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悲劇の悪役令嬢は王子殿下を愛さない  作者: 雨足怜


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175/197

175始動

 今日も一行は雪原を行く。

 踏みしめる新雪は体力を奪い、やがて足は棒のように感覚がなくなっていく。

 すでに一行から声は途絶えて久しく、ただ荒い息だけが寒空に消える。

 まずい状況だと、そう思いながらもヴィッヒ侯爵は油断なく周囲を見回す。

 今朝から、言葉にできない感覚が胸の内にあった。違和感と呼ぶにも小さな、ほんの少しの予感。けれどそれがこれまで己の命を救ってきたことを知っているだけに、彼の警戒は強い。

 何かが、自分の知らないところで起きようとしている――そんな予感に、無意識のうちに眉を顰める。小さな舌打ちは誰にも聞こえることはなく、ただ時を追うごとに苛立たしさが大きくなる。

 ただでさえこの研修の責任を取る必要があって憂鬱なうえに、足手纏いを抱える行軍への苛立ちはひとしおのものだった。

 それでも、彼は警戒を続けていた。

 だから、その予兆に気づけた。

「防御陣形ッ」

 ヴィッヒ侯爵の号令に、彼の部下たちは一糸乱れぬ動きを見せる。

 同時に飛来したのは、無数の魔法と、武技による斬撃。それを剣で切り裂き、打ち払う。

 弾幕のごとき降り注ぐ魔法は、多種多様な属性からなり、とてもではないが一人によるものでも、魔物による攻撃とも思えない。

 それでも侯爵らは確かに防衛に成功し、背後に守る生徒たちに攻撃を通さない。

 自らが鍛え上げた、ラーデンハイド王国でも最精鋭だと考える騎士たち。彼らを従えながらも、ヴィッヒ侯爵の表情は決して良くない。

 敵の練度はそれほどではない。ただ、場所が厄介で、そしていまだに敵の姿が見えないことが問題だった。

 切り裂かれた魔法や斬撃は、消滅しながらも足元に着弾して新雪を舞い上げる。さらに風魔法によって雪を運ばれ、視界はひどく不明瞭になる。

「「――〈プロミネンスバースト〉」」

 ようやく動き出した宮廷魔法使いたちが、射線をたどった先に魔法を打ち込む。

 大地を灼熱化させるような莫大な熱量を帯びた火球。それは迫る雪を溶かし、敵の魔法をかき消しながら飛んで行き――その途中で、まるではじめからのそんなものはなかったように消滅した。

「……なんだ、今のは」

 さすがの侯爵も目の前で生じた光景に言葉を失った。彼が育てた騎士の中にも、魔法を使うものはいる。剣を使える魔法使いであって、魔法と近接戦闘を同時にこなせるわけではないが、それでも宮廷魔法使いに並ぶほどの技量の持ち主たちばかりで。

