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悲劇の悪役令嬢は王子殿下を愛さない  作者: 雨足怜


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23夜の密会と前進

「本当に、いいのかい?話さなくて」

 まだ夜明けには少し遠い闇の中。集めた水気を含んだ薪がぱちりとはぜる音を聞きながら、フィリップは真っすぐにノートンの顔を見て尋ねた。どこまでも真剣な響きのこもった言葉に、ノートンは強く頷いて見せる。

 ノートンがふっと視線を動かした先には、馬車の車輪にもたれるように眠るリリスティアの姿があった。狭い馬車の中では、横になることなどできない。けれど幅広の座面はライルが丸まって眠ることができるくらいのスペースはあった。母と弟が虫に悩まされないように馬車の中という安息の場を譲ったリリスティアは、小さく体を丸めていた。

「……いいのですよ。話さなくても」

「それは、お嬢様の心労を考えてのことかい?」

 フィリップの言葉に、ノートンは何も答えない。ただじっと、焚火を見つめていた。赤い眼の中で、炎が揺れる。激情の色。仕える伯爵は無実で捕まったのだと、ノートンは信じていた。

 ゆえに、伯爵を姦計にはめた何者かに、ノートンは激しい怒りを抱いていた。

 けれど、それが表に出ることはない。表には、出していけないから。

 今すべきは、グレイシャス伯爵が残した三人を守り通すことだから。そのためならば、煮えたぎる復讐心を使命感で上塗りし、すべてを騙していけた。

 けれど、長年主のために行動を共にしたフィリップには、ノートンの思いが手に取るようにわかった。

 そして、復讐を先送りすることに加えて、もう一つ。

 これ以上リリスティアに重荷を背負わせないために、ノートンはじっと耐え忍ぶ必要があった。

「……お嬢様には、これ以上背負わせません」

 覚悟の決まったその言葉を聞いて、フィリップはただ「そうかい」とだけつぶやいた。

 パチリと火の粉がはぜる。空へと昇るはかない光は、数メートルほど空に昇ったところでふっと光を失い、闇の先へと消えていった。

 木々がざわめく。遠くで獣の遠吠えが響く。

 寝ているのか、起きているのか。座ったまま目を閉じたノートンは身じろぎ一つしない。その姿を、フィリップは頬杖をついて黙ってみていた。

「……眠らなきゃいけないよ」

 フィリップは、ノートンが寝ていないことを――眠ることができないことを、気づいていた。それは、夜番の必要性に駆られているからではない。ノートンには劣るが、フィリップだって知能が低くて隠密行動を知らない魔物の接近を感知することくらいはできる。

 ただ、眠ることができずにいるノートンをじっと見ながら、フィリップは内心でやれやれと首を振った。

 ノートンは意地っ張りだ。頑固者で、こうと考えたら曲げることを知らない。

 それは、忠誠という意味ではこの上ないもので。けれど融通が利かないというのは難点でもある。

 ゆっくりと世界が白み始める。木々の先、空が静かに闇を失っていく。

 鳥たちが鳴き始める。朝を告げる歌を聴いて、リリスティアが小さく呻きながら身じろぎする。

 目を開けたノートンがちらりとリリスティアのほうを見る。孫を見るようなその目を見て、やっぱりフィリップは内心でため息をついた。

「……もし」

 木々のざわめきに紛れた小さな言葉を拾い上げたフィリップが、視線で続きの言葉を問う。

「私に万が一のことがあった場合、これをお嬢様にお渡しください」

 そういって、ノートンは手帳の一部を切り取り、四つ折りにしてフィリップに差し出した。

 火の粉がはぜる。揺れる炎を瞳に宿しながら、ノートンとフィリップは互いの目を見つめていた。

 やがて、大きなため息が響いた後、フィリップは仕方がないという思いを前面に出した顔でノートンからメモを受け取った。

「万が一なんて、なくていいんだよ」

「それでも、私が考えなければならないことです。未来の担い手であり、グレイシャス家の未来を紡ぐであろうお嬢様のためにも、私が今、考えておかなければならないのですから」

