89話 ゲッタウェイ!
椅子から転がり落ちた男爵は、
「ろ、ろ、ろ、ろ、ろ、ロバ…だと…!?」
とショックに震えていた。
(いくら貴族でも、焦げたロバの耳に一千万も払っていたと分かったら、そりゃ椅子から転げ落ちたくもなるな…)
私は男爵に同情を禁じ得なかった。
「…で」
「で?」
「出合え出合え!そこの怪しい者を取り押さえろ!!」
「ええー!?」
バタバタと人が集まって来て、あっという間に私は武装した兵士らに囲まれた。
「待った!私は何ら、男爵に危害を加えては…」
「当家の秘宝を侮辱した!決して許してはならぬ!」
そこで私はようやく自分のミスに気が付いた。
(しまった!今は身分に差があるんだった!)
ほんの数ヶ月前まで、私は爵位持ちの貴族であった。
その頃の私ならば、男爵に対して事実を突きつけたとしても問題にはならなかっただろう。
しかし、今は平民である。
平民が貴族の不興を買ったら、どんな理不尽な目に遭ってもおかしくはない。
それは、中世身分制社会を生きる上でのごくごく初歩的なルール。
何やかんやと起こる問題に翻弄されるうち、すっかり基本を忘れていた。
(見ないフリが正解だった…!)
今更、口から出たものを引っ込めることは出来ない。
(とにかく、男爵を冷静にさせなくては…!)
この場を脱すること自体は多分簡単だ。
しかし、私がこの街へ来た目的は『冒険者ギルドに寄ること』である。
領主の不興を買うとか、まして抹殺されそうになるなど言語道断。
(とにかくこの場を穏便に収める。男爵も今は頭に血が上って冷静な判断が出来ていないだけ…)
「そ、それに、万一、これらの品が偽物だったとして、お前がそれを触れ回れば、ワシは大恥をかく!どのみち逃すわけにはいかぬ!」
(はい詰んだー!)
男爵は意外に冷静だった。
(…そういえば、『ゴブリン潰し』とかいう悪趣味な遊びに興じていたのは目の前のコイツだった)
私は説得による平和的解決を諦める。
「一斉にかかれえええ!」
「「「「うおおおおおおおおお!!!」」」」
「凍れ!!」
男爵の号令で襲いかかって来た兵士達を、全方位に氷魔法をばら撒いて拘束した。
一瞬にして、広間は一面の銀世界へと変わる。
「ば、馬鹿な!一瞬でこれだけの氷魔法を…!?」
「き、貴様一体何者だ…!?」
当然、そんな質問に答えるわけはない。
こうなってしまった以上、今はこの場から逃げ出すことが先決だった。
「男爵様、どうやら悲しい行き違いがあったようです。しかし、誓って言いますが、私は他人の醜聞を触れ回るような人間ではない」
(だから、恨んだり追って来たりしないで…!)
心の中でお祈りをしながら、私は露台へ向けて駆け出した。
「ではさらば!」
「なっ、飛んだ!?」
「消えたぞ!一瞬にして!?」
「どこへ行ったんだ!?」
しかし、彼らの目に私の姿が映ることはない。
例によって出力を調整し損なった飛行魔法で、私は既に空の彼方へ飛んでいた。
「ああああああああああ寒いいいいいいいいい!!!!」
秋の夜空の飛行は寒かった。
私はなるべく来た道を辿って街壁まで戻る。
このまま飛んで逃げようかとも思ったが、上空の冷え込みは予想以上に厳しかった。
それに、どうせ出るなら正式に門から出た方が良いだろう。
(流石に未だ壁まで連絡は届いていないだろうし…あーあ、冒険者ギルドに寄る暇は無いだろうなあ)
ようやく大きな街に着いて、いざ冒険者登録!
と思っていたのだが、さっきの騒動で全部パー。
「はあ…」
私はどんよりした気分で暗い空を走った。
「通してよ!」
「ダメだ!もう日も落ちてしまったんだぞ!」
門へ着くと、何やら言い争っている声が聞こえてきた。
私はなるべく目立たないように空から降りる。
「どうかしましたか?」
「うお!何だお前は!?怪しい奴め!どこから現れた!?」
「え!?わ、私は昼間に人売り組織を壊滅させてきた冒険者なのですが…」
「何、本当か?冒険者証を見せてみろ!」
(やべ!無え!)
私は未だに冒険者(詐称)である。
「あの…ここの隊長さんは未だおられますか?私は隊長さんに街へ入れてもらったのですが…」
「隊長だとぉ?」
「失礼しました!」
幸運にも、隊長さんは未だ詰め所に残っていた。
「いやあ、次の鐘が鳴ったら帰ろうと思っていたところさ」
丁度その時、晩堂課の鐘が鳴った。
(九時か…結局この街の滞在時間は三時間くらいだったな…)
そのうち一時間半くらいは男爵の話を聞いていた。
はあ…。
「それで、冒険者殿はこんな夜更けに何の御用で?」
「実は急用で街を離れようかと…」
「ええっ!もっとゆっくりしていけばいいのに!夜は冷えるし、魔物も活発になって危ないですよ」
「まあ、その点はご心配なく。あ、毛布か何かあれば売って頂けませんか?」
「それは構いませんが…。どうも、引き留めても無駄なようですね。少し待ってください。壁門を開けて、毛布を用意しましょう」
「ずるい!」
とそこで、放置されていた少女が声を荒げた。
「何でその人は出てもいいの!?」
「そりゃあ、この人が冒険者だからさ」
「私も外出る!お父さんを探しに行くの!」
その少女は未だ十歳くらいの女の子だった。
(私よりも小さい…)
冒険者には見えない。
「何かあったんですか?」
「うむ…この子の父親は肉屋をやっているんだが、今朝方隣の村へ肉を売りに行ったきり、帰って来ていないのだ」