 そんな彼らが使う魔法を知っているからこそ、魔法が「消滅した」ように見えた目の前の現象に思考が止まった。

 その空白は、ひどく短い時間だった。

 再び放たれ始めた敵の攻撃を前に、再度魔法使いたちが魔法を飛ばす。防衛に集中しながら、にらむように魔法を観察して。

 爆撃のごとく空を飛んでいた無数の炎の矢は、やはり先ほどと同じように一瞬にして消えた。魔法や武技によって対処されたのではなく、文字通り、魔法が消失した。

「役立たず共がッ……」

 言いながら、気力を剣へと注ぎ込む。青色の光が脈打つように強くなり、荒々しい威圧を周囲に放ち始める。

 恐れるように攻撃が強くなる。だがそのすべては、侯爵の部下たちが通さない。守る彼らの顔には希望があった。勝利の確信があった。

 彼らは知っている。ヴィッヒ侯爵という男を、そして、その強さを。

 力こそすべての侯爵家に生まれ、その当主の座を手にし、慢心することなく鍛え続けた男の一撃が、放たれる――

「――〈神鳴り〉」

 その振り下ろしは、静かに終わる。滑るように振り下ろされたその剣は、わずかな風も吹かせない。

 ただ、降りぬかれた軌道の先に、閃光が駆ける。

 込めた気力のすべては威力に。飛翔する一撃は単純なれど、どこまでも研ぎ澄まされた技の頂。

 それが未だに姿を隠す敵を壊滅させると、誰もが――ヴィッヒ侯爵さえもが確信して。

「……あ」

 声を上げたのは、誰だったか。

 その斬撃もまた、虚空に消える。切り裂かれた大地が雪原に顔をのぞかせる。そこに、舞い上がった雪が積もり、すぐに大地を覆い隠していく。

 荒い息が空気に溶けて消える。

「……走れ!」

 強烈な――数々の視線を潜り抜けて培った直感のままに叫ぶ。

 その次の瞬間、周囲から無数の飛来物が迫る。

「吹き飛べぇぇぇぇッ」

 生徒の一人が発狂したような声とともに魔法を発動する。焦燥をあらわに、侯爵はその魔法へと斬撃を放つ。

 不可視の斬撃が、魔法を両断して。

 消えつつも進む魔法が、投擲物の一つに衝撃を与える。

 瞬間、激しい爆音と閃光が一行の世界を埋め尽くした。

 強烈な熱風に体が煽られ、無数の悲鳴が轟音に交じって渦巻く。

 爆発音は、一つだけではなかった。飛んできていた爆発物――魔法具が誘爆して、上空で爆風が吹き荒れる。

「〈空断(そらだ)ち〉ッ」

 連続で迫る熱波は、ヴィッヒ侯爵が放った斬撃に吹き飛ばされる。

「死にたくなければ走れ!」

 その言葉を合図に、暴徒のごとく走り出す。良識ある人間の皮を脱ぎ捨てて、獣のように、恐怖に駆られて走る。

 そんな生徒たちを守るべく、騎士と宮廷魔法使いたちは迫る攻撃に必死に対抗する。

 走りながら魔法を使えたのは最初だけ。息が切れるとともに集中力が低下して魔法の不発が続く。気力を思うように練ることができず、武技の威力が落ちる。

 そうして被弾が増える中、侯爵だけが無傷で攻撃へ対処を続けていた。

 内心を煮えたぎらせるのは、己の攻撃があっさりと無効化されたことへの怒り。そして、少しずつ強まっていき既視感に対する困惑。

 一切気配を悟らせない潜伏者、放たれる魔法と武技――

「クソ……ッ」

 敵がいるであろう場所に向けて放たれるそれは、やはり虚空に消える。

「私は、ヴィッヒ侯爵家当主だッ」

 雪原を踏みしめ、剣を振りぬく。斬撃が、虚空に消える。

 何度も、何度も、何度も。立ち止まり、背後を生徒が駆け抜けていくのを感じながら、剣をふるう。

 その攻撃は、ただの一度も敵に届かない。ただの、一度も――

「私が、最強だッ」

 憤怒とともに、さらに一歩を踏み出す。集団から、離れたほうへ――

「――あ?」

 その、瞬間。足元、雪の下がわずかに発光して。

 侯爵の姿は、一瞬にしてその場から消えた。

「……何、が」

 その瞬間を、ヴァンテインは見ていた。侯爵の消失、そして、敵の攻撃がぴたりと病んだこと。

 ――そして、これまで影も形もなかった敵が、雪原に姿を見せる。

「……やはり、か」

「チッ、クソ平民共が」

 ロランが悪態をつきながら、ひょろひょろと飛んでくる魔法を剣でかき消す。

 雪の上に姿が現れた者たちは、ヴァンテインの予想通り、学院に編入してきた元ライアット男爵領、現フリューゲル男爵家が抱えるライネウスの町で祝福を授かった者たちだった。

(イリス・フリューゲルは……いない、か)

 姿の消えた警戒対象。その存在を探すついでに見えたルベルに視線を送るも、彼は気づくことなく走っていく。

 ふと、甘い香りが鼻腔をくすぐる。それについて考えようとするも、アイギスの声が思考を阻む。

「お兄、様……」

「しっかり走って。腕を動かすんだよ」

「もう、む、り」

「クソが」

 息も切れ切れに言うアイギスを担ぎ上げ、ロランはヴァンテインの横を走る。

 その体力を内心で羨みながら、ヴァンテインは己にできることを探すべく、そして現在起こっていることを解明すべく思考を加速させていく。


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