PBA6XX便 運用前訓練と日常や福利厚生 そして休暇等
今回は日常ネタで、飛行機の話題は最初しかありません。
「こいつぁ、すげぇ…」機長は機体をコントロールしながら呟く。操縦桿を狙った角度、タイミングで左に倒す。すると機体も90°ごとに左へロールする。垂直、背面、逆方向垂直、正面。今度は一気に操縦桿を手前に引く。同時にスロットルをミリタリーまで叩き込む。HUDの右端に4Gの文字が現れ、機首が急激に上がる。と同時に凄まじい勢いで上昇をする。先程まで高度300mから一気に2000mまで上昇する。その加速は全く衰えなく、むしろ更に加速上昇を続けている。後部席に乗っているインストラクターから、このままスロットルをアイドルに戻す指示があり、その通りにすると機体は後部から下へ垂直落下する。しかしエンジン音はそのまま聞こえ、計器でも2つのエンジンは正常に稼働していることが判る。再びインストラクターから操縦桿を前に倒して機体を水平にするように指示があり、そのようにすると、その意図の通り水平にぴたりと姿勢を保ちつつ落下していく。しかし全く恐怖感は無く、ふわっと浮遊している感じが手に取るように、いや全身で感じるように分かった。操縦桿を右前に倒すと、ゆったりとロールしながら機首を地面に向ける。好き放題に操縦桿を動かし、ラダーペダルを踏み、スロットルを上げ下げしても機体は機長の意志の通りの動きをトレースする。何をやっても墜落する気がしない。何をしても思い通りになる。そんな機体だった。インストラクターから帰還の指示があり、コムソモーリスク・ナ・アムーレ航空機工場の滑走路への着陸パターンに入る。フラップは最大、速度は240km/h。滑走路方位01、タッチパッドマーカーへ着地し、そのまま680m程で速度が操作可能域に入る。左にある駐機場への横断路に入り、また左折して誘導路に入る。駐機場に着くとマーシャルが誘導し、その位置へ駐機する。動力及び電源系をすべてカットオフし、後は地上スタッフに機を預け、インストラクターと機長は機から降りた。
「Su-35SUBMK、どうでしたか?」インストラクターは少々自慢げに機長に意見を聞く。
「控えめに言っても、機動性に関してはこれ以上のジェット戦闘機は無いでしょうね。」と機長は感動を込めて答える。今まで乗ってきたF-14D(R)も素晴らしく洗練された機体で、特に高速域での運動性は群を抜いていた。だがこの飛行機はその延長上にあり、更に低速域でもどんなに不可能と思ったことさえ実現できる、操作性が良過ぎる機体だった。
「はは、そこまで言っていただけると作った甲斐があるというものです。」とインストラクターは満足げに答える。Su-35SUBMK、この機体は女社長が2年以上も前にスホーイ設計局へ依頼したものだ。契約時に世間知らずな彼女がカモネギでYak-130も買わされたりしたが。しかしそれに見合う以上の性能だった。語尾に着くSは量産、UBは練習用、BMは大規模改修、Kは輸出型を示している。丁度その一週間前には抱き合わせ購入させられたYak-130でもテストをしていた。これは中等ターボファン練習機でアフターバーナーこそないが、各国の各種主要戦闘機のクセをシミュレートできる機能を持つ。もちろんSu-35SUBMKのミリタリー推力までの特性を見事に再現していた。残念ながらあんな空中ダンスまでの再現は難しかったが、アレでさえも運動性には感動させられた。
その時はまずYak-130自体のフライトシミュレーターよる訓練、中盤は実際に乗っての飛行訓練、更にYak-130シミュレーターのSu-35SUBMKを模した訓練、最後に実機のYak-130によるSu-35SUBMKの模擬モードでの訓練を実施した。そして今日はノックダウンの4号機を機長自身の慣らしの意味で飛行させてみたのだ。また引き渡される量産機は既に動作確認として、今日テストフライトをしている。滑走路を見ると、それが丁度離陸したところだった。
ハンガーではノックダウン3号機でおっちゃん、デッチ、ホウコウ、あともう二人ほど整備担当が分厚いコートを着て各部分の注意点やメンテナンス方法を整備インストラクターから講義を受けていた。デッチとホウコウ、整備担当二人は若い為か比較的呑み込みが早く、インストラクターからも高い評価を貰っていた。しかし整備長であるおっちゃんはかなり苦労していた。
「まったく気に入らねぇ。インチとメートルは違うってんだ!しかも配管や配線とかの取り回しの癖がアメリカ機と全然違うのも気に入らねぇ!」とおっちゃんはかなりイラついていた。設計思想やそれにまつわる仕組み、規格、システムなど、おっちゃんがその進化に付いていくには進み過ぎていた。歳というのもあるが、おっちゃんが主に手を掛けていたのは70~90年代及び2000年一桁位までのアメリカ機だったのでその国特有の構造上の癖など経験上良く分かっていた。しかし今回は今までとは違うロシアの、しかもかなりのユニットが電子制御、つまりコンピュータ化がされたモノで、純然たる機械部分は理解していてもそろそろ知識の限界が近かった。それ以上先の部分はどちらかというとデッチやホウコウの方が得意分野なのだ。正直、それはそれで大問題だった。いざ整備上で重要な判断が必要な時におっちゃんが判断、つまり責任を負えなくなるのだ。かといって入社して日が浅くて若いデッチ達、整備担当に大きな責任を持たせるのも現状では判断に苦しむところだ。訓練期間は一か月のうち、もう一週間を使ってしまった。覚えることは機体だけではない。各種装備、例えばミサイルや外部取り付けターゲットセンサー、ECM,ECCM装置、それらの整備管理、保守点検など項目は山ほどある。こうなるとおっちゃんにも若手にもその責任が担えるよう頑張ってもらうしかない。そんなところを機長は遠目に見ていた。しかしそれは他人事ではない。機長も明日からは実飛行時の装備を付けた状態でのYak-130シミュレーターによる訓練、装備を模したYak-130での実フライト、実機でのシミュレーター訓練、そして実際の飛行訓練が待っている。それをたった三週間でモノにしなければならないのだ。そして実は機長も悩んでいる事があった。それはHUDの表示である。今までのF-14D(R)は西側標準型、つまり機体が傾くと水平儀は水平を維持することで傾きが分かるのだが、この機体は水平儀表示が無く、機体のマーカーが常に下を指すように表示されている。つまり表示方法が全く違うのだ。一応オプションで巡行時に西側の表示を出せるようにしてあるが、どちらも一長一短なので使い分けた方が良さそうだと考えていた。しかし結局は慣れることは必要なのだ。その判断を間違えると墜落に繫がる。苦労をするなと漠然と考えていた。
時間はあっという間に経つもので、気付けばもう最終週。Su-35SUBMKには運用時の装備が搭載された状態での訓練が行われていた。機体そのものはタンデム複座、Su-33UB用に設計された大面積の翼とスーパークルーズ(長時間超音速巡行)が可能なイズデリエ30ターボファンエンジン、偏向推力排気ノズル、大容量燃料タンク、N-036レーダーシステムセット、固定武装としてGSh301機関砲。追加装備として航続距離を延長するための左右翼下増槽。両主翼端ステーション1,12にあるL265M10-02 ヒービヌィ-M ジャミングポッドポッドx2、第一エンジン下パイロンステーション5に装備された101KS-N光電ポッド、ステーション2,11に搭載されたR73短射程空対空赤外線誘導ミサイル、同じく第二エンジン下パイロンステーション7に搭載されたKh-29短射程空対地赤外線誘導ミサイル。これだけの装備を搭載したにもかかわらず、このSu-35SUBMKは軽快に空を舞う。この一週間はインストラクターからあらゆるシチュエーションを想定した飛行訓練を行っている。赤外線カメラで地上の脅威を探知、レーダーにロックオンされない様回避運動を行いながら、逆にこちらの空対地ミサイルで攻撃。また運行上よくあるシチュエーションとして2機の脅威から中もしくは長距離ミサイルを受けチャフフレアディスペンサーで回避したと想定し、その後の減速による運動エネルギー喪失状態からの反撃。こういった訓練を一日のうちに2~3回、計20飛行近く行っていた。最終日には機長はほぼこの機体に成熟し、想定されたミッションはほぼ完全に完遂していた。HUDの問題も予測通り、使い分けをすることで上手く運用でる。内容としては申し分ない運用前テストと言えた。整備班もおっちゃんだけはかなり苦労していたがこちらも大きな問題もなく訓練を完了した。ただ今後はデッチやホウコウのサポートを受けながら整備長として動くことになった。また時々、勉強として再度訓練をすることを決心していた。
これで運用訓練は終了し、二週間後にはPeace Bird Air Companyは営業再開を出来る見通しが立つことになった。6号機は後部席におっちゃんを乗せ、そのままジュネーブ支部へ帰還。支部の2機目になる8号機はその二週間の間に受領することになった。アメリカ支部はこちらジュネーブ支部の後にこれから訓練に入る事になっている。その二週間間で運用体制を整えながら、各員は合間に休暇を取る事になった。
そんな忙しい中、女社長もこの一か月と二週間は色々と忙しかった。国連の関係者への運航休止と再開の案内やジュネーブ国際空港への運航再開の手続き、他にもお得意さんへの挨拶、資金調達、今後の経営の方針など役員として雑務に追われていた。役割上忙しいのは当然だが休息もそろそろ必要だと考え始めていた。さっきまではフランス官僚と会っていて、それが終わり車で支部に戻っている最中。女社長は困ったことに無類の車好きで、自分の莫大な資産を使って色々な高級外車を買いまくっていた。しかもスイスは自動車税は比較的安いのもその浪費を引っ張っている。本部にもジュネーブ支部にもお金と知名度という権力に任せて購入した趣味の車、特別に発注したマクラーレンP1LM、同GTR公道用、フェラーリ488Pista、同GTC4Lusso、ホンダのアレのアレにイマイチ品が無い改造をした車などを置いている。当然社員に貸すことは無い。社用車も一応あり、これは申請すればレンタル出来た。その車のチョイスも見かけて気に入ったものは欧州だろうとどこだろうとすぐ買ってしまうという悪い癖である。そしてじんぺーさんにしょっちゅう叱られる羽目となる。
ところで時間を見ると、お昼を少し回りティータイムの時間になっていた。昼食を取っていないことに気付き、近くで軽食が取れそうなお店を探していた。流して走っていると丁度良さそうな喫茶店が目に入る。急いで駐車場を見つけ、今日乗っている車、フェラーリGTC4Lusso(4人乗り4WD V型12気筒エンジン)を停める。見つけた喫茶店の外の席に空きがあったのでそこに陣取る。季節が秋中旬なので若干寒いが、お気に入りのマントを羽織れば何とかなるだろう。大急ぎで店内に入り、暖かいティーと軽食を買って席に戻る。ふと周りを見回すと、寒い中、別の席に若い女性がいるのに気が付いた。隣にとても大きい旅行鞄を置いている。歳は女社長より半回りほど若い20代前半だろうか。ゆるふわ系の可愛い娘で、やはり同じようにティーと軽食を微笑みながら齧っている。服装は上が黒の比較的長めでゆるふわな黒いニットのオフショルダーケープセーター。下は腰にポンポンリボン付いた黒いベロアとトリムファーの比較的長いスカートを穿いている。セーターの切れ目からは黒いベロアのロンググローブを付け、脚には真っ黒のサイハイソックス、黒いブーツに黒いベレー帽。上から下まで黒々づくめ。一応黒の編み上げサッシュベルトを巻いているがセーターの長い切れ目の腕出し部からちらりと白いお腹が見えたり、スカートの左前には腰辺りから長い切れ目のスリットがはいっていて太腿が丸見えである。恥ずかしくないのだろうか?と女社長は思った。しかし彼女の付けている装飾品、ネックレスや腕輪、指輪などなどを見てこの可愛らしくほのぼのだが無理に性的な魅力を出そうとしているけど出ていない残念???な女性が何なのか気づいた。
