珈琲
紅茶、ときたら、やはり珈琲でしょう。
さて、どこから話したものか悩み処ですが、入り易いのは、『ボストン茶会事件』でしょうか。
この事件によって、珈琲が紅茶の代わりに飲まれる様、薄い珈琲。所謂アメリカンコーヒーが定着したのです。
これが、私達が多く飲む珈琲の部類に入るのではないだろうか。
珈琲は紅茶、緑茶、中国茶、どの飲み物よりも非常に自由度の高い嗜好品であります。
何故かといわれると、他の飲み物は生産から精製まで、一貫した流れができているのに対し。珈琲は生産地で、収穫、脱穀、乾燥、選別、輸出の流れが基本で、焙煎は業者、企業、個人に別れ。
珈琲の味は抽出に大きく左右され、焙煎によって味が決まる。
よく云われる良い珈琲の定義が、新鮮な状態の物を焙煎し、焙煎したての物とされていますが。
これは、価値観や求める味の方向性によって変わって来るもの。
だからこそ、情報に惑わされず、しっかりと見極めるべきであり。
いくら新鮮だと言っても、珈琲も作物であり、作物である以上、同じ状態の物を作り続ける事は出来ない。
私達は多くの物の認識をある一定のラインで、共通し捉えている。その前提の認識、固定概念が悪影響を及ぼす事を我々は理解しなければならない。
多くの事柄に対し、我々は一般的な枠組みを外れない状態のものを求める傾向がある。
身に染みついたそれは、範疇の外に出た瞬間、賛否両論に別れる。
これは、嗜好品の最も難しい部分ではないだろうか。嗜好品は個人の琴線、好み、主義主張で、選ばれる物が変わり。
物であるが故に、ステータスとして、利用される事がしばしば見受けられる。
さて、此処で一つ疑問に感ずるのが、我々は嗜好品、とりわけ珈琲をどういった場面で、どういった感覚で飲むものか?
その多くが“気持ちを切り換える”ために珈琲を飲んでいる。
朝や午後、仕事の前や、買い物前や後に、何かしらの節目に飲んでいる様に見受けられる。だからこそ、珈琲は喫茶店の様な落ち着いた。普段の喧騒を感じさせない場所で楽しまれるのではないだろうか?
喫茶店に求める雰囲気は日常からの離脱。それを確固たるものにするのが、薫りや音なのではないかと思う。
珈琲は多くの人々に楽しまれている飲み物であり、芸術への影響も強い。
ベートーベンは毎朝珈琲豆を60粒(焙煎度合いで重さは変わるため、参考として、大体8g位)数えて其を淹れて飲んでいたそうです。
乱雑な部屋で有名なベートーベンが、珈琲を几帳面にもそうやって飲んでいたと想像すると、なかなかにシュールではないかと。
珈琲を一つの通過儀礼だとすると、“味”は二の次なのか?
そうではないと思うのだ。だからこそ、大事なのだと。
では、珈琲において求めるべき“味”とは何であるか。
多くが、“薫り”“苦味”“酸味”“濃く”“甘味”等があげられるが、産地や品種の違い、個人の趣味趣向で感じかたがまるで違う。
ここで、上記で話した珈琲の自由度について話を戻したい。
自由度が高い飲み物で在るが故に、特定の物が少ないと思われる。
我々は珈琲という飲み物を多様化してしまったが故に、広い枠組みで捉え。良いものを造るのではなく、自分好みの物にしてしまった。
好みの物を造る事が問題ではなく。
そうする事で、はっきりとした形を持たないままに、我々消費者へと届く事こそを問題とすべきだ。
この状態が長く続いたからこそ、我々は、好みの物を見つけることも難しく。どれが“美味しい”ものなのかさえ、あやふやである。
これは作り手の多くも、もしかしたら、同じなのかも、知れない。
だからこそ、ここまで千差万別に色々な物が持て囃されているのではないだろうか?
だが、作り手は成りにも、その道のプロである。なればこそ、絶えず自問自答の末に、答えを提示しなければならない。
珈琲という飲み物の枠組みに胡座をかくのではなく。
作り手の過失が多分に含まれる。この自由度ゆえの眩惑は止まる事を知らず、切りがない。現状を打破するためには、この眩惑に対し、一つの形として多くの人々に答をもたらすことが出来たならば、と、願うものである。
作り手の過失について話したが、悪いことばかりではない。
我々日本人は珈琲をブラックで飲む人が多いのだ。他の国々では、ブラックで飲む文化はそれほど根付いてはいない。
そもそも、珈琲は砂糖やスパイスと煮出して飲むもの(所謂ターキッシュ珈琲)であった。さらに、紅茶の代用品であったこともあり、ミルクや砂糖を入れて飲むのが当たり前。
その点、日本は独自の珈琲文化を開拓したと言える。缶コーヒーやインスタントコーヒーが数多あるなかで、この様に独自の珈琲文化を作り上げ、それを追求し続けている事は非常に素晴らしいことである。
それが日本人の意地や見栄で支えられたものであっても、変わることはない。
今回おすすめしたい珈琲は…
前に活動報告に出した
喫茶いずみ、ランブル、等、
身内贔屓だと、機屋、6月の鹿。
個人的には、焙煎の際、しっかり水分抜きがなされていれば、十分飲めると思っている。