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悲劇の悪役令嬢は王子殿下を愛さない  作者: 雨足怜


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誤字報告、ブックマーク、評価、感想、いいね、ありがとうございます。

 荒い呼吸を繰り返すロランの顔からはすでに余裕は消え去っている。

 担いでいたアイギスを放り捨てるように石畳の上に下ろす。

 痛いというアイギスの文句はロランの耳には入らない。彼女は同行していた友人に慰められながら涙目で臀部をさする。

 その姿は、けれどすぐにロランの意識から消える。疲労困憊で座り込む者たち、明らかに減った数に目が引き寄せられる。

 ぐしゃりと前髪を抑え、周囲を見ていたヴァンテインに声をかける。

「……クソ、何人だ」

「二十人は減っているね」

 二十人――絶望の声で告げ、その場に腰を下ろす。

 ようやくひと心地つけると気を抜いたその瞬間、体のあちこちから痛みが襲ってきて小さく苦悶の声を漏らす。刻まれた傷のほとんどは魔物によるもの。逃げる先で襲い掛かってきた魔物への対応は完全に後手に回り、無理やり仕留めるような場面が多々あった。

 そんな無茶な戦いを続けてよくもまあこれだけで済んだと、己の火事場の馬鹿力に嘆息する。

 荷物をあさり、回復薬を煽る。

 己を叱咤するように膝を叩けば、ヴァンテインもまたその対面に座り込む。

 汗ばんだ体をふきつつ、考えるのは今後のこと。

 周囲にいる座り込んだ者たちの多くは、すでにもう一歩も動けないような状況になっている。

 見張りなしで済んでいるのは、ひとえにこの場所が比較的魔物の数が少ないから。

 現在ロランたちがいるのは塩獄ダンジョン、第五階層。

 四階層の雪原から変わり、広がるのは廃墟。どこかの王都らしいこの場所は、繁栄の紺先を思わせる崩れた家屋や城の成れの果てが広がっている。

 積みあがった灰色の瓦礫。ひび割れ、石畳の間から草が伸びた広い道。まっすぐな道がなくてひどく入り組んでいるあたりから、この町は都市内部での戦いが多かったとされる都市国家乱立の時代のものではないかと言われているが、そもそも本当にこのような町が実在したのか、そこからして謎である。