「ああ、なるほど。ウィッカンね。」と女社長は呟いた。
本部がある北アイルランドにはケルト神話が根付いており、その中に出てくる女神を崇拝しハーブや薬草で自然治癒を行ったり占いをしたりする、所謂白魔女が存在する。たぶん彼女もそうだろう。
どういう訳か、ふと女社長は彼女が気になり声を掛けてみたくなった。
「ご同席宜しいですか?可愛いウィッカン殿?」丁寧に女社長は声を掛けてみた。
「え?私ですか?どうぞ~。うふふ。」変わらずにこやかにウィッカンはお誘いに応じた。
「否定しないという事はそうなのですね。」とティーを啜りながら女社長は訊いた。
「ええ~、そうなんですよ~。うふふ。」とサンドイッチにかぶりついた。一緒に食べようと女社長はココアクッキーを差し出す。
「わぁ!ご馳走様です。」と嬉しそうにクッキーに手を出した。
「失礼ですがウィッカン殿。こちらへはお仕事で?」
「ええ、依頼で魔女の癒しの宅配便をし終わった所なんです~。うふふ~」その答えを聞き、女社長は納得した。白魔女ならそういったことは得意だろう。
「癒しですか…どんな事をされるのですか?」
「私は薬草が得意分野ですので、ハーブティーやアロマオイルを使ったテラピーをしてるんですよ~。元々は趣味だったのですけれど、それならお仕事にしてもいいかな~って。うふふ~」楽しそうに若いウィッカンは話した。
「で、今はここでティーを楽しんでいる、と。」苦笑しながら女社長は返した。
「他のティーを楽しむのもたまにはいい経験だと思うんですよ?」と彼女は身を乗り出し、女社長を覗き込む。
「確かに。軽食もつまめますしね。」再び苦笑いで返す。何となく気軽に話しやすい女性だと。これも魔女としての才能とかなのだろうか?ふと女社長はお願い出来るか聞いてみたい事が出てきた。
「ウィッカン殿、もし宜しければ今度私にも施術をお願いできますか?」
「え?もちろんですよ~。喜んでさせて頂きます!お客様大歓迎ですよ~!うふふ。」満面の笑みで答える。どうやら引き受けてくれそうだ。
「あら、いけない!自己紹介がまだでしたね?私、魔女のアラディアと申します。うふふ?」
「こちらこそ押し掛けた上にご挨拶を忘れるとは…女社長と言います。とある会社の社長をしています。」自分の非礼を詫びた。ビジネスの人間として恥ずかしかった。どうやら少々浮かれていたようだ。
「お仕事が終わられた、という事はこれからどちらへ?」
「今日はこれから飛行機を使ってお家に帰ろうと思っているんですよ~。ハーブも切らしてしまいましたし。うふふ。」
「そうですか。ではこれからジュネーブ国際空港へ?」ジュネーブ国際空港は目と鼻の先だ。
「ええ、そうなんです。ですがこの後どうしたらいいのかわからなくて~。」どうやって彼女はここへ来れたのか、女社長は呆れ気味に思った。
「私もそちらへ用事があるので、お送りしましょうか?」と提案をしてみた。
「わぁ、本当ですかぁ!助かります~!」魔女はとても喜んでくれる。
「ついでにチケットの購入もサポートいたしますよ、素敵な魔女殿?」悪戯っぽく提案する。
「して、どちらまで行かれるのですか?」
「北アイルランドのロンドンデリーまでなんです~。うふふ。」とにこやかに答える。
女社長は??と思った。ジュネーブ国際空港からロンドンデリーへいく便なんてあっただろうか?マントの切れ目から手を引っ込め、ポケットのスマホを取り出してジュネーブ国際空港の出発便を調べる。やはりロンドンデリー空港までの便は無い。そもそもそんな航路すら無い事を仕事柄知っている。
「魔女殿、ロンドンデリーまで行く便どころかそんな航空会社すら無いのですが?」と困った顔をしながらティーを啜る。魔女も困った顔をする。
「あれ、おかしいですね。えーっと確か…平和?な?鳥的な?なんとかとかいう航空会社だったかと…」それを聞いた女社長は啜ったティーが喉の変な所に入り暫くむせる。
「はぁ!?まさかウチ(Peace Bird Air Company)ですか!?」
「わぁ!やっぱり!!私の予感もまだまだ捨てたものじゃないですね~。」と右手の人差し指をあげてウィンクしながら再び満面の笑みになる。
「実はですね~、お家に帰ろうと思って歩いて空港まで行こうとしていたんですが、途中で疲れちゃって…丁度この喫茶店が目に入ったので休憩しようかな?と思ったんですよ~。そうしたら急にピピピって予感がしたんです!ここでティーを楽しんでいると私をロンドンデリーまで運んでくれる素敵な人が現れるって!」
それを聞いた女社長は更に呆れ、同時にどういうこと?と疑問を持つ。Peace Bird Air Companyはジュネーブ国際空港への便名登録を一切しない。運営形態がゼネラルアビエーション、チャーター&エアタクシー専門で直接受け付けるからだ。
「はぁ、これは一体どういう事なんだか……うーん、丁度私もロンドンデリーの本部へ戻る予定ですが…これも何かの縁でしょうかね…相乗りしますか?」女社長は心底困り果てたというか、困惑したというか。魔女殿は更に満面の笑みで「ほんとうですか!嬉しいです~!!」と提案を受ける。
不思議で楽しい?ティータイムが終わり、女社長は自分の車、フェラーリGTC4Lussoに乗って戻ってくる。一度降りて、助手席のドアを恭しく開ける。
「さあ、偉大なる可愛いらしい魔女殿。こちらにお座りください。」と促す。そして彼女の大きな鞄は自分の席の後ろに置いた。
「うふふ、それでは失礼しますね。」と笑顔のまま席に着いた。女社長はそのまま運転席に着き、二人ともシートベルトを付ける。エンジンを掛け、ジュネーブ国際空港へ向かう。しかし、ここから目的地までは魔女にとって初めて死と隣り合わせの地獄と恐怖の時間を味わうことになった。
女社長は何も考えずガン!とアクセルを踏む。ただでさえ急なのにこの車の性能を考えると急加速もいいところだった。四つのタイヤからキューっとホイールスピンが起こる。
「おっと、踏み過ぎたわ」といい、アクセルを戻す。交差点が近づくと今度はガツンとブレーキを停止線ギリギリで止まるように踏む。今度はギューッとスキール音。だんだん魔女の笑みに戸惑いと恐怖の色が加わる。交差点を曲がる時もハンドルを一気に曲げて首が振られる。嫌な予感がしてきたので、懐から気を落ち着ける効果のあるハーブの入った小瓶を取り出す。
「あら、とてもいい香りですね。」と女社長はご機嫌に聞いてくる。
「え、ええ~。気持ちが落ち着く効果があるハーブなんですよ~。」と冷や汗と笑顔を交えながら説明をする。次に見えてくるのは緩いカーブ。とはいえ多少は減速をしないと曲がり切れないだろう…電子制御のサポートがあっても曲がり切れない。女社長はそのままのスピードでカーブに入り、途中で減速しないと曲がれないことに気付きブレーキを激しく踏む。カーブに入る時もブレーキの時も魔女の頭は前後左右に振られ、体もつんのめったりシートに身体を押し付けたりと酷い有り様だった。ジュネーブ国際空港までたった10分程度の道のりだったが、彼女は一生分の死の恐怖を味わった気がしていた。Peace Bir Air Companyジュネーブ支部に着いた頃にはその笑顔が引きつって背中には冷や汗がだらだらと流れていた。心の中でここまで死を意識したのは初めてだと呟いていた。
「さあ、到着しましたよ。」と再び女社長はドアを開ける。微かに苦笑いを表しながら魔女は車から降りた。恐怖の後に吸う新鮮な空気がこんなにも美味しいモノなのかと初めて知った。
車を降りた場所は駐機場の端にある駐車場だった。女社長は入出国管理官が直ぐにやってくるのでここでお待ちくださいと伝え、彼女は事務所に入っていった。駐機場には最新鋭のビジネスジェット、HONDA JETが駐機していた。全体が白で機首と翼端が鮮やかな蒼で塗装されていた。垂直尾翼には社標である国際連合憲章を掲げるマンガチックなハトが描かれている。
直ぐに事務所から女社長とYシャツにネクタイを締めた男性が出てきた。本ビジネス機の機長ですと女社長は紹介する。と同時に駐機場の滑走路側の出入り口から初老の男性がやってきた。
その初老の男性は開口一番「わざわざここまで人を呼び寄せるなんて、相変わらず人使いの荒い会社だのう。」と宣う。
「ちゃんと空港使用料やその他費用も払っているし、必要書類も期限を守って提出しています。何か問題でも?」と女社長は強気にでる。
「んなことぁわかっているよ。ただ老人をもう少し労われと言いたいんだ。年寄りの文句だ、聞き流しておくれ。それよりパスポートを。」と促され、女社長、ビジネス機機長、魔女のアラディアはパスポートを渡す。管理官はそれぞれに印を押し、各人に返した。
「んじゃ、良い旅を。」と言い残し、入出国管理官はターミナルビルへ戻っていった。
手続きが終わった所でビジネスジェットの出発準備が始まる。ビジネスジェット機機長はおっちゃんと共に外周点検をし、チェックリストにサインをしておっちゃんに渡す。その間に女社長は魔女のアラディアに機内に入るよう促す。
「さあ、魔女殿。席にお付きください。」
「あのう、そろそろ魔女殿よりアラディアと呼んで頂けると嬉しいのですが…」と少し不満というか困ったような顔をする。
「んーしかしですね。お客様、特に徳が高い魔女殿を軽々しく呼ぶのも…」と女社長は難色を示す。
「でも私たち、もう友達だと思うんですよ~。うふふ。」いつものうふふを返す。
「そうですね、こう知り合ったのも何かのご縁。では魔女殿ではなく…え~っと…」
「アラディアです。」
「アラディア様とお呼び致しましょう。」と意地悪く女社長は返す。
「もう!アラディアでいいですよ~!」と頬をぷっくりふくらませる。
「はいはい、アラディア。」と女社長は苦笑いをする。
そうこうしているうちに出発準備が整い、HONDA JET、Peace Bird 5号は駐機場から誘導路にでて、離陸をする。その間、アラディアは軽いテラピーとしてハーブティーを入れて、香油でのアロマテラピーを女社長へ施してくれた。香油の匂いが付くのは本来ビジネスジェットとしてはご法度だが、こういった芳香系の香りなら清潔感があるので構わないだろう。2時間後にはロンドンデリー空港へ到着した。
「アラディア。ついでだからあなたのお家まで車で送るわ。」と親切に言ってくれる。もちろん断るわけにはいかない。先程の友達発言は迂闊だったかな?とアラディアは思いながら、蒼い顔を含んだ笑みで嬉しいです、うふふ。と答えた。
数日後、女社長の命でジュネーブ支部事務所に主要メンバーが招集される。メンバーはじいさん、ばあさん、じんぺーさん、おっちゃん、書類作成のお姉さん、運行管理係、デッチ、ホウコウとあとモブ整備員数人。女社長の横には魔女のアラディア様がいた。皆はその素っ頓狂な格好をした女性をじろじろと見る。
「皆、忙しい所を集まってくれて感謝する。突然だが皆に福利厚生の一環ととしてテラピーを受けてもらう。スケジューリングは私と書類作成のお姉さんで調整する。よほど重要な業務でない限りはこちらを優先して貰いたい。」それを聞いた皆はハトが豆鉄砲の豆を口の中に撃たれたような顔をして、何を言ってんだ?コイツとか失礼な反応をする。女社長はひとつ、んっんっーと声を出して皆を静かにさせる。
