168閉ざされた世界で
振り続ける雨は枝葉を打ち鳴らし、森のあらゆる音を、においをかき消す。雨にのまれたように夜の森からは生き物の営みの気配が消えていた。今日ばかりは獣の遠吠えも、魔物同士の戦いの音も、遠くから香ってくる血の匂いも、わずかな花の香りも、土のにおいもない。むせ返るような雨の匂いに包まれたそこに、時折氷が降ってきては小さな破壊音を響かせる。
そんな森の中を、リリスティアはどこへ行くとも知れず、ただ思うままに歩いていた。
わずかに降り積もっていた雪は雨によって土色に染められる。濡れた大地はぬかるみ、足を取って転ばせようとしてくる。外套のフードを目深に被っているために視界は一層悪い。ある程度奥まで進んでしまうと、野営地となっている広場からの光も届かなくなり、完全な闇を思わせる世界が姿をのぞかせる。
その闇の中を歩くリリスティアは、大きな木の下で立ち止まり、幹に背中を預けて空を見上げる。時折枝葉から滴るしずくが強くフードを打つのを感じながら、冷たい雨に濡れた唇を小さく舐める。
冷えた体は、けれどこわばってなどいない。冷気をはらんだ雨を上回る熱が、リリスティアの体を満たしていた。
歓喜と、少しの申し訳なさと、不満と、困惑。いくつもの感情を飲み込み、代わりにまずは言えずにいた一言を告げる。
「……久しぶり」
「うん、久しぶりだね」
幹の向こうから、雨音にかき消されながらも声が聞こえる。その人物の声を聴くだけで、体の熱が強くなる。心が歓喜を叫ぶ。強い衝動が体の奥底からあふれ、全身に鳥肌が立つ。
今すぐに木の後ろに回り込んでしまいたい。抱きしめたい。確かにここにいると、また会えたことを全身で確かめたい。そう思って。
けれど同時に、これ以上顔を見せたくないと、今の自分の顔を見せたくないと、そんな悲鳴を上げる己がいて。
リリスティアは大きくうねる樹木の根に腰を下ろし、目を閉じる。
空間魔法による第六感。五感にとらわれずに周囲を認識するその力は、確かに木の後ろに人の姿を捉える。
その相手が、ルベルの君が、ゆっくりと口を開く。何かを言った。独り言か、あるいはリリスティアに向けた言葉か。雨は、彼の声をかき消し、リリスティアの耳に届けない。
膝を抱えて、うつむく。背中や尻が冷たいことなど気にもならなかった。
「……ねぇ、どうしてあなたは今、ここにいるの?」
声が届いたのか届かなかったのか、ルベルは何も言わない。ただ、苦笑するようにその口の端をいびつに吊り上げる。手に取るようにわかってしまうその表情の変化を自分だけが“見る”ことができている――そのことが、どうしようもなくリリスティアを興奮させる。歓喜させる。この場にいるのは二人だけ。二人きり。自分だけが、彼を独り占めしているのだと、そう思うと狂いそうなほどの思いが胸で渦を巻く。
「ごめんなさい」
届かない返事の代わりにつぶやいた声は、葉を戦う雹の音にかき消された。時折氷に代わる雨は、今は一センチほどの塊となって森を襲っていた。
痛みが、リリスティアに己の存在を示す。自分が今ここにいるということを、痛みが伝えてくる。これは夢などではないと、そう叫んでいる。
「……ねぇ、元気だった?」
音にのまれたその声は、けれど確かにリリスティアの耳に届く。知っているんでしょ――そんな言葉を、ぐっとこらえる。
ルベルの君は王都にいた。再会を約束した場所は学院の中で、それはつまり、彼がこの学院に在籍していることを示していて。けれどリリスティアが空き時間に軽く探した限り、この学院に彼の姿はなかった。
まるで狐につままれているようだと思いながら、それでも届いた手紙に歓喜して。けれど再会の約束を果たすことはなく、リリスティアは己の怒りに従った。
あの日、会えなかった理由は、会わなかった理由は、きっと、会いたくなかったからだ。
こんな今の自分を、見られたくなかったから。隣に並べるような人になりたいと、そんな過去の決意は、とっくに心の中から消えていた。そんなことを考えている余裕なんてほとんどなくて、そもそもリリスティアは、彼のことなど考えていない日のほうが多かった。
彼は王都にいた。この半年ほど、どこかでリリスティアを見ていた。それはつまり、己の苦悩を、絶望を、見られているということで。
元気だったと、そう口にすることは簡単だ。何も考えずに、言葉をオウム返しするように告げればいいだけ。
「……」
けれどたったそれだけのことができなくて。強く噛みしめた唇から、血の味が口の中に広がる。
元気ではなかった。大丈夫ではなかった。けれど、そう告げた。そう繰り返した。
ライルに、フィリップに、キキナッタに。そうしないといけなかった。心配をかけるわけにはいかなかった。