 ダンジョンに飲み込まれたかつての町なのか、あるいはダンジョンが再現した町か、それともダンジョンがただ作り出した、すべてが仮初の空間なのか。

 ただ少なくともまっとうな都市ではない。階段を下って上った五階層にもまた、頭上には空が広がっている。

 晴れ渡った空は虚構のもの。そこに空は実在せず。あるのは見えない透明な壁。あるいは、ダンジョンが空間を仕切る区切り。

 それが壊れるものであることを、今のロランは知っている。

 ――今は今後のことを考えるべきだと、首をふるって余計な思考を振り払い、ヴァンテインをにらむ。

 そのヴァンテインはといえば、難しい顔をしながら空の一点をにらんでいた。その焦点は天蓋ではなくそのさらに先に合わせられている。壁を越えた先の、上の階層。

「……来ないね」

「ああ?あのデカブツか?」

 巨大ワーム。ワームが竜であることを思い出させるような、ダンジョンの「空」をぶち破るほどの怪物。

 それが落ちてこないことを不審がっていると考えるが、ヴァンテインは違うと首を振る。

「グレイシャスだよ。彼女は――」

 ――死んだのかな。唇を動かすだけにとどめたのは、周囲で倒れる者たちに聞かれないようにするため。

 今は余計な心労を与えるわけにはいかなかった。特に級友の死に動揺している生徒には、死んだ、などという言葉は重すぎる。

 たとえそれが、嫌われ者「グレイシャス」であったとしても。

「……あいつなら問題ないだろ」

 吐き捨てるように告げてから、ロランは得物の手入れを始める。無機物有機物問わず魔物を切り捨てたせいで、刃は脂でなまくらになり、かつ傷が目立った。

 そんなロランを見ながら、ヴァンテインはぱちくりと目を瞬かせて首をひねる。

「信頼、しているんだね?」

「そう、か?」

 眉間に深いしわを刻み、不機嫌そうに鼻を鳴らす。

 おかしそうにヴァンテインがころころと笑えば、さらにロランの表情はゆがむ。

「そうだよ。だって、彼女は無事だと確信しているんだよね?」

「……優秀な奴に師事していたからな」

「そういえば師匠が同じだったね。彼女が姉弟子だっけ?」

 余計なことばかり覚えていやがって、と顔をゆがませる。

 細めた目を頭上へと向け、ロランは心の中のわだかまりを吐息に乗せる。

「すげぇ師匠を、俺が奪ったんだよ」

「ふぅん……悪かったって、そう思っているわけだ」

「まぁ、な」

 珍しいこともあるものだと、しきりに目をしばたたかせる。王族相手でも態度を変えないロランはヴァンテインにとって好ましい存在で時々話の花を咲かせていたが、ロランが素直に認めるというのは異常事態に思えてならなかった。

 思わずこぼれた苦い笑みは、今この時が異常事態であることを思い出してのこと。その気配にあてられてか、ロランもまた表情を引き締めて周囲を見回す。

「後二階層、か」

「ゴールまでもう少しだね。……本当は、ダンジョン攻略は避けたいところなんだけれど」

 ちらと見る先には、取り巻きあるいは友人に慰められるアイギスの姿がある。どこかその慰めがおざなりに見えるのは、彼女もまたひどく疲労しているからだろう。魔力の器も大きく優秀な魔法使いであるはずのその女子も、今では魔力の大部分を使い果たし、けだるそうにしていた。

 ああ、と。ロランは思い出したように右手の甲に触れる。

「……攻略の紋章、か」

 見下ろす先には、手の甲を埋め尽くすように広がる複雑な幾何学模様。刺青のようなそれは、ダンジョン攻略者である証明。

 正式名称はなく、ただ慣例でダンジョン紋章や攻略の紋章などと言われるそれは、ハンターや騎士にとっては一目で己の実力を示すステータス。ダンジョンによって異なる模様をしているため、難関ダンジョンの攻略の証が入っているほどに戦士たちから一目置かれる。

 ただ、ハンターや騎士たちとは異なり、婦女子にとって攻略の証が望ましいとは限らない。

「この国の男尊女卑は古いと思うんだけれどね」

 女は一歩下がって男の背後に控えていればいい――そんな価値観が、特に壮年あたりの世代以上にいまだにはびこっている。ゆえに力の象徴である攻略の紋章は、婦女子にとっては婚姻の害にならないとは言えない。

 ましてや他国に嫁ぐ可能性のあるアイギス王女にとっては大きな問題になるかもしれないが。

「じゃああのワームを討伐して地上を目指すか?」

 それがすべてだった。

 ダンジョンを破壊するような怪物を相手にするという選択はできなかった。されなかった。それは、巨大なワームとの戦いで何が起きるかもしれないかわからないということが理由の一つ。

 下手に戦えば、二階層だけでなく三階層の天井もまた壊れるかもしれない。ワームが暴れすぎて階層が消滅するかもしれない。

 ――ダンジョンが崩壊するかもしれないという現実から目をそらすためにも、ワームとの交戦は避けるべきで、何より守る者の存在が、ヴィッヒ侯爵に戦闘をためらわせた。

 ヴァンテインはちらと集まる騎士たちを見て、落ち着きを取り戻したロランへと視線を戻す。

「……侯爵は無事かな」

「この程度で死ぬようなタマじゃないだろ」

 目の前で姿を消したヴィッヒ侯爵。行方不明の父に対する言葉としてはあまりにも淡白で。けれどその一言には、業火のごとき強い感情があった。

 力に対する嫉妬。誰よりもその強さを知るが故の信頼。いつか超えて見せるという決意。今己に父ほどの力がないことへの焦り。まだまだ弱い己への怒り。

「…………そう、だよね」

 言いながら、どこまでも広がる廃墟を見る。無限に続くとさえ錯覚するこの町は、都市と呼ぶにはあまりにも巨大で。その先、どこかで侯爵が戦っているのだろうかと、ヴァンテインは消えた侯爵の無事を思って祈りをささげた。

