【神四路B/W】 山吹とトラと金魚
周りの人と考え方や感じ方が違う。僕は、物心ついたときにはすでに、そのことになんとなく気がついていた。
自分が興味あるもの、気に留めたこと、見つけたもの。それらを話すと、大人は揃って奇妙な笑顔を浮かべたものだ。そう、山吹くんはすごいね、と。
今となってはその違和感の意味もわかるし、そうならないように取り繕うこともできる。僕はその方法をずいぶんと早いうちに身につけた。忙しい両親に余計な心配をかけたくなかったから。
保育園の時には、両親が他の家庭と比べて忙しい人なんだということも子どもながらにわかっていた。他の子供たちは母親か父親のどちらかが迎えにくるのに、僕を迎えに来ていたのは近所のおじさんやおばさんに、一時期だけ雇われていたお手伝いさんだった。当時は実家の蕎麦屋が開店したばかりだったし、両親はきっと僕に割く時間がなかったんだと思う。だからどう、というわけではないけれど、そういった環境も相まって、僕は周りの人に迷惑をかけない、“いい子ども”になろうとしていた。
そんな僕を、保育園からの腐れ縁である平沢大雅――トラは、当時から変に思っていたらしい。トラは保育園の時は僕に近寄らなかったし、僕も特に、トラと仲良くすることはなかった。
一回だけ、声をかけたことはある。トラはいつも、教室の隅の方に座ってひとりで遊んでいた。時折、僕や僕の周りにいた子どもたちの方をちらりと見やっては、すぐに目をそらして、読んでいた絵本や積み上げ途中の積み木に戻ってしまう。僕は、そんなトラを一度だけ誘った。
「ひらさわくん、いっしょにあそぼう」
トラがそのとき、おかしなものを見るように僕を見たのは今でもはっきりと覚えている。僕と一緒にいた子どもたちが口々に、「やまぶきくん、ひらさわくんもいれるの?」みたいなことを言ったことも。トラは数秒間僕を見つめて、「おれは、いい」と再び読んでいた絵本に視線を戻してしまったのだった。
その後、僕がトラと再び関わることになったのは、小学校に入学してからだった。
腐れ縁というのはおかしなもので、僕はトラとたびたび同じクラスになった。さすがに六年間同じクラスだったわけではないが、二年に一度ぐらいは同じだったような記憶がある。
小学校三年生のときも、僕とトラは同じクラスだった。トラはたびたび喧嘩に巻き込まれることが多くなっていて、ますますクラスメートから敬遠されていた。僕はと言えば、うまく表面を取り繕って、色々な人の輪に首を突っ込むようになっていた。
その当時、僕らのクラスでは生物学習の一環で金魚を飼っていた。当番制で、二人ずつ交代して金魚に餌をあげたり、週に一度水槽を洗ったりしていた。
はじめのうちは、皆、金魚に興味津々だった。世話も自ら進んでやっていたし、かわいがって名前をつけたりしていた。
しかし、子どもの飽きは早いものだ。
そのうちに、誰かが当番をさぼった。はじめはまじめな女子からの批判もあったが、次第に大半の生徒が金魚の世話を放棄しはじめた。しかし不思議なことに、僕に当番が回って来たときにも、金魚の水槽はきれいなままだった。放課後先生が仕方なく掃除したりしてるんだろうか、と僕はなんとなく思っていた。だったら、たまには手伝ってあげてもいいかな、と。
家の事情で放課後学級に通っていた僕は、みんなが遊んでいる隙を見て教室を抜け出した。今日は水槽を洗う曜日だから、きっと先生がいるだろうと思ったのだ。
自らの教室にたどり着き引き戸を開けると、そこにいたのは先生ではなかった。
「平沢くんだ」
驚いた僕が名前を呼ぶと、トラもびっくりして勢いよく僕を振り返った。手には、日光に一日さらしてカルキ抜きをした水のバケツを持っていた。
「……なんだよ」
トラはつっけんどんに僕にそう言った。頬が赤いのは、こっそり金魚の世話をしていたのを見られて恥ずかしかったからだと今ならはっきりわかる。そのときの僕はトラの態度を不思議に思う程度だった。
「平沢くんが世話、してたんだ」
僕がそう言うと、トラは不機嫌そうにそっぽを向いた。
「悪いかよ」
「いや、全然。いいことだと思うけど」
トラはなにかもの言いたげに僕を見たが、結局なにも言わずバケツに金魚を移して、空になった水槽を持ち上げた。
「どけ」
「あ、ごめん」
入り口をふさいでいた僕は素直に謝って道を譲った。トラが水槽を抱えて出ていったので、僕はその後ろをついていった。
中の水を捨ててから流しに水槽をおろして、トラはスポンジで水槽の中をこすりはじめた。底にしいてある砂利も、丁寧に手のひらで擦りあわせて洗う。思ったよりマメなんだな、と、僕は思った。
「平沢くん、偉いね」
「……あ?」
「いや、金魚の世話」
水槽を洗い終わった頃合いで、僕はそう声をかけた。トラは黙ったまま水槽を教室まで運ぶと、金魚ごとバケツの水を水槽に流し込んだ。
「てめーらの決めた当番は、コイツにゃカンケーねーだろ」
水槽を泳ぐ金魚を見ながら、トラがぽつりとそう言った。
僕はこの時、トラが見かけや聞き及ぶ通りの人間ではないんだということにはじめて気がついたのだった。
