118ルベルトの絶望
グレイシャスが消えた――もたらされた情報に耳を疑った。そして、続く情報に悲鳴を上げかけた。とっさに口を手で追って押し殺したが、早くなった鼓動はどうしようもなかった。
ヒルベルム王国で忙殺されていた私の元に疲労困憊の隠密の者が飛び込んできたのは、夏休みが始まって二週間ほど経った日のことだった。
彼はリリスティア・グレイシャスの護衛兼追跡を任せていた者。最近妙に勘が鋭くなっているグレイシャスに気取られることなく追跡できる唯一の手ごまだった。
彼がもたらした情報に、一瞬、その襟首をつかんで恫喝しそうになった。
そんな馬鹿なことがあるはずがないと、そう思った。
それを止めたのは、己が王子であるという、生まれついての呪いのような地位の自覚だった。
次いで告げられたのは、ゴブリンの異常個体の情報。四つ腕のゴブリンなどという、これまで聞いたこともない存在とリリスティアが戦っていたという事実に、気が狂いそうだった。絶体絶命に追いやられていたという話を聞いて、目の前が真っ暗になった。
そうしてその瞬間に姿を消したという情報に、もういてもたってもいられなかった。
その情報は、以前にライアット男爵次男と婚約を交わすという話の比ではないほどに私を動揺させた。
前は、まだ落ち着いていられた。それはきっと、己の権力が、部下が、知恵があればビリー・ライアットという小者からリリスティアを奪いとることができるという自信があったからだ。
……ああ、そういえば、あの日も魔物の異常個体と遭遇したな。ライネウスの町を襲っていたのは、異常に巨大化したワームだった。そして今回はゴブリン。
ここ最近異常な進化をした魔物の報告が急増しているとはいえ、こうもリリスティアが連続して遭遇するのは偶然だろうか。
……いや、何を考えている?リリスティアがその異常魔物の発生に関与しているなど、そんなはずがない。
彼女はまっとうな人間だ。強くて、弱い、ただの一人の令嬢だ。魔物の異常進化に関与しているなど、そんなはずがない。そう、私が思いたいだけなのだろうか?
いいや、きっと彼女は関係ない。異常個体の出現はただの自然現象……とは、言い難い。こうして私がレスティナート王国から慌てて戻ってヒルベルム王国で忙殺されているのだって、その異常個体が原因なのだから。
……ああ、そんなことはどうでもいい。
「それで、グレイシャスは見つかったのか?」
「…………いえ」
だろうな。これだけ早くここまで情報を届けるのに必死だったのだろう。当然、ジンナスの町に彼女がいるかを確認するような余裕も、考えもなかったのだろう。
……突然消えるなど、本当にそんなことがあるだろうか?考えらえるのはダンジョンの転移魔方陣だが、消えたのは普通の地上の森の中だ。異形のゴブリンの手によるものを考えたいところだが、怒り散らしていたという話を聞けば、その可能性も低い。
グレイシャス家の人間は、彼女が行方不明であることを知っているのだろうか?本来であればとっくにジンナスの町に到着している頃だ。一向に帰ってこない彼女を――探すことなど、できるわけがないだろう。
グレイシャス家は疎まれている。特にジンナスの町での対応はひどい。領主でありながらその町で売買できないなど、通常ではありえない。けれどありえないことがあり得てしまっている。それほどにグレイシャス家は立場が低く、そして町の住民のほとんど全員がグレイシャス家に反感を抱いている。
そしてそれは、あの町だけにとどまらない。レスティナート王国、そしてヒルベルム王国で、グレイシャス家の名は地に落ちている。
そんな中、どうやって彼女を探す。どうやって捜索の人手を確保する?どうやって彼女を見つける?どうやって彼女を救う?