「後じゃあ、ダメなのかい?」

 もう、あまり時間がなさそうです――白んだ空の下。木の枝がもたらすかすかな影の中で、ノートンはか細くつぶやいた。

 生気のない顔には、一目でわかるほど濃い隈が浮かんでいて、口元は何かをこらえるようにひきつっている。

 光を帯びた双眸の奥には、燃えるような仄暗い輝きがあった気がした。一度瞬きをすれば、その光は消えてしまう。

 けれどそれを、フィリップは見間違いだとは思わなかった。

 何しろ、フィリップもまた、その点では同じ思いを抱いていたから。

 どうか、グレイシャス伯爵一族に災いをもたらしたものに、報いあれ――

 心の中で祈り、フィリップは折りたたんだ紙を皮袋に入れて、胸元の内ポケットの中にしまい込んだ。

「夜が、明けますね」

「そうね。また、新しい一日が始まるわね」

 二人の言葉に、夜明けを喜ぶ思いも、今日という一日に対する希望も、有りはしない。

 二人にはもう、夜明けは来ない。

 あるいはグレイシャス伯爵夫人以上に心に激しい怒りと絶望を宿す二人は、それから顔を見合わせてどちらからともなく小さく笑い出した。

 その笑い声のせいか、再び呻き、そしてゆっくりとリリスティアが目を開けた。

「……おはよう」

「おはようございます、お嬢様。お早い起床ですね」

「そう、ね。まだ薄暗いわね」

 言いながら体を伸ばすリリスティアは、二度寝する気はないらしく、立ち上がって体についた砂や葉を落とし、それから無言で朝の準備を始めた。

「フィリップ、水を頼めるかしら」

「ええ、すぐにやりますね」

 リリスティアが差し出したボウルを受け取り、フィリップはその中へと手のひらを向ける。

「……水よ、我が手の中に生まれよ。〈ウォーター〉」

 呪文とともに、ボウルへと伸ばした手の先からどこからともなく水が出現し、ボウルの中を満たしていく。

 フィリップが使ったのは、魔法。それは、魔力という不可視のエネルギーを用いることによってさまざまな現象を生み出す、神に祝福されし者だけが使うことのできる神秘の力だ。

 上級使用人には見栄あるいは家の顔として彼らを抱える貴族が金を払って祝福を受けさせる傾向にあり、フィリップはグレイシャス伯爵の負担によって祝福を受けた一人だった。

「……やっぱり魔法って便利ね。飲食に適した水を探す必要がないだけで大助かりだわ」

「そうでしょうとも。……まあ、あたしは適性がなさ過ぎて攻撃魔法を使えないぶん、こういったところで役に立ってみせますよ」

 にやりと笑うフィリップは、その太い腹をポンと鳴らしてみせる。

 顔や手を洗ったリリスティアは、さっそくフィリップの手を借りながら朝食の準備を始めた。最初、リリスティアが手伝いを申し出たとき、フィリップとノートンは全力でリリスティアの協力を拒んだ。料理くらいは自分たち使用人が行うべきだ、と。

 けれど最終的に二人が折れることで、リリスティアは料理にかかわるようになった。

 つたない動きで野菜の皮を剥ぎ、刻み、昨日焼いた肉の残りと一緒にスープにする。昨日採取した香料や塩分を多く含む果実を足せば、かぐわしい匂いが鍋の中から立ち上るようになった。

 その匂いにつられるようにしてライルが起床し、彼の手を取ってグレイシャス伯爵夫人が馬車から降りてくる。やつれた母を見てわずかに表情を曇らせるも、リリスティアはすぐに気丈に笑みを浮かべ、母の反対の手を取って椅子代わりの倒木の上に皮を敷いた場所へと案内した。

「……ありがとうね、ティア」

 ぽつりと、かすれた声でつぶやいた母の言葉を聞いて、一瞬リリスティアの動きが止まった。それから、リリスティアは泣きそうな顔で、必死に涙をこらえながら小さく首を横に振った。

「大丈夫、だよ」

 何が大丈夫なのか――そう心の中で疑問を投げ返す。リリスティアは父を失ってから初めて母が自分を見てくれたことに胸いっぱいになりながら、フィリップから仕事を奪って朝食をよそい始めた。

 食事は朝と夕の二回。道中は馬の休憩こそすれど、基本的にきちんと調理している余裕はなくて、せいぜい採取した果実を食べる程度。

 育ち盛りのライルはかきこむようにスープを食べ始め、すぐに器の中を空にした。

 絶望の表情で器の底を見つめるライルを見てくすりと笑った母のレミアが、食べかけの器をライルに差し出す。母の顔と突き出された器の間で視線を行き来させるライルを見て、レミアは優しく彼の頭を撫でた。

 その枯れ木のような腕を見て、リリスティアは心の中で悲鳴を上げた。

「いいのよ?わたしはもう十分食べたわ」

「お母様、十分って……」

 絶句した様子のリリスティアに視線を向けてから、ライルはためらいがちに器に手を伸ばした。そして、がっつくようにスープを食べ始める。そこには、次期当主として学んだテーブルマナーなどありはしなかった。まあ、机も十分なカトラリーもなしに器とスプーンを持っての食事なのだから、マナーどうこうをいうほうがおかしいのだが。

 注意を心の中に飲み込んで、リリスティアは背筋を伸ばし、音を立てることもなくスープを食べ始めた。

「……おいしい」

 夏とはいえ、朝方は冷える。野晒しで眠っていたリリスティアの冷えた体に、スープの熱がじんわりと広がっていった。

 そんなリリスティアを見て、レミアは目を閉じ、こぶしを握った。彼女は、子どもたちの顔に、亡き夫の面影を見た。とろりと目じりを下げてほうと息を吐くリリスティアの姿、あるいは領地への旅で空腹に飢えてスープにがっつく姿は、亡きグレイシャス伯爵そっくりだった。

 そして、レミアは夫が残した二人を、自分が守らなければならないという使命感を抱いた。

 顔を上げれば、そこにはまっすぐにレミアを見つめるノートンとフィリップの姿があった。わずかに生気が戻ったレミアの顔を見て、フィリップが目を潤ませ、ノートンは小さく目礼した。

 旅を始めて四日目の朝。そうしてレミア・グレイシャス男爵は、心に巣食う絶望を飲み込んで、子どもたちのために生きる決意をした。

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