「……そろそろ休憩も終わりか」

「そうみたいだね」

「食料のことを考えると悠長に休んではいられないか」

 騎士たちが動き出したのを確認し、ロランは勢いよく立ち上がり、近づいてくる騎士に顔を向けて。

「……あの」

 話しかけてきた人物をギロリとにらむ。悲鳴を上げるのはロランよりも年上の女性。不安そうに瞳を揺らす彼女にしびれを切らし、ロランはその襟をつかんでひねり上げる。

 それを、ヴァンテインは止めない。この状況で空気を悪くするなというのは、ことその女性相手には不要だった。

 騎士でも宮廷魔法使いでもない、大人の女性。それはつまり、フリューゲル男爵領で祝福を授かった人物、この騒動の影で動く者の一人であるということ。

「……さっさと話せ」

「そうだね。さすがの僕も、この状況でだんまりを続けるつもりはないよ」

 場合によっては拷問してでもことの詳細を聞き出そう――普段は冷静なヴァンテインが瞳の奥に燃やす激しい怒りに、女性は一周回って我に返る。

「……その、音が聞こえるんです」

「音?魔物か?」

「わかりません。ただ、その、戦っているような――きゃ!?」

 ドン、と勢いよく女性を突き飛ばして、ロランは目を閉じて意識を集中させる。生きている者は、この場にいるだけのはず。魔物同士で戦っているという場合もないわけではないが、ロランの脳裏をよぎったのは別の可能性。

「……向こうかッ」

 わずかに聞こえた音に向かって、ロランはすべてを放り出して走り出す。

 ヴァンテインの護衛も、生き残っている学友を守るということも、すべてを忘れて。

 気力の光を足に纏い、ひび割れた石畳を粉砕しながら疾走する。

 尻もちをついた女性を蹴り飛ばしたヴァンテインに、誰もが息をのむ。その氷のような声に、言葉に対する回答に、ただ耳を澄ませる。

「…………何を企んでいる?」

「……終わらせることです」

 果たして、女は呆気ないほどに口を割った。いぶかしみ、建物の影へと消えようとするロランの背中へと視線を送って、考える。

 ヴィッヒ侯爵が消え、ロランが消え、ここにいるのは疲労しきった、あるいはもう戦えないほどに傷を負った者ばかり。

「護衛を引き離して、魔物でも集めるつもりか?」

 その問いに静かに首を横に振る。まるで、これですべて終わったとばかりに肩から力を抜く女性を見て、眉をひそめて。

「……まさか、目的はこちらではない、のか?」

 すでにロランは入り組んだ道の向こうに姿を消した。この状況で、まだ周囲に動きは見えない。

 であれば、目的は。

 何を考えて、ロランに音の情報を告げたのか――

「ロラン!」

「な、殿下!?」

 突如焦燥をあらわに走りだしたヴァンテインに驚愕し、騎士たちは走り出そうとして。

 けれどその場に残された生徒や倒れた同僚のことを思い出して逡巡する。

 迷いは、それほど長い時間ではなかった。けれど入り組んだこの町でヴァンテインの姿を見失うには十分な時間だった。

 走っていった騎士の視線の先、曲がり角の奥にはもうヴァンテインの姿はなかった。

「っ、クソ。今すぐ殿下を探すぞ!」

 護衛に残った同僚たちの元へと早くヴァンテインを連れて戻るべく、騎士たちは散らばって広大な町の捜索を始めた。


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