところで、男がにやけた唇をゆっくりと開いた。

 リリスティアの白い喉元にナイフの切っ先が軽く食い込む。

 リリスティアの顔から一気に血の気が引いた。

「おおっと、動くなよ。あんたと戦うのはごめんだ。俺はこいつさえ捕らえられればそれでいいんでな。おとなしくしていてくれないか。なぁ、戦鬼ノートン」

 戦鬼。それはノートンがかつてハンターとして活動していた時の二つ名だった。どれほど凶悪な魔物であっても笑いながら立ち向かっていく戦闘狂。その姿に鬼を重ねた者が広めた呼び名を聞いて、ノートンは男に対する警戒レベルを一層引き上げた。

「ッ!……お嬢様を連れ去ると言われて黙って見逃すわけがないでしょうが⁉」

 わざと怒りを見せて自分が盲目になっていると思わせることで、相手に油断させようとするも、同時に響いてきた足音にノートンは顔をしかめる。

「……十三人。ずいぶん揃えましたね」

 先ほどの男たち同様、ありあわせのものを武器として握る屈強な男たちが、前後左右からノートンを取り囲むように現れた。先ほどの男たちとは違う、明らかに戦いなれた気配を放つ者たち。彼らを前に、ノートンは意識を完全に戦闘のものへと切り替える。

 にやにやと笑う男たちは、探るようにノートンを観察するばかりで、踏み込んでこない。リリスティアの首に突き付けられたナイフの切っ先が、さらに皮膚に食い込む。リリスティアの顔が、一層強く恐怖にゆがむ。

 頬を、一滴の涙が伝って。

 玉のような血が、ナイフの切っ先から流れる。

 刃を伝う赤い雫が、地面に落ちて。

「……貴様らァッ」

 ノートンが怒りの声を上げた。

 武技を発動。気力で肉体を活性化させ、己の筋力を何倍にも引き上げるもの。

 陽炎のような黄金の気を立ち昇らせるノートンが、一瞬でその場から消える。

 ガン、と激しく音が鳴り響いたかと思えば、ノートンの手はリリスティアを捕らえる男のナイフをつかんでいた。鈍い音は、男たちのリーダー格とノートンが額をぶつけた音。

 男は額から流れ落ちた血を舌でなめとりながら薄らと笑った。

「お嬢様を離してもらおうかッ」

「やれるもんならやってみればいいさッ」

 背後にいる部下の男にリリスティアを投げ飛ばすように押し付けて。

 男の体が深紅の輝きに染まる。

 武技。ノートンはとっさにナイフの刃から手を離して、背後に飛んで男から距離を取った。

 ノートンの目に、ナイフをつかむ男の手が無数に分裂したように映る。

 高速で繰り出されるナイフの突きの雨を、ノートンは特注の魔物製の糸で編んだ手袋でそらす。

 ピシ、とノートンの頬を浅くナイフの切っ先が撫でた。静かに血が流れ落ちる。傷口にわずかな熱を感じて、ノートンが眉間にしわを寄せる。

「当たったな?」

「まさか、毒ですか」

 ノートンの意識が男の背後にいるリリスティアへと向く。恐怖のせいで青ざめているとばかり思っていたが、リリスティアの呼吸は嫌に浅く、血の気が引いた顔には脂汗がにじんでいた。