「紹介しよう。こちら魔女のアラディアだ。テラピーを専門に行っている。軽くならカウンセリングも受けてくれるそうだ。」そう紹介されて、アラディアは挨拶をする。
「えーっと、魔女のアラディアと申します!宜しくお願いします。うふふ~」それを聞いた皆の反応は一人を除いて困惑している。混乱的な空気が事務所に渦巻いていた。その一人だけが大声で急に叫びだす。
「あ、アラディア様ですか!!!!まさかウィッカンの!!」声の主はボクッ子のホウコウだった。
「え?ええ~そうですよ~。うふふ。」と今度はアラディアが困惑しながらも笑みを浮かべて答える。
「ま、まさか本当に…それ以上にお会いできるなんて奇跡では…」何やら訳の分からないことをホウコウは呟く。
「ホウコウ、あんた彼女を知ってるの?」と女社長は訊く。
「知ってるも何も!アラディア様ですよ!!知ってて当然ですよ!!なんで知らないんですか?!あなた莫迦ですか?!!」と声を荒げてホウコウは女社長に怒鳴る。
「あ?なに人の事莫迦呼ばわりしてんだコラ?」と女社長はドスが利いた声で返すもホウコウは怯むどころか…
「知らないなんて莫迦以下ですよ!アラディア様ですよ!!女神様ですよ!!昔居たって言われている預言者のキリストとは違って、正真正銘本物の実在の女神様ですよ!知らないなんてあり得ない!!」その言い争いは事務所内に剣幕によるピリピリとした緊張感と混乱を更に強くした。何がどうなっているのか分からない。その荒れ狂い方はまるで天災の如く。
「アラディア様!その御銘は天啓ですよね?!自称ではないですよね?!!!」ホウコウは問い先をアラディアに向ける。
「ええ~。そろそろ魔女の銘を付けようかな~と思った時に急にこの名前を告げられたんですよ~。うふふ」何とも曖昧というか、自称っぽいという感じの答えが返ってくる。
「ほら!!やっぱり!!!!本物のアラディア様ですよ!!皆さん、図が高い!高過ぎです!!!!」ここまでくるとホウコウの興奮気味な叫びが一種の狂気のように聞こえる。仕方なく一部の人間は挨拶という意味で頭を下げる。
「皆さん、特に女社長!この方を知らないなんて人間失格ですっ!!」周りの人間はそろそろホウコウに落ち着けと抑え掛かる。誰かが気を利かせて水の入ったコップを持ってくる。
「で、そのアラディア様とはいったいなんなの?」かなりの怒りとイラつきを隠しつつも隠せていない女社長はホウコウに聞く。
「まったく!いいですか?アラディア様は豊かな者であるキリスト教信者に対し、貧しく迫害を受けていた異教者を救う為に、月の女神アルテミス様と彼女によって創られた太陽の神ルシフェル様との間に、二人の神力のほぼ全てを授けられ受肉された実在の女神さまなんですよ!」と説明をする。
皆はやはり、はぁ~という微妙な感じで話を聞いて理解?というより無理やり納得をすることにした。これ以上ホウコウを逆撫でしても噛みつかれるだけだろうと皆の意見は一致した。
「で?アラディア、実のところはどうなんだい?」と女社長は当のアラディアに聞いた。そこから更にホウコウが割り込む。
「実だろうがどうだろうが誰がどうであろうが、アラディア様がアラディア様でおられる事がアラディア様として大事なんです!しかもアラディアと気安く呼ぶなんて畏れ多くも馴れ馴れしい!!」皆その答えに、それじゃ偽物でもいいじゃねーかと心の中でツッコンでいた。
「そうだ!アラディア様!!もし本物のアラディア様なら二つの印がされてあるはずです!!余りにも畏れ多く失礼とは重々承知しておりますが、ご確認をさせて頂けないでしょうか!?」とすごい剣幕でホウコウはお願いをする。困った顔をしながらここはそうしないと場が収まらないと思い、アラディアは観念したようにいいですよと答えた。しかしその印の付いている場所は場所だけにホウコウは男性陣をあっち向きにさせ更に遠ざける。女性である女社長、ばあさん、書類作成のお姉さん、言い出しっぺのホウコウの四人がガードの為に固まって壁を作りながらアラディアに憑いている印を確認する。ホウコウの声がとぎれとぎれに聞こえる。
「ボクが聞いたのは…へ…の…あって、あと…も…内…に…」その説明にアラディアは恥ずかしそうにそれを見せる。
「ええ!まさか…所にこんな…」と書類作成のお姉さんの小声の驚きが聞こえ…
「うわ、これは流石に信じら…入れ墨じゃな…人体の神秘かしら?」と女社長も小声の驚きを…
「だから女神さまですよ!あとこっちには…」ホウコウの小声でどうやらもう一つも確認をされているようだ。アラディアは益々恥ずかしそうな呻き声をだす。布の擦れる音がする。
「ほんとだわ…凄…」と再び書類作成のお姉さん。
「え?どうしてこんな所にこんな…アラディア、いつからこれが…」と女社長は小声で問う。
「だから言ったでしょ!?ウィッカンは常に自然との接触が大事だから、ここに自然の気を受けられる様に服がぶかぶかだったり、スリットが…」今度はホウコウの小声の説明。
暫くして、女社長はコホンと咳をして、納得をする。
「男性陣、もういいわよ。」と号令を掛ける。アラディアは顔を真っ赤に染めていた。
「とにかく…ホウコウの話はともかく私の実体験も交えて、この魔女殿はただモノではないとわかったわ。イマイチ信じられない事ばかりだけど。」と女社長は話を切る。しかしホウコウは更にそれに噛みつく。
仕方なく女社長はその体験を話す。自分から喫茶店で声を掛けたら、私がココの社長でロンドンデリーまで行く事、ついでにそこまで連れてってくれると直感した事云々。ホウコウはますます「やはりアラディア様に間違いない」と勝手に納得をする。何となく混乱した場の空気が落ち着き、正体はともかく彼女がただモノではないウィッカンだという事で落ち着いた。まるで何かのコントかよく分からない空気だったが、突然入ったカンパニーラジオからの声がそのだらけ切った空気を張りつめたものに変えた。
「こちらPBA8xx便。カンパニー、これよりジュネーブ国際空港へ着陸する。」それは機長の声だった。
皆は暫く混乱した空気の中で意識がはっきりせず、どうすればいいのか分からなくなって誰もラジオへ返答をしない。
「おい、聞いてるのか!?こちらPBA8xx便。これからジュネーブ国際空港へ着陸する。誰か返事をしろ!」それを聞いた運行管理係が慌ててラジオのマイクを取る。
「こちらジュネーブ支部。PBA8xx便、了解。お疲れ、無事に下りてくれ。」
「こちらPBA8xx便。ジュネーブ支部、了解。言われなくても無事に降ろす。俺も大事なコイツも機材だからな。壊すわけにはいかない。凡そ十分後には駐機場に入る。以上。」と少し不機嫌というか怒り気味に機長から返答が来る。
「今のはどなたですか?」とアラディアは女社長に問う。
「ん?ああ、アレはどなた、ではなく機材だ。会社の備品さ。」と冷たく女社長は答えた。その瞳と表情には微かに憎しみ、恨みのような色が現れていた。
「さぁ、早速だが、今日はじいさんとばあさんがテラピーを受けてくれ。業務は私が引き継ぐ。場所は第二仮眠室でいいだろう。アラディア、後は宜しく頼む。」と彼女にお願いをする。
無意味で無意識な悪意のお帰りかと女社長は心の底で呟いた。
報告通りにPBA8xx便は10分後に駐機場へ到着した。アラディアはその光景を仮眠室に向かう途中の廊下の窓から眺めていた。その機体は駐機場を大きく占領し、ある種の威圧感を放っていた。新品ではあっても既に現れている純粋で圧倒的な力。しかしその外観には表現しがたい美しさがあった。機体は他の機と同様に機首と主翼端、垂直尾翼端が蒼で塗られている。しかしHONDA JETとは違い白に塗られている部分は低迷彩の灰色だった。イギリス国籍なので垂直尾翼の下の方に機体国籍銘SUEVVEと書かれてあり。その上に描かれた社標は国連憲章を掲げたマンガチックなハト。操縦席からパイロットが降りてきて、ヘルメットを外す。その姿も何か言いようのない気配だった。悲しみ?怒り?静かなのに漂う負の…違う…もっと…そう、冷徹というのが正しいかもしれない。二つの不思議な迫力に圧倒されつつ、彼女は何か予感を感じていた。
テラピーが終わり女社長から月1~2でいいので社員権限を持つ準社員として暫くテラピーを担当して欲しいと頼まれた。ここの連中は現場の最前線で、こういった癒しは重要だと前々から考えていたからだ。それとロンドンデリーとここの往路で自分と便乗すればこっちで他のお癒し宅配便もしやすいだろうと提案もされる。必要ならば宿舎も用意するしアラディアの為に便を飛ばしても良いとさえ言う。但しそれが必ずしも乗り心地の良いモノとは保証できないらしいが。それは彼女にとっても好条件だった。ロンドンデリーとの往路の運賃はかなり高いし遠回りにもなる。なので大陸側で拠点???が出来るのは便利だ。しかもあっちから必要な物もあっちへ送りたいものもある程度自由にできる。願っても無い事だろう。伝えてはいないが実はこれもまた彼女の予感の一つでもあった。そしてもう二つ…そのうちの一つは女社長にとって必要な…。
アラディアが初めて個人便に乗ったのは三日後だった。テラピー用の薬草が切れたのと、こっちに持っていきたい魔法のティーカップとポットの為だった。便に使われる機材を聞いて彼女は吃驚した。いきなり小型の戦闘機のようなものと言われたからだ。Yak-130という高等ジェット練習機で、装備を載せれば戦闘行動も出来るという話だった。操縦するのはあの日見たパイロット、機長だった。彼女は初めて間近で彼を見た。初めて会った印象はこの間と少し違い、なんとなく親しみやすいような、でもどこか距離を置いているような、そして赤子とは全然違う意味でイマイチ人間性を感じない、つい最近人間になったかのような雰囲気だった。
彼はいきなり女社長に「はぁ?この女性をロンドンデリーまで13号機で運べってんですか!?」と喰ってかかる。
「今言った事が理解できないほど愚かなの?」と冷たく返す。
「ビジネスジェットの方がよっぽど安全で快適だ!なんであっちを使わない!?」
「あっちはこれから私が客と商談する為に使うんでね。そうなると空いてる機を遣うしかない。そしてこっちの支部でそれらを飛ばせるのは残念ながらお前だけだ。あたしもなんでお前をと、と言いたいんだ。」その二人の会話は社長と社員というより持ち主と奴隷…以下の雰囲気だった。
「あのぅ~、何か問題があるんですか?」と済まなそうというか遠慮気味に魔女殿が割って入る
「ああ、気にしないでくれ。コレが駄々をこねているだけだ。」と更に冷たく言う。
「冗談じゃない!アレだって規定通り耐G訓練や耐低酸素下訓練をしなきゃいけないんだ!こんなか細いお嬢さんに訓練なんかさせたら気絶する!」と機長は失礼な、いや性差別的な発言をする。しかしこう言わざるを得ないのもまた事実だ。たかだかロンドンデリーへ行くのにそんな訓練は恐らく必要ないのは確かだ。だが所謂旅客機と違い戦闘機や練習機に乗る場合は規定である訓練を行う事を守らなければ、第一原則である乗客の安全を保障できない。いや訓練を耐えても完全な保証などない。
「ここまで言っても解らないの?彼女は頻繁にこことロンドンデリーを往復してもらう。空いてる機を使うしかないだろう?そしてお前にとって私の指示は絶対だ。もう行け。」そういってもう目も合わせたくないと言う様に向こうへ去っていく。このやり取りは事務所全体に響き渡っている。いつものことだ。
「…」機長の微かな怒りを魔女は感じた。
「あのぅ、ごめんなさい。もし無理なら別の機会に…」と済まなさそうにアラディアは謝った。
