雨、桜散りて、のち。
雨の中を足早に歩いていた。
走らずに歩いていたのはささやかな抵抗だった。
だって二十歳を越えた女がわき目も振らず、泣きながら嗚咽をこぼし、傘も差さずにがむしゃらに走っていたら、それは十中八九失恋じゃないか。しかも、……振られた側だ。
歩きながら脳裏では彼氏だった男への想いが間欠泉のように次から次へと噴き上がっていた。あいつのためにかけた時間と努力は「別れよう」の一言で終わらせられるほど軽いものじゃない。心の奥底に積もった好きの二文字は、自責と敵意で裏返りを続け、何がなんだかわからなくなっている。
どうして、こうなってしまったんだろう?
春先の雨はまだ冷たい。雨の雫が肌に染みるたびに、痛みを覚えた。耳たぶのイヤリングが冷え切って、その存在感をアピールしてくる。あ、やばい。泣きそう。
思わず歩くスピードを緩めて誕生日プレゼントだったものを外した。
私の名前に因んで買ってくれたサクラの花びらのイヤリング。男の人にアクセサリーを買ってもらうのは初めてで、とてもドキドキしたのを覚えてる。
手のひらに舞うサクラの花弁は今朝出掛けるまではあんなに綺麗だったのに、目の前のそれは、とてもくすんでいる。私の顔も今、こんなだろうか?
周囲を見渡しても鏡になるようなものはない。
それでも想像出来た自分の顔はとんでも無く不細工で思わず自嘲がこぼれた。
イヤリングを道端に捨てようとも思ったけれど、万が一にも誰かに拾われ再会することになったら、涙を押し留めることは出来そうにないし、まして立ち直れやしない。それにポイ捨てはいけないから、などという倫理観が感情を抑え込んだので、結局捨てることはしなかった。
ああ、なんて私はいい子なんだろう。
コートのポケットに無造作に冷たくなった2枚の花びらを突っ込んだ。傘を持っているから、おそらくこの道中は存在を思い出さなくて済む。
ああ、なんて私は賢いのだろう。
まだ耳たぶがジンジンするのは、きっと、寒いからだ。
彼は二つ年上の大学の先輩だった。リーマンショックで彼が就職浪人していたときに、告白されて付き合うことになった。就職が決まったときはまるで自分のことのように喜んだものだ。
今思えば、自分の人生の一大事を決めるときに、女にうつつを抜かしている時点でロクな男じゃなかったのかもしれない。不覚だ。
就職先はブラックながらも、まあまあ安定した収入のあるところで、父親に彼の話をしたときに安堵していたのは記憶に新しい。
……憂鬱だ。親に聞かれたらなんて誤魔化そう。
そんな彼から、このところ同棲の誘いを受けていた。まあ、付き合い始めて数年。結婚を考えてもおかしくない。
でも私は即答出来なかった。
なんか違う、言葉にできない違和感が私の声帯を震わせるのを躊躇わせたのだ。
それが今日の喧嘩の原因なんだろう。
きっかけは些細なことだ、お昼の場所で揉めただけ。でもそれが「別れよう」を引き出すことになったのは、きっとその積み重ねがあるから。
私はもう、恋、してなかったんだ。
帰宅した我が家は、まだ4時なのに雨雲のせいか真っ暗だった。電気をつけリビングの惨状に溜息をこぼす。昨日寝るまで迷った服のコーディネートが3着広げっぱなしだ。
天気予報も見ずに考えていたせいで、晴れの日用のコーデで、とても明るい。なんだかノーテンキな昨日の自分に腹が立つ。
コートをハンガーにかけ、風呂を沸かす。
不思議なもので、人というのは仕事が終わっても、デートが終わっても、恋が終わってもやることは変わらないらしい。
換気をしようとベランダのはきだし窓を開けると、排水溝に思わず目がいった。今日の雨で絨毯のようになっていた桜の花びらが大量に排水溝に溜まっていたのだ。
これだけ散ったということは……。
見上げた先にはもう、ほとんど花びらはついていなかった。桜と言われて、この新芽の姿を思い浮かべる人はほとんどいないだろう。僅かに残っている花びらも、今また一枚、雨粒に散っていった。
もう一度視線を下に移す。
桜色とはとてもいえない色だ。
でもどちらもまた桜だ。
今の私は一体どっちなんだろうか?
しばらく桜を眺めていると、とあるメロディが聞こえて来た。部屋を一瞥する。
光るスマホの画面。
特定の条件下でしか鳴らないリストの愛の夢。
私は部屋の中に戻ると、机の上に置いてあった電話をーー。