10グレイシャス姉弟
床が軋む音を耳にして、リリスティアはゆっくりと目を開けた。
ほこりでくすんだ天井、色あせた黄色っぽいカーテン、家具のほとんどない部屋。床が軋むなど、かつての家では考えられなかった。
「……もう三日なのね」
グレイシャス伯爵が捕まり、宿探しに歩き回り、悪漢に襲撃されて死にかけた。そんな怒涛の一日から、早三日。
その間、リリスティアはほとんどの時間を熱にうなされて過ごしていた。
極度の精神的な疲労に、戦闘というかつてない経験、さらにはヒトゲ草の毒にやられたリリスティアの体は限界を迎え、気が緩むとともに体調を崩した。
この緊急時に熱を出したリリスティアは、自分のせいで次の行動に移ることができないことを詫びながらベッドの虜となっていた。
「おねえさま。だいじょうぶですか?」
やや舌足らずな声が聞こえ、リリスティアはぼんやりとしていた頭を振って眠気を追い払い、声のほうを向いた。
リリスティアの弟、ライル・グレイシャス。五歳の弟は、歳のわりに成熟している印象をリリスティアは抱いていた。だが、ここ数日のストレスのせいか、ライルには精神的な後退が見られた。
突き出された頭にわずかなためらいを覚えながら、リリスティアはライルの頭を優しくなでる。グレイシャス伯爵家の次期当主として鍛えられたライルの仮面は剥がれ落ち、隠されていた子どもっぽい姿が顔をのぞかせていた。
次第にとろんと目尻を下げていくライルを見て、リリスティアは心の中でままならない現実を嘆いた。
「……私は大丈夫よ。この通り、熱も下がったみたいよ」
「ほんとう?」
そう言いながらライルはリリスティアが眠っているおんぼろなベッドによじ登り、その額を突き合わせる。
つめたい。ふにゃりと笑ったライルを見て、リリスティアは思わずその小さな体を抱きしめた。
「どうしたの?」
「……なんでもないわ」
その体は、ひどく小さかった。腕の中にすっぽり入ってしまう。こんなにもライルは小さかったのかと、リリスティアは愕然としながらなんとか言葉を絞り出した。
グレイシャス伯爵家の次期当主として、ライルはすでに多くの教育を受けていた。その小さな肩に、グレイシャス家と、その家臣と、グレイシャス領の民を守るというプレッシャーが掛かっていたのだと思うと、リリスティアは好きなように生きていた自分が猛烈に恥ずかしく思えてきたのだった。
そんな弟が次期当主の責務から解放されたのは、喜ぶべきか悲しむべきか。弟が苦悩に満ちた領主生活を送る必要がなくなりそうだというのは、確かに良いことのようにも思えた。
けれど少なくとも、たとえ平民に落ちたとしても、リリスティアが考える裕福な平民生活など望むべくもないことだけは確かだった。
リリスティアの脳裏には、宿を捜し歩いた際の、侮蔑の視線がよぎっていた。嫌悪の目、汚物を見るような目、堕ちたグレイシャス家をあざ笑う目。そんな視線に、これから自分だけでなくライルも晒されるのだと思えば、口の中に血の味が広がった。
「おねぇちゃん、血が出てるよ?」
「……ほんとね?」
心配そうに顔を覗き込むライルに言われて、リリスティアはポケットへと手を伸ばし、そこにハンカチが入っていないことを思い出した。ハンカチはノートンの治療の際に使い、血だらけになって処分してそれっきりだった。
中途半端なところで止めていた手を持ち上げて、手の甲で口元を乱雑に拭った。途端に白い肌に赤い筋が残り、リリスティアは自分が血を流すほどに唇を強くかみしめていたことに気づいた。
何度も大丈夫かと尋ねてくるライルを落ち着かせるように頭をなでているうちにノックの音がして、すぐに部屋の扉が開いた。
顔を覗かせたノートンは、ベッドに座るリリスティアの顔を見て安堵に胸を撫でおろした。
「おはようございます、お嬢様。体調のほうはいかがでしょうか?」
「もう大丈夫よ。心配をかけたわね」
「いえ、お嬢様こそ、私を救っていただいてありがとうございました」
慇懃にお礼を述べたノートンだが、その姿には隠し切れない疲労がにじんでいた。それもそのはず、ここ数日十分な睡眠をとれてないのだろうと、リリスティアはそう判断した。何しろ、この陋屋には五人が寝られるだけの十分な寝具などなかったから。
ちなみに、この陋屋には部屋が三つあり、そのうちの一つである家主の部屋にリリスティアは眠っていた。ライルは母と同じ部屋で、ノートンとフィリップは名ばかりのキッチンで眠っていた。
そのことを申し訳なく思いつつも、これ以上気を遣ってはノートンの立場がないと、リリスティアは謝罪の言葉をのどの奥に押し込んだ。
ちらりと、ノートンの視線がライルに向く。その意味を察したリリスティアは、「お母様のところへ行ってらっしゃい」と告げてライルに退出を促した。
心配そうに瞳を揺らすライルが何度もリリスティアの方へと振り返りながら扉の方へと歩いていく。ライルの姿が消え、その足音が遠のいて、リリスティアは小さく息を吐いてベッドから起き上がり、その縁に腰かけた。
「それで、現状を教えてもらえるかしら」
まだ幼いライルに聞かせるべきではない報告があるのだろうというリリスティアの予想通り、ノートンは少しだけ顔をしかめて、言葉を選びながら口を開いた。
本当は、ノートンはリリスティアにだって話を聞かせたくはなかった。ライルはもちろん、リリスティアだって十分に幼いのだ。まだ九歳の彼女に厳しい状況を伝えるのはためらわれた。
だが、他に選択肢がなかった。
リリスティアの母であるグレイシャス夫人はといえば、夫の悪行と、なまじ頭が回るだけに自身の破滅を察知して心を壊してしまい、臥せっていた。
リリスティアだけが、グレイシャス家として行動できた。だからこそ、ノートンはその話を、リリスティアに伝えなければならなかった。
最悪の、報告を。