「あー、こちらこそすいません。」機長は少し冷静になって謝った。女性を悲しませる趣味など彼には当然ない。ただ自分が操る飛行機、そしてその便は常に危険に晒される。いや、正確には危険に飛び込むのだ。その為に最低限の二つの訓練を受ける規定がある。勿論この魔女殿も例外ではない。更に言えばこの女性に会ったのはこれが初めてで、どういう人物なのかも知らない。普段機長はフライト後の報告や空港側からの飛行経路についてのニュースチェックとそれを考慮して次回フライトを想定した詳細な情報収集、更に自主訓練や格納庫で第二の整備監督をしているので、一日中あちこち移動している。逆に彼女は時に自営の仕事であるお客様の所へ出向いたり、こっちにいる時も仮眠室でのテラピー、一寸した怪我や軽い疲労の手当などでまだ顔を合わせるどころか知りもしなかった。一息つき、機長は自己紹介をしていないことに気付いた。
「あ、自己紹介がまだでした。俺は機長と言います。」と少し頭を下げる。
「うふふ、やっとお名前が聞けましたね?私は魔女のアラディアと申します。」ぺこっと頭を下げにこやかな顔をする。
「では早速…」「あのぅ…聞い…」「アラディア様を困らせ、悲しませているのは誰?!」三つの声が重なる。最後のは当然ホウコウだ。機長とアラディアは顔を合わせ???と疑問符を浮かべる。
「機長!あんたね!!ボクの偉大なる女神、アラディア様を困らせているのは!!この便の整備、めちゃくちゃにしてやるわ!!」と割って怒鳴り込む。事務所の人々はまたかよ、とか、いつからおまえのになったんだよとかの小声や思いが交差していた。
「ホウコウ。おまえ、誤解してるぜ。俺は泣かせちゃいないよ。」と言い訳をするが、事務所のあちこちで、でもあれってどう聞いても性差別ですよねとか、よくアラディアさん泣かなかったよな~とか、どんだけ自分の危険を自慢したいんだかね~とかヒソヒソ声がした。
「貴様、アラディア様に何を言った!?吐け!!」そのヒソヒソ声はホウコウを沸騰させるには十分だった。空気がどんどん苦くなる。
「参ったね、俺は彼女に何も言ってないってのに。あー、でも次の便のお客様はこちらのアラディア様だぜ?手を抜いたりめちゃくちゃにしたらお前が後悔するんだがな?」となんとかホウコウをなだめようとする。
「うるさいわね!そうならないよう飛ばすのがあんたの役割でしょ!」むちゃくちゃな論理で噛みついてくる。
「おまえな…」
「あ、あのぅ喧嘩はもうしなくても…ちゃんと機長さんも分かってくれましたし。」とアラディアはもう三回目くらい割って入るが
「わかってくれた!?機長、あんた偉大なる女神様の御神託を一回蹴ったのね!!」ホウコウは完全にヒステリックになっている。
「どうしてそういう解釈になるんだよ?!おかしーだろ!ただ訓練機とはいえ危険だからビジネスジェットは使えないのか?って女社長に言っただけだぜ?!」と言い訳をするが、やはり周りから、だからってあんな喧嘩腰にはならないよな~とか、いつも喧嘩してるからうるせーんだよなぁとか聞こえて、もうホウコウは怒髪冠を衝くになっている。気付けば腹にホウコウのいいパンチが入っていた。
「ぐぇ」お約束のガマガエルの様な呻き声が機長から出る。
「なぐる、殺す…」
「も…殴…ら…」
「オまマエゎソノてイド゛デハシなナイ。」流石に事務所の連中もヤバイと感じ、ホウコウを羽交い締めにする。
他の連中もそろそろ事態を収拾しようと入ってきた。落ち着けとか、たとえ練習機でも乗るのに規定があるからね…とか、やはりコップに水を入れて持ってくる人とか。
何とか説得して、事態を理解させた。だがアラディアの耐G訓練や耐低酸素下訓練云々の発言は性差別という意味合いで機長に非があると言われた。しかし機長の言い分ももっともで、高高度で彼女が低酸素症になったらそちらの方がホウコウに殺される。また、もしも機に異常があって問題を解決するために荒っぽい操縦をして高G状態も…無いわけではない。しかし結論は簡単で、実際に試してみればいいのだ。そして彼が訓練場に案内しようとした時にホウコウが怒鳴り込んできた。つまりホウコウによって皆は時間の無駄をさせられただけだった。
結局、耐G訓練では規定値を遥かに超える6Gより上まで耐え、耐低酸素下訓練も常人とは桁外れの低酸素下でも制限時間内に酸素マスクをつけられた。これだけ優秀だとかえって機長の懸念の方が悪印象を与えた。
騒動も結果的にはAll Lightとなり、Peace Bird 13号機は予定時刻に離陸した。流石の彼女も訓練用とはいえ小型ではあるが戦闘機に乗ったのは初めてだった。前や周りにいる旅客機とは遥かに小さいので誘導路では他の飛行機を見上げていたが、空に上がると周囲の視界が旅客機とは比べものにならない程広く、かなり興奮しているようだった。高度も最初は比較的低い所を飛んで、天候も雲が少なかったので絶好の飛行体験となった。
「機長さん、凄く景色が綺麗です!」酸素マスクによってくぐもっていたがアラディアは喜びの声を上げる。
「まぁ、普通では見られない光景ですね。ついでだからサービスとして空中3回転もお付けいたします。」と、いきなり操縦桿を右に倒す。突然機体は時計回りに3回ロールをする。
「凄い、凄いです!ジェットコースターより遥かに凄いです!うふふ」と大満足だった。
「LGTC4LussoF(UIR FRANCE:UIRフランス航空管制)、こちらPBA1309便、高度を20000feetから27000feetまで上昇したい。許可願えますか?」
「PBA1309便、こちらLGTC4LussoF。高度上昇申請を許可します。その高度は空いています。」とUIRフランス航空管制局から返答が来る。
「LGTC4LussoF、こちらPBA1309便。ありがとうございます。これより上昇します。」と返答をする。聞いていたアラディアは?となる。
「では偉大なる魔女殿。最後のサービスとして戦闘機らしい急上昇もお付けいたします。」そう言い、機長は操縦桿を一気に手前に引き、スロットルを最大にする。その途端、機首は急に上を向きどんどん加速しながら上昇する。蒼い空が眼前に広がる。推力は足りているので失速落下はしない。ただ急加速によるGの為、強くシートに押し付けられる。
「きゃぁぁ!」しかしその声は驚きではなく、歓喜だった。直ぐに予定の27000feetに達し、機を水平に戻す。
「わぁ!凄い蒼空ですね!雲もあんなに下に!うふふ、とっても楽しいです!」この女性、案外肝が据わっていると機長は思った。普通の人にとってこれらは危険と認識し恐怖を感じるものだが、ケロッとして楽しんでいた。
そうこうしているうちに予定通りロンドンデリーに到着した。彼女は女社長にお使いとして本部へ郵便もお願いされていた。それらを事務所へ届け、彼女の家へ向かう。本部から彼女の家までは機長が社用
車で送る。車はちっこいルノートゥインゴ。その中でアラディアはさっき聞きそびれたことを機長に話す。
「そのぅ…さっき聞きそびれたのですが、なぜ女社長とあんなに仲が悪いんですか?いえ、そういうよりもまるで機長さんが奴隷…いえモノ扱いされているような気がするんです。」なんとなく言いにくそうに話した。
これは彼もずっと考えていた。なんで機材、備品扱いなんだ?あの時、急に意識がはっきりしたこと、あれは何だったんだ?関係があるのか?そもそも俺は一体何なんだ…しかし考えるのをやめ、被りを振る。
「んー、さぁてね。俺にも心当たりはないんだ。ただ…何か変なんだ。よく分からないしどういえばいいのか…でも何かが…おかしいんだ。」
「こう言うと失礼なのは重々承知ですが…機長さん、なにかこう、最近人間性を持ったというか…その…語が足りない拙い会話をしているような…ごめんなさい!」言ってしまって、アラディアはとても後悔した。人を傷つけるには十分すぎるくらい酷いことを言っていたことに気付く。でも何故か言わなければならなかったと予感していたのも事実だ。
「…」機長は黙って聞いていた。暫くして彼は真剣な口調で答える。
「魔女殿、あんたもそう感じるのか…実は周りのみんなも…俺自身もそう感じるんだ。いや、比較的最近そう感じたんだ。さっきだって冷静に話せば喧嘩腰な会話にはならなかったかもしれないし、なんというかコミュニケーションというものをつい最近始めたって感じがするんだ。」その言葉には幾許かの戸惑いが含まれていた。
「そうですか…酷い質問してしまってごめんなさい。」再びアラディアは謝った。機長はそれを気にしないで欲しいと頼んだ。自分ですらそうなのだ。
「それはそうと…お車の運転、お上手なんですね?うふふ。」機長はその一言ではっと気が付く。この魔女殿は連続で自覚無く毒を吐いていた。その対象は…
「まさかあんた、女社長の車に…」機長は青ざめた。敏感に危険を感じ取りながらもそれに飛び込む役割の彼にとっても、あれは比較にならないほどの恐怖だった。
「うふふ、何の事でしょう?」と誤魔化す。やはり被害者だったか。女社長は車の運転がとにかく下手なのだ。それも命がけクラスの。よく事故が起きないな、死なないな、時にはもう死なせてくれとさえ思っていた。備品扱いの彼は個人としても台車扱いで買い物に引っ張られる。当然助手席に乗せられるのだが、その度にいつも死を意識していた。自分で手綱を握れないのがこれほど恐ろしい事とは思っていなかった。まだ紛争地帯で地対空ミサイルの嵐を抜ける方が遥かにマシだと常に思う。彼女も被害者と知ると、何というか哀れみと同情を感じ急に仲間意識が芽生えた。
「死にたくないし、死なないことを祈る…ばかりだ。女神さまに。」ボソッと機長は呟いた。アラディアはクスッと笑った。
今日は土曜で明日は日曜の二日休日。ジュネーブ支部の一角にある掘建て小屋に住んでいる機長は、今日は偶には街でも行こうかと考えていた。のそのそとベッドから起き上がり、パジャマから私服へ着替える。ついでだから朝食も外でとるかな?時計を見ると9:30過ぎ。小屋から出て駐機場を通り事務所に入ると珍しく書類作成のお姉さんがヒマそうな顔をしつつ、机に向かっていた。
「書類作成のお姉さん、今日もお仕事ですか?」と機長は尋ねる。
「えーっと、実は仕事殆ど無いんです。」と少しむくれた顔で答える。
「じゃ、なんでそこに?」
「機長…察してください…」その声は少し怖かった。
そのまま社用車をレンタルしようと鍵棚に向かう。棚にはフリーの鍵が二個しかなく、使用予定を書いたホワイトボードには結構な人数が車を借りていったのが判った。空いているのはフォードのトランジットコネクトという商用バンと小型のフィアットパンダ。ちょこっと出かける程度だし、大荷物なんか積む筈が無いので小型のを借りようとした。が、何故か急に気分が変わり商用バンを借りることにした。ホワイトボードに商用バン:機長と書き鍵を持っていく。
駐車場に行くと三人が1台の車を囲んでいた。整備担当者が二人に運行管理係だ。機長はこっちもかと思い、一声かける。
「三人そろって何してるんですか?」
「みりゃ解るだろ?こいつのタイヤを冬タイヤに換えてんだ。」とご機嫌斜めに運行管理係が答える。
あー、書類作成のお姉さんの機嫌が悪いのが判ったわー。と機長は気づいた。
「全く女社長は人使いが荒いよな?もうそろそろ雪が降ってもおかしくない時期だから交換しとけって急に言ってさぁ。休出手当出すっていうから引き受けたけど。」整備担当の一人が漏らす。
「他の連中は用事があるからとかいって俺らに押し付けるし。全くツイてないよ。」もう一人もぼやいた。
「うーん、それは大変ですね。お疲れ様です。」と機長は労いの言葉を掛ける。
「機長、あんたもヒマだよな?手伝ってくれないか?」と運行管理係は引きずり込もうとしたが
「偶には外の空気が吸いたいんで勘弁してください。」と断る。普通、他の人間ならもっと強く引き留めようとするのだが、機長の場合だけは違っていた。彼は休日は牢屋に入れられているが如く小屋に籠りっ放しで、大概こう言った事で声を掛けると渋々手伝うパターンばかりだった。なので出かけようとしているのはとても珍しい事なのだ。三人はそれじゃ仕方ないと納得し作業に戻る。