それ以来、僕はたびたびトラが金魚の世話をするときに立ち会った。手伝うわけでもなく、トラが掃除したりエサをあげたりするのを見ているだけの、変な関係。毎回顔を出す僕にトラは決して手伝えとは言わなかったし、僕も進んで手伝うことはなかった。会話らしい会話をした覚えもない。時折僕が質問して、トラがぶっきらぼうに一言二言返すぐらいだった。
そうして数ヶ月が過ぎた、ある秋の日のことだ。
その日の昼休みの時間、トラは前日上級生と喧嘩をした件で職員室に呼び出され、教室にいなかった。僕はクラスメートと他愛もない話をしていて、周りもそれぞれ昼休みを満喫している様子だった。
「ぎゃはは、なんだよおまえ!」
窓辺では、このクラスのガキ大将含む取り巻き数名がげらげら笑いながらふざけ合っていた。隣に鎮座する金魚が、水槽の中で迷惑そうにくるりと回るのが見えた。
そのときだ。なにかの拍子に、水槽が窓辺の方にぐいと押しやられた。ふざけ合っていた誰かの体に押されたようだった。水槽が押しやられた窓は、換気の為に偶然、開けられていた。
水槽が視界から消え、遠くからがしゃんと音が聞こえた。僕も、誰も動けなかった。
それと同時に、教室のドアが開いた。トラだった。不吉な音を聞きつけたトラは、真っ先に金魚の水槽があった場所に目をやった。
「――!」
トラは一瞬で表情を凍りつかせると、きびすを返して廊下を走っていった。他のクラスメート達もその後を追った。
校庭に出て、教室の窓の下まで行くと、トラが一人で座り込んでいた。その両手に乗った金魚はぴくりとも動かなかった。
女の子二人が、先生に知らせてくる、と言って職員室に向かった。トラは金魚を手に持ったまま動かなかった。
「平沢くん」
僕が呼ぶと、トラは緩慢な動きで僕を振り返った。そしてもう一度手にした金魚に視線を落とすと、そっと割れた水槽に戻した。
「これで、世話当番なくなってよかったよな」
水槽を落としたガキ大将が不意にそんなことを言った。僕がびっくりしてガキ大将の方を見たときには、トラはすでにそいつにつかみかかっていた。
「わっ! なんだよ平沢! 放せよっ!」
トラはそいつを地面に押し倒して、顔面を一発殴りつけた。もう一発殴ろうとするのを、周りのクラスメートがあわてて押さえつけた。
ガキ大将と引き離された後もトラはしばらく暴れていたが、先生が現れた頃にはおとなしくなって、ずっと黙ってうつむいていたのだった。
その日の五時間目は、学校の裏手にある丘に金魚を埋めに行った。金魚は一本の紅葉の下に埋められた。女子の何人かはすすり泣き、ガキ大将もバツの悪い顔で、埋められた木の根本を見ていた。トラはみんなから離れた場所で、その様子を静かに見ていた。
教室に戻ってから、先生は生き物を育てることだとか、命の大切さだとかについて滔々と語った。その内容を僕はほとんど覚えていない。なんだか大層ご立派なことを並べていたと思う。その間も、トラはずっと窓の外をぼうっと眺めていた。
そうして五時間目が終わり、クラスメートたちは家に帰っていった。僕はしばらく放課後学級でぼうっとしていたが、なんとなく落ち着かなくて教室を出た。足は自然と、裏手の丘に向かっていた。
もう空は暮れかかり、茜色に染まる空に紅葉の赤が溶けていた。紅葉の木の側には案の定、トラが一人で座り込んでいた。
「帰らなくていいの?」
トラは、そう声をかけた僕を振り返って、すぐに視線を木の根本に戻した。
「父さんも母さんも今日おせーんだ。てめーこそいいのかよ」
「うちも、親忙しいから」
僕は言って、トラと背中合わせに座った。無言の僕らの間に、ひらりと紅葉の葉が落ちてきた。
「……泣かないんだね」
僕が聞くと、トラはしばし黙った後、つっけんどんに返した。
「てめーこそ」
虚をつかれて僕はトラを振り返りかけたが、やめた。触れていた背中が微かに震えていたから。
僕はトラに寄りかかりながら、死んでしまった金魚の鱗のように赤い空を仰ぎ見て、目を閉じた。
丘に風が吹いて、頬が少しひやりとした。
どれほどそうしていたのか、気づけば空は暗く、街の中心にある神四路カンパニーのスピーカーからは、午後六時を告げるチャイムが流れた。僕の後ろで、トラが立ち上がった。
「……帰るぞ」
ぐしぐしと袖で顔を乱暴に拭ったトラは相変わらずの仏頂面だ。
「平沢くん、こんな遅い時間まで大丈夫だった?」
トラはうなづいて、じとっと僕の顔を見た。
「……なに?」
「お前、その「ヒラサワクン」ってのヤメロ。なんかムカつく」
僕がきょとんとすると、トラはついと視線をそらした。なんとなく、もしかして、照れてるのだろうかと僕は思った。
「平沢くん、下の名前なんだっけ」
「大雅」
「タイガー?」
「ぶっ飛ばすぞテメェ」
トラが真っ赤になって勢いよく振り返ったので、僕は思わず噴き出してしまった。
「何笑ってんだよ」
「わかった、じゃあ、トラ」
「は?」
「トラって呼ぶ。僕は山吹。よろしく、トラ」
トラはしばらくなにか言いたげに僕を睨んでいたが、やがてあきらめたようにため息をついた。
昔にキャラクターをつかむために書いた短編その1を少しだけ手直しして掲載しました。
山吹とトラの仲良くなったきっかけの話、でした。
これを機に山吹はトラにかまうようになり、トラもなんだかんだ言いながら山吹のことを気に掛けるようになります。
タイトルのつけ方もう少し上手になりたいですね……