浮気?
金曜、上野の美術館にふらりと行った帰り。
最寄り駅の改札を通り線路に並行している駅前商店街を少し西に歩き薬局の角を南に曲がったところで「佐太郎さん」と声をかけられた。
時間は4時少し前。
振り返ればお弁当屋の女の子。
初めて名前で呼ばれた。
いつもはイラストレーターさんとか、木月さんと呼ばれている。
「わ、びっくりした。
誰かと思えばはひふ弁当さんじゃん。
あれ、今休み時間じゃないよね?」
「うん、今日は半日有給」
「へええ…有給なんかあるんだ」
「うん、あるんだよ。うちの商店街の薬局よりこっちの薬局のほうが品揃えいいし安いからコンタクトの洗浄剤とか洗顔料とか買いに来たの」
そう言って女の子は持ってる荷物を少しだけヒョイと上げて俺に見せた。
「うれしいな、偶然会えて。
イラストレーターさんはどこかにお出かけでした?」
あ、もとの呼び方に戻ってる。
「ふらり美術館に行った帰り」
「きゃあ、かっこいい!」
「かっこいいかぁ?」
「カッコいい、カッコいい。
ふらりと美術館ってなんか文化的な匂いがする」
そんなことを二人で話しながら南に下る道を並んで歩いた。
「それにしても最近全然うちに来ませんね?
どうしてるのかな…と気になっていたんだけど、鉄工所の若林さんが、最近ノミノミ酒場で年上の美女とデートしてるところを見たって言うから病気ではないんだろうな…って思ってたとこなんですよ」
彼女はくるっとした目でそう言った。
こっちを見上げながら。
鉄工所の若林さんと言うのは一時期よくはひふ弁当で会った若い工員。
この子のことを気に入ってるのはミエミエなのだが、シャイで俺や畳屋の三代目みたいに気軽に声をかけられない。
うん、そういえば母親とノミノミ酒場に行ったとき会ったな。
お互い声かけなかったけど。
ふ、話題を手に入れたことを密かに喜び、恥ずかしそうにこの子に話しかけている若林さんの姿が思い浮ぶ。
ほほえましいねえ…
それにしても…
「気持ち悪いこと言わないで。あれ母親」
「へえ、そうだったんだ…
そっか、良かった良かった」
なにが?とは聞かなかった。
そして喜ばない。
若林さんあたりがこんなことを言われたら、えっもしかして俺に気がある?だから一緒に飲んでいた相手が母親だったことにホッとしてる?なーんて考えるのだろうが。
なにせこの子は小悪魔狸だからねぇ。
児童公園の角のところで「あ、俺のマンションここ入ったとこだから」と言いちょっと手をあげたら女の子は「あ…」と小さく声をもらした。
…
上手いな…
この名残惜しそうな感じの出し方。
俺はまんまと小悪魔狸の術にハマってしまう。
「ん、せっかく会ったからいつものコンビニの前でお茶する?」
と言ってしまった。
この言葉に女の子は満足そうにうなずいた。
その瞬間、素直に術にかかって良かったなと思う。
バカですね、俺。
いつもの古い商店街コンビニのベンチに座り女の子と二人でコーヒーを飲む。
こうしてこの子とお茶するの何回目だろう。
「ねぇ、木月さん。コーヒーって美味しい?」
「?飲んでんじゃん、自分だって」
「いや、飲んではいるけど、美味しいと思ったことない。
みんなが飲んでるし、コーヒー飲んでると大人になった気がするから飲んでるだけ」
「…ま、わかる気がする。俺も最初は好きじゃなかったな。
でも、みんながコーヒー注文しているとき、俺だけコーラとか紅茶って言いづらくて、周りに合わせて飲んでた。別にいいのにな?」
「良かった。仲間がいた」
コーヒを持った左手を膝に置いて女の子はそう言った。
「今度ここでお茶するときは、好きなもの飲みなよ。
俺は今はコーヒー好きになったからコーヒー飲むけど」
そう言ったら女の子はなんだか嬉しそうな顔をした。
まるで次もあるんだ…って喜んでるみたいに
ズルいなぁ…そんな顔して。
決定権はいつも君が持っているのに…
なんかもう君は俺をたぶらかす悪い狸にしか見えないよ。
このまま幸せに騙されてしまおうか…
「あ…」
「なに?どうしました?」
「いや、君何かに似てると思ったら、信楽焼の狸だ…
よく蕎麦屋の前に置かれてる…」
「え…」
「あっちの方が若干目がぱっちりしててかわいいけど」
「ひっどおぉーいっ!!」
若い子特有の華やかなよく通る声でそう叫び、彼女は俺の左肩を後ろから叩いてきた。
バチンと大きな音がする。
「イテッ」
こいつめ、本気で叩いてきたな?
そう思ったとき。
背後から声がした。
「杏奈、浮気?」と。
振り返ればそこにイケメンスーツ男の姿。