「じゃ、頑張ってください。何か土産でも買ってきましょうか?」と機長が聞くと何か美味しいお菓子でもくれと返ってくる。苦笑しながら約束をする。
商用バンに乗り、近場のショッピングモールでもいこうか?と思いエンジンを掛ける。近場はメラン道路にあるバレクセール(Centre Balexert)だ。車を駐車場に停め、モールに入る。何を食べようかぼんやりと考えながら入り口から続く大通りを歩いていると、背後から声がする。
「うふふ、機長さん?」と声を掛けてきたのは魔女のアラディアだった。しかし機長はぼーっと考え事をしながら歩いていたので、その少しだけ小さい声に気付けなかった。なので今度は機長の上着の右袖を引っ張り、
「機長さん?うふふ」と再び声を掛けた。その瞬間、機長の体はびくっと反応した。
「うわっ!」っと振り向くと、満面の笑顔の女性にやっと気づいた。
「あ、アラディアさん!こんな所で何やってるんですか?」ショッピングモールなのだからショッピングだと分かるのに機長は間抜けな質問をする。女社長だったらまた愚かなの?と言われそうだ。
「うふふ、勿論ウィンドウショッピングですよ?スイスって初めて来たので色々廻ってみようかと。」
よく見ると彼女はおめかしをしっかりしていた。だがそれは普通、とはかなりかけ離れていた。魔女だからだろうか?何というか…所謂パンクゴスロリというヤツだ。日本の何かの記事を読んだことがある。
フリルがついた白いブラウスにチュールと白い布でで飾られた黒いスカート。後ろに長いトレーンの布が出ているサッシュベルトを巻いていた。ブラウスの上から着ているベスト?からもそんな感じのトレーンが垂れている。脚は黒いサイハイソックスにベルトで飾られた黒のショートブーツ。頭は赤い薔薇と黒いリボンで飾られたミニハットと黒いヴェールで飾られている。あちこちにワザと付けられたクラッシュダメージがあったり、金のチェーンや十字架の装飾があちこちされていたり、グローブの上から手飾りがついていたり、派手に飾られたチョーカーをしていたりとかなり目立っていた。それをみて機長はなんだろうコレはと思っていたが、少し眺めていると結構似合っているんじゃないか?いいんじゃないか?と思いはじめていた。
「機長さんはお買い物ですか?」
「あー。いや、特には。偶には外をブラついてみようかって思ったので。」
「じゃ、暇なんですね!色々と案内して頂けると嬉しいです!」といつもの笑みで頼んできた。うーん、と思いつつも特に断る理由も無いので引き受けることにした。
「いいですよ。でも俺もあまり詳しいわけではないんですが。」と少し困った顔をするが、名所くらいはわかるはずだ。
「うふふ、やりました!」
「その前にアラディアさん、俺、まだ朝飯を取っていないので軽く食べてからでいいですか?」ちょうど近くにサンドイッチが売っていた。
「もちろんですよ~。あと今日は私、プライベートで来ていますので、その…魔女銘のアラディアではなくファミリーネームで呼んで欲しいんです。」
おっと、今日はグイグイと来るなと機長は軽く驚く。
「そういう事でしたら…では何とお呼びすれば?」そう言うと、彼女は機長を屈ませて耳元で
「???ってよんでくださいね?うふふ?」と悪戯っぽい笑みを浮かべて答える。
「あと、この名前は他の人にはナイショですよ?うふふ?」と意味深な一言を付け加える。
「はぁ、わかりました。でもそういうの、俺だけに教えていいんですか?」と困惑しながら質問する。
「機長さんには特別です。うふふ」悪戯っぽい笑みはまだ続いていた。
「女社長には教えないんですか?」
「うーん、後程。お友達ですしね。うふふ」と、二人は歩き出す。取りあえずお腹が空いたのでそのサンドイッチと好物のココアを買う。彼女にもココアを頼んだ。
「わぁ、ココアとっても美味しいです!」と???さんは喜んでくれる。
「スイスはチョコレートが結構有名なんですよ。」と機長は説明をする。当然ベルギーの方が更に有名なのだが。
さくっとサンドイッチにかぶりつき、軽食を済ます。その間、彼女は食べっぷりを楽しそうに見ていたのが少々恥ずかしかった。
そして早速ウィンドウショッピングに出始める。しかしメインストリートに出た瞬間、背筋に怖ろしい気配を感じた。それは殺気に近い。刹那その殺気は真後ろに来ていた。
「をィ、おマまぇ。なニヲしてテぃる?」静かな殺意と狂気を孕んだ質問が背中からくる。
振りむけば案の定、ホウコウだった。その貌に浮かんでいるのは鬼?般若?人を殺すのに躊躇いが無い地獄の悪魔の様だった。その気配をなんとか受け流しつつ、機長は答える。
「何って、見れば分かるだろ?散歩だよ。偶には出かけようと思ってな。」と努めて平静を装いながら答える。
「ソんなこトハドウでもぃいィイ。なンでアラディア様トごいっシょナノかとキいテいル。」そのセリフだけで狂気を感じる、いや狂気そのものだ。
「偶々会ったんだよ。それよりオマエ、あ、お前らこそ二人そろってお出かけか?」傍らにはデッチがいたのに気づいた。つまりお出かけということだろう。
「オマエ如きに答えるつもりは無い…それより、どォイうこトだ?」もう怖ろしいのは分かったよと心の中で呟く。
「観光案内だよ、??…じゃなくてアラディアさん、ジュネーブというかスイスは初めてというので観光の案内をお願いされたんだ。」その答えにアラディアは一寸不満げに頬を膨らませる。
「観光案内のお願い…だと!?」と初めてホウコウはまともな返事を返した。その表情には汗が滲んでいる。機長は意地悪い事をピンと思いついた、この間の借りを返すため少し懲らしめてやろう。
「そういえばホウコウ。アラディア様はお前にとって偉大なる魔女の女神様だったよな?」
「と、当然そうだよ!」すこし狼狽えつつも強気で答える。
「なんでそのアラディア様を観光案内しないでほったらかして二人でお出かけしてるんだ?」
「な…!そ、それはアラディア様にもぷ、ぷらいべーとというも、もの…が、あ、あるでしょうし…」急に口調がしどろもどろになる。
「アラディア様、どうやら独りぼっちで寂しそうにお散歩していたらしくて、わざわざ俺を見つけて声を掛けて下さったんだぜ?」機長は悪い顔になってた。
「う…、あ…」とうとう返す言葉も無くなってきたらしい。
「あ~あ、お前さんの信仰心とやらはその程度のモノだったのか~。これじゃアラディア様も哀しいどころか…」そこまでいうと、当のアラディアはうふふと笑みを浮かべながら同じく意地悪な顔で面白そうに見ていた。
「あ、アラディア様!この不敬なわたくしめをどうかお許しください!!」と頭どころか腰を曲げて謝罪する。もう少し圧したら土下座位しそうだ。スイスに土下座の風習があるならだが。
「更に言えばこの間までは普通に機長と呼んでいたくせに、今はオマエとかキサマ呼ばわりだもんな。」と、自分の不満もぶつける。
「そんなものはどうでもいい。」と冷たくホウコウは呟く。機長は短息を付きながら
「さて、どうします?アラディア様?」とさらに意地悪く機長は彼女に聞く。
「うふふ。そうですね~?」彼女もどうやら悪乗りする気だ。
「そこで、だ。お前さんに汚名を返上する為の提案をしてやってもいいんだけどな?」と誘い込む。
「え?それは本当?!汚名返上できるの?!!」機長に縋り付いてきた。
「ああ、おまえさんが本気ならな?ただデッチも乗るかなぁ…?」と更に追い込む。
「え?僕も巻き込まれるの?」デッチは困惑する。
「機長さん、まさか…」とアラディアは小声で訊く。こっそり思っていた考えが砕かれるかもと少し不安になる。
「デッチ!君も協力しなさい!!私のアラディア様への信仰心を示すために!!」と今度は強気の圧力を彼にむける。
「うわ!そうきたかぁ~。だよなぁ~」とデッチは巻き沿いを食らう。
「で?どうすればいいの?いえ、どうすれば宜しいのでしょうか!?機長様!!!!」さっきまでの威勢は何処へいった?と思いつつ、ニヤニヤしながら機長は答える。もうアラディアにはその答えが解ってしまって、一寸不機嫌に少し頬をぷくーっと膨らませる。
「なーに、簡単な事さ。おまえらも一緒にアラディア様の為に初めてのジュネーブの観光案内すればいいんだよ。」それを聞いたホウコウはパァーっと満面の笑みを浮かべてそれだ!と叫ぶ。
「ではアラディア様、この罰する事すら生温い最大の過ちを犯した不埒モノの信者に、ほんの少しでも名誉を挽回する機会を与えて頂けますでしょうか?」と機長はニヤニヤしながら懇願するフリをする
アラディアは仕方ないという表情をなんとか隠しつつ、そうですよね~そうなりますよね~と残念そうに小声で呟く。
「ええ、一緒に案内して頂けますか?うふふ」とお願いをする。
「それでお許しが頂けるならもう喜んで!何処でも案内させて頂きます!」と恭しくも喧しく引き受ける。
「あー、よかった。俺あんまり詳しいわけじゃないから心細かったんだよなー。それで、デッチもいいかな?」
「ホウコウがアレじゃ仕方ないよ。ま、大勢の方が楽しいしね。」と苦笑しながら引き受けてくれた。
「という訳です、アラディア様」ちらっと彼女の顔を見るとはこっちをは不満そうな顔をしてぷいっとそっぽを向いた。あーあ、やっちゃったかな?と機長は苦笑する。
そんなこんなで四人組の観光旅行が始まった。まずは今いるショッピングモール、バレクセール(Balexert)のウィンドウショッピングだ。ホウコウとアラディアははしゃぎながらどんどん先に進んでいく。並んでみるとホウコウも同じようなパンクゴスロリの格好をしていた。周囲から一寸浮いている。しかし二人とも可愛く似合うので、奇異という目で見られている、というわけではなさそうだ。ホウコウはあちこちに十字架が掛かれた黒いキャミソールにバラバラな布を合わせた様なアシンメトリなセミロングスカート、上には黒のパーカー、縞々ハイソックスにやはり黒いブーツで着飾っていた。やっぱり魔女信仰の正装はああいうモノなのだろうか?と機長はそんなことを考えていた。
まずは服飾関係。ウィンドウのマネキンに着飾れている服で気に入ったものがあれば二人して特攻し、あーだこーだと話をしている。生活雑貨店もあり、アラディアには必要な物もある筈だが重い系は最後に見ることにする。そして時計専門店。スイスの工芸品の一つと言えばこれだろう。他にも装飾や置物のお店がある。
「アラディア様!見てください!そっくりです!」とホウコウがウィンドウの陶器の像を指す。背中に羽が生え、右手に水晶球を持ち、黒いドレスを纏った女性の像だった。その足元には恐ろしい竜を従えていた。
よく見ると他にも似た像があった。
「まさに伝説の魔竜すらをも使い魔とする偉大なる魔女の女神様ですよ!」と彼女は興奮していた。
「うふふ、私はこんなに美人でもないし凄い魔女でも無いですよ~」とアラディアは謙遜する。
機長もデッチもそれぞれ、なるほど偉大な魔女の女神だったらこんな感じかとか、これ、ホウコウにせがまれないよな?等考えていた。その予感は的中で、デッチ、これを私にプレゼントしなさいと我儘を言い出す。こんな高いの買えないよ、どうやって運ぶんだよ、そもそも君んちのどこに置くんだ?とか言い合いをし始める。機長は、あー今日俺の車は商用バンだからと一言加えておいた。
そんな二人を放っておいて、機長とアラディアは近くの装飾店を見に行く。ネックレスやイヤリングなどがウィンドウに飾られていた。お値段はおよそ数百フラン。(1₣(スイスフラン)は凡そ¥113 物価は日本の約1.27倍と想定)
「結構高いんですね~。」じーっと、アラディアもとい???は呟く。
