110夏の日常
エルシーは昼間には声をからし、来た時と同じく窓から出て帰っていった。
その背中を見送りながら、リリスティアはわずかに目を細めて告げる。
「……随分といろいろ知っているのね」
「エルシーは本の虫だからね。知識量なら大の大人にだって勝てると思うよ。おかげでいろいろと知れて助かっているよ」
どこか誇らしげに胸を張って告げる。そんなライルをどこか生温かい目で見つめながら、リリスティアはエルシーの話を思い出す。
他国を行き来して商品売買をする。それは、ハンターという活動にばかり意識が向いていたリリスティアにとっては盲点に他ならなかった。
せっかくジンナスの町はヒルベルム王国が目の前にある立地をしているのだ。それゆえにグレイシャス家が恨まれているが、だったら逆にそれを有効活用しないといけない気もしてくる。
「とはいえノウハウがなさすぎるのよね。ヒルベルム金貨の輸入というのはさすがに、ね……」
「……別にハンターでもいいんじゃない?ヒルベルム王国なら姉さんも普通に依頼を受けられるでしょ」
「無理よ」
どうして無理なのか――視線で尋ねるライルに、答える代わりに首から吊り下げていた一枚のカードを出して見せる。銀色のそれは、魔法具を駆使して作られた、ハンターとしての身分証であるカード。
Fランクのものであるそこには、リリスティア・グレイシャスという名前が刻まれている。そう、グレイシャス、と。
無理だという意味を理解したライルは、無言で天井を仰いだ。
国境に最も近いジンナスの町の住民でさえひどい対応なのだ。ヒルベルム王国でグレイシャス家の人間だとばれようものなら、即座に殺されかかるくらいの可能性はあった。
グレイシャスの名前がばれるとまずいというのなら、問題はほかにいくらでもあった。
「…………そもそも、国境を超えるのが無理じゃない?」
「それについては、方法がないわけでもないの」
「魔法ですね」
首をひねるライルに代わってフィリップが答えを告げる。リリスティアから帰還時にまつわるある程度の情報を聞いていたフィリップは転移という可能性にすぐに思い至った。
「国境なんて気にせず、転移で行き来すれば……なんて、あれ以来一度も転移成功していない以上、捕らぬ狸の皮算用なのだけれどね」
「ダメじゃん」
「駄目ね」
「「…………はぁ」」
まあコツコツやっていくしかないか――そんな思いを共有した二人は、フィリップが運んできた昼食を食べ、それぞれに活動を始めた。
ライルが向かったのは町の一角、普段仲間たちとの集合場所に使っているところである。今日は仲間内で集まる日であり、そこにしばらくエルシーが参加できないことを伝えに行く必要があった。
ついで不足している小物や塩などを購入する計画もしていた。
ライルはライルなりに、このジンナスの町で生き抜くための方法を模索し続けていた。
リリスティアが向かったのは古代砦ダンジョン。それは魔物との戦闘経験を積むことと、魔物素材の回収、さらには魔法の訓練のためでもあった。
一石三鳥を目指すくらいには、リリスティアが追いつめられているということでもあった。何しろリリスティアはつい最近このダンジョンで死にかけたばかりなのに、またこうして足を運んでいるのだから。
アイギス王女の側仕えとして後期も活動する以上、その間資金調達のためにハンター活動をするというのは難しい。側仕えとしての仕事自体がそれほどに多忙というわけではなく、リリスティアを苛め抜いて側仕えからやめさせようともくろむアイギス王女の取り巻きの令嬢たちが理由だった。
リリスティアの手を煩わせる彼女たちの存在のせいで、リリスティアは前期の間、寝食を削って活動する羽目になった。
ただ、その状況をましにする方法は、すでにリリスティアの手中にあった。
空間魔法による転移。一瞬にして遠距離との移動が可能になれば、側仕え業務はもちろん、その他の雑用に要する時間も非常に短くなる。
問題は、リリスティアがアグノス・ゴブリンを前にしたとき以来、一度も転移に成功していないという点だった。
リリスティアが空間掌握と呼んでいる、目視することなく周囲を把握する空間魔法はより簡単に発動できるようになっていた。これまでは状況がかみ合えば、あるいは極限の集中状態にならないと発動しなかったものが任意で発動可能になったのだから大きな進歩だ。
しかもこの魔法は、リリスティアの第六感的なものを魔法としてもたらしているものであって、相手に魔法を発動したと気取られることがまずない。つまり、相手の意表を突くことができるということだった。
ただ、それだけで満足するわけにはいかない。極めれば万能に至れるかもしれない空間魔法を使いこなすというのは、リリスティアが強くなるためにも――魔法戦士として大成するためにも必要不可欠なことだった。
魔法を発動する際に重要なのはイメージと魔力。頭の中に魔法を思い浮かべ、それを魔力によって発動する。イメージがおぼろげであれば魔力を湯水のように使っても魔法は発動せず、逆に魔力が足りなければイメージが完璧でも魔法は意味のある形で発動できない。
イメージ補強として行われる詠唱は千差万別。イメージのように魔法の威力や飛距離などを淡々と告げるような事務的なものもあれば、自分は魔法を発動できるのだと言い聞かせるようなどこか鼓舞するようなものや、あるいは魔法などまったく関係ないルーティーンとしてこの魔法にはこの言葉と決めた呪文を口にする場合もある。
あるいは魔法陣という手段もある。魔法陣は錬金術使いが魔法を魔法具の形に落としこむために魔法をイメージから図式へと変換したものである。ごく一部の者は、魔力で魔法陣を描くようなことをやって精密な魔法を発動することがないわけではないが、そもそも魔力で魔法陣を描くなどということ自体にとてつもない魔法制御力が必要である。
リリスティアの魔法訓練において重要なのは、魔法のイメージができていないという点。空間魔法に関する文献は少なく、転移という最も有用である力は、いまだにリリスティアの中でイメージが固まっていない。極限状況で暴発したように発動はできたが、制御できていない力など危険なだけだ。土の中に転移をしたり、はるか上空にでも移動したものならそこで人生終了である。
では、魔法陣による転移の経験も、暴発とはいえ実際に転移に成功したにも関わらず再現できないリリスティアのイメージのどこに問題があるか。
それは、向かう先の指定がうまくできないということ。
先の魔法発動において、リリスティアは偶然古代砦ダンジョンの中に転移した。その理由は、守るという強い意志からライルを連想して、ライルがいる場所に移動したのではないかと考えられる。だが、だとすればどうしてライルの場所に転移できたのかがわからない。リリスティアは古代砦ダンジョンにライルがいるなどということを知らなかったのだ。それなのにリリスティアはライルの場所に移動した。
「ライルの存在を超感覚で把握した……ライルの体にある魔素を感じ取った?ライルがこのダンジョンにいたという事実を、何かから手に入れた?ん……?」
しきりに首をひねり、ぶつぶつ言いながらリリスティアは目の前へと転移を試みる。それほど遠くに移動する必要はない。まずは目の前、それこそ一歩手前に移動するだけもでいい。けれど、それもやっぱりうまくいかない。
リリスティアは地面にナイフでガリガリと十字を刻み、そこから数歩下がった場所でイメージを固める。
魔力を放出して、転移をしようとして――リリスティアの立っている場所は、一歩たりとも変わっていない。
そうこうしているうちにリリスティアの魔力を感じ取ったのか、魔物が足音を響かせながら近づいてくる。
魔法訓練を中断したリリスティアは、意識を戦闘モードに切り替えて小部屋を飛び出した。