心配させたくない。だから、言わないといけない。簡単だ。たった四文字、元気よ、とでも口にすればいいのに。
それでもやっぱり、震える唇は言葉を紡いではくれなかった。
頬をしずくが伝う。それが涙なのか雨なのか、リリスティアにはわからなかった。
脚を抱き、顔を膝の間にうずめる。涙をぬぐうように顔を動かす。
「ごめんね」
声は、すぐ真上から聞こえた。肩が震え、顔を上げようとして。けれど今の顔なんて見せられないと、見せたくないと、固く、固く脚を抱く。
「たった一人で、戦っていたんだよね。苦しかったよね。辛かったよね。そんなときに、僕は、何もできやしなかった……っ」
激しい怒りの声。けれどその矛先はリリスティアへは向いていない。怒りは、己に。リリスティアが苦境にある時に手を差し伸べることもしなかった、あるいはできなかった己を恥じる。
「そんなことないッ」
気づけば、そう叫んでいた。ぴたりとルベルが動きを止める。この場に満ちた静寂を、雨音が飲み込んでいく。
外套にしみ込んだ雨水が体を冷やす。小さく肩を震わせながら、リリスティアは心にある熱を衝動のままに口にする。
「……そんなこと、ない。私は、救われたもの。たった数通の手紙で、もう十分に、救われていたの。あなたは、遠く離れた土地にいた私を救ってくれた」
「はは、まさか。そんなわけがない。それじゃあどうして君は今も傷ついているんだ。どうして一人孤独にいるんだ」
しゃがみこんだルベルの乾いた笑い声が、リリスティアのすぐそばで響く。己への失望。自分も他の者と何ら変わらないと。何とかしたいとは思いながら何もしなかった。希望だけを与えた己は、あるいはほかの誰よりも酷いことをしたのではないかと。
そんな後悔のにじむ声に、顔を上げる。
フードの下。闇に隠れたその顔は、泣いていた。苦しくて、つらくて、悲しくて、申し訳なくて、涙を流していた。
それは、リリスティアのための涙だった。
そっと手を伸ばす。震える手。かじかんだ手が触れたルベルの頬もまたひどく冷たくて、けれど涙がリリスティアの手を温める。
「……私は、救われたわ。もうすべてどうにでもなってしまえって、そう思ったときに、タイミングを計ったように手紙が届くの。どうしようもなくて、生きる気力も尽きてしまったその時に、あなたの声が、言葉が、わたしを掬い上げたの。あなたは私を救ったの」
「いいや、そんなことは――」
「卑下しないで。あなたの助けがあったから、私は今、ここに居られているの。それに、もう、一人じゃないでしょ」
ふわりと笑うその目をいたずらっぽく細め、リリスティアはルベルに笑う。ちろりと舌で唇をなめる。どこか蠱惑的なその顔から、目が離せなくて。
「ここには、あなたがいる」
その目が、近づく。呆然と目を見開いた、間抜けな姿をさらす己の姿が、緑の瞳に映って。
唇が、わずかに濡れて。
目を見開くルベルの視線の先、暗闇の中にあるリリスティアの顔は、確かに燃えるように赤く染まっていた。
うるんだ眼がルベルを捉える。
「ねぇ」
熱い吐息が漏れる。艶めいた薄い唇がゆっくりと開く。地面をたたく雹の音。肩を打つ痛み。
「……私、あなたが好きよ」
そう告げたリリスティアの顔には、けれど。
確かに、諦観と絶望の色があった。
いうべきことは告げたと、そう言わんばかりにリリスティアは森の浅層へと歩いていく。背中が、闇に溶けるように消える。
その後姿を呆然と見送って。
熱が残る唇を無意識のうちに指の腹でなでてから、ロランはその場で頭を抱えた。
「……これは、夢だ。こんなことが、現実に起こるはずがない」
「ああ、ただの麻疹で会ってほしいものですな」
声が、聞こえた。
すぐ後ろ。
勢いよく背後を振り返って。その目に映ったのは、冷徹な顔。
雨も雹も気にすることなく一人の男が濡らした青髪をかき上げる。フードなど被っては魔物の気配が感じられないだろうと、獰猛な輝きを宿した双眸が告げている。
ヴィッヒ侯爵――面倒な者に見られたと、けれどそんな思考を何とか仮面の下に押し込めて。
「……それで、このようなところで何をしていらっしゃるのでしょうな?」
口を開きかけて、けれど違和感に言葉を閉ざす。
違和感――我が道を行く男だと知られているヴィッヒ侯爵が、どこの誰とも知れない馬の骨に敬語を使っている。なぜか――目の前にいる人物が誰か、知っているから――
「見ていてわかりませんでしたか?ヴィッヒ侯爵殿?」
「わかりませんでしたな。あなた様のようなお方がリリスティア・グレイシャスと逢瀬を交わすなど、仮に私が口にしたところで鼻で笑われて終わるでしょうな」
「…………やっぱり、この目か?」
「目の色は変えられない、などとは思っていませんよ。方法はいくらでもあるでしょう。そして、目や髪の色をごまかしたところで、その気配は変わりませんからな」