「見るだけですし、折角だから中に入ってみますか。」と機長はリードをする。
店内も当然装飾品だらけで、ネックレス、イヤリング、指輪など。どれも綺麗な石がはめられている。
透明ではない蒼い石のモノは珍しかった。
「うーん、どれも呪術とかで良さそうなものが多いんですよね~。うふふ」とにこやかにしながらも少しがっかりしながら眺めている。その中で彼女は一点を注目していた。
「どうしたんです?」と機長はその目線の先にあるモノをみる。値札には100₣とあった。
2₣と書かれ、22個の星の模様が付いている何となく安っぽい指輪だった。
???は神妙な顔をしながら機長を見る。
「実は私、今日お誕生日なんですよ~!なんていうのは冗談です。うふふ」とにっこりする。
参ったな、ホウコウよりおねだりが上手じゃないか。流石は魔女。もう少しあの娘も絡め手を覚えれば、デッチもいう事を聞くだろうな、とか考える。しかし100₣…多少は持ってきている。100₣、いいかぁ…どうせ使い道なんて飯と日用雑貨しかないしな…
実際機長の生活は無味無乾燥だ。小屋にあるのは生活に必要な家具家電、衣類食器雑貨、食料品だけ。
本当に人間性の無い、ロボットの様な人格、そして生活形態だった。
「いいですよ。」と軽く機長は言う。
「え?ええ!?でも安くは無いんですよ!?」と流石の彼女も驚いた。会って数日しか経っていない人に
そこまでする人間は阿呆か詐欺師か女たらしだろう。しかし一度便に乗せてもらったり話をした限りでは、どちらかというとそういう悪意や愚かな人とは思えなかった。
「ほ、本当にいいんですか?」???は驚きながら嬉しそうに問い返した。
「今日の機長は太っ腹です。」と自慢してみた。普段はどこか何か足りないのに。機長は店員さんを呼んだ。100₣の指輪には箱は無く、軽く包まれ紙袋に入れられて機長に渡された。
店員さんはこそっと機長の耳元に「女性は値段ではなく誠意が全てなんですよ。」と悪戯っぽく伝えた。
お店を出て機長は???に、はい、と無造作に紙袋を渡した。しかしその態度は彼女の折角の喜びを折るのに十分だった。ガサゴソと紙袋を開け、機長に指輪を渡す。
「ん、です!」そう言いながら右手、薬指を機長に突き出す。機長の頭にはおおきな?が浮かんでいた。
「ですから、ん、です!」と語気を荒めて???は再び右手の薬指を突き出す。なるほど、付けろっていう意味かと機長は理解した。そして指輪をつまみ、突き出された右手の薬指にそれを付けてあげる。
「これで如何でしょう?偉大なる魔女の女神様。」と機長は答えた。これも呪術的な何かだろう。
あっさりと指輪を付けられて、???はまさか気づいていない?と疑問を持つ。気になったので、念のため聞いてみた。
「えーっと、機長さん?これがどういう意味か分かります?うふふ?」
「え?何か呪術的な御呪いとかだと思…」と答えた途中に正解を知りえる者が割り込んだ。
「ヲイ、オまエ。いマなにオしでかシたkは、wカっていルのカ?」その光景をホウコウは見ていた。
「え?なに??」機長は振り返ると、急に狂気に戻ったホウコウをみて再び恐れをなす。
「今首を狩る。」言う前に腰を捻った右手の水平チョップが機長の喉に炸裂した。軽く地面から離れ、仰向けにぶっ倒れた。今度は声すら出ない。数秒間意識が無かったようだ。気付いて上半身を上げようとするが首は動かず、何とか両腕で持ち上げる。
「な”、な”でぃがヴぁるいごどでヴぉじだどが??」なんとか機長は声を絞り出す。しかし女性陣二人の目つきは非常に冷たかった。氷点下以下というべきだろうか。特にアラディア様の表情はいつも以上に笑顔なのに目は氷漬けで販売されている生の烏賊か、それより昏い深淵なる何かが支配しているようだった。
「うふふ、機長さん?ご理解頂けないのは残念です。うふふふ」そう言い、アラディア様は懐から何かを取り出す。見ると丁寧な装飾をされたペーパーナイフだった。なぜそんな物が出てくるのか?
「知っています?魔女って呪いも扱うんですよ?うふふふ」そう言い仮面の笑顔をしたアラディア様はさっき指輪を付けた自分の右手の薬指の先端にペーパーナイフを当てる。そして切っ先で少しだけ指を切る。当然そこから血が滲み出る。機長は言い知れぬ恐怖を感じる。なんだ!何をされるんだ??
「の”、の”ろ”いっでな”に”ヴぉずる”ぎでずが??」問うたが答えは返ってこず、アラディア様は機長の横に屈み、その右手の薬指から流れた血を機長の唇と左手の薬指に塗りつける。更に自分の唇と左手の薬指に塗りたくった。
「今のは魔物より遥かに恐ろしいモノが憑り付く呪いです、うふふ。どうなるか楽しみです。うふふふ」
その一言で既になにかが終わった気分になった。
「さてアラディア様。この不埒で非常識で愚かなる痴れ者を捌いてしまって宜しいでしょうか?」とホウコウは宣告をする。当然アラディア様は確実にお願いしますね?うふふと答える。
離れたところで一部始終を見ていたデッチは呆れつつ、二人が行う処刑に恐怖していた。おわったなと一言だけ呟いた。
暫くして機長は立ち上がり、ウィンドウショッピングが再開される。しかし先程とは違い、空気が凄く重くなっていた。女性二人は楽しそうでデッチだけは声を掛けてもなんとか返事がくるくらいはグループに入れて貰えたが、機長はまともに声も出ず、その輪にも入れて貰えなかった。
次の場所はファンシーな感じのぬいぐるみショップ。女性陣は可愛いモノには当然目が無い。あれこれと談義を再開する。そしてまた同じ展開が待っていた。ホウコウはデッチに大きなクマのぬいぐるみを断らせない威圧でプレゼントを要求させられた。そういえば何故かデッチの傍らには大きな箱が入っている紙袋を持っているが、機長はまさかな?と考えた。ほぼ同時にあのにっこり微笑みの仮面を被った恐ろしいお顔が機長の目に飛び込んだ。アラディア様はご機嫌そうに二つの大きなぬいぐるみを抱えていた。一つは抱えきれていない大きなシャチと、もう一つは同じくらい大きな黒猫のぬいぐるみ。断れなかった。財布から80₣がお店のレジに吸い込まれていった。
「も”おでの”ざい”ぶヴぁね”ヴぉあ”げでい”ヴぁず”」
(も、俺の財布は音をあげています。)
色々と力尽きていた。
「ええ、勿論わかっています、うふふ。でもとても嬉しいです!うふふ!」やっといつもの笑みに戻ったようだ。
最後に生活用品を観終わり、ショッピングモールから出ようとした時だった。アラディアとホウコウは何かそわそわしていた。その視線の先にはモールの大通りがあり、そこで日本の服飾、それも二人が着ているゴスロリパンクな服の物販店が大々的に広げられていた。機長もデッチもなるほどねと思い、二人して
「いってらっしゃい」と声を掛ける。女性陣は喜んで向かっていった。時間はそろそろ13:00近かった。
「お腹空きましたね~」とデッチは機長に言う。
「お”れ”ヴぁまだの”ど”がい”だ”い”」よく見ると喉が腫れ上がってきている。
「大丈夫ですか?」心配そうにデッチは訊く。
「がえ”っだら”の”どひや”ず”。あ”じだも”ね”でお”ぐ」どうやらモノを食べられなさそうだ。
「ご愁傷さま。この後どうします?」
「じごどでどょっゅう”い”ぐ、ばれ”・でな”ディおヴぉん”でめ”でぃでヴぉぐっで…ざい”ごヴぁだい”ヴん”どぅい”がヴぁ?…よ”る”でぃだっでぃばうヴな”」
(仕事でしょっちゅう行く、パレ・デ・ナシオンで飯食って…最後は大噴水か?夜になっちまうな)
と苦笑する。それすら痛くてむせる。余計痛い。
一時間程だろうか…?二人は紙袋を沢山抱えながら帰ってくる。気付けば二人とも服装が違う。
「あ、おかえりー。あれ?服変わった?」デッチはこうい所が目聡い。
「アラディア様、足りない分を出して頂き感謝しております!」と頭を下げ…腰から頭を下げた。有り難き幸せ過ぎて感謝の土下座をしそうな勢いだった。スイスに土下座の風習があればだが。
「案内をして頂いているお礼です。うふふ」と満足そうに笑う。
「そ、そんな!なんてお優しい!!買って頂いたモノはもう聖遺物として大事に致します!」
「うふふ、大袈裟ですね?ホウコウさん?」
「と、さてお二方。そろそろお腹減り過ぎじゃないですかね?」とデッチが提案する。
「あ、もう14:00過ぎてるじゃない!道理でお腹がグーグー言う訳だわ。」どうやら二人とも時間と空腹を忘れて楽しんでいたようだった。
「アラディア様、如何いたしましょう?」ホウコウが訪ねる。アラディアは観光を続けるか悩んだ。確かに少し休憩を取りたいと思っている。
「機長から提案があったんですが、ここで少し何か買って、パレ・デ・ナシオンの公園で食べようかと」
「パレ・デ・ナシオン?」とアラディアは訊き返す。
「えーっと、ボク達がよくお世話になるお得意先、つまり国際連合ジュネーヴ支部です。車なら直ぐに着きますよ?」とホウコウが説明する。
「あそこは景観もいいですしね。」とデッチも付け加える。
「ではそこにしましょ~!うふふ」
という事で外でつまめそうなモノを各々買っていく。機長のはアラディアが選んでくれた。
デッチと機長は車を準備し、荷物を機長が借りた商用バンに載せていく。
デッチとホウコウ、機長とアラディアに分かれて車に乗り、パレ・デ・ナシオンへ向かう。
途中でアラディアが
「喉、大丈夫ですか?着いたら少しですが効果がある薬草の塗り薬と張り布で手当てしますね?」と心配してくれた。
十分少しでパレ・デ・ナシオンに到着した。正門から入るのは無理だったが、横の入り口から入り、図書館付近にあるアリアナ公園で食べることにした。
「アラディア様、ここがパレ・デ・ナシオン、国際連合ジュネーブ支部です。正確にはその横の図書館ですけどね、えへへ。」と楽しそうにホウコウが紹介をする
「はぁ~、凄い所なんですね~。芝生の上がとても気持ちいいです~。うふふ」アラディアは大満足だった。
「こんなに暖くて気持ちがいいとお昼寝しちゃいそうです~。うふふ」と寝転がる。折角買ったばかりのゴスロリ服に芝がくっつく。
「そうでした!機長さん?先に喉へお薬を塗って湿布を貼りましょう?」と、また懐から小瓶と薬草を染み込ませた布を取り出す。その懐には何がどれだけ入っているのやら、皆疑問に思った。機長は芝生に寝っ転がり、薬を塗られ、布も貼られた。その光景を見て流石のホウコウも申し訳ない気と思った。
「ごめんね、機長。やり過ぎちゃったね。ホントにごめんね。」と謝ると機長はイヤイヤと右手を振る。
「あ”じだに”でヴぉひぐだどヴじ、ぎでぃどぅんな”」
(明日にでも退くだろうし、気にすんな)
「こーいう時はやさしーんだよね、機長って。ずるいや」とふくれっ面をする。
そして早速みんな食べ物にかぶりつく。機長だけ冷スープをなんとか飲み込む。痛いが舌はなんとか味が分かった。美味しい。
そんな感じでまったりとしていたが、15:00近くになるとそろそろ寒さを感じるようになってきた。
休憩もこの時間で終え、最後の名所の一つである大噴水に行くことにした。
大噴水はジュネーブ湖の対岸にある。近くでデッチとホウコウはミネラルウォーターを買い、アラディアは果汁100%のオレンジジュース、機長は後先何も考えずにコカ・コーラを買った。
それぞれ車に乗り、まず目の前のフランス通りを東へ向かう。そのまま鉄道の上を渡り道なりに進んでいく。鉄道を渡る橋の直前には国際開発研究院がある。
「そういえば、CERNもスイスにあるんですよね。うふふ」と微笑みながら機長をみる。
「ゼェデェん?」
「うふふ?そう、CERNですよ?と~っても大きな粒子加速器があるんですよ?うふふ?」機長は意外だと思った。魔術を扱う魔女が科学に詳しいのは不思議な感じだ。
「ぐヴぁデぃんでどぅね”?」(詳しいんですね?)
