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4グレイシャス伯爵の暴挙

 すっかり何もなくなった廊下を走るように進み、階段を降り、リリスティアは屋敷を飛び出した。その先には、泣き疲れて眠る弟と、彼を抱く母、そして長くグレイシャス家につかえる二人の使用人の姿があった。

 目元を泣きはらしたリリスティアを見て、初老の家令は何も言うことなく慇懃な礼をした。普段はぴっちりと整えられている家令の黒髪はあちこちが跳ね、しっかりとのり付けされているぱりっとした制服も、どことなくくたびれているようにリリスティアには見えた。

 地面に座り込んでいた女性が少しだけ顔を上げる。涙に濡れた赤い瞳が、心配げに揺れる。憔悴しきった様子の母を見て、リリスティアは重い口を開き、母に聞こえない程度の声量で家令に尋ねる。

「お父様がヒルベルム硬貨の偽造を試みたというのは、事実なのかしら」

「……事実でございます」

 どうして、止めなかったのか――掴みかかろうとしたリリスティアは、家令の顔を見て動きを止めた。どうして気づけなかったのか、ひたすらに自分を責める表情をした家令を見て、リリスティアは気づいた。

 彼もまた、父がとんでもない犯罪に手を染めたことを知らなかったのだと。

「事件に関わった使用人はわかるかしら。お父様一人でこんなことを行えるとは思えないし、そもそもあのお父様が何の理由もなくこのような愚行に手を染めるとは思えないわ」

「……残念ですが、協力者あるいはご当主様を唆した者の情報はございません。そして、すでに私とフィリップ以外の使用人はみな、グレイシャス家に関わる者だという情報が広まる前に逃亡しました。その際に家財を盗まれたので窃盗として追うか、あるいはヒルベルム王国にこの情報を伝えて事情を知る使用人の捜索を頼むことも可能かもしれませんが……」

 リリスティアの母と弟に侍るフィリップという歳をとった使用人の姿を一瞥して、家令は音にならない溜息を吐いた。

 家令も混乱しているのだろう。すべてを差し押さえられる状況にあって家財を盗まれたことに意味などありはしない。そして、このような恐るべき悪事に手を染めた協力者がそう簡単に見つかるとも思えなかった。あっても死体として見つかるだろうと、リリスティアは口に出すことなく考えていた。

 リリスティアは、父のことを思い出した。清廉潔白、貴族にあるまじき身ぎれいさを保っていたグレイシャス伯爵は、こんな悪事に手を染める人ではなかった。

 十分な金と権力があり、子どもにも恵まれて、順風満帆な人生を送っていたグレイシャス伯爵には、手を汚す理由がなかった。

 何か、父の後ろで父を操り人形にした存在が潜んでいるのではないかと、リリスティアは思った。怒りが、リリスティアの体の奥からあふれ出す。

 強くこぶしを握る。血の気が失せるほどに唇をかみしめる。

 無力だった。どれだけ学問に真摯に臨んできても、リリスティアはまだ、ただの子どもだった。経験はなく、知識も足りず、人脈もない。

 リリスティアは、何もできない。父の汚名を晴らすために活動をすることも、事件の真実を探すために行動することも何も。父を守ることが、救うことが、できない。

 空の彼方にあった、残り火のような夕日が消える。世界が、闇に包まれていた。

 夜闇の中、直に地面に座って体を抱きかかえる母の震える体を、リリスティアはぼんやりと見つめていた。その体を包む影が、絶望の気配に重なり、黒い化け物となってリリスティアへと襲い掛かった。

 ぎゅっと目を閉じて、リリスティアは頭を振った。目を開いた先、遠くにいくつもの明かりが見えた。

 魔法具の明かりが照らす貴族街。それなのに、リリスティアたちがいる場所だけはひどく暗かった。

 背後を振り返る。そこには、明かりを含めた一切を奪い去られた暗い屋敷の姿があった。そこはもう、リリスティアの家ではない。

 そこで過ごした幸福な時間のすべてが、嘘のように思えた。

「……どうしようかしらね」

 溜息とともに弱音を吐く。これまででは、考えられないことだった。

 痛々しい様子のリリスティアを見て、何かを告げようとした家令が口ごもる。告げようとした言葉とは別に彼が口を開いたのは、今後に関することだった。

「お嬢様。ひとまずは今日の寝床を確保しましょう」

「……寝床なんて、あるのかしら?ここはもう私たちの家ではないのよ?お金だってないわ」

「幸い、私の手持ちがそれなりにあります。グレイシャス家に仕えていた者の所持金を奪うほど、あちらも横暴ではなかったようです」

「けれど、それはノートンのお金でしょう。あなたの給金を使うわけにはいかないわ。第一、あなたにだってもう私たちに仕える理由はないのよ。グレイシャス家は、もう終わりなのよ。終わり、終わりよ。正直、今も私たちが捕らえられていないことが不思議なほどに、この家にはもう破滅以外の道がないのよ」

 自分が捕らえられてもおかしくない状況だと、疲労でぼんやりした頭でリリスティアは考える。

 ヒルベルム王国という大国を揺るがす大事件を引き起こした父。その犯行に、悪女として名をはせていた自分や母が関わっていなかったと楽観的に考えたのだとしたら、ヒルベルム王国の人間はどうかしている。

 そこまで考えたところで、リリスティアは目を見開いたまま動きを止めた。

「……いえ、違うのかしら。お父様の犯罪を告発した者は、私たちが関与していないことを知っていた?だとすればやはり身内?でも……」

「お嬢様?」

 ぶつぶつと小声でつぶやくリリスティアを不審に思った家令が、失礼を承知で肩をつかんでリリスティアの体を軽くゆする。

 はっと顔を上げたリリスティアの目に、彼は疑心の光を見た。暗がりの中、その目には昏い輝きがあった。

 寂しそうな、あるいは泣きそうな顔をした家令を見て、リリスティアは思考を止める。今は、家令を疑っている場合ではなかった。この絶望的状況にあってなお自分に蜘蛛の糸を垂らしてくれている家令をここで切り捨てるというのは、リリスティアには決して取れない手段だった。

 くぅ、と小さく腹が鳴って、リリスティアは緩慢な動きでおなかを抑えた。普段ならばもうそろそろ夕食の時間。だが、今のリリスティアたちには食事はもちろん今晩の寝床すら無い始末。

 ためらうように一度開いた口を閉じてから、リリスティアは深く、家令に向かって頭を下げた。

「頼むわ、ノートン。あなたに甘えさせてもらえないかしら」

「お顔をお上げください、お嬢様!一介の使用人にお嬢様が頭を下げる必要はありません」

 慌ててリリスティアに注意する家令を見て、彼女はゆっくりと顔を上げ、諦めに満ちた笑みを浮かべた。

「私はもう数日もしないうちに犯罪者の娘として捕らわれるか、あるいは平民になるはずの女よ?」

 それでも長年仕えてきたグレイシャス家の令嬢なのだからとなだめすかされて、リリスティアはしぶしぶ令嬢扱いを受け入れた。

 そうして家令のノートンとリリスティアは、グレイシャス夫人たちを使用人のフィリップに任せて、宿を探すために歩き出した。

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