看破するのはたやすかったと、なんてことないように告げるヴィッヒ侯爵の力を上方修正しながら、ルベルは彼の一挙手一投足をつぶさに観察する。
ヴィッヒ侯爵。レスティナート王国における今を時めく男。多くの異形の魔物を討伐しており、英雄と呼ばれ、畏怖を集めている。王国の第二騎士団長にして、国王の懐刀。おそらくは現レスティナート王国における最強は、ルベルの気配を見間違えることはなかった。
「ルベルト・ヒルベルム王子殿下。もう一度聞きましょうか。……あなたのような尊きお方が、正体を隠してこのような場で何をなされているのでしょう?」
「見てわからなかったかな?」
「わりませんな。アレを見て真っ先に考えるのは、あなたの正体を疑うことでしたので。そして次に考えるのは当然、狂ったか、というものですとも」
「なかなかの言い草だな。だが私は狂ってなどいない」
「では正気でないのでしょうな。己が狂っていることにも気づけない……重症ですな」
「正気でないのは侯爵もだろう?一人でこのような場所まで来て何を考えている?」
この場のすべてを凍てつかせるような視線を向けられながら、ルベルは――ルベルトは、動揺を隠す。本心を隠す。
リリスティアとの関わりを見られてしまったことは仕方がない。けれど、それ以上の情報を与える気などない。
「場を引っ掻き回す羽虫に動いてもらわれると困るのですよ」
「私が羽虫だと?」
「ええ、ダンジョン研修に投じられた一つの小石です。けれどその波紋はどこまでも広がり、そして感応する者たちがきっと現れる。厄介なことに」
「……それで、私を排除しようと?そんなことをして何になる?」
「目的を確実に達成できる可能性が上がります。それくらいはご理解いただけるでしょう?」
「……レスティナート学院が最も重要視するダンジョン研修での『目的』、か。この行事の実施を決めた王族に喧嘩を売っているのか?それこそ正気とは思えないが」
「こんな研修に価値などありませんとも。そしてあの王にも、な」
がらりと空気を変えたヴィッヒ侯爵が放つ気配にのまれ、ルベルは冷や汗がにじむのを感じる。
体が死の気配を感じ取っていた。危険を叫ぶ声。
気配を変えた。発言するだけで罰を受けるようなことを平然と口にした。
――反国。裏切り。
それは、可能性が確信に変わった瞬間だった。
「……やはり、侯爵はあの魔物にかかわりがあったか」
「ああ、アグノス種のことか。あの程度の魔物の討伐のために私がアレらと手を組んだとでも思っているのなら傍ら痛い。そもそもあの程度の魔物を幾千殺したところで最強には程遠い。英雄には届かない」
ロランは木に背中を押しあてながら立ち上がり、その本音を探るべく目を皿にして観察を続けながら口を開く。
「巷では英雄だともてはやされているだろう?」
その言葉に、うすらと笑う。
「だが、未だに陛下を英雄を呼ぶ声が少なくないのを知っている。あの女に剣の手ほどきを受けた程度の男が兄弟子として存在し、英雄と呼ばれているのはおかしいと思わないか?もう、比べ物にならないほどに実力に差が開いているのに、まだあれは英雄王などと呼ばれている」
おかしいだろう?と同意を求める。
「知らん。知ったことじゃない……が、そうか。侯爵は、この国が、いや、国王が気に入らないわけだ」
「はは、まさか。私の敵は王ではない。女の台頭を、貴族党首になることを認めているような王を、未だに先代をもてはやすその神経が理解できん。アレはもうだめだ」
「……何を、言っている?」
「力こそが正義だ。力こそが、生きていく上で不可欠な唯一無二のものだ。そして、最強は男だ。筋肉の足りない女がでしゃばり、ヴィッヒ家の歴史にその名を刻んだということそれ自体が腹立たしい」
男尊女卑。おそらくはこの国でも最も女性の出世を強く許容しているヴィッヒ侯爵の言葉は信じられないもので。冷めた目で見るルベルトに気づいているのかいないのか、彼は鼻を鳴らしながらゆっくりと剣を引き抜く。
「この国は強く生まれ変わる。……私のもとでなッ」
一閃。振り下ろされた剣がルベルトの体を断ち切って――
「――あ?」
手ごたえのなさにいぶかしむも、答えはすぐに与えられた。切り裂かれたルベルトの体は、血の一滴も流すことなく、やがてはその体を闇の中に溶かして消える。
「……魔法、か」
周囲の気配を探るも、その姿はどこにもなかった。気配と音は、雨が隠してしまっている。わかったのは、とっくにこの場から姿を消していたことだけだった。
「……まあいい。もとより計画に支障がないかと確認するだけだ」
ヴィッヒ侯爵は剣を鞘に納め、護衛のためにルベルトが去っていったほうへと歩き出した。