「うふふ?魔女も科学に興味は持つんですよ?うふふ?」と少し真剣そうな顔で返事をする。
「自然崇拝魔女だからでしょうか?偶に考えるんです。私たち人間って自然から生かされているのか?宇宙の大いなる変化に適応しているのか?って。うふふ」
ああ、なるほど。自然を解明するのが本来の科学であり、そういう意味では魔術もただ逆のアプローチから自然を知ろうとしているだけで、たどり着きたい目的は同じなのだ。機長は改めてこの魔女の女神の銘を持つ女性の聡明さを感じた。あの堅物な女社長が感心するのも頷ける。
「うふふ、変でしょうか?」
「い”ヴぁ、ずごヴぃどおヴぉい”ま”どぅよ”?、ヴぁどでゅでゅっで、でぃんでぃでぎだでぃがい”でぃでぃぐでぃヴぉどぉだっでヴぉヴぉっでヴぁでぃだの”で。だでどががぐどお”だでぃヴぉの”だっだん”でどぅね”?」(いや、凄いと思いますよ?魔術って神秘的で理解しにくいものだって思っていたので。だけど実は科学と同じだったんですね?)
「うふふ、そう言って頂けると嬉しいです!」と彼女は喜ぶ。その笑顔はやっぱり何処か魅力的だなぁと思っていた。
車はそのまま道なりにウィルソン通り、モン=ブラン通りと進んでいく。モン=ブラン通りには露天風呂があり、帰りに入っていくのはどうかと提案してみる。勿論大賛成だった。
そしてその先を左に曲がり、ジュネーブ湖を渡るモン=ブラン橋を渡る。右手にはルソー島が見えた。
既に大噴水近くなので左側には水の柱が見える。また左に入ってジェネラル=ギザン通りを少し進んでから、グスターヴ=アドール通りへ入る為に再び左折。その左手に見えるフェリーターミナルが目的地だ。
右手に運よく駐車場が2台分空いており、それぞれ車をそこに停める。ターミナル入り口にアイスクリームショップがあったので各々買って、ついでにさっき買ったペットボトル飲料も持って行く。
ターミナルから見える大噴水は見上げても頂上が確認できないほどだった。その場所で既にかなりの水飛沫が飛ぶ。大噴水は目の前の桟橋の先にあったので行ってみようかと話し合いになる。
「ずぶ濡れになりそう」とデッチは躊躇する。しかし彼もどうやらここに来たのは初めてのようで、近くで観たいという気もしている。
「帰りにモン=ブラン通りの露天風呂に寄っていけば問題無いじゃない?」とホウコウは彼の背中を推す。
「いや、ホウコウ。君さっき服買って着替えて来たよね?僕ら着替え持ってないんだけど?」と不満を漏らす。
「男がちまちま言わないの~。折角の名所なんだし行ってみようよ?ね?アラディア様も」ただ自分が行きたいだけなんじゃないのか?と機長は思ったが、当のアラディア本人も目をキラキラ輝かせている。
男組はずぶ濡れ帰り確定だなと思った。とはいえ普段は無関心な機長もその迫力に圧倒され、近くで見てみようかと思った。とりあえず皆噴水の水でアイスがドロドロにならないよう、大急ぎでそれを片付ける。それは当然冷たく、みんな頭がキーンとなる。アラディアは目を瞑り片手で頭を押さえる。なんだか小動物のようで微笑ましく見えた。アイスが食べ終わり、ホウコウとアラディア、デッチははしゃぎながら大噴水へ走っていく。機長もゆっくり歩きながらついていく。
「うわー!一瞬でこれだよ!」とぼやくデッチ。
「きゃはは、凄いすっごーい!!」大興奮のホウコウ。
「きゃー!あまりにも水の勢いが強くて、これ以上進めませーん!!」驚きながら叫ぶアラディア。
と三人の声が噴射の轟音の中から聞こえる。皆一瞬で濡れ鼠になった。一人だけゆっくり歩いていた機長は少し手前でそれを逃げの位置で傍観していた。
そういえば…離着陸のときも空からこの噴水が見えたっけな…最初見たときは何も思わなかったのに。今は空からも見てみたい…そんな事を考えていた。
余りにもの勢いで三人とも耐えられなくなり、直ぐさま戻ってきた。
「あー、機長!あんたずるい!」とホウコウから非難が飛ぶ。
「あ”?ぢぁんどみ”ぎわ”めでると”いっでぐれ。」いつも危険と隣り合わせなので、直感でそれ見抜く能力が備わっているのは仕方がない。
「そうですよ機長!大人なら子供と一緒にはしゃいであげるのが責務ですよ!」デッチ、おまえさんもそろそろ大人扱いだし、既に仕事している身だからな?
「機長さーん、冷たいですー!」これはずぶ濡れだからなのか非難なのか…
取りあえず桟橋から埠頭へ帰る。機長は車へ戻り、偶々雑貨店で買っていたタオルを引っ張り出す。
各人大急ぎで身体を拭き、染み込んだ水分をぬぐう。しかしまだ服へ張り付く感じは抜けきれなかった。
時間は既に17:00を超えている。そろそろアラディア様への初のドタバタ四人組ジュネーブ観光も終わりに近づいてきた。
ふとアラディアがその埠頭の先をみると、初老の男が大噴水を見つめていた。その男はステッキを持ち、スーツ姿で帽子も被りビシッと決めた紳士の様に見える。
しかし彼女はなんとなく負の予感を感じ、その男に声を掛けた。
「あのぅ~こんにちは~。」その声に初老の男は少し驚く。
「おやおや、随分と可愛らしいお嬢さんに声を掛けられたものだ。こんにちは?」と丁寧に男は挨拶を返す。そして他の三人もぞろぞろとやってきた。男は機長たちを見回し、お連れさんかな?と問う。
「ふふ、まさかと思うがこの老いぼれから…という雰囲気ではなさそうだね?ではこれは必要ないかな。」とこっそり握っていた拳銃をポケットに仕舞う。ここスイスでは二十歳から兵役義務があり、それを終えると厳しい審査をパスすれば護衛用の銃を持つ免許が与えられるのだ。銃を見てアラディアは吃驚していた。どうやら銃を見たのは初めてだったようだ。
「い、いえ。そうではありません!ただ…」
「ただ?」と男は質問を返す。
「何故そんな悲しそうに噴水を見ているのかと思いまして…」彼女の顔も少し悲しげになる。
「ふふ…まぁ年寄りだからね。寂しく見えてもおかしくは無いよ。」と皮肉というか自虐というかそんな感じの笑みを返しながら答える。
「そんなのではありません!その、何か…憂いている…そんな予感がしたんです。」それを聞いて男は目を細める。
「あ、自己紹介がまだでした!ごめんなさい!私、魔女のアラディアといいます。」慌ててアラディアは挨拶をする。
「ふふ、私はワルタガードだ。宜しく、可愛い魔女殿」と挨拶を返し、右手を差し出す。アラディアはその手を握る。三人もそれぞれ挨拶をする。
「ぎじょう”でず。ぎょう”ヴぁ、ヴぁラディあ”ざんの”がん”ごうあ”ん”な”い”ヴぉじでいまず。ぢょっどの”どヴぉや”っだのでぞこヴぁしづれいをお”ゆるじ”ぐだざい」
(機長です。今日はアラディアさんの観光案内をしています。一寸喉をやったのでそこは失礼をお許しください)と握手をする。
「デッチです。あ、彼、機長と同じ会社で働いています。宜しく。」同じく握手をする。
「ボクはホウコウ!宜しくね、素敵なおじさん?」年を取っていようがカッコイイ男には愛想がいいホウコウも握手をする。
「ふふふ、楽しそうな四人組だね?ハツラツとしていて実にいい。」と愉快そうに笑った。少し笑顔が戻った所でアラディアは問いかける。
「その、なぜそんな悲しそうなお顔をされてるのですか?」
「…ずぶ濡れのようだが、君たちはどうやらあの大噴水まで行ったのだね?」
「ええ、まぁ。」とデッチが答える
「凄いだろう?アレは時速200km/hの勢いで7000l以上の水を1MWの電力を使って140mまで吹きだすんだ。」と大噴水について静かに説明をする。皆興味津々でそれを聞く。
「今のは1951年から稼働しているが、最初は1886年に水道の安全バルブ用として作られたそうだ。」
「え、じゃあ70年くらい動いているんですか?」とデッチとホウコウは驚く。
「ああ。そうだ。スイスは恐らく知っての通り、周りの山脈がその水源となっていて文字通り水の街なんだ。ただどこかの水の都とは違うがね?」と最後ジョークを付け加える。続けて
「そしてここの噴水は水道水でとても厳しい検査基準を満たして国中に流れている。国のあちこちにある噴水はかなりの場所で飲めるんだ。」そこで初老の男が悲しい顔をし始める。
「でもそれと、その…あなたの悲しそうなお顔とどういう関係が?」アラディアが訪ねる。
「私は遥か前に退職をしたが、元はWHO(世界保健機構)の職員でね。よくインドやパキスタン、アフリカなどへ調査に行ったものだ。」
「何の調査ですか?」デッチが質問をする。
「もちろん水だよ。主にね。」そして男は話を続ける。
「恐らくこれも君たちは知っているだろうが、それらの発展途上国はまだ上水道が整備されていない。それどころか飲める水すらない。それは我々の動きが鈍い事でもある。」
「…」みんな静かにその話を聞いている。
「ところでお二人さん。今ミネラルウォーターを飲んでいるね?」デッチとホウコウは手に持っているペットボトルのミネラルウォータを見る。そしてお互いに顔を見合わせる。
「その水の販売会社をご存知かな?」と言われてふたりはラベルについている企業の名前を見つける。それはスイスにある飲料会社の名前だった。
「ええ、この国の会社ですね。」
「ボクも知っているよ!世界的にも有名だもんね。」
「そう。そして謳い文句は?」その言葉に段々機長は彼の悲しみの答えが見え始めてきた。低い声で答える。
「ずいどう”ずいより”も”、どでぼげんごうでぎな”み”ず」(水道水よりもとても健康的な水)
その答えを聞いて、男は機長を真剣に見つめる。