「貴様ァッ」

 ノートンの中で、何かが切れた。

 金の光の奔流がさらに強く立ち昇り、目にも止まらない動きでノートンが男へとこぶしをふるう。

 ノートンの拳が二の腕にヒットし、男の手からナイフが吹き飛ぶ。

 顔に迫る男の拳を、頭を傾けるだけで躱し、ノートンは返す動きで男のみぞおちにこぶしを叩きこんだ。

 カハ、と息を吐く男は、それでも負けを認めてはいなかった。腹部に突き刺さったノートンの拳。自らの体に伸びる腕を、血管が浮き出るほどの力で握って、笑う。

「やれッ」

 男の命令に合わせ、動きを止められたノートンへと一斉に男たちが殴り掛かる。

 ふわ、とノートンが軽く飛ぶ。そして、自由になった両足を、先ほどの男のナイフの突きのごとき早業で突き出し、迫る男たちを蹴り飛ばした。

 骨が折れる音を響かせながら、男たちが地面に転がる。

「ハアアアアアアッ」

 青い光を立ち昇らせる武技使いの男が、ノートンの片足をつかむ。その背後、杖のように木の棒をノートンに向かって突き出している男の目が怪しく輝いた。

「切り裂け、風よ!」

 魔法が放たれる。吹き抜けるつむじ風が、刃となってノートンを襲う。

 衣服のあちこちが切り裂かれ、血が舞う。

 リリスティアが声にならない悲鳴を上げる。

 目を閉じたノートンの片足が、地面について。

 トン、と跳ねるような動きで振り上げられたつま先が、反対の足をつかんでいた武技使いの男の顎をかち上げた。

 それから、上下逆さになるまで腕を無理やりひねって回転したノートンが、虚空を蹴る。

 放たれたかかと落としが、腕をつかんでいたリーダー格の男の頭頂部に叩きつけられ、何かが砕ける音とともに男の体は地面に倒れた。

「糞がッ」

 リーダー格がやられたことで統率が乱れた男たちは、瞬く間にノートンに狩られた。手足が振りぬかれるたびに、男たちの骨が折れる音が響く。

 一瞬で無力化され、残るはリリスティアを捕らえている男だけになった。

「く、来るなッ」

 血と汚物のにおいが広がる暗がりで、男は狂ったように乱雑にナイフをふるった。

 するりと、男とリリスティアの間に優しく手を差し込んだノートンが、リリスティアを抱き寄せる。

 同時に、振りかぶられたノートンの拳が男の顔面に叩きつけられて。

「く、ははははは、はは、は……」

 頭頂部が陥没したリーダー格の男が、地面に転がっていたナイフを投げた。

 それが、ノートンのわき腹に突き刺さった。

「ノートン!」

 リリスティアが悲鳴のようにノートンを呼ぶ。

 リーダー格の男は、笑い声を途切れさせてそのまま死に絶えた。

 黄金の輝きを霧散させたノートンが、地面に膝をつく。

 慌てて駆け寄るリリスティアが足をもつれさせる。

 抱きしめたリリスティアの体は、ひどく冷たかった。

 ノートンの顔が苦悶にゆがむ。脇腹に突き刺さったナイフを伝って、血が地面に零れ落ちた。

 今すぐに毒の処置をしなければならない――自分の症状を棚に上げてノートンが行動を開始しようとした、その時。

 再び、リリスティアが焦燥に駆られた声でノートンの名を呼んだ。

 背後に、気配。

 とっさに体をひねるも、わき腹に刺さったナイフの痛みで動きが遅れる。

 そして、振り下ろされたガラス瓶が、ノートンの頭部に叩きつけられて割れて。

 ノートンが降りぬいた手刀が、最初に気絶させた、酒に酔った男の首にぶつかり、その骨をへし折った。

 ノートンの体から、力が抜ける。

 細い、とても十人以上と大立ち回りしたとは思えない体を何とか抱きとめたリリスティアが、必死にノートンの名前を呼ぶ。

 死なないでと、生きてと、叫ぶ。今この状況で頼りになるノートンを失えば終わりだと、リリスティアは思った。リリスティアはノートンの協力なくして自分が生きながらえる未来を想像できなかった。

 自分がどれほどノートンに頼っていたかを、リリスティアは理解した。少しは自分も成長しているはず――その思いが幻想だったとわかり、リリスティアは無力な自分を責める思いでいっぱいだった。