できるわけがない。だが、それが可能だとすれば、私の手にゆだねられている。
強く鼓動が鳴った。高鳴りと、それを上回る重責が肩にのしかかる。
私がヒルベルム王国王子などという立場に生まれたのは、ひょっとしたら今日という日のためだったのではないだろうか。リリスティアを救うために、私は王子という立場に生まれたのではないだろうか。
彼女を助けるための力が、私の手の中にはある。動員できる人材がいる。無茶を押し通すだけの権力がある。立場がある。
だが、今の私にはそのようなことをしている余裕など――
「いや、そうか。今すぐに立つ。護衛に準備をさせろ」
「……は?」
「だから、レスティナート王国へと向かうといっているのだ。目的は発見された異常個体のゴブリンの捕獲、およびその発生原因の究明。少しでも数が欲しいのだ、私が動くに足るだろう」
それは、ルベルトがレスティナート王国に赴いている理由の一つ。これは、通常業務のどれよりも優先される。
何しろ、ヒルベルム王国の国家存亡がかかっているのだから。
「かしこまりました」
早速各所に連絡に行った男を見送り、私は今すぐにやっておくべき執務と伝令を書き留め、装備に身を包む。
「……待っていてくれ、グレイシャス。必ず私が救って見せる」
馬を駆り、休みもそこそこに王国内を走り続けた。
彼女の身にどれほどの猶予があるか、まったくわからない。そもそも手掛かりの一つもありはしない。突然消えた彼女の行方は、いまだにわかっていない。喫緊の状況につき耳となる者を含めて全員を王国に引き上げさせたのが裏目に出た。
馬で駆けながら、頭の中はリリスティアのことで埋め尽くされていた。
彼女の身に何があったのか、突然消えるとはどういうことなのか、異形のゴブリンの仕業なのか、あるいは王宮の宝物庫にあるような使い捨ての転移の魔法具などという希少なものを彼女が持っていたのか。
どちらにせよ、まずはグレイシャス家に向かって情報を手に入れるところからだ。それに、彼女の家族を安心させておくべきだ。
そうして駆け抜けること十日。
無茶の甲斐あって、私たちはジンナスの町にたどり着いた。
まだ夜明けにも早い時間。当然町の出入りのための門は降りていて、けれど王子としての権力で無理を押し通した。倒れてしまいそうなほど蒼白な顔をしていた門番には少し申し訳ないことをしたが、時間がないのだから仕方がない。
一刻も早くグレイシャスの捜索に向かわなければならない。
その焦燥から、扉を強くたたいた。彼女の実家の場所は知っている。部下たちを遠くで待たせ、住民を呼ぶ。
暮らしているのは彼女の弟のライル・グレイシャスと、使用人のフィリップという女。二人が留守にしているということは考えにくい。
果たして、廊下が軋む音とともに誰かが近づいてきて。
そうして開かれた扉の先に現れた彼女の姿に、私はあらゆる思考を停止させた。
驚かない理由がない。そこにいないはずの彼女が、リリスティア・グレイシャスが、わずかな怒りとともにそこに立っていた。
どうして、彼女がここにいるのか。己の妄想を疑った。幻でも見ているのかと思った。焦燥が見せる虚構化と、そう思いながら頬をつねっても、彼女の姿は消えなかった。
ひりひりと痛む頬に熱を感じながら、彼女の頬に触れる。
その手に、ぬくもりが伝わってきた。耳を、頬を、唇を触れる。感覚があった。柔らかな骨や肌の感触があった。
幻ではなく、確かに彼女はそこにいた。
安堵に胸をなでおろし、その場で膝をつきそうになりそうな中、涙が頬を伝って。
用向きを聞かれて、言葉に詰まった。
話せるわけがなかった。実は君のことを監視していて、突然姿が消えたという報告があって、すぐに捜索をしなければと思って動いたと、そんなことをどうして話せる?そもそも、どうしてここにいる?目立ったケガはない。だが、隠密の彼が見間違えたということはないだろう。少なくとも、グレイシャスを含め四人が戦いの場から瞬時に姿を消したのは事実なはずだ。
だが、何もわからない。そして、何も言えない。
必死に言葉を探す私に、焦燥に駆られて盲目になった私に突き付けられた最後通牒は、ひどい絶望の形をしていた。
「お引き取りを」
強い憤怒、あるいは憎悪の宿っている目を見て、己の失策を悟った。
どうして彼女がそれほどに強い反応を見せているのか、わからない。
だが、わからないからこそわかることがあった。
恋は盲目――どうしようもなく彼女に恋慕している私の眼はきっと、いつからかひどく曇っていた。
だから、彼女のことが理解できない。
どうして彼女があの日、彼女が来てくれなかったのか、理解でいない。
彼女は、「ルベルの君」などを表現したかりそめの私に、それなりに好意を持ってくれていると思っていた。その呼び名に、一瞬正体がばれたかと恐怖したこともあったし、成長した姿で顔を見せることで招待が看破されることも危惧したが、それは杞憂に終わった。
あの日、彼女が寮の同室の者の事件に巻き込まれたという情報は得ている。けれど、理解できない。その用事は、“フラレディア・ジャクソンへの復讐”という用事は、私との再会を後回しにするようなものだとは思えない。
何より、彼女があのように凄惨な殺しを、復讐を行ったということが理解できなかった。
その情報は口止めしているが、人の口には戸が立てられない。
私には、彼女がわからない。リリスティア・グレイシャスという人間が、わからない。
彼女が、フラレディア・ジャクソンを殺したのだろうか?私が盲目だったというのか?