「なるほど、君は色々と見ている様だね。幾許か以上にそれらの国々へ行った事があるのかが分かる。何となく匂いを感じるよ。そしてその目つき。生死の境を行き来した経験があるね?」機長も真剣な視線を返す。
「WHOはかつてここの水道水とそれらミネラルウォータの水質を調べた。私のチームが調べたんだがね。そして結論はどちらも飲料するのに水質的な差はほぼ無かった。強いて言えばミネラル含有率がこちらの方が多い、つまり硬水ということだけだった。」
「…」4人は完全に沈黙している。
「そしてそのミネラルウォーターの…」と言いかけてアラディアが続ける。
「出所はそれらインドやパキスタン、アフリカ等の水道が整備されていない諸国。そして彼らの足元には飲める水がある。それなのにその水にありつく事が出来ない…そういうことでしょうか。」
「ほう、これは凄い洞察力だ。ただの可愛らしいお嬢さんと思っていたが、とても聡明でいらっしゃる。流石は徳が高いと言われている魔女殿。どうやら私は貴女を見縊っていたようですな。申し訳ない。」初老の男は素直にアラディアへ謝罪をした。対して答えを聞いたデッチとホウコウは驚いてた。
魔女の感と洞察力、そしてそれ以上に導き出された事実が信じられなかった。
「私たちがもっとそれらの国に尽力し、せめて水だけでも届けられたなら…最近知ったニュースでは相変わらず、いやもっと増えたのだろうか?毎日10秒に一人、人が亡くなっているそうだ。その原因の一つはお世辞にも飲めるとは言えないほど不衛生な水と私は考えている。そして綺麗な水は我々の手元へ送られている…そう考えるとね。」少し自嘲気味に結論を話した。
「済まなかったね?折角の観光だというのに老人の後悔の愚痴を聞かせてしまうとは。時間も時間だし私はそろそろ退散するよ。あ、そうだお詫びにと言っては何だが。」と懐から4枚のチケットを彼らに渡す。
「対岸の露天風呂(Bains des Pâquis)のチケットだ。濡れ鼠では風邪をひいてしまうだろう?よかったら使ってほしい。それでは。」そう言い、初老の男は去っていった。皆暫く声を出せなかった。
「アラディア様、その…」ホウコウは何かを言おうとした。しかしアラディアはそれを遮る。
「いえ、いいんです。実は何となく予感していました。今日ここでこの話を聞かなければならないと。それは魔女としての何か…例えば責務や宿命のようなものなのでしょう。」いつものうふふは消え、とても真剣味を帯びた答えが返ってきた。
「うふふ?それより折角頂いたチケットです!無下にしたら勿体ないので体をポカポカにしにいきましょう!うふふ」いつものようににこにこ笑顔で提案をする。皆も気持ちを切り替えて露天風呂へ向かった。
彼らとしてはせいぜい水道水を飲む事が関の山なのだ、今は。しかし機長は機長で、アラディアはアラディアで、何か予感のようなものを感じていた。
露天風呂ではアラディアとホウコウが湯船に浸かっていた。噴水で冷え切った身体も露天風呂の暖かさでポカポカになっていた。だが先程の話は少し衝撃的で空気が微妙に重くなっていた。ホウコウは湯船の水をすくいながら今度はたらたらと湯船に戻す。
「ボク達、この水がそんなにありがたいものだったなんて思ってもみなかった。」その声には悲しみというか反省というか何かそんなものが含まれていた。
「仕方ないですよ?ホウコウさん。多分私もそれを実際に見なければ信じきれないと思います。」と同意しつつ慰めてくれる。だがホウコウは恐らく彼女は前々から気付いていたのだと考えていた。彼女はウィッカンなのだ。自然のサイクルが歪んでいるものに対して敏感に気付くのは当然だ。
「でも、ボクは…」
「うふふ?出来ることをしていく。それだけでも少しずつ変わるんですよ?うふふ」と諭してくれた。
「うん!そうだね!よーし、ミネラルウォーター撲滅運動を会社から始めちゃうぞー!」アラディアはアレ?と思っていた。そういう事だったでしょうか?後に掛けた言葉の内容に後悔することになる。
機長は深く湯船に浸かって目を瞑り何かを考えているようだった。
「機長、どうしたんですか?」
「な”に”が、い”や”な”よがん”がずる”」(何か嫌な予感がする)
「予感って?何のですか?アラディアさんみたいな予言ってやつですか?」
「ぞヴい”う”のじゃな”ぐ、な”ん”どい”う”が」(そういうのじゃなく、何というか)
「???」デッチは不思議そうな顔をする。
「ぢがい”う”ぢに”ひどぞう”どう”おごるぎがずる”。」(近いうちに一騒動起こる気がする)
「一騒動って、ウチはいつも一つどころか三つも四つも騒動だらけじゃないですか?」
「だぶん”い”づも”より”がな”り”じゅう”だい”なぎがずる。ぞん”どぎばじぜん”の”ぜいびがじゅう”よう”だがら”、だの”んだぜ。」(たぶんいつもよりかなり重大な気がする。そん時は事前の整備が重要だから頼んだぜ?)
といい、機長は風呂を出た。
暫くしてみんなロビーに集まり観光の締めとしてレストランへ向かった。皆若干気を使い、今日の楽しい部分だけの話題を出していた。届いた料理をパクつきながら、機長だけそれを恨めしそうに眺めていた。
「機長、どうしたの?元気ないよ?」とホウコウは無自覚に声を掛ける。
「あ”?!びん”な”う”まぞう”だな”ってう”ら”やま”じぐみ”でる”んだよ”!」(みんな旨そうだなーって羨ましく見てるんだよ!)
「あー、ごめんねー?お持ち帰り買って明後日にでも食べたらいいかも?」と無邪気に言いながら肉をほ頬張り、ポテトも撮む。
「ぞんどぎゃぐざってる”だろ”!ぐっぞ…」(そんときゃ腐ってるだろ!くっそ)
「明後日に治っていれば何か美味しそうなお肉買ってきてあげるよ!」とホウコウは優しい言葉を掛ける。
「だけどね?もしアラディア様に不埒な事を少しでもしたらアンタが肉になるんだからね?」
「な”ん”でぞうな”る”ん”だよ”!」(なんでそうなるんだよ!)
「だって。あんた装飾店でアラディア様に何かプレゼントしてたみたいじゃない?ぬいぐるみまで買ってあげて!そうやって不埒な事を考えていたなら…判っているわよね?」最後はドスが利いていた。
「じね”ぇよ”」
「ならいい。お肉楽しみにしててね?」と上機嫌に再びお肉を頬張る。こいつ、どんだけ肉食ってるんだ?栄養は何処へ行ったんだ?とか機長は考えていた。
打ち上げも終わり、デッチはホウコウを、機長はアラディアを送っていく。若干方向が違うのでお互いそれぞれ二人っきりの時間が少しだけ出来る。
「そういえば機長さん?これ、ありがとうございます。うふふ」右手薬指の指輪を見せながらとやっといつもの笑みでお礼を言ってくれる。
「あ”あ”、ぎに”じな”い”でぐださ”い」とまた特に何も考えずに答える。
「ひょっとして機長さん、指に付ける指輪の意味を知らないんですか?うふふ?」と今度はさっきと違い純粋に質問をする。
「え?”い”み”っであ”る”んでずが?」と本当に何も知らないらしく、間抜け面で答える。
「もう!知りません!!」今日何度目なのか頬を膨らまし、ぷいっとそっぽを向いた。
暫くするとアラディアの宿舎が見えてきた。機長は彼女が買ったばかりなのに途端にびしょ濡れになった服の入った袋や予定外の出費でプレゼントした2つのぬいぐるみを玄関に運ぶ。そしてそれじゃまた明後日と潰れた喉で別れの挨拶をすると、彼女に一寸待ってください、と引き留められる。
「ええっとですね、右手の薬指の指輪の意味はこうです!」と機長の右おでこに唇を当てる。機長は暫く固まって反応が無かったが…
「!?#$&?」と謎の声で吃驚する。アラディアは頬を赤らめながら
「ま、まだ私も分からないですけど、これはあくまで予感ですからね!知り合って一寸良いかな?って思っただけですからね!決定したわけじゃありませんからね!」と慌てふためく。
「でも今日はとても楽しくて嬉しかったです。うふふ。また今度何処か連れて行ってくださいね?うふふ」約束させられてしまい、機長は少し困りつつも
「わ”がり”まじだ、づきばふり”ま”とかいぎまじょう”」
(わかりました、次はフリマとか行きましょう)と約束をする。
ぺこりと挨拶をして玄関を出て扉を閉めた。パタン…
急に機長の顔は真っ赤になった。
駐車場ではまだ3人が作業をしていてお菓子を買ってくるのを忘れたことへの不満と喉の有り様を見ての同情があがった。事務所では書類作成のお姉さんが机に突っ伏してスースーと寝息を立てていた。運行管理係だろうか?彼女に毛布が掛けられていた。機長はそっと車の鍵を返し事務所を出て自分の掘建て小屋に向かった。
案の定翌日は一日寝込んでいた。ただアラディアが薬草を持って見舞いに来てくれたのは嬉しかった。
更にその翌日の朝、機長のベッドにアラディアも突っ伏して寝ていた。その時偶々だろうか?ホウコウが小屋の扉をあけた。
今回は日常が主な話です。基本的に地理や施設は調べました。
今回のショッピングモールでの女神像の話題はそのショッピングモールの飾り物店の写真の中で実際に1~2枚あったのでそのまま話題として載せました。やはり魔女の女神、アラディア様は偉大なんですね、きっと。
他にも適当に設定を考えた後、webなどの資料を調べてみるとマッチするネタが出ること出ること。
事実は小説よりも小説も事実も奇なりですね。これもアラディア様のお導きなのでしょうか。
次話は多分暫く(数年?なるべき気が合向いたら早く)空きます。凡そ最終回までのネタは出来ているんですが、他のすべきことを優先する必要がありまして。
読んで頂いた奇特なお方、ありがとうございました。
あ、あと次話投降とシリーズ管理の違いが今更解ったので、一気にまとめました。