3リリスティアとルベルト
一人残されたリリスティアは、震える体を抱くように体に腕を回しながら部屋を見回して、息をのんだ。
分かっていたことだったが、そこにはもう、何一つ物はなかった。
夢だと、そう思いたかった。たちの悪い夢。
全部夢で、目を覚ましたらいつもの日常が戻ってくる――そう、思いたくて。けれどそんな夢見がちになれるほど、リリスティアは幼くなかった。
もつれる足を必死に前へと運びながら、リリスティアは男たちの背を追うように、つい今朝までは自室だったはずの部屋を後にした。
家の中では、相変わらずいかつい男たちがあわただしく動いていた。数名の者が、リリスティアを見ては鼻で笑う。あるいは、怒りの視線を向ける。
針のむしろの中、リリスティアは変わり果てていく屋敷の廊下を進んだ。
リリスティアの母のお気に入りの赤いじゅうたんは廊下にはない。父が真剣な顔で磨いていた廊下横の大きな瓶は姿が見えない。
弟の部屋の前を通る。柔らかな木製が美しい机も、壁に掛けられていた弟のお気に入りの装飾過多な練習用の長剣も、誕生日にリリスティアが送った大きなぬいぐるみも、ベッドも椅子も、何もない。
弟の部屋から出ていく男。彼が抱える箱の中に、リリスティアが描いてプレゼントした弟の似顔絵があった。不釣り合いに美しい額に飾られていたつたない絵は、箱に乱雑に積まれながら、弟の部屋から持ち出されていく。
「待って!」
「うるっせぇ!黙ってろや!」
伸ばした手の動きは、男の怒声によって停止した。芸術的価値なんてありはしない似顔絵すらも、持ち出されていく。
男の背中が廊下の曲がり角の先に消えていくまで、リリスティアは呆然と手を伸ばしたまま立ち尽くしていた。
やがて、リリスティアはゆっくりと腕を下ろし、虚ろな顔で弟の部屋を――弟の部屋だった場所を見た。
誰もいなくなった弟の部屋へと飛び込んで、見回す。
そこにはやっぱり、何もなかった。記憶の中にある思い出の品々は、そこにはない。大切な記憶ごと、すべては奪い去られた。幸せな日々が、一瞬にして泡沫の夢へと消えていく。
虚空に向かって手を伸ばす。その手は、何もつかむことができない。
全てが、消えていく。これまで失うと疑ったこともない多くのものが、ありふれた日々が、手の中から零れ落ちていく。
足の力が抜けて、リリスティアはがっくりと床に膝をついた。
視界が、涙でにじんだ。現状を理不尽だと嘆く心が、男たちの暴挙を止めろと叫んでいた。
けれど、どうすることもできない。
リリスティアは、態度こそ高飛車で学院や家でかなりやりたい放題をしてきていたが、勉学だけは比較的真面目に取り組んでいた。それは、同世代の少女たちに比べて色恋に全く興味がなくて、そうしてあり余った時間を、自分を高めることに充てたからだった。
あるいはそれは、「悪役令嬢」という心惹かれる存在になるためだった。完璧な女性――使用人が説明した悪役令嬢に必須なスキルを得るため、リリスティアは勉強をおろそかにしなかった。
そうしてリリスティアが蓄えてきた学が、けれど皮肉なことに、自分がどうしようもなく破滅の最中にあることを告げていた。
全てが消えた弟の部屋で、リリスティアは静かに涙を流した。
あれだけ飽きていた平穏な日常が、いつまでも続いていくと疑いもしなかった。
金と食事に困ることなく、自分より立場が下の者を気の向くままにしいたげて、悪役令嬢として学園に君臨する日々――そんな日常がもう来ないことを、リリスティアは悟った。
零れ落ちる涙は、どれだけ拭っても止まることはなかった。
貴族令嬢にあるまじきことだ――そう、リリスティアは思った。みっともなく、人が見ているかもしれない場所で涙を流すなんて、悪役令嬢どころか一般的な令嬢としてもなっていない。
だからせめて、誰にも泣いていることを気づかれないように、この涙を見られないようにと、リリスティアはきゅっと握りしめた手を胸元で組んで、願うように背を丸めて静かに泣き続けた。
窓から差し込む西日が、涙で万華鏡のように散らばる。そのまばゆい輝きから目をそらすように、リリスティアは強く目をつむった。
「……グレイシャス?」
声が、聞こえた。静かな声。
赤い日差しが差し込む部屋、リリスティアは肩をはねさせて、必死に涙腺を閉めようと目元に力を込めた。
振り向く必要はなかった。その声は、つい先ほど聞いた人物のものだったから。
ルベルト・ヒルベルム。リリスティアが全てを失う、その宣言をした少年だった。
涙はすぐに引っ込んだ。けれど、泣きはらした目元はどうしようもなかった。
カツン、とカーペットのない床を踏みしめる靴音が響いた。
ルベルトが、近づいてくる。
「止まって!」
髪を振り乱すように、リリスティアが叫んで。足音は、止まった。
窓の先に祈るように体を向け、入り口から顔を背けているリリスティアは、ハンカチで目元を拭って立ち上がる。体が少しだけふらついた。
頭がぼんやりとしていた。微熱があるときのように、上手く働かなくて。
それでもリリスティアは、せめて最後まで、できる限り貴族令嬢としてこの場を去ろうと決意した。
顔に必死に力を入れて笑みを作り、振り向いた。
負け犬の無様な姿をさらすものか――その心だけで、リリスティアはできるだけ自然に見えるように笑みを浮かべながら、スカートの端を両手で小さく握った。
「失礼いたします――殿下」
カーテシー。頭を下げるリリスティアは、返事が聞こえてこないことをいぶかしんだ。上位の者が声をかけるまで、下位の者が顔を上げることはできない。
視界に映るルベルトの足を見ながら、いったいどうして彼はここに足を運んだのだろうとリリスティアは考えた。
やっぱり、どれだけ待ってもルベルトからの返事はなかった。だからリリスティアは不敬ではあるけれど顔を上げ、ルベルトの横を通って扉の先へと進んで――
ガシ、と強く腕を握られて、リリスティアは小さく肩を跳ねさせた。恐怖が、つかまれた腕から体へと広がった。
その手は、少年の者とは思えないほど分厚く、そして固い皮膚をしていた。鍛錬の証。ルベルトが高い剣の腕を持っていると令嬢たちが姦しく話していたことをリリスティアは思い出した。
「何、でしょうか……」
自分でもひどく震えた声だと思いながら、リリスティアは振り返ることなくルベルトへと尋ねた。今すぐに逃げてしまいたい。そう思うのに、リリスティアの柔腕をつかむルベルトの手から力が抜けることはなかった。
「君は――」
か細い声は、わずかに開いていた窓が強風にあおられて揺れる音にかき消された。軋む音を聞きながら、リリスティアは内心で首をひねる。あんな音がしただろうか、と。
その音は、もうこの場所が自分たちの居場所ではないことをリリスティアに突き付けた。
その物悲しさを湛える音を聞いたからか、ルベルトの手が緩む。
「失礼します」
再びこみあげてきた悲しみを、歯を食いしばってこらえる。
リリスティアはルベルトの手をやさしく振りほどいて、今度こそその部屋を後にした。
日が、沈んでいく。
燃え上がるように赤い空を切り取った窓を背景に、ルベルトはただじっと立ち尽くしていた。
その手を、まるで誰かを求めるように、虚空に伸ばしたまま。