 胸の奥で感情が飽和する。泣いている場合ではないと、熱を帯びた目元に力を入れ、奥歯を強く噛みしめた。

「……お嬢様、お手を」

 視界が涙でにじむ中、リリスティアはノートンに言われるままに手を伸ばした。

 視界に、黄金の輝きが満ちる。武技の、輝き。

「ノートン!」

「大丈夫、ですから……」

 責めるような響きを込めてノートンを呼ぶリリスティアだが、がっちりと握られたその手はほどけない。ほどかないと、いけないのに、ノートンが手を離さない。武技の発動を、止めない。

 その黄金の輝きは、気力の輝き。

 気力とは、言い換えれば生命力。十分以上に体にある生命力を使うことで、武技を獲得した者はとてつもない力を行使することができる。

 だが、武技の発動には生命力とイコールである気力を必要とするのだから、武技を使いすぎれば体が疲弊し、ひどいときにはそのまま衰弱死してしまう。特に、致命傷を負っている状態で武技を無理やり発動しようものなら最悪だ。

 だから、リリスティアはノートンを止めなければならなかった。滅びのただ中にあるグレイシャス家にそれでも仕えようとしてくれる宝のような存在を、こんなところで失うわけにはいかなかった。

 だが、ノートンの意思は固かった。そして、ノートンが武技を発動しなければ、リリスティアもノートンも共倒れだった。

 毒に侵された状況で、ノートンもリリスティアももう永くはなかったから。

「生命賦活」

 小さなつぶやきと共に、ノートンの体を包み込んでいた気力の光がリリスティアの体に流れ込む。体が春の陽光に包まれるようにぽかぽかと温まり、リリスティアはぎょっと目をむいた。

 気力を注ぎ込んで対象の生命を活性化させる武技。武技使いが有する数少ない癒しの力が、リリスティアの体に広がっていく。

 活性化した肉体が、気力が、体内を侵す毒を消していく。

 体の中にあった嫌な熱が消えていく。おかしな鼓動を刻む心臓が正常に戻る。

 ゆっくりと、ノートンの手から力が抜けて。

 固く握っていたリリスティアの手から、ノートンの手が零れ落ちる。

 ゴホ、と咳き込んだノートンの口の端から血がこぼれる。

「ノートン、ノートン!」

「お、嬢様……」

 やり遂げたと言わんばかりにすがすがしい笑みを浮かべたノートンが、眠るように目を閉じた。

 鼻の奥がツンとした。目の奥が酷く熱を帯びていた。留まるところを知らぬ涙が、リリスティアの頬を流れ落ちた。

 絶望が押し寄せた。一体、これからどうしろというのか――リリスティアは運命を、神を恨んだ。

 父が捕らえられ、ノートンが凶刃に倒れ、母は絶望に暮れていて、弟はまだ幼く、残ったただ一人の使用人も体のあちこちにガタが来ていると話していて。

「お願い、お願いッ!死なないで、死ぬんじゃないわよ、ノートン!」

 泣き叫ぶ。そんな自分を、リリスティアは同時にどこか他人事のように見ていた。

 いつからか、視界に映るすべてが色あせて見えるようになった。だから、世界に興味を失って、リリスティア・グレイシャスという人間を操縦して遊ぶように、リリスティアは生きてきた。

 血が、地面を濡らす。血だまりの輪郭が揺らぎ、赤がリリスティアの目へと襲い掛かる。

 リリスティアは考える。自分の在り方が、いけなかったのだろうかと。真面目に生きることがなかったから、神様が苦難を与えたのか。あるいは、他者を虐げたことに神様が怒りを覚えて――

 強く、痛いほどに首を振って、リリスティアは自分の頭の中に広がる余計な思考を追い払う。

 そんなことは、どうでもよかった。

 ただ、ノートンに死んでほしくなかった。このままノートンを死なせるわけにはいかなかった。

 頬を叩く。痛みで、少しだけリリスティアは我に返った。

「絶対に、絶対に死なせないわよ、ノートン!」

 書物で読んだだけの知識だけを頼りに、リリスティアはノートンの治療を始めた。

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