それとも、彼女は令嬢を殺してなどいないのか?だが、彼女があの日、ジャクソン伯爵邸宅に足を運んだのは事実だ。事件が起こった数日前、まるで下調べのように彼女はその家に足を運んだ。
わからない。
わからないが、わかることがある。
彼女は、ほかの令嬢とは違って、私に一抹たりとも好意を抱いていない。
いいや、認めよう。彼女は、理由は不明だが、私に敵意を、憎しみを抱いている。
……本当に、その理由が私はわかっていないのか?
「…………すまない、このような時間にすまなかった」
あふれそうになる言葉を必死に飲み込んで。
「……無事でよかった」
けれどたった一つだけ零れ落ちた言葉は、無情にも閉じる扉の音にかき消された。
どれだけ待っても、扉が再び開くことはなかった。彼女が、私の最後の言葉の真意を問うために再び顔を見せることはなかった。
絶望に屈しそうになる足を引きずるようにして月明かりの下で歩き出す。
私は、何を間違えたのだろう?何を、見落としたのだろう?
わからない。
ただ、狂いそうになるほどに、この心には失恋の絶望が渦巻いていた。
――あきらめるのか?
心が、問いかける。
宿の一室、この場には護衛の一人もいない。
心なしか、騎士たちの忠誠心が弱くなっているように思えた。
それも当然だ。色恋にうつつを抜かし、すべきことを投げ出すようにして王国を出た私は、ヒルベルム王国国王の座を継ぐにはふさわしくない。
やらねばならないことがある。国のために、民のために、言い訳として打ち出した理由を成し遂げて国に戻らなければならない。
けれど、一向に眠れず、そして体が動きそうになかった。
これほどに絶望したことが、果たして過去にあっただろうか。
……ああ、母が死んだ時か。
正妻だった母は、幼少の頃に死んだ。殺された。
毒を飲まされ、口から血を流す彼女が、痛みと苦しみに狂いそうになりながら、それでも気丈に僕の頬を撫でて笑ったあの笑みが、今も脳裏に張り付いて消えない。
母は、強い人だった。国母に、王妃にふさわしい人だった。
そんな母も、毒殺された。もし仮に、リリスティア・グレイシャスを国母にすることができたとして、彼女も同じような道を歩むことになるのか?だとすれば、真に彼女のことを思うのであれば、彼女を妃にしない選択をすべきではないか?
だが――ああ、だが、私の心は、狂おしいほどに彼女を愛している。彼女を求めている。
強くて弱い彼女に、隣にいてほしい。支えてほしい。支えたい。
彼女となら、国王という重責を背負って、歩いて行ける気がする。そう思うのは、恋がもたらされた盲目さが理由なのではないか?
――嗚呼、彼女に会いたい。もう一度会って、本心を聞きたい。言葉を交わしたい。事情を知りたい。
どうして、私にあれほどの憤怒に染まった目を向けていたのか?
異形のゴブリンを前に姿を消したのは、どのような理由によるのか?
“私”よりも、優先させるほどに、あの殺人は価値があるものだったのか?
本当に、君があのような殺人を働いたのか?
なぁ、教えてくれ。話してくれ。私の心を、救ってくれ。
君だけなんだ。君だけが、私がともに生きたいと思えた相手なんだ。
そんな君に殺意を、憎しみを向けられて、私はどう生きればいい?どうあればいい?
……今の私はもちろん、これまでの私は、正しく「ヒルベルム第一王子」としてあることができていたのか?
手のひらの中から、積み上げたすべてが落ちていくような気がした。
ベッドの上で苦悩しているうちに、うっすら夜が明けてきた。
あと数時間もすればこの町を出る。そうして、異形のゴブリンを捕縛、その調査をしなければならない。
だが、その前に。その前に、もう一度だけ――
窓を開く。
朝の風が肌を撫でる。火照った頬を撫でるその風は生温かいが、けれど心地よいものだった。
宿の二階、下までは五メートルほど。
シーツを引きちぎり、ロープを作って。
私はつたない動きながらもそれを伝って何とか宿を脱出し、朝の町をひた走った。
きっと私は壊れている。でなければ、こんな愚行をするはずがない。
家の合間からのぞいた朝日が体を照らす。光の中に浮かびあがる私の姿は、魔法による光でゆがみ、かつての姿へと変わっている。
茶髪に、色白な化粧、やや背の低い、一年ほど前の自分の変装した姿になる。
光学魔法で外見を変えて、私はただわき目もふらずに彼女のもとへと走った。




